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被爆者証言 原爆で死んだ米兵捕虜の回想録 [改訂版] 父と米軍捕虜の最後 
中村 明夫(なかむら あきお) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立第一中学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 


平成十年七月二十五日付けの朝日新聞夕刊に、原爆で死亡した米兵捕虜の記事が載った。広島の歴史研究家で、被爆捕虜のことに詳しい森重昭氏が、捕虜が収容されていた旧日本陸軍の中国憲兵隊司令部跡地に慰霊銘板を設置し、その除幕式が行われるというものであった。

私は被爆当時十三才、県立広島一中の二年生だったが、広島が原爆攻撃を受ける直前に、当時中国憲兵隊司令部の幹部で、捕虜関係の責任者でもあった父親(中村重雄 被爆当時三十七歳)から、隊司令部にいる捕虜の話を聞き、また原爆投下の前日に当たる八月五日に父のもとを訪れて一部の捕虜を見せて貰った。

翌朝、父と捕虜は原爆によって運命をともにした。計らずもこれが父との最後の別れになったので、そのとき交わした会話や、見た光景などは今も鮮明に記憶に残っている。しかし、中国憲兵隊司令部は原爆によって全滅し、日本の憲兵隊は終戦後いちはやく解散させられたので、捕虜の消息は全く不明のままであった。またアメリカの軍部や政府でも自国民への影響を恐れて、捕虜が被爆した事実を認めたがらず、長いあいだ伏せていた。したがって、広島で被爆死した捕虜の実態については、不明な点が非常に多かった。

一方、戦後公表された多数の被爆体験記などのなかには、捕虜に関する記述もかなり見られるが、そのほとんどは被爆後の市中における単なる目撃談で、私の記憶と直接結びつくものは無かった。しかし、上記の新聞記事では、中国憲兵隊司令部にいた捕虜であることが明記されており、人数など具体的なことにも触れているので、なんらかの調査結果に基づいて書かれたものに違いないと思った。

終戦直後、捕虜の扱いについて、日本の憲兵隊関係者にたいする占領軍側の詮議は非常に厳しく、私たち家族も、関係者に迷惑がかかることを恐れて、捕虜について見聞したことを外に向けて語ることは控えてきた。しかし、戦後半世紀余を経て時代は変わり、いまや原爆や戦争の体験を後世へ伝えることの重要性が指摘されるようになった。

被爆捕虜の実態について、今後正確な調査が行なわれるためには、私が見聞したことも公表しておいた方がよいのではないかと考えて、とりあえず記憶していることを手記にして朝日新聞社大阪本社へ送った。

数日後、同社広島支局の担当記者、福家司氏から手記にたいする返信があり、そのなかで、除幕式の出席者のなかに元中国憲兵隊司令部の憲兵准尉で藤田明孝という方がいて、父をよくご存知だということ、また私の手記を見たいと希望されていることなどを伝えてくれた。

この年代になって、広島時代の父ゆかりの人に会えようなどとは、夢にも思っていなかったので、感激であった。その後の経緯については後で詳しく述べるが、このようなことがきっかけになって、森・藤田両氏との交流がはじまり、米兵捕虜に関するいろいろな情報や当時の憲兵隊の様子などを知ることができて、私が記憶していたことの背景がかなり明らかになった。

その頃広島市では「原爆死没者追悼平和祈念館」の建設に当たって「被爆体験記」を募集していた。

そこで、平成十年十二月に、さきに新聞社へ送った手記の内容を中心にした追悼記「父と米軍捕虜の最期」にまとめて応募した。しかし、まだこの時点では、被爆捕虜の実態について、不明な点や疑問に思うことも少なからず残されていた。

しかし、その後、日米双方で、実態解明に大いに役立つような出来事が相次いだ。すなわち、平成十一年三月に、被爆捕虜の一人レイモンド・ポーター中尉の同僚だったポール・ブレム氏が、また同年十月には、原爆投下の前に東京へ送られて、被爆を免れた捕虜の元機長トーマス・カートライト氏が来日し、その証言や記録によって、アメリカ側の当時の状況が明らかにされた。

一方、日本側では、森重昭氏が独自の調査記録「原爆で死んだ米兵を追って」を「文芸春秋」の平成十四年九月号の紙上で披露し、十五年七月には、NHKと中国新聞社が原爆関係の報道記録集[ヒロシマはどう記録されたか]を発刊し、そのなかで、「アメリカ兵捕虜の被爆」について報道の全容を紹介した。また、被爆直後の中国憲兵隊司令部の第一発見者である、大塚誠憲兵曹長の遺稿(稲妻の閃光)が発見され、その惨状や被爆直後一時生存していたとされる一人の捕虜の行動などについて詳細なことが分かった。

以上のような記録や証言の内容については、本文中の関係箇所で逐次触れるが、このことによって、私が被爆捕虜に関して記憶していたことが、ほぼ全面的に検証できたように思われる。それと同時に、さきの追悼記の記述について、一部に訂正や追加をしたい点、あるいは、改めて推理し直してみたい点などが浮き彫りになった。

今年は被爆六十周年の記念すべき年にあたる。そこでこの機会に、新たに判明した事実を含めて、改めて往時を回想し、資料を再構成して、アメリカ兵被爆の実態に迫ってみたいと考える次第である。
 
中国憲兵隊司令部
最初に、米兵捕虜が留置されて、この話の舞台になった旧日本陸軍の中国憲兵隊司令部について、私が記憶している当時の様子などを述べておこう。

太平洋戦争末期の昭和二十年はじめ頃、日本の戦局は悪化の一途を辿り制空権、制海権ともに失って、国内での地上戦いわゆる「本土決戦」が避けられないものとなり、軍部はその準備に追われていた。

戦前の広島は軍都といわれて、西日本随一の軍部の拠点になっていたので、西日本全体の防衛に当たる第二総軍が結成されて、その司令部が広島におかれた。また国内が戦場になった場合、治安維持に当たる憲兵の役割は格段に重要になるので、憲兵隊組織の拡充が同時に進められて、広島には中国地方五県の憲兵隊を統轄する中国憲兵隊司令部(略していう場合は最高機関の憲兵司令部と混同しないように「隊司令部」と呼ばれていた)が新設された。

この組織改編によって、従来の広島憲兵隊の管轄区域は中国憲兵隊司令部の直轄区域になり、庁舎には旧広島憲兵隊本部(市内基町)の建物を使用したので、下部組織の広島憲兵分隊が、学童疎開で不使用になっていた市内猫屋町の私立光道小学校(当時は光道国民学校と言っていたと思う)の施設に移動した。

父は昭和十九年の秋まで東京憲兵隊麹町憲兵分隊長を勤めていたが、その後中佐に昇進して、古巣の憲兵司令部(憲兵隊の最高機関で東京九段にあった)にもどり待命していた。

昭和二十年三月、待命中の父に新設の中国憲兵隊司令部勤務が命じられた。それまでは両親と幼い弟達は東京で、私と小学生の弟は郷里(滋賀県大津市)の祖母のもとで分かれて暮らしていた。しかし、「本土決戦になればお互いに会えなくなる恐れがある。この機会に一緒になろう。」という父の意見にしたがって、郷里の家を知人に預けて、広島で一緒に暮らすことになった。

四月のはじめ、父があらかじめ借りておいてくれた、広島市郊外の五日市町(現広島市佐伯区五日市)楽々園(通称)の海辺の家に落ち着いた。

数十米先は海岸で、すぐ隣には「楽々園遊園地」(現在ひろでんショッピングセンター)が広がっていて、大変のどかな感じの所であった。もっとも遊園地は当時閉鎖されていて陸軍の船舶兵部隊(通称暁部隊)が駐屯し、兵舎として使用されていた。私は市内雑魚場町にある県立広島一中の二学年に編入させてもらって毎日広島まで通っていた。

中国憲兵隊司令部での父の役職は、「高級部員兼地区直轄隊長」で、隊司令官(当時は瀬川寛大佐)を補佐するとともに、直轄区域の隊長としての役割を担っていた。恐ろしく多忙な毎日で、楽々園の家へ帰ってくるのは月のうちせいぜい二、三日、大部分は憲兵隊司令部に近い市内立町の宿舎に他の幹部将校数名とともに寝泊りしていた。宿舎は商店や事務所などが立ち並ぶ繁華街の一角にあり、もとは医院だったそうだが、純和風の建物で「青雲荘」という名で呼ばれていた。

このような生活のなかで、父と家との連絡役はもっぱら私の仕事であった。放課後、憲兵隊司令部に立ち寄ってから家に帰ることが多かった。

中国憲兵隊司令部の庁舎は明治時代に建てられたもので、ながく広島憲兵隊本部として使用された。木造瓦葺二階建で、天井が高く、頑丈な感じの建物であった。現在広島県庁などがある基町一帯には、当時広大な西練兵場が広がっていて、憲兵隊司令部はその南東の一角、現在の県税事務所と水道局の敷地にまたがる位置にあった。中島の爆心地からは直線距離にしてわずか五百米足らずの位置である。正門は北側にあって直接西練兵場に面し、裏側は土手を隔てて電車通りに面していた。付近には軍隊の建物が多く、練兵場を隔てた北側には、後に米兵捕虜たちが分散留置された、西部二部隊、連隊区司令部、広島城内の中国軍管区司令部などの施設が広がっていた。

当時、日本の主要な都市はB29の爆撃によってほとんど焼け野原になっていたが、広島市はまだ本格的な空襲を受けていなかった。広島市の近くには呉市、岩国市、大竹市など軍港や重要な軍需施設を持った地域が分布していて、それらには頻繁に敵機が来襲していたが、広島への直接攻撃は意図的に避けているように思われた。

「軍事的にも非常に重要な大都市広島をアメリカはなぜ爆撃しないのだろうか?」軍部だけでなく一般の人のなかにも、当時このような疑問を持った人は少なくなかった。

後日、母から聞いたところによると、父は広島へ着任した当時、「広島には西日本防衛の拠点として、多くの機能が集中してきたが、敵は十分集中させておいて、一気に破壊しようとするだろう。空襲を手控えているのはその好機を狙っているからではないか。本格的な爆撃を受けるまえに疎開を急がなければならない」とさかんに主張していたそうである。

憲兵隊司令部では、まず関係機関と協力して、広島市内にある備蓄米など、生活必需品の疎開を実行した。また、父たち幹部は、憲兵隊司令部の体制作りと同時に、その機能の危険分散の方法をいろいろ検討していたようである。しかし現実は、原爆という、彼らの想像をはるかに超えた新兵器によって全滅し、発足後数ヶ月で短い生涯を終えた。
 
タロア号の墜落
日本が本土決戦の準備を進めていた頃、アメリカも日本本土上陸作戦を検討していたが、兵員の大きな犠牲を伴う地上戦はできるだけ避けて、徹底した空爆によって日本の反撃力を壊滅させ、上陸前に日本を降伏に導きたいと考えていたようである。

一方、日本の戦力の象徴であった連合艦隊は、この時期すでに大部分の主力艦を失い、加えて燃料重油の欠乏から出撃できない状態であったが、呉軍港やその周辺海域にはまだ戦艦、空母、巡洋艦など十数隻の交戦力のある残存艦艇がいた。その多くは偽装して島陰などに係留されており、敵の上陸作戦を阻止するために、「動く砲台」として使用される計画であったと聞いている。

これらの残存艦艇に対する米軍側のせん滅作戦は、四国沖に侵攻してきた空母十数隻からなる機動部隊の艦載機総計約一千機によって行われるという大規模なものであった。

攻撃は一次が七月二十四日、二次が同二十八日の二回行われたが、中国憲兵隊司令部へ連れてこられた米兵捕虜は、いずれも二十八日の二次攻撃のときに撃墜された敵機の乗組員で、二十四日の一次攻撃のときは、広島へ捕虜が来たという記録は無い。したがって、被爆捕虜と直接関係はないかも知れないが、一連の出来事なので、まず一次攻撃の様子について目撃したことを述べておこう。

