●被爆前の生活
原爆が投下された時、私は8歳、三篠国民学校の3年生でした。母・富美子(39歳)、長姉・弘子(17歳)、次姉・方子(15歳)、私、母方の祖父・川島正人と、広島市三滝町1166で暮らしていました。
母は主婦でした。長姉の弘子は広島市立第一高等女学校を卒業後、おそらく東洋工業だと思いますが、東の方の軍需工場で働いていました。次姉の方子は広島市立第一高等女学校の3年生で、どこかの工場に動員されていました。二人の姉がどこで働いていたのか、詳しいことは覚えていません。
父は昭和12年に日中戦争で戦死し、家が女ばかりになったので、母の郷里である広島県賀茂郡東志和村(現在の東広島市)の村長だった祖父に、村長を辞めて同居してもらうことになったそうです。
谷川家は地主で、材木商や石鹸工場などをしていました。自宅は、現在の中国銀行の社宅や寮が建っている所にあり、敷地は400坪ありました。母屋や離れ、洋館、倉が建っていて、お寺のように廊下が走っていました。戦争が激しくなってきた頃には、本通りで酒屋さんを営んでいた河口屋の家族が離れに疎開して住んでいました。また、門番がいたところが貸家になり、おばあさんが一人で住んでいました。
戦前は小作人が多くいて米の不自由はありませんでしたが、戦時中は食糧事情が悪くなっていました。1本の大根を隣組で順番に貰っていたことを覚えています。しょう油は一升瓶の3分の1位で塩や水を入れて増やしていたとか鉄道草やイナゴを取って食べていたと母が言っていました。
当時、疎開していなかった子ども達は、学区内にある寺や青年会館に集められ、分散授業を受けていました。私も自宅から50メートル位の所にある三滝青年会館で授業を受けていました。
●8月6日
当日の朝、自宅での事は覚えていません。
三滝青年会館では、まだ授業が始まる前でしたので、皆でワイワイと遊んでいました。ピカッと光ったので建物の入口の方を見ましたら、真っ赤な背景に家々のシルエットが黒く映っていました。かすかにドーンという音。その後、ガラガラガラと入口の方から建物が崩れてきました。授業の際に使用する長机が部屋の西の奥に積み重ねられていたので、その机の下に走って潜り込みました。
私は、血がどっと噴き出たことを、体に火が付いたことだと思い、「私も東京や神戸の子ども達と同じように焼け死ぬのだ」と、暫くじっとしていましたがなかなか死にません。そこで、壁土や折り重なった板や木を取り除いて、何とか、はい出すことができました。隣のわら吹き屋根の家からは火の手が上がっていました。
山手川の方向へ逃げました。土手を越え、竹藪を抜けて、山手川をじゃぶじゃぶと渡り、川向うの河原(山手川西岸の河原)に出ました。石橋(三滝橋)の手前で、いつも一緒に遊んでいた同じ学年のヒロコちゃんを見かけ、「ヒロコちゃん!」と声をかけましたが、何度呼んでもなかなか私と気づいてくれませんでした。血まみれで顔が腫れあがり、誰かわからなかったそうです。それからは、石橋の下で20人位の人とずっと座っていました。私はヒロコちゃんが飼っていたウサギを抱きながら、当時見たこともなかった貴重な砂糖を紙で包んで貰い、しっかりと握って、夕方までその場所にいました。
山の手の家のわら吹き屋根に火の粉が降り、家々が燃えていました。また、時折、竹がパーンとはじける物凄い音が聞こえてきました。途中、雨がザーッと降りましたが、私は橋の下にいましたので全く雨に遭っていません。河原に大勢の人がいる光景は見ましたが、避難する負傷者の姿は見ていません。きっと、土手には大勢の負傷者が行列になっていたと思います。
私の服装はピンク色のブラウスにモンペでしたが、全身、血で真っ赤になっていました。鼻の上はザクロのように裂け、まゆ毛の上は小指が入るほどの傷でした。
