東アジアに位置する日本民族の進展の方向を大きく左右した大東亜戦争(支那事変、太平洋戦争)この大戦において我が国、国民が挙国一致して国家存亡の一大危機に勇敢に取り組んだ。大東亜戦争も日に日に熾烈さを増し、南方第一戦は勿論国内においても本土決戦が近づいていた。
この戦時下旧制中学3年、弱冠16歳の少年が憂国の情に燃え身命を賭し、国難に殉ずる決意の下に自ら進んで日本国陸軍が応募している陸軍船舶特別幹部候補生の戦士の道を選び、学業半ばにして清純一路崇高な尽忠報国に燃えて志願、合格し軍人となった。
●昭和20年(1945) 2月11日 晴天
入隊式 香川県小豆島小豆郡淵崎
第三期 陸軍船舶特別幹部候補生
若潮部隊 第三中隊 (御盾隊)5区隊
軍人勅諭 我国ノ軍隊ハ世々天皇ノ統率シ給ウ所ニアル
中隊長訓 1.我等ハ陛下ノ股肱ナリ
2.敢闘精神
3.烈々タル軍人精神ヲ涵養スベシ
基礎訓練 陸軍刑法
内務教育、敬礼作法、基礎教練
手旗信号、九九式小銃の扱い及び分解
執銃各個教練、実弾射撃訓練
大発艇操縦、舟艇操縦、漁船操縦
執銃各個教練、防空演習、舟艇のロープ繋留訓練
軍人勅諭五箇条
1.軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ
1.軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ
1.軍人ハ武勇ヲ尚フベシ
1.軍人ハ信義ヲ重ンスベシ
1.軍人ハ質素ヲ旨トスベシ
休養外出 2週間に一度半日休養外出
外出に当たっては身分証明書と外出許可証の木札、そして服装の点検
幹部候補生としての衿持をもって行動せよ。
●20年5月30日(水) 晴天
修業式 船舶兵団長より特別幹部候補生課程終了す、その証を受領
幹部候補生として基本は終了したけれど、技術実務を研鑽し励むべし
諸氏は新たに日本国軍に加えられる。
体当たりの精神身体鍛錬、幹部たる徳操を磨くべし
●20年6月1日(金) 晴天
転属 広島県江田島幸ノ浦 特攻基地
海上挺進隊 特攻隊㋹45戦隊
『司令官の指示』 国のため身を捨て、捨て石となれ
――連日、昼夜の猛訓練
㋹の訓練だけではなく、敵艦載機グラマンF6上空を飛来射撃してくる。
我が方も地上より対応、しかし弾丸は命中しない。
昭和20年(1945)8月6日、当日対空射撃訓練日であった。
朝食後、兵舎前の砂浜に数人の同期生と江田島から15キロ離れた広島市方面を眺めていた。空襲警報のサイレンが鳴る。敵機2機が広島上空を飛んでいった。盛夏の広島市は、晴天で雲一つなく瀬戸海の空はあくまで蒼く、海も波一つない真夏の太陽が照りつけていた。
突然、視界一面マグネシウムのような閃光がひらめいた。忽然一刹那のことである。太陽光線より更に白く強く、我々は灼熱の光線に覆い包まれた。その強烈なアーク、幾万の電光が一塊となって我々を襲ったように思い、その瞬間私の視力は闇黒の中に置かれたように感じた。熱い…両手で顔を押さえ、砂浜に突っ込んで倒れた。時と共に大音響が鳴り、耳をつんざく。しばらくそのまま、どれぐらい伏せていたのかやっと命だけは助かった。蘇生の思いで今見ていた海辺の先の広島方面を見れば何も見えない。これは一体何としたことか、空を見上げれば紺碧の空に真白なキノコ雲がモクモクと昇っている。「なんだ、なんだ?」と呟いていると同期生が集まって訓練に入る。
昼食後、午後の訓練中4時に区隊長から訓示あり。広島市千田町の瓦斯タンクが爆発、直ちに救護、出発の用意。10分後集合、舟艇に乗り込み宇品港に入る。大地に足を踏み入れて四方を眺めた。瞬時に瓦斯爆発じゃないと直感した。道路の両側は総て灰塵の山が築かれ、余塵が火を上げ道路の行く手を阻んでいる。黄塵は鼻腔を塞ぎ、湿気た壁土の臭気と共に息苦しい。ただ呆然と自失して廃墟に立ち尽くすのであった。これは将に「戦場」である。