この日の攻撃は私が下校帰宅した直後のことであったから、多分午後四時頃であったと思う。すでに空襲警報が発令されていたので、家に着いたとき家族は全員庭の防空壕にいた。そこで私も直接防空壕に入って、リュックサック(当時一中では通学にリュックを使用することになっていた)を降ろし、ゲートルを解こうとしたとき、遠くで雷のような音が聞こえた。その音があまりにすごいので、防空壕から首を出して海の方を見て驚いた。楽々園の家は海岸に近く、当時は視界を遮るような高い建物が近くになかったので、かなり遠望がきいた。

それは、一見渡り鳥の大群のようであったが、よく見ると、明らかにおびただしい数の敵機である。ゆうに百機は越えていたと思う。方角と距離感から、呉軍港のあたりが攻撃目標にされていると直感した。敵機は旋回すると一斉に急降下の態勢にはいった。こちらから見ると編隊はまるで滝のように垂直に降下していく。

これに対する日本艦艇からの対空砲火は、これまで見たこともない凄まじいものであった。連続花火のような轟音とともに弾幕が出来て、直撃弾を食った敵機が、百米以上もあると思われるような赤黒い炎の尾を引いて次々墜落するのが目撃された。一波の攻撃が終ると上空には次の集団が現れ、同じような攻撃が繰り返し行われた。

呉と五日市では直線距離で二十キロ以上も離れているから、飛行機は豆粒のようにしか見えなかったし、攻撃を受けている艦艇は対空砲火の煙が見えるだけで下の様子はまったく分からなかったが、壮絶な攻防戦であったことは想像に難くない。

やがて呉の方角では砲声が止み、敵機の機影も見えなくなったので、防空壕から出てみると、海岸の堤防の上に人だかりが見える。「まだ警報が解除されてないから!」と祖母が注意するのを無視して海岸へ行ってみると、目の前に広がる似島で、島陰に係留されている偽装艦艇を発見した敵機が今まさに攻撃を仕掛けようとしているのが見えた。

浅い角度で目標に向って降下し爆弾を投下して、ゆっくり旋回しながらこちらに向って上昇してくる。丁度我々の頭上あたりまで来たとき、また旋回して次の攻撃態勢に入る。このようにして数機の敵機が円軌道を描いて飛びながら順番に攻撃を繰り返していた。一方、攻撃を受けている偽装艦の姿はよく見えないが、対空砲の火炎や爆弾投下の水柱が見えることでその位置が分かる。それほど大きな軍艦ではないようで、対空砲火の力が弱いのか、一生懸命撃っているのだが、さっぱり効果がない。そのうちに命中弾を受けて黒煙を上げはじめた。敵機は相変わらず執拗に攻撃を続けていた。

さきに見た呉軍港の凄まじい攻防戦とは対照的な、まるで爆撃訓練を見ているような光景に、居並ぶ人達は切歯扼腕(せっしやくわん)し、「噂ではすぐ近くに高射砲陣地があるそうだが、なぜ撃たないのか?一発で墜せるだろうに」などと呟きながら見ていた。やがて日没が近づく頃敵機は引き上げ、あたりは静けさをとり戻したが、攻撃された偽装艦はまだ黒煙を上げ続けていた。

記録によると、この日の攻撃で残存艦艇の大半が破壊されたということであるから、このような偽装艦艇にたいする掃蕩作戦はかなり徹底して行われたのであろう。私達が見たような攻防戦が近辺海域の他の場所でも多数目撃されたのではないだろうか。

あとで知ったことだが、この日来襲した艦載機のなかで呉軍港を攻撃していたのは、「SB2Cヘルダイバー」で、艦載機としては非常に大型、かつ強力であったので、ビースト(獣)というニックネームをつけられていた。大戦末期に猛威をふるって、日本海軍を壊滅させる立役者にもなった急降下爆撃機である。また似島で偽装艦を攻撃していたのは、「TBFアベンジャー」で三人乗りの雷撃機である。魚雷攻撃が専門だが当日は爆弾を登載していたものと思われる。

次に、二次攻撃が行われた七月二十八日、わが家では祖母が早朝家を出て広島駅で父と落ち合って京都へ向っていた。祖母はかねてから一度大津の家や京都の叔母宅を訪ねたいと希望していたが、当時老婦人の一人旅はきわめて危険であったので、父が出張のとき同行することを約束していた。この日、父が東京の憲兵司令部へ出張することになったので約束が実現した。

同じころ、沖縄の読谷飛行場ではアメリカ陸軍航空部隊の「四九四爆撃隊」が二次攻撃に参加するため出撃準備をしていた。カートライト氏の著書「ロンサムレディー号との日々」によると、七月二十八日の二次攻撃には艦載機のほかに四九四爆撃隊の三十三機の大型爆撃機B24リベレーターが参加することになった。この日の攻撃は、第一次攻撃で破壊できなかった主力艦艇に対するもので、四九四爆撃隊の攻撃目標は呉湾に繋留されている戦艦「榛名」であった。B24爆撃機「タロア号」と「ロンサムレディー号」が所属する四機編隊は爆撃隊の最後尾について午前八時すぎに沖縄を出発、正午すぎには目標地域に到着し、榛名を発見して爆弾を投下した。

しかし榛名からの対空砲火は、いままで彼らが経験したことのないほど凄まじいもので、爆弾投下直後に四機とも被弾した。タロア号とロンサムレディー号以外の二機は損傷を受けながらも、無事基地へたどり着くことが出来たが、タロア号は広島市郊外の五日市で、ロンサムレディー号は山口県の柳井市でそれぞれ墜落した。

私はこの日学校からの帰途、四九四爆撃隊の編隊に遭遇し、偶然タロア号の墜落を目の当たりに目撃することになったので、つぎにこの様子について述べよう。

この日、授業は午前中だけで、午後は作業に出る予定だったが、計画が変更されて午後は自宅待機になった。昼過ぎに学校からの帰途、電車が広島電鉄五日市駅の近くまで来たときであった。飛行機の爆音が迫ってきて、敵機の来襲を察知した運転手が、ブレーキを操作しながら「停まったらすぐ退避して下さい!電車から離れて下さい!」と叫びながら電車を駅に滑り込ませた。

乗客はほとんど表の改札口の方へ逃げたが、私はプラットホームからすぐ裏の道路に飛び降りた。そのときすでに敵機の編隊が頭上に近づいてきたが、周囲に身を隠す場所が見当たらない。とりあえず道路脇の立木の陰に潜んで、改めて空を見上げた。

広島寄りの海側から西方向に向って上陸してきた敵編隊の機数はおよそ三十機、それまでに何度か見たことのあるB29の編隊と違って高度がずっと低く(三千メートルぐらい)、垂直尾翼が二枚ある特徴から、B24の編隊であることが分かった。例によって、廣島を素通りして西隣の岩国か大竹あたりにある軍需施設の攻撃にでも向うのだろうと想像しながら見送っていると、後ろの方で地響きがする大きな音がして、周囲から歓声が聞えた。五日市の海岸寄りに海老山と言う小さな山があって、人の噂では山頂に高射砲の陣地があるということだったので、これが撃ったのだと思って後ろを振り返った。すると、さっき編隊が通ったのと同じ方向から、やや遅れてもう一機のB24が急降下のような姿勢でこちらに向って迫って来るのが見えた。正面から見る限り火や煙は出ていないし、四個のプロペラも正常に廻っていた。はじめは爆撃されるのかと思ったが、なにか様子がおかしい、高度はすでに二~三百メートルぐらいに下がって、機体が随分大きく見えてきた。このままだと、この辺に墜落するかも知れない。急に恐怖感が沸いてきた。その瞬間に機影が視界から消えてしまった。

慌てて周囲を見回すと、後の八幡村の方角に主翼の両端と尾部がもぎ取られて無くなったB24の姿があった。急降下による加速度で空中分解したものと思われる。機体はきり揉み状態で垂直に落下し、目のまえに見える八幡村の山腹に、吸い込まれるように墜落して火に包まれた。また、墜落の直前には機体のやや上の方でパラシュートが三つ、ほぼ同時にパッと開いて、少し先に着地した二つのパラシュートは機体に近いところの木の間に入って見えなくなったが、最後に残ったパラシュートは左手の方にすこし逸れて着地し、高い樹にでも引っ掛かったのか開いたままの状態で見えていた。

平成十一年十月にカートライト機長とともに来日した同僚のマット・クロフォード氏によると、四九四爆撃隊は爆弾投下を終えたら、海岸線に沿って西方向に飛行するよう指示されていた。編隊は呉湾で榛名を爆撃したあと広島湾を北上して広島市に接近し、その後、進路を西に取って五日市で上陸するような経路を進んだと考えられる。タロア号は呉ですでに被弾していたが、その後宇品と江波の高射砲隊からも攻撃をうけており、そのうち江波の高射砲が撃った弾がタロア号の胴体に命中したという(森氏)。これによってタロア号は尾翼のコントロールを失い、急角度で墜落したものと思われる。

敵機が撃墜されたのを見て周囲からバンザイ!の声が湧きあがり、人々が歓声を上げながら墜落地点めがけて駆けていくのが見えた。私も負けずに彼らの後を追った。いつの間にか人数が増え、なかには鎌や鍬などを握りしめている人もいて、数珠繋ぎになって息を弾ませながら山道をかけ登った。

タロア号の墜落した場所は山の中腹にある休耕田のようなところで、その真中に巨大な車輪が二個転がっているのが目立った。周囲には機体の破片に混じって黄色く塗った多数の酸素ボンベや通信機器と思われるものなどが散乱し、残骸はかなり広い範囲に散らばっていた。

すぐ上の松林のなかにはまだ炎をあげて燃えている部分があり、現場に来ていた兵隊達がシャベルで土をかけて消火に勤めているのが見えた。周囲の人の話しではそこに胴体部分が堕ちているということだったが、憲兵がロープを張って立入り禁止にしていたので、近寄って見ることはできなかった。

当時、五日市国民学校の五年生だったすぐ下の弟も、帰宅直後に庭の防空壕にいて、タロア号墜落の様子を目撃していた。「敵の爆撃機の編隊が広島の方から飛んできて、その一番後ろにいた敵機の胴体後部に高射砲の弾が命中し、敵機はすぐに八幡村の山の方に墜落していった。あれは海老山の高射砲が打ち落としたのだ」と言っていた。

また、弟も墜落現場を見に行っており、現場では会わなかったが家に帰ってお互いが見てきたことを話し合った。私は見損ねたが、弟は捕虜が二人目隠しをして連行されるのを見たと言っていた。

ところで、タロア号の捕虜はこれまでバウムガルトナー軍曹とモルナー軍曹の二名と考えられていたが、米国政府の発表の間違いでもう一人いたことが最近明らかになった。この人はジョセフ・ダビンスキーというタロア号の機長で、松の木にぶらさがって気絶しているところを発見されて、ほかの二人とともに中国憲兵隊司令部に連行されたということである。私が最後に着地するのを見たパラシュートがこの人だったのだろうか。

ロンサムレディー号については、機長のカートライト氏が著書のなかで、墜落に至るまでの機内の様子などを克明に記述している。ロンサムレディー号の機体は被弾によって数箇所破壊され、コントロールが難しくなった。また機内に火災が発生し、高度が下がって危険な状態になったので、機長は全員に脱出を命じた。

九名の搭乗員は次々とパラシュートで降下していったが、航法士のペーデルセン少尉だけはパラシュートがうまく開かず墜死した。残る八名はいずれもパラシュート降下して、日本側に捕らえられ捕虜になったが、射撃手のエイブル軍曹は、偶然出会った海軍の軍人に自首したので、呉の海軍刑務所に引き渡され、カートライト機長、副操縦士のルーパー少尉、爆撃手のライアン少尉、通信士のアトキンソン軍曹、機関士のエリソン軍曹、射撃手のロング伍長とニール軍曹の七名が中国憲兵隊司令部に連れてこられた。

ところで、この日はタロア号の墜落現場に長くいて、目撃できなかったが、呉軍港やその近辺の海域では大型爆撃機の攻撃に続いて、二十四日の一次攻撃と同じような艦載機による攻撃が行われていた。日本側の艦艇は一次攻撃で大きな損害を受けていたにもかかわらず、この日も猛烈な対空砲火を浴びせた。これによって二十機の米空母艦載機が撃墜されている。

