昭和20年8月6日、原爆の日、当時私は広島高等師範学校、今の広島大学1年生で17歳でした。爆心地に近い大手町に、同じ岡山県出身で19歳の守安太朗君と一緒に下宿していました。
今は茶屋町在住で94歳、佐藤圭一と申します。今日は、私と友人守安、2人の被爆事情をお話させていただきます。
昭和20年8月6日、今から77年前、その日、ヒロシマ中の時計が8時15分を指したまま止まりました。原爆投下の瞬間です。
その日、私はたまたま倉敷へ帰っていました。「特殊爆弾、広島で炸裂、被害甚大の模様」という新聞のニュースを見て「えっ、何事?」と驚きました。「新型爆弾」とも言われ、原子爆弾といわれたのは、かなり後のことでした。
守安はヒロシマに残っていました。昭和20年というと戦争も敗色濃く、学生たちは向洋の東洋工業に動員、武器弾薬の製造にあたっていました。特別事情で校内軽作業にあたっていた30人を15人ずつA班、B班に分けて一週間の休暇が与えられ、A班の私が8月1日に帰省し、B班の守安は8月8日からということで、2人の命運が分かれたのです。
私の場合
福山市の空襲、山陽線の不通などで、私が広島に戻ったのは8月11日、その日から6日目でした。
広島駅で列車の窓から見えたものは何もないヒロシマの街でした。
広島駅に立ちました。「何だ、これは」ビルが壊れ、赤茶けた瓦礫が一面に広がっています。潰れた電車が焼け、骨組みだけを残して転っています。のどがからからになりました。水筒の水をぐぐっと飲みました。
「これが特殊爆弾なのか」
新聞の記事が脳裡に走りました。「B29少数で来襲、熱線、爆風、被害甚大、人道無視」、などと。
学校はどうなっているのか、とに角行ってみなくては。放心状態はいつか緊張に変わっていました。歩くしかない。
私は電車通りを猿猴橋の方に歩き出しました。学校は東千田町にあります。流川、八丁堀、紙屋町、白神社、市役所を通って学校へ、その間、約3㎞です。
道路や、その両側は赤茶色に焦げ、瓦礫があるのみで人っ子ひとり居ません。木は焦げた幹を残して何もなし。橋のらん干はすべて倒れています。全く訳が分かりません。これが新型爆弾なのかと思いながら学校へ着きました。
たまたま来ていた犬丸愨教授に会いました。
「佐藤君、見ての通りだ。学校は無期休業となる。このまま帰り給え」と。
大手町の下宿も同じで何もありません。私の鉄かぶとが一つだけ転がっていました。B班だった守安はどうなったか、下宿の隈谷さん一家3人は、と、安否が急に心配になりました。
その日、駅の地下道でうめきながら横たわっている大勢の兵隊さんの姿がありました。「水をください、水をください」と、息も絶え絶え。看護師と思える人たちが何やら白いものを箸でつまんでいます。よく見ると、やけどの傷口に湧いたウジを取り除いていたのです。
後で聞いた話ですが、向洋に動員に出ていた友人の安原、渡辺君らは爆心から遠かったので爆風で飛んだガラスの破片を浴びた程度で、即市内に出動、宇品沖似島にある陸軍船舶隊のトラックで死体収容作業に当たりました。無数の死体を荷台に積み、宇品までピストン輸送を3日間したそうです。
守安(友人)の場合
その日ヒロシマに居た守安には私と全く違った展開が待っていたのです。彼は自らの被爆体験を手記にしていました。その手記を元に、彼に代わって私が語ることにいたします。
8月6日の朝、所用で生活部事務に行っていました。8時15分、ピカッ、急にあたりが明るく光ったと思ったその直後、ド、ドッという激しい音とともに、一瞬にして建物が倒れました。あっという間もなく、彼は建物の下敷になっていました。
どれくらい時間が過ぎたか、「助けてくれえ」と叫ぶ声を聞いて気が付きました。彼は気を失っていたのです。声の主が生活部の事務職員だと分かったのですが、足をはさまれていて身動きもとれず、どうすることもできません。
何とか足を引き抜き外に這い出しましたがあたりは薄暗く、何がどうなったのか分かりません。うす暗かったのはきのこ雲の下だったからというのは後に分かったことでした。
顔に血がべったり、頭からの血です。腹巻きを裂いて鉢巻きをし、応急の処置です。と、化学教室の方に火の手が上がりました。
