〇 被爆前の暮らし
私は、家族が元旦の初詣に行っている間に生まれたので“元子”と名付けられ、皆からは“元ちゃん”と呼ばれていました。原爆が投下された時、私はまだ5歳。父は南洋へと出征して行き、産後に肋膜炎を患った母も実家の地御前(現在の広島県廿日市市)に妹を連れ帰っており、ひとり残された私は祖父・小西伊三郎、祖母・ムラ、叔父・謹爾、叔母・富士子、叔母の子(私と同い年の従弟)の6人で、福島町(広島市、爆心地から約2キロ)の家で暮らしていました。
父が出征した日のことは、よく覚えています。最後の面会の日、祖母はわずかに残ったお米でおむすびを作って、私と二人で持っていきました。私がそれを渡すと、父は一旦受け取った後、私の手のひらにのせてくれました。食べたおむすびの味は全く記憶にありませんが、この時の父のやさしさは忘れません。
祖父は、福島町で「小西畳店」を営んでいましたが、私が物心つくころになると、そこで働いていた父や職人たちは次々と戦地へと 徴兵されていき、耳が悪いことで兵役を逃れた叔父と祖父だけで畳店をやっていました。
当時の食糧事情はとても悪かったので、防空壕を掘った土を運んで己斐橋の近くの沼を埋めて畑を作り、トウキビなどを育てていました。しかし、その後戦況がどんどん悪くなっていくので、私と祖母、叔母・富士子、従弟は、石内(現在の佐伯区五日市町)にいた親戚の家の物置を貸してもらい、疎開していました。祖母と叔母・富士子は時々市内に残した祖父や叔父のことが心配で、様子を見るために実家に帰っていましたが、原爆が落される前日の8月5日は、私と従弟もついて帰ったのでした。
〇 8月6日
1945年8月6日の朝、私たちはお昼ご飯の材料にするため、畑に豆をとりに行きました。かかとが擦り切れたわら草履ばかり履いていた私は、この日、新しいわら草履をもらいご機嫌でした。そして、畑道を歩いて帰っている時に被爆しました。叔母はちょうどその時、野菜に水をやるため、道路向いの井戸に水を汲みに行っていました。
私は、いわゆる“ピカ”も“ドン”も全く記憶にありません。気づくと辺りは真っ暗でした。被爆の瞬間、祖母が自分を両腕で抱きしめてくれたおかげで、右側の顔、首、手にやけどを負った程度で済みました。私を抱いた祖母は、顔と両手にやけどを負いしましたが、お腹は無事でした。つまりお互いが助け合ったのです。私たちのたった1メートル先を歩いていた従弟は、光を遮るものが何もなく全身やけどを負いました。
やっと明るくなって周りを見渡すと、様子が一変していて畑に大勢の人がうつ伏せになって倒れていました。私は「早くおじいちゃんのところに帰ろうよ」と祖母にお願いましたが、「家は、やられたんじゃけ、帰れんのよ」と言われ、家とは逆の己斐方面へ歩いていきました。己斐橋の手前まで行くと、山手川の中に大勢の人がつかっていました。警防団の人が「小さい子を連れて川に行くのはあぶない。橋も早く渡らないと落ちてしまうかもしれない。己斐の奥の方に行きなさい」と言うので急いで橋を渡りました。川向うに着くと、家々は焼けていなかったのですが、突き当りの家々の軒下に死体がずらーっと並んでいました。
今でも鮮明に覚えているのは、熱線で焼かれ全身赤身になった人がいたことです。その赤い色が今でも目に焼き付いて離れません。
従弟のお父さんの実家が己斐の奥にあったので、そこを目指して歩きました。道中、「おかあさ~ん」という若い女性の声が響いていたのが印象に残っています。声の主は母親に巡り会えたのでしょうか。祖母は途中で出会った女学生に、私と従弟の手をつないでくださいと頼んでいました。
己斐の奥にあった従弟のお父さんの実家に着くと、叔母が水を一杯飲ませてくれました。やけどの人には水を飲ませてはいけないと言われていたので、お腹に水ぶくれがびっしりできていた従弟には飲ませることもできず、「ポンポンが痛いよ~」と言いながら、翌朝亡くなりました。亡くなる前にうわ言で「とろーり、とろーり」と従弟は言っていました。それは、トンボを捕まえる時のかけ声で、おばちゃんは「元子ちゃんと一緒にトンボを採っている夢を見ていたんだろう」と言っていました。
その後、自宅で被爆した祖父と叔父もそこへ避難して来て、祖父母と叔父と私の4人は、草津の叔母・喜美子のところに行きました。もうすぐ草津に着くというところで兵隊さんに呼び止められ、あとちょっとだからがんばれと、私の手のひらにコンペイトウを3つのせてくれたのがとてもうれしかったです。