そのうち空母「タイコンデロガ」から発進した一機のヘルダイバー急降下爆撃機は江田島湾にいた重巡「利根」を攻撃した際、被弾して宮島と山口県大島郡の中間あたりの海域に墜落し、操縦士のレイモンド・ポーター中尉と射撃手のノーマン・ブリセット三等兵曹の二人の乗組員は漂流していたところを捜索艇に逮捕されて、憲兵隊司令部に連行されてきた。また空母「ワスプ」から発進したアベンジャー雷撃機の操縦士ジョセフ・ブラウン中尉と射撃手のフレデリック・ロケット軍曹の二人は似島沖で墜落して、暁部隊(陸軍の船舶部隊)の捜索艇に逮捕され、その後憲兵隊司令部へ送られた。

ところで、この日、朝早く家を出た祖母は京都で父と別れて、帰路は一人旅になるので心配していたところ、運悪く乗っていた列車が姫路駅を出た直後に艦載機の機銃掃射をうけた。幸い大事には至らなかったが、現場に長時間停車したので予定がおくれて深夜になって帰宅した。

このとき攻撃してきた敵機も二次攻撃に参加した艦載機と思われる。多分グラマンの名で知られていたF6Fヘルキャット戦闘機であろう。艦上戦闘機は味方の爆撃機を敵の迎撃戦闘機から守るのが主な役割であるが、この頃は日本の迎撃戦闘機がほとんど姿をみせなかったので、グラマンはいたるところで機銃掃射を行い、当時の日本ではB29と並んで最も恐れられていた敵機である。この日も姫路あたりまで攻撃の手をのばしていたとは驚きである。

八月から、われわれ中学二年生にも学徒動員令が出て、私は地御前の旭兵器という工場に勤務することになった。この工場では、飛行機の機銃で最も多く使用される直径が十三ミリの機銃弾や高射砲の弾を作っていた。私達は機銃弾をつくるグループに編入されて、早速研修が始まった。技師長さんの講話のときには、タロア号の墜落現場で収集された弾と、この工場で作った同じサイズの弾との比較が行われて、同じ大きさでも日本の弾は中に火薬が入っているので威力が強く、これでB29でも十分撃墜できるのだと説明されたことを覚えている。

以上、被爆捕虜たちが参加した広島湾を舞台にした海空戦の様子について、私の思い出を述べてきた。この二日間にわたる戦闘はその直後の原爆投下の陰に隠れてそれ程有名ではないように思う。しかし、太平洋戦争が日本の真珠湾攻撃にはじまって、文字通り太平洋の各地での海空戦が主体になった戦争であったことを考えると、この二日間の海空戦はまさにその終焉を示すものであった。そして、これを境に世界は核戦争の時代に入った。この海空戦のもつ歴史的な意義は大きいと思われる。
 
父の話(捕虜の運命)
原爆投下の前々日に当たる八月四日の夕刻、久し振りに父が楽々園の家へ帰ってきた。七月末から八月初めにかけては、家族がそれぞれ異なった空襲体験をしていたので、この夜はとくに話題が多かった。

まず祖母が七月二十八日に京都駅で父と別れた後のこと、とくに姫路付近で機銃掃射をうけたことなどを話した。私は工場動員のことを父に報告するとともに、撃墜された敵機を見に行ったときのことを弟と二人で話した。弟が「僕は捕虜を見たよ、二人とも目隠しされて、一人は真っ赤な顔、もう一人は真っ青な顔をしていた」などとその時の様子を話すと、父はそれを受けて「お前たちが見た他にも多勢の捕虜が捕まっていて大変だったよ。広島の留置場はどこも捕虜で満員だ。それにしても奴等は大きいな!」と言って、自分の頭の上に手を伸ばして、背の高さを示すような仕草をしてみせた。

普段、父はわれわれ子供に対して、仕事上の話をすることはほとんどなかったが、この日はくつろいだ感じで、珍しく進んで話しをして呉れた。それだけ父自身も捕虜の印象がつよかったのであろう。話の内容はおよそ次ぎのようなものだった。

父はタロア号の捕虜(五日市の捕虜と言っていた)のことは、東京の憲兵隊司令部で報告を受けて知っていたが、翌日広島へ帰ってみると、聞いていたよりもはるかに大勢の捕虜がいて、大部屋に集めて留置している状況を見て驚いた。憲兵隊司令部へは、その後も各地の憲兵分隊や警察署から捕虜が次々送り込まれていたのである。

このような事態は憲兵隊司令部としては前例がないことなので、関係者は対応にたいへん苦慮していた。父は「先ずこのように大部屋に捕虜を集めて、二十四時間体制で監視するような状態を、一刻も早く解消しなければならない」と考えた。

そのためには捕虜の数だけ独房が必要になる。しかし、近くには捕虜収容所のような施設がないので、考えられるのは軍隊の機関がそれぞれ個別に持っている営倉といわれる留置場を利用することである。しかし、営倉はもともと罪を犯した兵隊を隔離するための独房で、常時使用するものではないから、それほど数が多くない。もちろん、憲兵隊司令部にも営倉(既設の独房は二室)はあるが、それだけではとても入りきらない。

そこで、「広島市にある軍隊の各機関に頼んで捕虜を分散して預かってもらうことにした。しかし、それでもまだ足りない」。そこで、「一計を案じて一部の捕虜を東京(上部機関の憲兵司令部のこと)へ引き取ってもらうことにした」。そして、引き取ってもらう理由は「捕虜のなかに指揮官級の将校が一人いて、これから何か情報が得られるかも知れない。また別の一人はパラシュートで降下した際、近くにいた農夫を射殺するという罪を犯している。いずれも中央において詳しく取り調べる必要がある」というものであった。

二人(実際には三人)の捕虜は早速東京へ送られたが、その途中で事件が起った。当時、広島から東京へ行くためには、大阪で汽車を乗り継がねばならなかった。そこで、護送役の憲兵たちは捕虜を連れて駅のプラットホームへ降りたところを、大勢の群衆に取り囲まれた。

群衆は口々に「捕虜を殴らせろ!」という。当時の大阪は度重なる空襲で家を焼かれ家族を殺された人たちが大勢、駅にたむろしていた。この人たちにしてみれば、捕虜を見て黙って見過ごすことはできなかったのだろう。

護送役の憲兵は「自分たちには捕虜を護送する責任がある。捕虜に手出しをしないでほしい」と懸命に説得したが、聞き入れず、「憎いアメリカ兵をなぜ庇いだてするのか」とばかり、今度は憲兵たちに向って投石が始まり、一人が石に当たって怪我をした。
「群衆が興奮して暴動にでもなったら大変だ!逃げるしかず」と、駅員の誘導で捕虜の手を引いて倉庫のようなところへ逃げ込み、なんとか難を逃れることができた。しかし、その日は予定していた汽車に乗れず、捕虜と一緒にそこで一夜を明かして、翌朝改めて東京へ向うことになった。

当時の日本では空襲の激化によって、米軍に対する憎悪の気持は増す一方であった。このような世相のなかで、国民の憎悪を一身に受けるような立場にある捕虜を連れ歩くことは、きわめて危険なことであった。護送の任に当たった人たちも、このことは十分認識し、警戒していたのだが、大阪で群衆を説得できなかったことに、改めて衝撃を受けたようであった。話の最後に父は「とんだ災難だったが、大分ぼやかれたよ」と言って苦笑した。

このような話を聞いているうちに、私は是非捕虜を見てみたくなった。そこで、断られるのを覚悟で頼んでみた。しかし、久しぶりの家族団らんで機嫌のよかった父は、駄目だとは言わなかった。

ところで、この話のなかの東京へ送られた捕虜について、後で知ったことだが、GHQ(連合国軍総司令部)の資料では、ロンサムレディー号のトーマス・カートライト機長と海兵でTBMアベンジャーの搭乗員ジョセフ・ブラウン中尉およびフレデリック・ロケット軍曹の計三名となっている。またカートライト氏自身も海兵二人と一緒に東京へ送られたと証言しているので、この事実は疑う余地がない。

父が指揮官級の捕虜と言っていたのがカートライト機長と考えられるが、二人の海兵は、撃墜されて似島沖を漂流中に暁部隊の舟艇によって逮捕されているので、この人たちが農夫を殺害したとは考えにくい。一方、捕虜による農夫殺害は岩国憲兵分隊の管轄区域内で実際に起こった事件であることが、日本側で確認されており、同分隊に逮捕されたロンサムレディー号の乗組員、ライアン少尉とアトキンソン軍曹が被疑者だという。

父はカートライト機長と農夫殺害の容疑者を東京へ送る理由として、取調べの必要性を強調していたが、一方では捕虜の留置場所が足りないことから「一計を案じて、一部の捕虜を東京へ引き取ってもらうことにした」とも言っていた。明らかに、留置場所の不足解消策という別の理由が伺われる。また農夫殺害の被疑者とされているライアンとアトキンソンは、いずれも逮捕されたとき足を負傷していた(カートライト氏)。私が留置場で見たライアンとみられる捕虜は後述するように歩けるような状態ではなかった。東京へ送ることは事実上困難だったのではないだろうか。

最初に捕虜が憲兵隊司令部へ連行されてから、数日間の出来事や状況を知ることは、被爆捕虜を語る上で非常に重要な要素であるが、手掛かりになるものがほとんど残されていない。しかし、最近になってカートライト氏や藤田氏の手記などを読み、また話を聞く機会を得て、ある程度実態が明らかになったように思う。そこで、父の話しの内容を再検討し、この数日間の主な出来事や状況を、私なりに、以下のように推理してみたいと思う。

七月二十八日の夕刻、広島市に近い五日市で撃墜された大型爆撃機タロア号の三人の捕虜が憲兵隊司令部へ送られてきた。タロア号が墜落する様子や連行される捕虜は、広島市や近郊の大勢の人々に目撃されていたので、新聞記者など報道陣が早速詰めかけて来て、憲兵隊司令部の関係者は対応に大わらわだった。

生憎、責任者の中村中佐は、この日は朝から東京の憲兵司令部へ出張して不在だったが、とりあえず機長のダビンスキーとモルナー軍曹を正面玄関受付の隣に設置されている留置場の二つの独房に入れ、バウムガートナー軍曹は監視兵をつけて正門脇の車庫に収容した(捕虜を車庫に収容したという証言を聞いたことがあるので、その場合はこのような配置になったと思われる)。

ところが、その後、翌二十九日の午前中にかけて山口県柳井市の山林に墜落した大型爆撃機ロンサムレディー号や山口県大島沖の海上に墜落した艦上爆撃機SB2Cヘルダイバーの乗組員たちが、逮捕された地域の警察署や憲兵分隊によって続々と連行されてきた。この未曽有の事態に憲兵隊司令部は極度の緊張に包まれた(藤田氏)。担当者は対策に苦慮しながらも、とりあえず庁舎一階の西端にある大部屋の机や椅子を片付けて、ここに捕虜を集めて監視兵を増やし、車庫に監禁していたバウムガートナーも一緒にして徹夜で警戒に当たった。

一方、山口県柳井市近くの松林へパラシュート降下したロンサムレディー号のカートライト機長は、地元の交番へ連行されて、少しおくれて連行されてきた副操縦士のルーパーとともに其処で一夜を過ごした。ルーパーは足にかなり傷を負っていた。二人は翌朝広島へ送られたが、途中意外に時間がかかり、憲兵隊司令部へ到着したのは午後になっていた。

二人は他の捕虜と一緒の大部屋に入れられ、カートライト機長はそこでペーデルセンとエイブル以外の乗組員がすでに集められているのを見てやや安堵した。またタロア号のバームガートナーや艦上爆撃機のポーター中尉・ブリセット三等兵曹などの顔も見えた。

警備は非常に厳しく、立ったり動くと厳しく罰せられ、話したり合図を交わすことは許されなかった。ある時間だけ一個のバケツがトイレ代わりに差し入れられたが、ライアンはトイレに立つとき足をひどく引きずっていた(カートライト氏)。