その日の夕方、近所の人から「奥様、お宅のお嬢ちゃんが橋の下にいらっしゃいますよ。タンカを持って行ってください。お嬢ちゃんを見て驚いてはいけませんよ」と聞いた母は、大きな座布団を持って次姉と一緒に駆けつけてくれました。私を見て失神しそうになった母に、「お母ちゃん、しっかりして。傷は浅いよ。小指が入る位よ」と、傷口に指を入れたり出したりして見せると、また母は失神しそうになりました。
その日、家に帰ってから母は私の体中を洗い、首より上の傷口からガラスの破片を取り出し、手当をしてくれました。しかし、その後長い間、鏡は見せてくれませんでした。傷は30か所以上ありました。
●母たちの被爆状況
母と次姉と祖父は自宅で被爆しました。次姉はその日、たまたま動員の無い日だったそうです。長姉は既に工場に行っていたと思います。自宅にはいませんでした。原爆が投下された時、皆、かなり吹き飛ばされたそうです。祖父は写真、彫刻、薬の調剤が趣味でした。薬を収めていたガラス張りの戸棚が倒れたにもかかわらず、祖父の反対側に倒れたため傷一つなかったそうです。また、母や次姉も怪我はありませんでした。庭の木に燃え移った火を、母、次姉、祖父、河口屋の家族で協力し、バケツリレーで食い止めたと聞いています。
その後、母と次姉は私を助けるために三滝青年会館に駆けつけ、倒壊した建物の下から4~5人の子どもを引きずり出しました。すでに亡くなっている子どももいたそうです。母や次姉は「ケイちゃん、ケイちゃん!」と叫びながら、建物が炎に包まれた後は、近所を捜し回っていたそうです。
母は一日中私を捜し回っていたため、悲惨な人を多く見たそうです。衣服がほとんど焼けた若い女性が、わずかに残った布切れで前を覆い、飛び出した方の目玉を頬の所で受け、叫びながら走っていたとか。本当に地獄ですね。
長姉は6日の夕方、怪我もなく自宅に帰ってきました。私の姿を見て、泣きながら抱きしめてくれたことを覚えています。
当時、叔母(父の妹)家族が寺町に住んでいました。被爆後、叔母がむしろを被り、杖をついて「みんな死んだよー」と泣きながらやってきました。4日後位から母は、そこのおじいちゃん、おばあちゃん、赤ちゃんの死体を捜すため、寺町の叔母の家に通いました。土を掘り起こしては、死体の臭いを頼りに捜しました。半分焼け残っていたおじいちゃんを土蔵の下に見つけることが出来ましたが、おばあちゃんや赤ちゃんを見つけることはできませんでした。
また、その数日後には、その叔母の次女(広島市立第一高等女学校の学徒動員で被爆死)の遺骨を、叔母のかわりに母が受け取りに行きました。舟入川口町の学校まで行く道中、B29がまだ飛んでいたそうです。そのような時には防空壕に逃げるのですが、どの防空壕の中も死体の山だったそうです。
●その後の生活
8月8日頃、私は竹藪に開設された救護所で傷の治療を受けました。しかし、救護所と言っても赤チンを塗る程度でしたので、その後は家にあった薬で傷の治療をしました。全身の感覚が麻痺していたのでしょうか、あまり痛かった記憶はありません。
8月10日頃、松山の空襲で焼け出された叔母(母の妹)と4人のいとこが、着の身着のままで広島に来ました。終戦後、進駐軍が来ると女性や子どもは危ないと言われ、8月18日、叔母家族と私は、母の郷里である東志和村に避難しました。その年の年末には広島に戻りましたが、東志和村は、今でも故郷のような気がしています。
戦後は本当に大変でした。朝は芋粥、昼は芋、夜は芋ご飯、芋の茎やブンドウ豆の固い鞘まで食べる生活でした。家は、足の踏み場もないほどに壊れ、天井は無くなっていましたが、何とか生活はできました。冬には、屋根の間から雪がチラチラと舞い落ちてきたことを覚えています。家の前から広島駅まで焼けて何もなく、壊れた家で寝ていると、2キロ以上離れている広島駅の「芸備線乗り換え~」といった乗り換えのアナウンスが聞こえてきていました。