広島の大地は、音の無い寂々の世界となっていた。最早脈拍のある生物の気配は絶え、樹々のざわめきさえも失せ森閑蕭條荒涼としている。まさに死の街が我が眼前に出現していたのだった。俄かに全員集合の号令に幻夢の裡より醒めさせ、我に返って漸く現実の中に引き戻された。黒煙は半日経たので、徐々に鎮静し始めて暗夜が明けはじめるように街の輪郭が次第に明瞭になる。付近の状況も分かりはじめていった。宇宙から怪力に圧し潰された住居は、累々として折り重なり屋根瓦、壁土木材が混然一体となり巨大な塊となって形骸化。無惨にもその原型を留めず、幾重にも瓦礫の山となって見渡す限り満目荒涼となってしまっている。倒壊した無数の家屋に道路は埋め尽くされ、僅かに道の痕跡のある所を探し散乱した危険物を避けながら一歩一歩前進した。
壊滅した校舎の下敷きとなり、身の自由を奪われた女性がうずくまっているのが見えた。その女性は「兵隊さん…水、水下さい…水を、水を―――」とか細い命を振り絞るような切々たる声を発していた。しかしそこには女性を加え、幾人とも知れない人影のような物が踞っているではないか。ウワン、ウワンと細々の声の主は、この人々から漏れた苦しみの溜息であった。
蓬髪は茫として繚乱白髪、煤けた泥顔、白眼はあらぬ彼方を彷徨して眼力なく上半身から腕も脚も干乾びて生気が失われている。象皮のような褐色の皮膚は火傷を負って二倍にも膨れ上がり、水泡は瞼を塞いで首からも垂れ下がり火傷の両手をだらりと下げている。その姿は幽人かと思えるほど酷い状態であった。
裸同然の肢体の出現に驚き眼を見張り、思わず背筋がゾーッとしたのである。
その鬼気迫る形相に気味が悪く、私は直視するに忍びず思わず眼を背けてしまった。これ幽冥よりの幽塊かと…分厚く膨らんだ唇から漏れる声ならぬ声は呻きとなって吾々の腸を断つのである。
「水、みずを下さい……」
やっと聴き取れる程の咽ぶが如き哀音は、吾が胸を抉るのである。
広島市内には川が多い。その支流の小川に添う土手には夏草が生い茂り、その叢には火傷を負った黒い人々が累々として折り重なり、踞り、仰臥して天を仰ぎ横臥して哀躯長嘆す。魂無く生きた骸の如く放心呆然の姿形に、これがつい先程まで生き生きと活動していた人の変わり果てた姿なのかと哀々切々、我が眼も疑うのであった。
夜、昼となく相変わらず空襲のサイレンが鳴り響く。日も忘れた。何日だと聞かれても「えーと何日だったか?」とすぐ返事が出せなかった。夜が更けて隊員数人と堤防でゴロリと寝た。だが、大きな声で起こされる。川周辺一帯には、全身火傷を負った気息庵々の重傷者で溢れていた。岸辺や川原は勿論、流れる川面でさえ焼け爛れた体を冷やそうと渇きを癒そうと、水を求めて本能的に集まった重傷者でいっぱいだった。その川の流れには、顔を漬け髪を揺らし命絶えた累々たる屍が川原を埋めていた。此処に辿り着くまで命からがら渾身の力を振り絞って来たであろうに、私はただ「絶句」していた。
大本営は「敵が特殊爆弾を広島、長崎へ投下せり」と発表。だれ謂うともなく、この新型爆弾をピカドンの名称で流布された。広島の地には今後70年間草木も生えない、人の住めない荒地と化すであろうと流言されたのだった。
8月9日、被爆3日後にこの空き地へ運ばれてきたのであろう。全員あの日の服装そのままの姿である。半袖半ズボン、女性は簡単な服(ワンピース)一枚、モンペ姿、血糊の膿と汗や埃でベットリと汚れて瞼は垂れ、口唇は膨れ満身創痍であった。形ばかりに粗く巻かれた包帯は交換されることもなく、血膿で汚れた皮膚にしっかりと密着。その下部組織の血肉は赤黒く見えるのも痛々しい限りであった。その傷口を何かが蠢いている。眼を凝らして見てみれば、それは白い小さな虫のようである。これは紛れもない蛆虫だった。生きている人間の手や足に蛆虫が湧いている。傷口を這いずり回っている!!目の前に起こっている現実が、私は信じられないでいた。