夕方近くになって、ようやく中村中佐が帰隊した。早速瀬川隊司令官を中心に幹部が集って、捕虜の対策会議が開かれた。まず緊急の課題は、大部屋に集めて留置している捕虜たちを独房に移すことである。幸い憲兵隊司令部の近くには軍の施設が多いので、一旦それぞれの営倉に分散して預かって貰い、その間に大部屋を仕切って仮設の留置場にするという方針を決めた。また捕虜に対する尋問など直面する課題について、広く検討しなければならなかったが、初めて経験することも多く、会議は深夜に及んだ。

翌三十日、中村中佐ら捕虜取り扱いの責任者は、朝から中部軍管区司令部、連隊区司令部、西部二部隊など近隣の機関に順次出向いて、捕虜の留置について協力を要請した。また大部屋の改装工事の準備、負傷した捕虜の治療など、この日の憲兵隊司令部は朝から目のまわるような忙しさであった。

一方、庁舎二階の取調室では捕虜全員に対する尋問が行われた。尋問を担当したのは主として司令部々員の尉官級の人達で、藤田准尉もその一人であった。なお通訳は第二総軍などの応援を得て、広島高師の英語の教授に委嘱し、応召兵のなかで英語に堪能なもの四名ほどが協力した(藤田氏)。

カートライト氏は「この大きな町(広島市のこと)がなぜ爆撃されないのか?」、その理由について尋問された。また藤田准尉も、別の若い捕虜に対して同じことを尋問している。このことは先述のように、最大の関心事だったので、尋問の主要なテーマのひとつになっていたようである。

また、カートライト氏はアメリカ軍の通常の作戦に関することを、約二時間にわたって尋問されたが、それらについて何も知らなかったので答えられなかった。しかし、尋問した将校は最後に「本当のことを答えていない!」と言った(カートライト氏)。

カートライト氏は尋問に対して正直にありのままを答えたつもりだったが、将校は重要な情報を隠していて、非協力的と判断したようであった。

ところで、当時の日本軍にとって、捕虜の証言はアメリカの日本本土上陸作戦を知るうえで、最も貴重な情報であったから、中村中佐は指揮官級の二人の機長の尋問結果には、とくに期待をよせていた。しかし作戦上の情報は、憲兵にとっては専門外のことなので、捕虜が尋問に協力的な姿勢を示した場合には、第二総軍司令部から作戦の専門将校を憲兵隊司令部へ呼んで、再尋問をしてもらおうと考えていた。

しかし、尋問した憲兵の報告によると、ダビンスキー機長は概して協力的だったが、カートライト機長は、重要なことについてはなにも答えなかったということである。中村中佐は、ダビンスキーは予定どおり専門将校の尋問を受けさせてよいが、カートライトについては情報を隠しているように思われるので、上部組織の憲兵司令部へ送って、よく調べてもらった方がよいのではないかと考えた。

一方、農夫殺害の嫌疑をかけられているライアンとアトキンソンは、とくに嫌疑の内容について厳しい尋問を受けた。その結果、事件の全容がほぼ明らかになり、容疑者を特定することができた。

非戦闘員である農夫を殺害するということは、捕虜にとって最も重い罪であり、当時の国内ではあまり前例のないことであった。中村中佐はこの容疑者の捕虜については以後の処遇を憲兵司令部の判断にゆだねた方がよいと考えた。

一通りの対応を終えて、ホッとしたところで、思いがけない事が起こった。似島沖で撃墜された海兵のブラウンとロケットの二人は逮捕されて、宇品の船舶部隊司令部で取り調べを受けていたが、身柄を憲兵隊へ引き取って欲しいというのである。憲兵司令部では、捕虜がこれ以上増えることはないと思って、すでに段取りを決めていたので受け入れる余地がない。

この思いがけない事態に、中村中佐は困惑したが、そこで一計を案じた「カートライトと農夫殺害の容疑者はいずれ東京へ送るつもりだから、これを早速実行に移せば、同時に捕虜の収容場所の問題も解決できる。しかし、容疑者の捕虜は足を負傷していて、治療に当った軍医も、いま押送することは無理だと言う。いずれ傷が治癒したら送るとして、今はかわりにこの海兵二人を東京へ引き取って貰えないだろうか?」。

憲兵司令部の担当者との間で、現実にどのようなやり取りがあったのか知る由もないが、中村中佐は数ヶ月前まで憲兵司令部に勤務し、内部事情には通じていたから、成算はあったのだろう。交渉の結果、無事要望を通してもらうことができたので、早速、瀬川隊司令官に報告し、裁可を得た。

このようにして、三人の捕虜の東京送りは正式にきまったが、これは捕虜たちにとってはまさに生死を分ける運命の決定となった。それにしても、東京へ送られた三人の捕虜は幸運であった。このとき、もし捕虜の数がもうすこし少なく留置場が足りていれば、この三人も他の捕虜たちと同じ運命を辿ることになったであろう。

翌三十一日の朝、三人の捕虜は汽車で東京へ送られた。護送役には将校一人と二人の下士官が当たった。憲兵隊司令部では、大部屋を改装するために残った捕虜を一旦外へ出さなければならなかった。そこで、負傷者以外を一~二名のグループに分けて留置の依頼に応じてくれた部隊や各司令部に送り届けた。おかげで、近隣の部隊や司令部の営倉は捕虜で満員になった。

 大部屋の改装は昼夜連続で突貫工事が行われ、三日ほどで五つの頑丈な独房が完成した。そこで預かってもらっていた捕虜のなかから、将校や再尋問・治療の必要性があるものを中心に憲兵隊司令部へ戻し、引き続き長期の留置を引き受けてくれた西部二部隊と中国軍管区司令部には、それぞれ二人ずつ預かってもらうことにした。

 一方、三人の捕虜を東京へ護送した憲兵たちも、すでに任務を終えて帰隊していた。中村中佐は大阪駅での事件の報告を聞いて、改めて治安維持の重要性を認識させられたが、「大事に至らなかったことは幸いであった」と、隊員の労をねぎらった。そうして思った「この一週間は捕虜のことに掛かりきりだったが、これでようやく一段落した。また明日からは溜った仕事を頑張らなければならない。そのまえに、久しぶりに家族の顔でも見てこようか」。中村中佐は家路を急いだ。

以上は先にも断ったように、私が自分の記憶と新しく知った事実から推理したものであるから、細部では事実でないことが含まれているかも知れない。ただ大筋として、このような経緯で過ぎたのではないかと言うことである。
 
捕虜に会う
被爆前日の八月五日、この日は日曜日だったが、当時は休日という意識があまり無かった。父は朝早く司令部へ出勤していった。私もいつもどおり工場へ出たが、午後は機械を止めて整備をするということで、われわれは半日勤務になった。久しぶりの自由時間である。昨夜の父との対話を思い出して、大分迷ったが、この機会に捕虜を見せて貰うため広島へ行くことに決めた。

幸い父は在室していたが、私が来たのを見てちょっと意外そうな顔をした。まさか本当に来るとは思っていなかったようである。それでも、「折角来たのだから、少しだけだぞ」と言って、先に立って案内してくれた。

部屋の前の廊下を真っ直ぐ行った突き当りに留置場があった。隊司令部の建物は木造二階建てであったが、その一階部分の正面向って右側(西側)の端に位置していた。留置場は五つの独房が横一列に並んでいて、前廊下の端で全部の独房が見渡せる位置に監視兵が一人椅子に座っていた。
「子供が捕虜を見たいと言うので、見せてやって呉れないか」と父が頼むと、監視兵は私の横へ来て案内して呉れた。藤田氏の記憶によるとこの時は広島憲兵分隊から六名の監視兵が派遣されていたそうで、そのうちの一人であろう。小柄で大人しそうな感じの人だった。

それぞれの独房は一辺が二メートル程のほぼ正方形で、天井は高く、床や側壁はすべて板張りで、正面には太い木の格子が嵌っていた。捕虜の方に気を取られていて、留置場についてはこの程度の記憶しかなかったが、あとで考えるとこの留置場は大部屋の中に仕切りを作っただけの、明らかに仮設のものだったのである。この大部屋はもともと事務室だったそうだが、以前に私が見たときには、多数の机や椅子が入っていて、大会議室か講習室のような佇まいになっていた記憶がある。

父も私の後ろにいて、独房を順番に見ながら監視兵の説明を聞いていた。

一番手前の独房にいた捕虜は、頭髪が赤っぽく(いわゆる赤毛)、口髭を生やして腕に小さな刺青があったように思う。上半身は袖の短いアンダーシャツだけで、薄茶色の作業ズボンのようなものを穿いていたが、バンドは外されていた。腕組みをして両足を前に投げ出すような姿勢で腰板にもたれ、ときどき私の方を横目でチラッと見ながら物思いに耽るような表情をしていた。

二番目の独房の捕虜も最初に見た捕虜と全く同じ服装で、同じように腕組みをして両足を前に投げ出すような姿勢をしていた。しかしこの人は頭髪が黒く、すこしウエーブの掛ったごわごわした髪で、光線の具合か白髪があるのか、やや灰色がかって見えた。全く無表情でまばたきもせず、私の顔をまじまじと見つめていたが、その目も灰色がかった特徴ある目であった。西洋人はみな金髪で青い目をしているものと思っていたので、意外に思ったことが印象に残っている。監視兵の説明では、この捕虜も一番手前の独房にいた捕虜も、ともに下士官だということだった。

三番目の独房にいた捕虜は怪我をしていた。床の上に軍用の毛布を二つ折りにして敷いて、その上にうつ伏せになって寝ていた。どちらの足だったかははっきり覚えていないが、かなり重傷のようで、爪先からくるぶし、踵、膝の下あたりまでギプスで固定してあるのか、全体に分厚く包帯が巻かれていた。また足首の下には軍隊でよく使われている茶筒のような形をした枕があてがってあった。

留置場のすぐ前に医務室があって、将校と下士官の二人の軍医さんがいた。私は以前にこの人たちに身体検査をして貰ったことがあった。捕虜も多分この人たちの治療を受けたのだろう。

この捕虜はうつ伏せになって、全く身動きもせずに寝ていたので顔は見えなかったが、その後姿からはかなり背が高く、がっちりした体格の持ち主だったように思われた。

その時、監視兵が「もう一人怪我をしているのが居りました」と言って次の独房の方を見た。「これだったかな?」と呟きながら、つぎの四番目の独房の前に立って、「ポーター」と捕虜の名を呼んだ。

それまで気付かなかったが、それぞれの独房の前には捕虜の名前を書いた紙片が貼ってあって、この部屋にはマーク・ポーターと書かれていたように記憶していた。

ポーターは背中をまるめて、膝を両手で抱えるような姿勢をしていたが、名を呼ばれると「イエス」とよく響く声で答えて立ち上がった。
「この捕虜は少尉であります」監視兵はそう説明しながら、正面の隅にある小さな出入り口の錠をはずして、ポーターに外へ出るように促した。ポーターは四つん這いになって出てきた。

素足でアンダーシャツとパンツだけの下着姿(なぜかこの人だけはズボンを穿いていなかった)で廊下に立った彼は、西洋人としては小柄なほうでやや華奢な感じに見えた。この人は先に見た捕虜と違って表情が豊かで、独房から出るなり父や監視兵に対して会釈をして微笑みかけるような仕草をしてみせた。父の居ることが大変気になる様子で、監視兵が彼の腕を取って手首のあたりを調べている間もさかんに父の表情を窺っていた。しかし彼が怪我をしている様子はなかった。

父が捕虜の食事について聞いたのに対して、監視兵は「にぎり飯と味噌汁を与えております。皆にぎり飯は食いますが、味噌汁はほとんど食いません」と答えた。父はいつもの癖で腕組みをしたまま、やや下を向いて考え込んでいる様子だった。