そんな大変な状況でしたが、焼け跡には、溶けたガラスが美しく綺麗なお皿があったりして、綺麗なガラスは集めて宝くじごっこをして遊びました。男子は三篠橋から何本もぶら下がっていた鉄骨にぶら下がってターザンごっこをしていました。どんな状況でも子ども達は遊びを見つけて楽しんでいました。
●学校生活
戦後、三篠国民学校で勉強が再開されました。バラック建ての校舎ができるまでは青空教室でした。鉄骨だけになった講堂で、地面にレンガを積み、板を渡して机にして授業を受けていました。戦時中は5クラスありましたが、戦後は3クラスに減っていました。疎開したままの子どもや亡くなった子どもが多くいて、戦中からの子どもは10分の1位しかいませんでした。いつの頃かよく覚えていませんが、千田小学校や己斐、草津の小学校など(他の学校は覚えていません)、市内の各小学校から男女1名ずつ選ばれ、交流しながら歌の練習をしました。横川町にオープンした旭劇場で、進駐軍の兵隊さん達と歌を歌ったことを覚えています。
高校は、奨学金を受給しながら鈴峯女子高等学校に通学しました。良い友人に恵まれ毎日楽しく大騒ぎの日々を送りました。4年制大学への進学は経済的に無理だということで短期大学の英文科に進学しました。
●就職
短期大学を卒業した私は、昭和32年、原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の公益財団法人放射線影響研究所)に就職することができました。当時は大変な就職難で、4年制の大学に再入学する友人も何人かいましたので、運が良かったと思います。70~80人が受験し、就職できたのが5人でした。
最初の課はマスターファイル、翌年はシールディングという部署で、どちらも統計部の中の一つの課です。シールディングは日本語では「遮蔽物測定課」と言いました。例えば、被爆時の壁の素材(板、コンクリート、土壁、レンガ等)や立ち位置などを被爆者に質問し、爆心地からの距離や角度で線量を割り出すことなどをしていました。長岡省吾先生がいつも出入りされており、自宅には石や瓦が山ほどある等、面白いお話をされ、可愛がってくださったことを覚えています。その後は病理研究室などに異動して11年間勤めました。被爆者であることについて差別を受けることは全くありませんでした。
医学英語の仕事に未練もありましたが、20代の後半からフラワーデザインが流行しだし、興味があったので思い切って転職しました。32歳から紙屋町でフラワースタジオを始め、その後は、ずっと「花」に関わる仕事を続けています。
●平和への思い
花の世界しか知りませんでしたので、他の世界について勉強しないといけないと思っている頃、国連婦人年の最終年がケニアのナイロビで開催されNGOで5名派遣するとの記事が中国新聞に出ているのを見つけました。申し込むと運よく選ばれました。
ナイロビでは、ピーステントの外に反核のポスターを貼り、世界中から集まっている婦人方に反核を呼びかけました。2日間の短い滞在でしたが、街中では、戦争のために片足となった人を何人も見ました。戦争による苦しみは現在も続いています。
また、平成7年に、フラワーデザインや生け花の先生、花の生産者、フローリスト等と「子供花遊び」という会を立ち上げました。毎年、様々な地区の公民館で子供たちに花を教え、会費と謝礼金を集めて、子どもの支援や平和活動に関係する団体に毎年寄付を続けました。
例えば、「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」、「ペシャワール会」や「こども平和基金」などです。会員も高齢になったため20年を区切りとして活動を終了しましたが、私は個人として、少額ながら今も寄付を続けています。
現在の核兵器の威力を考えると、核戦争が起これば、それは一つの都市や国だけの問題ではなく地球規模の問題になります。決して核兵器はあってはなりません。戦争のため、原爆のため、人生が全く変わります。心から平和を願っています。 |