父(冨田稔/以下:稔)は、昭和16年10月2日、東京都江戸川区小岩町にて、祖父(冨田範三/以下:範三)と、祖母(冨田千歳/以下:千歳)の次男として生を享けました。当時祖父は、海軍省で特殊潜航艇の設計の仕事をしていたと父(稔)から聞いております。そして叔母(当時:冨田敬子/以下:敬子)が誕生した昭和18年に、祖父が広島市に応召され(当時東京の空襲の危険が増してきたこともあって)、祖父祖母の郷里である広島県豊田郡木江町に疎開したそうです。
木江町から召集地の広島市までは遠く、面会にいくにも不便で(当時外地へ行かされる可能性もあって)、都合上、広島市内の己斐中町にある祖母の兄宅(田中正隆:当時彼は外地に出兵)に寄住させてもらうことになったそうです。
そして8月6日を迎えたようです。その日は、応召中(広島/西練兵所)の祖父の面会に行くべく(沖縄出兵が決まり面会にくるよう言われていた)、身支度をしていたそうです。そしてその時に原爆の投下があり、窓ガラスが割れ、家具が倒れるなどの被害を受けたようです。
幸いにも怪我はなかったようで、祖母は、祖父の消息が心配で、1歳8ヶ月になる叔母(敬子)を背負い、3歳10ヶ月の父(稔)の手を引きながら、祖父の召使地である広島市基町の中国軍管区歩兵第一補充隊(中国第104部隊)通称:二部隊旧歩兵第11連隊を探しに被爆中心地へ向かったそうです。
そこでは、祖父の行方は何もわからず、心当たりある市内箇所や親戚を探しに歩き回ったようです。そして広島中、心当たりある箇所を探しては、又木江に帰り、又広島に入るなどを繰り返し、祖父探索の日々が続いたようです。そして数日後、部隊が可部方面に移動していることを聞き、祖母は、父(稔)たちを連れて部隊を訪ねたようですが、そこではじめて部隊の全滅と祖父の死(爆死)を知ったようです。
その後、疎開先の木江町に引き上げ、29歳の身で未亡人となった祖母と父(稔)と叔母の戦後史は、当時、多くの人がそうであった様に、苦難の歴史であったと聞いております。
父(稔)は、もの心がつく頃から、祖父(範三)が原爆で死に、祖母(千歳)もその犠牲者であることは知っていたようですが、自身と原爆とを結びつけることは殆んど意識しなかったようです。そして父(稔)が大学生になって教職(高校の社会科)に就くようになり、政治経済社会、世界の動向に関心を強く持つようになり、その時はじめて、「核」の問題に強い関心を抱くようになったようです。
そして「核」の問題を意識すればするほど、自分が「核」の犠牲者の家族の一人であるにも関わらず、「自分は今までこのことで何をしてきたのか。何をすべきなのか。原爆手帳を受理すべきなのか」など、苦悩し続けたようで、自らの答えを見出すまでに時間を要したようです。
父(稔)は、戦後から母である千歳と妹(敬子)を、兄という立場で、父親代わりに支え続けて参りました。その覚悟と苦難は、私(冨田裕樹/以下:裕樹)が安易に想像し書き表すことができるものではございません。
生前の父(稔)は、祖母(千歳)と妻(冨田益代)、長女(冨田真澄)と長男(裕樹)たち家族を経済的に支え、愛情を注ぎ、苦難の戦後から現代迄を逞しく生き抜いた、自信と自負を心胆に秘め持つ男性でありました。
晩年は、私(裕樹)と妻の子である待望の男孫の誕生を聞き、とても幸せであったと推察しております。そして、祖母(千歳)や孫たち愛する家族に囲まれながら、幸せな余生を送り、令和4年7月9日、満80歳・享年82歳の生涯を閉じました。
今頃、天国ではじめて祖父(範三)と酒を交わし、祖母(千歳)とともに、家族仲睦まじく、こころ安らかに過ごしていると思います。これまでの父(稔)の全てに感謝いたします。
2024年8月4日 冨田裕樹 拝 |