余談になるが、軍隊の食事で出される味噌汁は栄養のバランスを考えてのことだろうが、野菜の煮物かと思うほど具が多く、ダシジャコもそのまま入れてある。極端な食糧不足にあえいでいた当時の日本では、これでもなかなかのご馳走なので、それを食わないなんてずいぶん勿体無い話だと思った。しかし、後年カートライト氏の手記を読んだら、東京ではおにぎりと水だけだったと書いてあった。やはり味噌汁は食習慣の違う捕虜たちの評判が良くなかったようである。

このような会話の間にも、ポーターは父と監視兵の顔を交互に覗き込むようにして、二人の表情を見比べていた。それは父らの意図をなんとか探ろうとしているかのように見えた。私はそんな彼の横顔を見ていたが、一瞬目線が会った時の彼の表情は、軍人というよりも無邪気な大学生といった感じがした。当時学校で学徒出陣のことが話題になって、アメリカでも同じことが行われていると聞いていたので、この人は多分学徒兵だろうと想像していた。

監視兵は私に捕虜を身近に見せて上げようという配慮から、ポーターを独房の外へ出したのかもしれないが、ポーターは自分がどのように扱われるのか、気が気でなかったのだろう。再び独房へ返されたときの彼のホッとしたような表情が印象的だった。

最後の五番目の独房にも同じような人影を見たように思うが、この時父が「さあ、もういいだろう!」と言ってさっさと帰りはじめた。私は慌て監視兵にお礼を言うのもそこそこに父のあとを追ったので、残念ながらなかの様子は全く覚えていない。

それから五十三年後の平成十年八月、私は森氏からロンサムレディー号乗組員の集合写真を送ってもらった。呉へ来襲する半年ほど前に撮ったものだそうで、被爆捕虜関連の記事にはよく掲載されているので、ご存知の読者も多いだろう。

私は早速この写真と上に述べた捕虜の記憶を、照らし合わせて人物の特定を試みた。また翌平成十一年十月にはカートライト氏が来日されたので、その結果にたいする氏の意見を聞くことができた。つぎにそれらの結果をまとめて述べることにしよう。

まず留置場の一番手前の独房にいた赤毛の捕虜は、この集合写真で見ると前列左から二人目にいるエリソンに顔立ちや身体つきがよく似ている。カートライト氏の記憶では「エリソンはやや小柄で頭髪はたしかに赤かったが、口髭は無かった」ということである。口髭については符合しなかったが、私が捕虜を見たのは逮捕後一週間以上経た時点なので、この人に限らず、皆かなりひげ面だった。いわゆる不精ひげだったのかも知れない。なお念のため、新聞に掲載されたタロア号の乗組員の写真なども当たってみたが、記憶と合致する顔は見当らなかった。私はほぼエリソンに間違いないと思っている。

つぎの二番目の独房にいた捕虜は写真を見てすぐ分かった。前列左端のアトキンソンである。特徴ある目の感じ、細面の表情など記憶にある捕虜とそっくりである。確かめたいと思っていた頭髪の色(黒)もカートライト氏の記憶と一致した。また昨年「テレビ新広島」の女性記者が被爆捕虜の家族を訪問取材した番組のなかに、アトキンソンが家族とともに撮った写真が紹介されていた。これを見て、一層確信を深めた次第である。なお、カートライト氏によると、アトキンソンは逮捕されたとき足を負傷していたということであるが、私はそれには気が付かなかった。監視兵も気付いていない様子だった。

三番目の独房にいた捕虜はうつ伏せに寝ていて顔が見えなかったので、足に重傷を負っていることと、後姿から背の高い人物であることが判断基準になる。カートライト氏によると写真の後列左端にいるライアンは憲兵隊司令部の留置場で会ったとき足をひどく引きずっていた。足を負傷していたのだろう。またライアンの隣に写っているルーパーは最初に連行された交番で会ったが、足に傷を負っていて、痛々しそうだったということである。

他方、私が三番目の独房で負傷した捕虜を見ていたとき、監視兵が「もう一人負傷した捕虜がいる」と言っていた。監視兵は四番目のポーターと勘違いしたようだが、ポーターは負傷していなかったので、つぎの五番目の独房にいたのが、その捕虜だったと推定される。

三番目と五番目の独房にいたのが、ライアンとルーパーだろうということは推定できたが、三番目の独房にいたのは、二人のうちのどちらか決め手がなかった。森氏に意見を聞いたところ、「ルーパーは足首(踵)を撃たれていて、地元の女性が手当てをしたという証言がある」とのことだったので、怪我の状態からすると、ルーパーの可能性がつよいと考え、追悼記にもそのように書いておいた。

ところが、後日、カートライト氏に会って、この話をしたところ「三番目の独房にいたのはライアンだと思う」ということである。たしかに、写真で見るライアンはかなり背が高そうである。したがって、さきに追悼記に書いたのは逆で、三番目の独房にいたのがライアン、五番目がルーパーと訂正させて頂く。

捕虜のなかで、ただ一人名前を覚えていたポーターについては、幸いヒル・グッドスピードという人が、彼の追悼記「予期せざる戦死者、ある海軍航空兵の廣島への道」を1995年に表していることが分かったので、森氏にコピー送ってもらって、そのなかにある何枚かの写真と若干の身体的特徴に関する記述から、私が会った捕虜に間違いないことが確認できた。また同時にポーターに関する正確な情報を知ることができた。

まず、私は彼の名前をマーク・ポーターと記憶していたが、正しくはレイモンド・ポーターであった。紙片に書かれた名前が違っていたのか、間違って記憶していたのかも知れない。そして、先にも述べたように、彼は海軍中尉で急降下爆撃機SB2Cヘルダイバーのパイロットだった。独房で会ったポーターは学徒兵ではないかと思っていたので意外だった。しかし思い当たることが一つある。それは彼の目の動きである。私と目が合ったときはそうでもなかったが、父や監視兵を見る目は確かに鋭かった。そうして、なによりも目の動きが早いのには驚いた。どうしたら、あんなに早く目玉が動かせるのかと不思議に思って見ていた。あれは急降下爆撃機パイロットの習性だったのか。

なお、憲兵隊司令部には、私が会った上記の五人の他に、タロア号のダビンスキー機長とモルナーも留置されていたと考えられる。しかし、この二人は最初から既設の独房に入れられたので、大部屋にいたカートライト機長と顔を会わせる機会がなかった。アメリカでは終戦後、帰国したカートライト氏らの報告に基づいて、被爆捕虜を認定していたと思われるが、ダビンスキーとモルナーの名は知られていなかった。この二人は日本では多くの人に目撃されたが、アメリカではその後長く被爆捕虜とは看做されず、死亡した期日や場所なども誤って伝えられていた。
 
被爆の日
八月六日の朝、原爆が投下された時刻に私たちは工場脇の空き地で朝礼後の体操をしていた。その最中、すごい閃光がして一瞬なにも見えなくなった。広島市の方角は工場の建物の陰になっていたが、空に雲の輪ができて、急速に広がっていくのが見えた。次の瞬間、大きな爆発音がして、割れたガラスがあたり一面に降ってきた。咄嗟に工場の建物のなかに飛び込んで伏せた。

最初は工場が爆撃目標にされているものと思って息を殺していたが、その後爆弾が落ちる気配もないので、先生の指示にしたがって一旦裏山へ避難した。そのとき例のキノコ雲をみた。

しばらくして工場へ引き返すと、監督の先生から「広島市が相当ひどい爆撃を受けた模様だ!市内に家があるものはこのまま待機、今晩は工場に泊まることになるかも知れない。郊外に家のあるものはとりあえず帰宅してよろしい」と指示された。先生も生徒も大半が市内在住であったから、皆一様に家族の安否を考えて落ち着かない様子だったが、われわれ郊外在住者は指示にしたがって家路を急いだ。途中で兵員や救急物資?を満載した陸軍のトラックが数台、もの凄いスピードで広島の方角へ走っていくのに会った。

楽々園の家へ帰ってみると、爆風で屋根瓦は波打ち、窓は吹き飛んで惨たんたる有様だったが、幸い家族は無事で、小学生の弟たちもすでに帰宅していた。早速、部屋のなかに足の踏み場もないほど散乱しているガラスの破片を、皆で拾い集めて、庭の隅に穴を掘って埋めた。

一応の後片づけを終り、午後になっても、広島が空襲でどのような状態になっているのか、知る手がかりがなかった。

家にいても落ち着かないので、ときどき外へ出てうろうろしていると、近所に住む高橋さんのご主人が下着姿の裸足で、広島から歩いて帰ってくるのに出会った。見ると全身いたるところに擦り傷があり、火傷した両手をタオルのようなもので巻いて、痛々しそうだったが比較的元気に見えた。高橋氏は父よりすこし若い会社員の方で勤め先の事務所が立町の父の宿舎にごく近いことから、二人は懇意だったようである。

早速近所の人たちも出てきて、高橋氏を取り巻くようにして、広島市の被害の様子を聞いた。

高橋氏の証言の要点はおよそ次のようなものだった。
「事務所の建物は爆風によって一瞬のうちに全壊して、下敷きになったが、幸い這い出すことができた。しかし、すでに火災が起こっていて、両手に火傷を負った。這い出してみると周囲にあった建物はすべて全壊して、あちこちで火災が発生していた。

とにかく、西練兵場まで行けば何とかなると思って夢中で逃げた。多くの人が広島城をめざして逃げていくので自分もそれに従った。一部泉邸の方へ逃げた人もいた。

途中偕行社の前を通ったとき憲兵隊司令部の方を見た。建物は全壊していて毀れた屋根だけしか見えなかったが、まだ建物から火は出ていなかった。自分は広島城のお堀まで逃げて、そこで一休みしてしばらく眠り込んでしまったようだった。目覚めたときには、憲兵隊司令部のあたり一帯がすでに火に包まれていたので、後で全焼したものと思う」。そうして高橋氏は話の最後に、こう付け加えた「しかし、あの状況だと中村さんは多分何処かへ避難されていると思います」。この言葉は勿論、私たちを勇気付けようとして言われたものに違いない。

ところで、証言のなかに出てくる偕行社は旧陸軍の厚生施設で、西練兵場のすぐ東隣に建物があった。したがって、高橋氏は比較的至近距離から被爆直後の憲兵隊司令部を見たことになるので、この証言はかなり信頼性の高いものと考えて良いだろう。

後で詳しく述べるが、私たちが憲兵隊司令部の焼け跡で見つけた父の腕時計は九時四〇分を指していた。火災の熱で時計の歯車が停止したのがこの時間だとすると、高橋氏の証言と合せ考えて、憲兵隊司令部の建物が出火した時間は凡そ午前九時前後と推定される。そして、広島市中心部の火災は午前十時から午後二時頃までが、最も激しかったと記録されているから、ほぼこの時間帯に焼失したものと思われる。

八月六日夜の広島の空は真っ赤だったが、私たちはまだ楽観していた。前日訪ねた折、帰り際に父が「また、明日は朝から出張だ」と言っていたのを思い出して、もしかすると、爆撃のときはすでに広島を離れていたかもしれない。たとえ居たとしても、高橋さんが言うようにどこかに退避しているだろう。父の生存を信じ、無事を祈ってひたすら帰りを待った。祖母と母は広島の方角が見える表の道路に出て立ちつくした。

翌朝なんとなく騒然とした雰囲気を感じて、早々に目が覚めると、そこに母の心配そうな顔があった。昨夜、母は祖母ともども一睡もしなかったらしい。まだ父からはなにも連絡がない。楽々園(暁部隊)の正門あたりで、何かあるようだから見て来いと言う。おそるおそる行ってみると、広島へ救援に行ったトラックから兵士たちが重傷者を担架にのせて施設の中へ運んでいるところだった。これは只事ではない、はじめて事の重大さを身に沁みて感じた。

被爆後、憲兵隊司令部からは何の連絡もなかったが、昼すこし前になって、ようやく使者の兵士がみえて、「中村中佐殿は行方不明であります」と伝えた。前日、高橋氏からかなり希望の持てる話を聞いていたので、愕然として母は「もう少し詳しく話して欲しい」と言ったが、この兵士は「自分には詳しいことは分かりません」と言って逃げるように帰ってしまった。私たちの不安は増すばかりだった。