火はこちらへ向かってきます。火に追いかけられて彼は道路に出ました。
「えっ、なんだ、これは」
見える家は全部倒れています。燃えている家もあります。
学校の前にある日赤病院に逃げ込みました。医者も看護師も血を流しています。手当てどころではありません。
人の流れに乗って南へ歩きました。靴は片足、捻挫した足を引きずりながら歩きました。と、御幸橋のたもとの交番の前に大勢の人が座っています。火傷をし、ボロ布をまとったような人たちです。首がだらんと垂れた赤ん坊を抱いた人も居ます。
橋を渡って南へ行くと宇品方面です。右に折れると吉島飛行場です。彼は流れに乗って吉島飛行場に向かいました。
着衣が焼けて半裸になり、髪がほどけてばらばらになり、男か女かも分からぬ人たちが大勢歩いていきます。両手を前に上げて歩く人も居ます。その手にひもみたいな物がぶら下がっています。よく見ると皮ふがただれ、皮がむけて垂れ下がっているのです。それが擦れると痛いので手を上げているのです。
はだしの足が痛い。下駄を拾って片足はきました。棒を見つけて杖にして歩きました。痛みに耐えて、ひたすら吉島に向けて歩きました。
防火水槽がありました。それによじ登るようにして人が群がっています。生きているのか、死んでいるのか、動かない人もいました。水を欲しがって死んでいった人たちです。
元安川をまたいで橋がありました。らん干から下に見えたものは水面に浮かんだ人でした。魚が死んでいるように水面にぎっしり、それを見ながら何の感傷もなく、歩くのが精いっぱい、ただ無意識に、ひたすら吉島飛行場を目ざして歩き続けました。時刻はかれこれ昼近くになっていました。
A班、B班が逆であったら
守安の手記を読みながら、彼がA班で家に帰っており、私がB班で広島に残っていたら、この手記は私のことであったかも分かりません。
私の作業は伝書鳩の飼育でした。軍の委託を受けて晴山教授が伝書鳩の研究、百羽にあまる鳩の世話をしていたのです。8時15分というと鳩舎の糞かきをしている時間ですから、命の保証はなかったと思えます。
命運とはこんなものかと、手記を読みながら涙しました。
いろいろな方が原爆のことを本にしています。
〇おこりじぞう 山口勇子作、四国五郎絵
着物は焼けちじれ、皮ふは火傷でひものようにたれ下がっている、そんな女の子が、おじぞうさんの所にたどり着き、おじぞうさまの涙をゴックン、ゴックンと飲みながら死んでいく。おじぞうさんは怒りに耐えられず爆発するという物語。
〇新藤兼人の映画『原爆の子』
〇中沢啓治の『はだしのゲン』
〇壺井栄の『石うすの歌』
〇井伏鱒二の『黒い雨』なぞ。
そのほか、西阿知町、佐々木和子氏の著『忘れないで、八月六日』
この本の著者、佐々木さんは私の知人で元教員、原爆2世で、お母さんの被爆体験を書いています。
一部を朗読いたします。
「母はその日、広島女子高等師範学校の一期生として広島に居た。昭20年7月開校、入学式を終えた最初の授業日、一校時の出来事であった。
いきなりピカッ、彼女は校舎の下敷になった。あび叫喚の中で失神、助け出されたときは頭にガラスがささり、両手はやけど、皮ふがめくれてボロ布のように垂れ下がっていた。友人は何人か即死。学友に助けられてようやく歩き御幸橋にたどりついた。船に乗せられて着いた所は宇品の救護所であった」
以上
その後彼女は8月19日、井原の実家へ帰るのですが、家では嫁は死んだ、もう帰らないとして葬式の準備をしていたということでした。
彼女はたまたま生年月日が私と同じ、昭和3年2月29日、閏年の生まれ、不思議なご縁でした。
再び守安の手記にもどります。
ひたすら3キロの道を歩いて吉島飛行場に着いたのは正午を過ぎていました。救護所らしい天幕がありました。足をひきずって辿りつきました。「水をください」。ゴクンと飲んだ水のうまかったこと。その場にごろりと転がったことは記憶していますが、その後のことは覚えていません。
吉島飛行場で治療を受け、上道郡御休村矢井の家に帰ったのは8月9日、その日から3日目、頭に包帯、着衣はぼろぼろでした。
「太朗が戻った。太朗が生きていた」と、家人は彼を抱え、大泣きに泣いたという所で手記は終っています。