気を付けて視ていると口の周りや眼の縁、剥がれた皮膚に所構わず大小の蛆が尺取り虫のように動き廻り傷身を蝕んでいるではないか。負傷者は這いずる蛆虫に何も感じていないのか、何の反応も示さないのか、それ程衰弱してしまっているのだろうか…疑問だけが私の頭をグルグルと駆け巡っていた。この思わぬ外敵になす術もなく身を横たえているのだ。酷い火傷に塗る薬は無く、一滴一粒の化膿止めさえなく銃の手入れに塗るスピンドル油を患部に塗るだけという気休めの処置しか出来なかった。私達は、ジッと仰臥する負傷者の額に濡れ手拭いを当てると熱のある軀を労わるように看病していた。馬穴に汲んだ水は、炎暑の熱気で忽ち温かくなってしまう。その水で手拭いを何度も絞った。手拭いは生温かいが、熱のある額には心地良く感じたのであろう、負傷者と微かに気持ちが通じ合えたような気がした。
連日猛暑が続き、ただでさえ喉が乾くというのに火傷者は尚更辛いことこの上ない。「水、水をくれ…」という負傷者の声が目立っていた。だが、「負傷者には水を絶対にやるな!!」という厳しい命令が掛けられ、負傷者の悲痛な声に耳を貸さないでいる我々にとって過酷な状況下であった。焼け爛れた皮膚とその組織は、日々化膿が深く腐敗が進行していった。その腐敗臭は猛暑の中に充満していき、息を殺したくなるような嫌悪さに私はさいなまれていた。小さかった蛆虫は肉体をどんどん蝕んでいくとやがては大きくなり、痂の中を活発に動き回っていく。蛆虫の成長と共に傷病者の生気は、日々衰弱していくのが解り忍び難く、されど何も出来ずもどかしさを感じた。
この頃、私は倦怠と下痢に悩まされる。暑さと夜露の下の仮眠・栄養不良・不規則な日常・入浴なしという4拍子も揃ってか、私の体調は悪くなる一方であった。そのため、隊員と夜中に死体の浮いている小川に飛び込んで汗を流したが、やはり体調は頗る悪いのである。露営の朝が明けると、冷たくなった重病者が毎日出始めた。死体の山、山…
四人で両手両足を持って死体処理をすることが日課になる。穴を掘っては重油をかけて死体を焼いていく。一方、他の候補生グループは爆風で壊滅した家屋の廃材で井桁を組んで、その上に遺体を安置し火葬。また、別のグループでは火葬を行わずにダルマ船で似島へ土葬しに行った。
葬ることが出来ない遺体は学校の運動場に集めるため、死体が一塊と積み重ねられた。その夕刻、区隊長から「一晩、一人一時間ずつ遺体の衛兵に当たれ」と命令がかけられる。遺体の衛兵担当は籤引で割り当てられた。午後7時から翌朝午前7時までの間、衛兵する隊員を全員で籤引を引いて決めるのである。隊員一同当たらないよう祈ったに違いない。
結果、私が午前1時から2時までの1時間衛兵することになってしまった。私は覚悟を決めるのであった――
その当日は、煌々とした満月が冴え渡っていた。午前1時まで緊張のためか、私は全く寝付けなかった。深夜の校庭は物音一つせず、ただ何十もの死者が転がっているのだ。その幾つも連なる遺体は、月に向かってニュっと腕を突き出して何とも不思議な光景であった。その周りを時間にして約10分余り、遺体がゴロゴロと寝かされている校庭周辺を銃を脇構えして歩いていく。森閑として月だけが冴える中、深々として物音一つない運動場に私の履いている軍靴だけがコツコツ…と響き渡る。一周、二周と廻って歩いていると何かが動くような気配がして私はギョッとして足を止めた。軍靴の音がピタッと止まり、銃を腰だめにして後ろを振り向く。ドキッと胸が高鳴った。ドキドキと心臓の音だけが大きく高鳴っていた。しかし何も見えず、これは錯覚なのだろうと自分に言い聞かせていた。私には遺体がスクッと立ち上がったような気がして、身体の神経が反応し騒ぐのである。物恐ろしい緊張感と恐怖で息苦しい。誰もいない空に向かって叫びたいような衝動に駆られる。ただ、前に向かって一心に歩くことで疼く昂奮と大きくなっていく鼓動を沈めようとした。何度も深呼吸をして「静まれ…落ち着け」と己を叱る。