昼すぎに中原博志憲兵上等兵が来て下さった。中原氏は私たちが広島へ引っ越した当時父の当番兵を務めていた方で、楽々園の家へもよく来られたので家族とも顔なじみだった。その後憲兵の資格を得て、広島憲兵分隊勤務になり、被爆時は公務で横川方面にいて命拾いをしたとのことだった。

中原さんの姿をみたときは地獄に仏の思いだったが、その沈痛な面持ちから、決してよい知らせでないことが感じ取れた。中原さんは「先ほど憲兵隊司令部へ行ってまいりましたが、建物は完全に焼失しております。生存者が数名おりましたが、大部分は行方不明で部員殿(父のこと)の姿を発見することは出来ませんでした。いま広島市へは入れる状態でありません。私が状況をみてお迎えに来ますから、待っていて下さい」と言い残して帰っていった。

中原氏の説明でようやく凡その状況が理解できた。私たちはお互いに口には出さなかったが、最悪の事態を覚悟していた。

なお、当時中原氏など憲兵隊関係者から聞いていた憲兵隊司令部の被爆直後の状況について、記憶に残っていることを羅列すると、次のようなものである。

救援隊の主力は呉憲兵分隊と広島のなかで比較的被害の少なかった宇品憲兵分隊だった。救援隊は何度も市の中心部へ進入を試みたが、火勢に遮られて進めず、現地へ到着したのは当日の夕方だった。

救援隊が到着したとき、すでに憲兵隊司令部の建物はほぼ完全に焼失していた。

付近で数名?の生存者を発見してただちに収容した。そのなかに米兵捕虜が一人含まれていた。構内の隊長官舎跡で、瀬川隊司令官夫妻と思われる焼死体を発見し、収容した。

生存者のなかに中原氏の後任の当番兵がいた。この人は「正面玄関から外へ出た途端に被爆し、西練兵場の方へ数十米飛ばされていた。気が付いたときには周りに建物がなにも無かった」と証言していた(この人は補助憲兵で私も知っていたが、氏名は覚えていない)。

生存者のなかには被爆時屋外にいて熱線による火傷のひどい人が多く、後日生存者全員の死亡が確認された。
などである。

ところで、最近になって私は森氏の紹介により故大塚誠憲兵曹長の遺稿(稲妻の閃光)を読むことができた。大塚氏は当時憲兵隊司令部の隊員で、八月六日は遅番であったため、市内翠町の自宅で被爆し、憲兵隊司令部被爆現場の最初の発見者となった人である(被爆当日、市内にいてその後生存した唯一の隊員、平成十二年八十二歳で死去された)。また、その遺稿は広島在住の一主婦による証言記事「被爆二日後米捕虜虐殺を見た(昭和五十三年八月二日読売新聞)」に反論するかたちで書かれた大塚氏自身の体験手記である。

私はこれまで大塚氏とは面識がなく、また遺稿のことも知らなかったが、これを見ると、私たちが聞いていたこと以上に、被爆直後の状況が詳細且正確に述べられている。とくに生存者の数については、隊員十九名、捕虜一名の計二十名であったこと、また負傷者の搬送は最初船で行う予定で、相生橋下の川沿いに負傷者を集めたが、汐の加減で船が入らず翌朝トラックで宇品へ搬送したことなど、これまで諸説があって実態が判然としなかったことが明確に示されている。

ところで、被爆時憲兵隊司令部には軍人、軍属、捕虜などを含めると、百人程度の人がいたと推定されるが、そのうち行方が確認できたのは、生存者二十名のほかに焼死体で発見された瀬川隊司令官と四、五名の隊員(大塚曹長によって氏名が確認された)だけで、残る七十余名は行方不明とされた。これらの人の大部分は、爆風によって押し潰された庁舎の下敷になって、圧死したか、あるいは崩壊した建物に身体を挟まれて、脱出できずに焼死したかの、いずれかであろう。遺体はすべて火災による高熱で白骨化した状態で、庁舎の焼け跡から発見された(その状況については次の項で詳しく述べる)。

次に捕虜たちの被爆状況に限ってみると、先ず憲兵隊司令部では、庁舎一階にある二ヶ所の留置場にいたと考えられる合計七人の捕虜のうち、西練兵場の水溜まりの中を彷徨していた一人(大塚氏)を除いた六名はいずれも行方不明で、大部分の隊員と同様に、建物の下敷になって圧死または焼死したと考えられる。

生存していた一人については、発見されたとき、「火傷で目もすでに腫れふさがり、微かに息をしている半死半生の状態」(大塚氏)だったことからすると、崩壊した留置場から這い出したというよりも、何らかの理由で屋外にいて熱線を浴びた可能性がつよいように思われる。(屋外にいる可能性として、たとえばトイレが考えられる。憲兵隊司令部は明治時代の建物で、トイレは別棟で庁舎の裏にあった)

この捕虜は十九名の隊員とともに相生橋下の川沿いに連れていかれて、大塚曹長らの介護を受けていたが、八月七日の早朝、宇品へ負傷者を搬送するに当たり、「すでに首を垂れて、絶命している様子だった」(大塚氏)ので、そのまま放置された。

この捕虜は相生橋東詰の旧欄干にクサリでくくられていたので、大勢の人の目に触れ、通行人から殴られたり、投石されたりの暴行をうけた。その様子については、多くの目撃談があり、またいわゆる[原爆の絵]のなかにも描かれているが、生死の状況、身体的特徴、着衣あるいは人数までもが、かなりまちまちである。

私がこの相生橋にいた捕虜のことを知ったのは、広島一中の級友から聞いたのが最初だった。八月末か九月はじめ、正確には覚えていないが、地御前で別れて以来音沙汰のなかった一中から口伝えで集合指令があった。場所は焼け残った翠町の寄宿舎だったと記憶している。級友の一人が捕虜の話を切り出すと、「俺も見た!」という人が二、三人でてきて、目撃談議に花がさいた。皆の意見で、「捕虜は上半身裸同然で、ガックリ首をたれ、縛られた手もダラーとして、すでに死亡しているようだった」という点は一致していたと思う。

当時私は父から聞いた話で、広島にはもっと大勢の捕虜がいて、多数箇所に別れて留置されているというイメージを持っていたので、相生橋の捕虜と憲兵隊司令部で見た捕虜とは、必ずしも結びつかないと思っていた。しかし、ロンサムレディー号のアトキンソン軍曹は、外務省・外交記録によると、死亡日がただ一人八月八日になっていて、被爆後もしばらく生存していたことを伺わせる。また森氏らの調査によっても、相生橋の捕虜として有力視されている。

大塚氏が遺稿のなかで述べている捕虜の身体的特徴「身長が一メートル七十五センチぐらい、細面で、二十二~二十三才ぐらい、体格はヤセ型」は私が留置場で見たアトキンソンの特徴によく当てはまるので、私も相生橋の捕虜は、アトキンソンである可能性がつよいと思う。

つぎに、憲兵隊司令部以外では、すでに述べたように、西部二部隊と中国軍管区司令部の二ヶ所にロンサムレディー号のニール軍曹とロング伍長、タロア号のバウムガートナー軍曹およびSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機のブリセット三等兵曹の計四名が留置されていたと考えられる。このうちニールとブリセットについては、先に述べた「ポーターの追悼記」の中に次のような記述がある。

ニールとブリセットの二人は、被爆直後に留置場を脱出し、近くの汚水溜に飛び込んで火勢を避けていたが、市中へ出たところを再逮捕されて、宇品憲兵分隊に留置された。その後、宇品憲兵分隊へはさらに十名の米兵捕虜が送り込まれて、二人と一緒に留置された。この捕虜たちは八月八日に日本海へ撃墜されたB29ニップクリッパー号の搭乗員であった。

ニールとブリセットは自らの被爆体験をB29の捕虜に語って聞かせたが、このころ二人とも口と耳から緑色の液体を出し、ひどい痛みと吐き気に苦しんでいた。そうして八月十九日に二人は放射線障害によって相次いで死亡した。しかし、この二人の消息は終戦後帰国したB29の搭乗員によってアメリカへ伝えられたのである。

ここで少し余談になるが、ニールとブリセットが、亡くなる前に見せた放射能障害によるとみられる激しい症状について、当時の思い出を一つ述べておきたい。

原爆による負傷者は、最初熱線や火災による火傷と外傷によって死ぬ人が多かったが、そのうちに、ほとんど無傷で助かった人が頭の毛が抜け、歯茎などから出血が止まらず、はげしい痛みと吐き気にひどく苦しみながら死んでいく例が多くなった。当時は放射能障害の知識が無かったので、広島の人たちは誰いうとなく「ピカドン(原爆のこと)は爆弾と焼夷弾と毒ガス弾を一緒にして、威力を何千倍にもしたようなもの、ピカドンでは九死に一生も得られない」と言って恐れた。さきに述べた高橋氏など、私たちの近くにいた人も何人かこれで亡くなった。ニールとブリセットの死に様に、傍にいたB29の搭乗員たちは、大変なショックを受けたということだが、何千何万の広島市民が同じような状態で死んだことを忘れないでほしい。

なお、ニールとブリセットがB29の搭乗員に語ったことは、被爆時に二人が留置されていた場所を特定する重要な手がかりになる。私は西部二部隊や中国軍管区司令部の留置場を、実際に見たわけではないので、正確なことは言えないが、西部二部隊の庁舎は西練兵場をはさんで憲兵隊司令部の反対側に位置していて(爆心からの距離約七百米)、同じような木造の古い建物であったと記憶している。したがって、建物の被害状況は憲兵隊司令部とさほど大きな違いが無かったのではないだろうか。ここの留置場にいた捕虜が無事脱出できたとは考えにくい。

他方、軍管区司令部は広島城内に設置されていて(爆心からの距離約九百米)、防空壕など地下の施設が多かったと聞いていた。もし留置場も地下に設置されていたとすれば、被爆直後に二人揃って、ほとんど無傷で脱出できたとしても不思議ではない。また彼らが飛び込んだという汚水溜は、広島城のお堀の一部だったのではなかろうか。

被爆時に、ニールとブリセットがいたのが、中国軍管区司令部の留置場だとすると、ロングとバウムガートナーの二人は西部二部隊に留置されていたことになる。西部二部隊の被爆状況は上に述べた通りなので、客観的にみれば、二人はそこで被爆死した公算が強いと言えるだろう。

しかし、ロングについては、中国軍管区司令部で被爆死したとして、昭和四十五年に原爆慰霊碑の原爆死没者名簿に記名・奉納された。また、被爆当日、広島城の芝生の上に倒れていた米兵捕虜はロングではないかという説がある。目撃者によるとこの大男は裸で外傷はないが、骨折か内臓をやられているようで、かなり重傷にみえた(大佐古記者)と言うことである。

西部二部隊の独房にいたロングは、破壊された建物の下敷になって、骨折し、内臓にも傷害を受けたが、なんとか這い出して人々が逃げて行く広島城(高橋氏)へ向ったが、そこまで来て力尽きたのかも知れない。

先にも述べたように、被爆直後の市中における捕虜の目撃情報は、実に多様である。これを総合すると、十一人の被爆捕虜のうち少なくとも五~六人は被爆後も生存していて、市中を徘徊したとする説が有力である。しかし、当時の広島市の住人の中には、かなりの数の外国人が居たといわれているので、目撃情報のなかには捕虜と見誤った例があるかも知れない。また同じ捕虜でも場所、時間、目撃者などが違えば、かなり違ったかたちで記憶されるだろう。被爆捕虜全員が、爆心から五百米~九百米の被害の甚だしい場所で被爆したことを考えれば、生存率が高すぎるのではないだろうか。個々の被爆実態からみれば、確実とみられるのはロングを含めても上記の四名である。
 
憲兵隊司令部の焼け跡
被爆から三日目の八月九日、私たちはようやく広島市へ入ることができた。お昼ごろ中原氏が車を用意して迎えに来て下さったので母と私が行くことになった。