この爆弾は、アメリカが戦争の早期終結を考えて使用したものだと言っていますが、市民14万人を殺し、8万人の人を傷つけました。その非人道的な行為は今も世界の問題になっています。核廃絶は今や人類の大きな問題でもあるのです。
これは後日談ですが、こんな事もありました。
昭和23年、中国新聞社がヒロシマ復興の企画の一つとしてミス・ヒロシマを募集したことがあります。その記事に、ミス・ヒロシマ角泰枝、準ミスに隈谷喜代子とありました。
「隈谷喜代子、えっ、あの下宿先の、大手町の?生きていた、あの娘だ」。早速守安に知らせました。彼は電話の向こうで「ウァー、オー」と大声を発しました。そこで隈谷一家の消息が分かりました。
母親は婦人会の奉仕作業に出てそのまま帰らず、父親はご健在と分かりました。
こんなこともありました。
晴山教授の助手をしていた松岡清子さんがありました。私より四歳年上の21歳。その人の消息は50年近く分からずにいました。あることから茨城県取手市に居て横尾姓になっていることが分かりました。
私の当時の写真を添えて手紙を書きました。しばらくしてぶ厚い返事が来ました。「伝書鳩の佐藤さんと分かって号泣しました」とあったのが忘れられません。その横尾さんも先年亡くなられました。
話がもどります。私が38歳の時、突然、倦微熱が出るということがありました。調べると白血球が1700に減少していることが分かりました。このままだと死に至るとあって急遽日赤病院で治療を受けるということになりました。これが放射能被爆の後遺症だったのです。
原子爆弾については各国でいろいろの意見が交わされています。
①アメリカの公式見解では、本土決戦を避けるための最終手段であったと言われています。しかし、折角作った爆弾だからどこかで実験してみようという意図があったのではないかとか、他国に対してデモンストレーションの意味もあったのではと言われています。
②各国からの声も、
ア・いきなり人口の多い都市へでなくて、無人島へ落とし、降伏しなかったら本土でこれを使うぞというやり方もあったのではないか。
イ・いきなり都市部でなく、軍事施設へという方法もありはしなかったか。
ウ・予告して人を減らしてからという仕方もありはしなかったか。
など批判もあります。しかし、結果は大量殺りくの人道無視ということになったのです。
こういう悲劇は二度とあってはならないのです。世界のどこであろうと、どんな理由があろうと、人類の不幸を作ってはなりません。それが「ノーモア・ヒロシマ」なのです。
今、皆さんがご承知のウクライナで戦争が続いています。ある時期ロシヤが「目的達成のためならどんな選択肢もあり得る」と言ったことがあります。暗に核兵器のことをほのめかしているとも取れないことはありません。恐ろしいことです。
今世界に、核兵器と名のつくものが13080あると言われています。国別では、アメリカが5550、ロシアが6255で全体の90%、残りの10%を、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮が保有していると言われます。一発の偉力がヒロシマの一五〇倍というから、爆発力も想像がつきません。
ヒロシマでの出来事を、この地球上で二度と起こしてはならない。この悲劇を風化させてはならない。それがノーモア・ヒロシマであります。
私も被爆者のひとり、倉敷被爆者協会の一人であります。このことを後々まで、人々に伝えたい。その義務と責任を感じています。
今日、こうして…………学校の皆さんに語ることができたことは、大いに意味があることです。今語り終えて、わずかでもその責任が果たせたことを少なからず喜んでいます。
これから先、ノーモア・ヒロシマを誰が叫ぶのか、私たち被爆者だけにとどまりません。原爆はもとより、戦争はあってはならない。そう思った人が叫ぶのです。
これから原爆資料館(広島平和記念資料館)を見学される皆さん、ここは原爆の不条理と悲惨があます所なく語られています。
どうか…学校の皆さん、ノーモア・ヒロシマを大きな声で語り、叫んでください。私と一緒に叫んでくれますか、では、
「ノーモア・ヒロシマ、」もう一度「ノーモア・ヒロシマ」
ありがとうございました。
終り |