上官から、野獣が遺体に近づいて来れば発砲可と指示されているが見張りの一時間は長くて辛いものだった。私は見張りの中、順番の籤を引いている最中に誰かが吐いた言葉を思い出していた。「この籤に当たった候補生は屍衛兵だぞ!!」そう言った彼の言葉が忘れられない。重い銃を持っている疲労した足をとにかく動かして速度を上げた。
夜明けが待ち遠しい。太陽の光と明るさが恋しいのだ。
入隊する時に親父からもらった腕時計を、月光の下で何回眺めたであろう。
…午前2時、次の候補生に銃を渡して「異常なし」と疲れた声で言うと後を引き継いだ。「終わった」と心底ホッとしたように言葉を吐きながら、私は地面にへたり込んだ。
昭和20年8月13日、午前1時から2時までの屍衛兵作業。これは、私の人生において決して忘れることの出来ない一コマであった。
午後、区隊長から今回の救援作業が終了との連絡が入った。直ちに帰営するとのことで、舟挺で江田島の兵舎へ移動した。余程疲れが溜まっていたのか、私の体調は極めて悪化していた。
●昭和20年8月15日(水) 晴天
午前の訓練が終了して昼食時間(正午少し手前)になった時のことである。
区隊長より重大発表があるというので全員が兵舎の外へ整列した。その重大発表とは、天皇陛下のラジオ放送があるということだった。畏くも天皇陛下の玉音放送など前代未聞の重大事である。だが、ラジオから流れる陛下の声は雑音混じりで聴きとりにくく、その主旨も明確ではない。それでも誰からともなく戦争に負けた。「戦争が終わった…」
嘆息や嘆声ともつかぬ呟きが洩れてくる。啜り泣く声もある。大日本帝国建国以来の未曽有の出来事であった。我々が叩き込まれた神州不滅、神の統治した神国日本による永遠なりの信念や教訓は脆くも崩れたのである。張り詰めていた筋張の糸がプツンと切れた。留まり木を失った。風船が漂うかのように、心に風穴が出来たような虚しい気持ちで呆然と立ちつくすのであった。同時に、並ぶ候補生の間にもホーッとした気色が流れたのも事実である。戦いは終わった―――
もう暗夜に響く無気味な空襲警報のサイレンは鳴らない。少なくとも今晩からは、命を脅かされずに休息出来る。電灯を黒布で包む灯火管制の必要もなくなったのである。
終戦後、特攻訓練なし。残務整理を実施(9月11日、帰休除隊して帰郷。復学すると銃がペンに変わり勉学に励んだ。)
昭和の戦争は日本歴史の上で最大の愚行、最大の悲惨時でありました。広島の原爆投下による犠牲者である私達被爆者が、核兵器の持つ恐ろしい非人道的原爆被害を後世に伝え「再び被爆犠牲者をつくらない」ことを念願し、核兵器廃絶と世界平和の実現を心より祈願するものであります。
私はもう一つ気にかかることがあります。被爆地広島では今、原爆体験が風化してしまうのではないか。人々があの体験を忘れてしまうのではないか?次の世代に伝わらないのではないかという不安と焦りを持っています。今、私達被爆者は高齢化が進み平均年齢80歳になります。年と共にその体験を語る人が減りつつあります。生々しい体験を聴く機会も少なくなりつつあります。ここで途絶えさせてはならない、語り継がねばならないという危機感を持っています。
もう一つ気懸りなのは、世界の核状況です。1989年、米ソ冷戦が終わりを告げたとき世界から核兵器が無くなる日が近づいたような印象を与えました。しかしその後、民族紛争の中で核兵器が使われる可能性が捨てきれなくなってきました。即ち中国やパキスタン、インド、イラク、北朝鮮などと何時広島や長崎と同じように核兵器の攻撃にさらされるか解りません。危機感と核兵器の恐ろしさを感じ取っていなければならないと思います。更にシリアに於けるサリンの科学兵器です。世界平和が続きますよう祈るばかりです。
このたび特に広島の被爆に至る経緯、被爆直後の救護を筆者の体験、行動、感懐を重点に草稿しました。素人の拙文で読みづらい点はご容赦下さい。
執筆者 松原 隆
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