己斐のあたりの町並みは焼けてはいなかったが、爆風で家屋はいずれも破壊されて大きく傾き、なかには完全に倒壊しているものもあった。町並みの一角に憲兵の検問所があって市内へ入ろうとする人を規制していた。中原さんの紹介で入市が許可されたので、そこで車を降りて、あとは徒歩で市内に入った。

検問所からすこし進んだところで、急に視界が開けた。そこからは見渡す限りの焼け野原である。方々で煙が立ち登っていて、なかには炎を上げて燃え続けている所もあった。

主に電車通りに沿って進んで行ったが、福島川に差しかかったとき、百メートルほど川下の堤防の上に夥しい数の焼死体が数十メートルにわたって、人の背丈ほどに積み上げられているのを見た。そこへ焼死体を満載したゴミ車が馬に牽かれてやって来て、車の上にいた人が長い棒と足を使って焼死体を下へ蹴落としていた。広島へ入って最初に見たまことに衝撃的な光景だった。

入市を規制していた為か人通りは意外に少なく、軍隊や警防団の人たちによって、焼死体の収容作業や倒れた電柱などの障害物の撤去作業が盛んに行われていた。路上には放置されたままの赤茶色に焼け爛れた市内電車の残骸や牛馬の大きな焼死体などがとくに目を引いた。土橋を過ぎるあたりからは、道の両側に未収容の焼死体が目立つようになった。皮膚は赤褐色に変色して膨れ上がり、腹部から腸管が飛び出している無残な死体や、まるで炭のように真っ黒になった焼死体が多かった。

最初に猫屋町の光道小学校の校庭に仮設された中国憲兵隊司令部の仮事務所へ立ち寄った。ここは先に述べたように、当時は広島憲兵分隊が駐屯していたが、校舎が鉄筋コンクリート造りで、爆心地に面した部分に窓がなかったため、被爆直後は比較的生存者が多く、救援活動などに従事したが、後日原爆症(放射能障害)によって亡くなった人が多かったと聞いている。

私達が訪ねたときは、焼け残った校舎(二階建)の一階は負傷者の収容場所になっていた。中は薄暗く、コンクリートの床に横たわる負傷者で立錐の余地もない状態だった。火傷や外傷のひどい重傷者がほとんどで、すでに死亡している人も多かったのだろう。私たちが立ち寄った僅かな間にも、憲兵によって次々遺体が運び出されていった。

中国憲兵隊司令部の仮事務所は校舎とは反対側の校庭の隅に軍用テントを張っただけの簡単なものだった。隊司令官は死亡が確認され、他の幹部は全員行方不明であったから、テントのなかにいたのは、ほとんど他所から応援にきた人達で、そのなかに東京の憲兵司令部から派遣された調査隊の隊長岡村中佐の姿があった。中佐は父の憲兵司令部時代の同僚で母も顔馴染みだった。

巨漢の岡村中佐は直立の姿勢で、緊張した面持ちで母に向って言われた。「昨日来鋭意捜索しておりますが、今のところ中村中佐は行方不明であります。只今から憲兵に現地を案内させますので、家族としても捜索に協力願いたい」。

案内役は以前から面識のある武田曹長だった。曹長はわれわれ家族が広島へ引っ越してきた当初、広島市内をいろいろ案内してもらった方で、被爆当日はたまたま市の中心部から隔たった所にいて無事だったとのことであった。

基町の憲兵隊司令部は中原氏から聞いたとおり建物は完全に焼け落ちて跡形もなかったが、見覚えのある正門の石の門柱や正面玄関の石段、建物の礎石などが残っており、正門の向って右側にあった車庫の跡には、見覚えのある乗用車が二台、その脇には父の私物の自転車が、いずれも赤茶けた鉄くずのようになって残っていた。また反対側の厩舎には数頭の馬が繋がれた姿勢のまま、博物館で見る骨格標本のような姿になっていた。ここへ来るまでにも牛馬の焼死体はかなり見てきたが、このように骨だけになった焼死体は始めてで、この辺りの火勢の強さを示しているように思えた。

建物の礎石などを頼りに、父の居室の跡を推定することができた。四日前に来たときの部屋の様子を思い出しながら、父の机があった辺りを探すと、そこには明らかに遺骨と思われるものが見つかった。しかし、ほとんど原形を留めておらず、大きなものでも長さが十センチそこそこの破片と化し、直径が一メートルに満たないきれいな円形になって散らばっていた。そこをじっと見つめていた母が、突然「お父さんの時計!」と叫んで、その中から焼け爛れた腕時計を拾い上げた。時計の針は九時四十分を指していた。
父の遺骨であることに間違いない。母と二人で拾い集めて、武田曹長が用意して下さった骨壺に収めた。また腕時計以外にも、双眼鏡、拳銃など見覚えのある遺品を拾い集めた。双眼鏡は中のレンズが高温で解けて涙が垂れたような形に固まっていて、改めて火勢の強さを感じさせた。

なお、この部屋には、父以外に五~六人の遺骨があって、いずれも父のものと全く同じ状態で、机の前に横一列に並んで発見された。以前に父を訪問した際部屋に数名の士官や下士官が来て、父の机の前に整列して何事か報告され、父も起立して応えている光景を見たことがある。遺骨の並び方はこの時の人の配置に非常によく似ていた。

原爆が投下された午前八時十五分は、始業時の打ち合わせなどが多く行われる時間帯である。多分この時も、父の居室では同じような光景が、繰り広げられていたのではないかと想像する。

原爆投下によって生じた爆風は巨大な力で建物を押しつぶす。一階部分にあったこの部屋では、人々は瞬時に建物の下敷きになって全身の骨は砕かれ、即死したのであろう。遺骨はこのような状況を物語っているように思う。

一方捕虜がいた留置場の様子についてはこの日は見る余裕がなかったが、八月十五日の終戦の直後に、母とともに仮事務所へ出向く機会があり(後述)、この折に基町の憲兵隊司令部跡にも立寄って留置場など父の居室以外の場所も調べた。

留置場のあった場所は、焼け跡で見る限り、他ととくに変ったことはなく、父の居室で見たような破片化した遺骨が多かった。しかし、なかに一つ完全な形をした大腿骨と思われる骨が見つかった。しかもこの大腿骨は異様に長く、かなり背の高い人のものと思われた。見ていた母が「それポーターの骨じゃないの!」と言った。当時捕虜の名前はポーターしか知らなかったので、わが家では捕虜の代名詞になっていた。しかし、ポーター本人は先にも述べたように小柄な人だったから彼のものでないことは確かである。骨の主を推理するとすれば、私はライアンではないかと思う。彼はかなり背の高い人だったし、見付かった場所が部屋の中央付近で、独房の位置とも一致する。さらに、身体が押しつぶされても、このような長い大きな骨が原型を留めた理由は、彼が被爆の瞬間も、前日私が見た時と同様に、うつ伏せに寝た姿勢になっていたからではないかと考えられる。

なお、正面玄関受付の隣にあった別の留置場には、タロア号のダビンスキー機長とモルナーの二人が拘留されていたと考えられるが、ここは被爆前日に行ったとき案内されなかったので、捕虜のことは念頭になかった。しかし、この辺りは建物の中心部に近く、平素から人の出入りが多い場所で、遺体の数も多かったように記憶している。焼け跡の状況からみて二人とも圧死した可能性が強いと思う。

八月の下旬には広島まで電車が開通したので、まだ現地を見ていない祖母や弟を基町の焼け跡へ案内した。焼け跡には最初大量の灰が積もっていたが、日を経て風雨で灰が除かれると、思わぬものを発見することがあった。およそ燃えるものはことごとく焼き尽くされたような状況のなかで、中国憲兵隊司令部と大書された木の門札がほとんど焼けずに瓦礫の中から発見されたのである。しかし不思議なことに墨で書かれた字の部分だけが消し炭のように焦げていた。

この頃は、まだ焼け跡全体にあまり人手が入っていないように思われた。しかし、九月に入った頃から憲兵隊による焼け跡の調査や整理が急速に進み、続いて起こった風水害によって焼け跡は水浸しになり、すっかり様子が変わってしまった。
 
戦後そして新たな出会い
終戦直後の八月十八日から二十三日頃にかけて、父の遺骨の引き取りや諸手続きのため、母に付いて憲兵隊司令部へ数回出向いた。この時、仮事務所は猫屋町から横川駅近くの山手にある浅野家の墓地跡に移転していた。庁舎は簡単なバラック建であったが、後任の隊司令官長浜彰大佐はじめ、あたらしい幹部も次々着任して、終戦の混乱のなかで本格的な活動を始めている様子だった。父は私たちが死亡を確認したので、戦死と認定され、陸軍大佐に叙された。

九月の始めごろ、父の同郷の先輩、大谷敬二郎大佐など、東京時代からの知己の人たちが楽々園の家へ見舞いに来られて、土産にお米、砂糖、牛肉の缶詰などを沢山貰って大喜びしたことがあった。

母がこの人たちから聞いた話では、敗戦によって日本の軍隊は無くなるが、憲兵部門だけは治安維持のために残される。しかも大増強されるので、この人たちはそのため広島へ着任してきたのだという。母は大変心強いことだと喜んでいた。

ところが、しばらくして事態は急変した。憲兵隊はすべて解散させられ、隊員は捕虜虐待などの罪で、戦犯として連合軍に逮捕されるというのである。このような終戦直後の憲兵隊を取り巻く厳しい事情については、藤田氏の手記「原爆による被爆前後の中国憲兵隊司令部追憶記」に詳しく述べられている。

連合軍は占領当初、治安維持に憲兵を利用するため組織の温存・強化を考えた。しかし、占領が無事完了し、治安維持に問題がないと知ると、憲兵隊はもはや不要であるばかりでなく、逆に危険な組織と考えて、いち早く解散を命じたのであった。これに加えて、捕虜や占領地住民にたいする虐待行為などを理由に、憲兵の戦争責任を問う姿勢が厳しさを増した。

これによって、多くの憲兵関係者は、いわゆるB,C級の戦犯として刑に服することになった。隊司令官の長浜大佐は、前任地フイリッピンでの責任を問われて現地へ送還、後に絞首刑になった。また着任後間もない大谷大佐も、戦犯として捜索追及されて行方不明になったと聞いた。幸い戦犯を免れた人たちも、全員が公職から追放されて、格段に厳しい戦後を過ごさざるを得なかった。

終戦後間もない頃のこと、ある日の新聞に、開放されて、よろこび勇んで母国へ帰る連合軍捕虜の様子を紹介する記事が載った。これを見たとき、私は父が話していた「農夫を射殺した捕虜」のことを思い出した。「あの捕虜はきっと何の罪にも問われずに、国に帰るのだろうが(実際にはそうではなかったのだが)、それでは殺された農夫は全くの犬死で、あまりにも可哀想だ」そう思うとやりきれない気持になった。

母にその話をすると、何時になく厳しい顔つきで、「昔から勝てば官軍、負ければ賊軍といいます。戦争に負けたのだから仕方のないことです!捕虜に関することは人様に大変迷惑をかける恐れがあるので、みだりに口外してはなりません!」と厳重に注意された。この言葉は今でも忘れることができない。

当時、アメリカ軍は捕虜が原爆で死亡したことを、自国民に知られないよう、日本側、とりわけ憲兵隊にたいして厳しい言論規制をしていたようである。今にして思えば、母はそのことを聞いて知っていたのではないだろうか。

十月の半ば頃だったろうか、私たちが広島へ来て以来、なにかとお世話になった中原氏が復員の挨拶にみえて、中国憲兵隊司令部が解散したことを知った。

終戦直後は輸送事情も悪く、家族全員の切符はなかなか手に入らなかったので、私たちは翌年二月と三月に二手にわかれて郷里へ引き上げた。和歌が好きだった祖母が、発つ日に車窓より広島の焼け跡を見て詠んだ歌「さまざまの恨みはあれどなつかしく、名残惜しくもすぐる広嶋」は、その時の家族全員の気持ちをよく表していたように思う。