草津の家では数カ月お世話になったのですが、叔母のご主人は出兵中で、姑さんがおられる中で自分の身内の面倒を見るのはさぞ気を遣ったことだろうと思います。そこで、私たちも迷惑をかけてはいけないと、自分たちが食べる物は何とか自力で調達せねばとがんばりました。祖父と叔母・喜美子はさつまいもを入手するために似島まで行き、私は米ぬかで作った“ぬかダンゴ”を毎朝買いに行きました。一人にだんご2個しか売ってくれないので、一日分の家族の食糧を確保するために、列に3回も並ばないといけませんでした。
〇 終戦後の暮らし
終戦になり、祖父は福島町へ家の様子を見に戻ってみました。福島町ではほとんどの家屋が焼失しており、私たちの家も焼けてなくなっていました。近く(現在の小河内町)に「売地」の看板が立っていたので、祖父はそこを買ってバラックを建ててくれました。それで、草津の叔母の家からそこに移り、祖父母、叔父と一緒に暮らし始めました。今の住まいは50年ほど前にそのバラックを建て替えたものですが、畳の工場のために作ったバラックは、今でも住まいの隣に残されています。被爆後の広島は、建て替えの特需があったので、畳店はそこそこ繁盛したようでした。
時々、地御前の母のところにも行っていましたが、母のひざの上にはいつも妹がいて、さびしかったことを覚えています。南満州鉄道で働いていた母の兄の奥さんが亡くなっていたので、母はその子も育てていました。とても器用な人で、着物を解いて私の洋服なども作ってくれましたが、しばらくいると私をとてもかわいがってくれる祖母のところに早く帰りたいと思いました。
終戦の翌年、私は天満国民学校に入学しました。机や椅子もなく、レンガや石など、なんとか腰かけられるものを持って学校に行っていました。テントの下が職員室で、雨が降れば学校は休みになりました。
小学校で同級生だった女の子のKさんは、顔に私よりひどいケロイドの痕がありました。そのせいでKさんは小学校に入学した時から、ある男子から「テンプラ!テンプラ!」といじめられていました。ずっとそれが嫌で嫌でたまらなかった私は、五年生の時、5年間がまんしてきた怒りが爆発しました。普段はおとなしい性格の私が、「あんた、きらい!どうしてKさんにばかり“テンプラ”って言うの!?私もケロイドがあるんだから、私のこともテンプラと呼びなさい!」と大声で怒鳴ったのです。よほど堪えたのか、その男子はそれ以来、Kさんをからかわなくなりました。それどころか、前の日に読んだ本を放課後に読み聞かせしていた時に、「元っちゃん、昨日の続き話して?」と仲間に入ってくるようになったのでした。
〇 父の復員
終戦から3年後、私が小学三年生になった時に、父が南洋の島から復員してきました。祖母が玄関から、「お父さんが帰ってきたよ!」と叫ぶので、私が家の前の路地に飛び出すと、父が坂の下から駆け上がってきていました。私も全力で駆けて行き、父は「大きくなったなぁ!」と私を抱き上げてくれました。
その後、母と妹も地御前の母の実家から帰り、やっと家族全員が揃いました。手狭になったので、父は近くにもう一軒バラックを建て、祖父母と叔父、水内(現在の佐伯区湯来町)に学童疎開していた一番下の叔母・信子が一緒に住むようになりました。また、父は叔父と一緒に畳屋をしながら、福島川の方まで月賦で少しずつ土地を買い進め、そこで野菜を作って食糧難を乗り切りました。その後、福島川が埋め立てられることになり、市から補償金が出たおかげで今の土地に家を建てることができました。
〇 被爆の後遺症
体はずっと弱かったと思います。これまでに二度、心臓の手術もしています。また、右側の手と腕にやけどの痕があったので、夏に半袖の服を着るのは勇気がいりました。被爆の後遺症なのか、いつも頭が痛く、胃も重く、爪は紫色になり、中学三年になっても生理がありませんでした。国立病院で調べてもらうと、白血球の数が健康な人の半分しかないことが分かりました。それから父が毎日、家で注射器や注射針を煮沸消毒して造血剤を注射してくれ、貧血が治ると紫だった爪も元に戻りました。その後おかげさまで、私は5人のこどもに恵まれました。
〇 平和への想い
これまで被爆体験を語ることがなかった私ですが、教会に通う仲間から、体調と相談しながらやればいいと背中を押され、今年(2022年8月)、初めて教会で話しをする機会をいただきました。今では、そういう場を与えていただき、とても感謝しています。これからも、一人でも多くの人に私の被爆体験を聞いてもらうことで、次の世代の方々に被爆の実相を伝えていきたいと思っています。 |