郷里の大津市は琵琶湖に面し、京都市に隣接する古い都市で、このあたりは戦争中にほとんど空襲を受けていなかったので、戦後の復興が早く、原爆に対する関心はあまり高くなかった。引き上げた当座、私たちは親戚、知人、友人たちに進んで原爆体験を語った。しかし、空爆の経験がない人たちには、十分理解できなかったのかも知れない。母が「私は原爆の実態を言葉では表せないもどかしさを感じているのに、話が大袈裟だと陰口をたたく人がいる」と不満そうに言っていたのを思い出す。

それでも、家族の間ではよく広島の思い出話をした。祖母は広島にいた一年間に書き留めた和歌を自分で編集して、和歌による体験記「広嶋原子爆弾と風水害」を書いた。しかし、米兵捕虜のことについては、母から絶対に口外しないよう注意されていたし、直接会ったのは私だけなので、あまり話題にはならなかったが、父が最後に深く関わったことなので、被爆捕虜の顛末は詳しく知りたいと思っていた。私は当時十三歳の少年だったので、捕虜について父から聞いた話、会ったときの印象や見た光景などは、自分でも驚くほどよく覚えていた。しかし、その記憶は概して断片的であり、それだけで全体像を推理することは困難であった。

広島を離れたことによって、私たちが原爆関連のニュースに接する機会は目立って少なくなった。被爆捕虜に関する新たな知識は皆無であった。しかし、戦後三十年を経た昭和五十年代に入ると、時代も変わり、アメリカ軍は被爆捕虜の真相の説明に踏みきった。また、日本でも外務省が事実を公表した。この頃から、日本では被爆直後のアメリカ兵捕虜の目撃証言などが、新聞、雑誌、原爆関係の図書などに、しばしば掲載されるようになった。

私は弟達にも協力してもらって、一部の記事を調べたが、そこで表現されている捕虜の特徴(例えば、きれいな金髪とか派手な下着、着用していた制服など)は憲兵隊司令部の留置場にいた捕虜には見られなかったものである。目撃証言のなかには、残念ながら、私の記憶に直接結びつくようなものは、ほとんど見当たらなかった。

平成十年になって、冒頭で述べたような次第で、森、藤田両氏との新たな出会いがあり、改めて当時を回想し、自分の記憶を検証する機会が巡ってきた。

森氏は早くから被爆捕虜に関心をもって、独自に調査を進めてこられたが、その当時米国テキサス州在住で、大学名誉教授になっていた元機長のカートライト氏を探し当てて、いろいろ貴重な証言を得ていた。また藤田氏は東京時代も父と一緒で、広島へは父よりすこし遅れて着任されたが、被爆の日はたまたま東京へ出張中で無事だった。捕虜のことは担当ではなかったが、終戦後はほとんど唯一の生存者としてGHQの命令で捕虜の遺骨の収集などに当たった。

森・藤田両氏から聞いた話の内容や提供された資料については、すでに本文の関連する部分で随時引用してきたが、ここで両氏との出会いと、その後の交流について、思い出を纏めて述べておこう。

藤田氏からは、除幕式の直後に丁重な親書をもらって、積もる話もあるので、一度泊まりがけで来ないかとの誘いを頂いていた。十一月はじめ、私は広島と藤田氏宅のある徳山(現周南市)へ訪問の旅に出た。

広島では、まず朝日新聞社広島支局を訪れて福家記者に会い、氏の案内で慰霊銘板を見学した。其処はもと留置場のあった場所だということだが、現在は周りにビルが林立して、当時の様子からは全く想像できないような所だった。福家氏からの連絡で、森氏が会いに来てくださった。

森氏に会うのは初めてだったが、それまでに何度か電話で話をし、写真、資料の交換なども行なっていたので、旧知のような感じがしていた。この日は、私から主に憲兵隊司令部の留置場で見た捕虜の様子について話し、森氏からは主に私が一番印象に残っていた捕虜のポーター中尉について、いろいろ調べた結果を話して貰った。このときの話の内容は、いずれもすでに関係の箇所で述べているので、ここでは省略する。

また、福家記者から当時建設中だった広島原爆死没者追悼平和祈念館で被爆体験記を募集しているので、「この手記の内容で応募してみないか」とのアドバイスをもらった。私も捕虜について見聞したことは、何等かの形で記録に残しておきたいと考えていたので、両氏と別れた後、市役所の祈念館準備室を訪れた。担当の大森寛主幹(当時)から祈念館の構想や体験記の収集・保存・公開などの意義を聞いて賛同し、及ばずながら協力させてもらいたいと思った。

藤田氏は八十二歳になると言っておられたが、とてもそうは見えない矍鑠とした方で、自ら車を運転して徳山駅まで迎えに来てくださった。お宅は海の見える高台の住宅地にあって、奥さんと二人でお住まいであった。

その晩は奥様心づくしの手料理を頂きながら、父や被爆前後の憲兵隊司令部の思い出話など、夜の更けるのも忘れて語り合った。藤田氏は捕虜の担当ではなかったが、一人の若い捕虜の尋問を担当したことや、終戦直後にGHQからの命令で捕虜の遺骨や遺品の調査・収集をしたときの苦労話などを伺った。

GHQが命じた調査は非常に厳しい内容のものであったが、中国憲兵隊司令部では当時の係官は全員被爆死し、関係書類なども完全に焼失して、手がかりになるものは何一つ残されていなかったので、後任の幹部たちは大いに困惑していた。そのとき、藤田准尉らが焼け跡に残されていた金庫のなかから、確実な証拠となる捕虜の「認識票」を発見し、報告を無事終えたということである。

広島、徳山への旅は新しい事実を知ることによって、被爆前後の古い記憶を蘇らせると共に、記憶していることの背景を知る上で大変役立ったと思う。また、被爆体験を正しく後世に伝えることの重要性も再認識した次第で、いつまでも記憶に残る有意義なものとなった。

旅から帰るとすぐ平和祈念館に寄贈するための体験記の執筆に取り掛かった。さきに新聞社へ送った手記は、単に記憶していることを纏めただけのものだったので、これにその後知り得たことを加えて、父と米兵捕虜にたいする追悼記の体裁にして纏めることにした。

また、祖母が書き残した和歌による体験記(廣嶋原子爆弾と風水害)は、原爆投下後の状況、その後の風水害の恐怖、終戦後の世相や心情などが率直に表現されていて、昭和二十年当時の生活記録としても興味ある資料ではないかと思うが、これを一般に公表する場合には、歌の背景など、かなりの補足説明が必要である。

そこで、当時の事情をよく知っているすぐ下の弟、中村知夫氏に相談し協力を依頼した。彼は夫婦協力して、この困難な作業を見事に完成してくれた。また私たちが焼け跡で拾い集めた父の遺品は、長年手元に保管してきたが、この際体験記とともに広島市へ寄贈して、公開してもらうことにした。

諸準備が整った十二月はじめ、私たち兄弟二人は寄贈品を持って再度広島市役所を訪れた。このときは森、福家両氏も立会ってくださった。父の遺品は、関係者の配慮で平和記念資料館の方で早速展示されることになり、追悼記「父と米軍捕虜の最後」ならびに和歌による体験記「廣嶋原子爆弾と風水害」の肉筆草稿原稿と補足説明文はともに平和祈念館に収録・公表された。この回想録と併せてご覧いただけると幸いである。

翌平成十一年十月、カートライト氏が森氏らの呼びかけに応じて、夫人、子息および元同僚で退役軍人会々長のマット・クロフォード氏らとともに来広した。ロンサムレディー号の同僚ゆかりの地を訪ねての、巡礼の旅だったようだが、旅の最終地が京都になるということで、森氏から「会いに来ないか」との誘いをもらった。

私も父が「指揮官級の捕虜」と言っていたのはどんな人か、興味があったし、また被爆捕虜についていろいろ記憶していることに対して、できれば一度会って意見を聞きたいと思っていた矢先なので、喜んで出掛けることにした。

十月二十三日の夕方、JR京都駅近くのリーガロイヤルホテルで一行に会った。一行はカートライト夫妻とクロフォード氏および案内役の森氏で、当地からの出席者は、大阪の会社最高顧問東田和四氏、京都の高校教諭で米兵捕虜のことに詳しい福林徹氏と私の三人、通訳は京大大学院生のベアリー・キース氏が勤め、他に毎日新聞社の女性記者が一人加わった。

会合はホテルの一室で、まず東田氏の話から始まった。東田氏は当時第二総軍司令部の見習士官として、情報部に所属していた。原爆投下の前日、八月五日の午後に、憲兵隊司令部二階の取調室でタロア号のダビンスキー機長を尋問したそうである。八月五日の午後といえば私が捕虜を見せてもらっていたのと同じ時間帯であるが、留置場は一階なので、二階でこのようなことが行われているのは全く知らなかった。
 東田氏は、尋問したときの様子を、雑談やご自身の意見なども含めて率直に語っていた。尋問の内容は、日本本土を爆撃する際の飛行ルートの指示・確認方法と言ったことが中心だったと思う。当時の日本軍はアメリカの日本本土上陸作戦に関する情報を最優先に考えていたから、尋問もその一環として行われたものではないだろうか。

私はこの話を聞いていて、終戦直後に、母が父から聞いたことの思い出話として言っていた事をふと思い出した。それは、父が憲兵隊司令部に着任した当時、広島がいまだに本格的な空襲を受けていない理由として「市内でなんらかの敵のスパイ行為が行われているのではないか?」と言った風評が伝えられていた。ところが、その後中国地方の山中で不審な無線装置が発見され、敵のスパイ活動への疑惑が急に現実味を帯びて、憲兵隊司令部のなかでも、いろいろ取り沙汰されていたそうである。このことが、飛行ルートなどに関する厳しい尋問の背景にあったような気がした次第である。

一方、東田氏が雑談のなかで述べた「ダビンスキーが飛行服のポケットから恋人の写真やお守りのロケットを取り出して見せた」という部分は、カートライト氏も著書の中で指摘しているように考えられないことである。逮捕直後の尋問のような別の事例と誤認されているのではないかと思った。

しかし、いずれにしても、東田氏の証言によってダビンスキーが捕虜として憲兵隊司令部に留置され、原爆死したことが一層明確になったと言える。

東田氏の退席後ひきつづいて私が話をすることになった。突然のことで、説明資料を用意することが出来なかったので、とりあえず、先に書いた追悼記のなかから捕虜に関係する部分を抜粋して説明することにした。

追悼記のコピーをカートライト氏、クロフォード氏と通訳のキース氏に渡し、まず私が憲兵隊司令部の留置場で見た捕虜の様子から話を始めた。とくに個々の捕虜の特徴に関して、写真ではよく分からない頭髪や目の色などに重点をおいて述べ、これに対するカートライト氏の意見を聞いた。結果はすでに述べた通りなので、ここでは省略するが、人物を特定するのに大変役立った。

つぎに、父から聞いた話として、カートライト氏を指揮官級の捕虜と呼んで、情報を期待していたらしいこと、そのため、東京の中央機関(憲兵司令部)で尋問を受けさせるため、送り出したこと、途中大阪駅で投石されるトラブルがあったことなどを話した。

カートライト氏はほとんど黙って聞いていたが、最後に「自分を東京へ送るよう命令したのは、あなたのお父さんか?」と聞かれたので、「父は捕虜対応の責任者だったから、そのような判断をしたのだと思う」と答えたところ、夫人と顔を見合わせながら、「それでは、あなたのお父さんは私の命の恩人だ!」と言われた。

突然、そのようなことを言われて返答に窮したが、「父はそれが一番よい方法だと判断したのでしょう。貴方の運が良かったのだと思う」と答えた。

まだ話は尽きぬ気はしたが、所定の時間になったので、最後に父の写真に見覚えがあるかどうかを聞いて私の話を終えた。写真については、はっきりした記憶は無いとのことだった。お互い顔は合わせていたと思うが、後々印象に残るような長時間の接触は無かったのであろう。そのあと、福林氏から日本本土で撃墜されたアメリカ軍機の搭乗員に関する調査資料の説明が行なわれて、会合を終えた。

この日のカートライト氏との出会いは大変印象深いものだった。後日、寄贈して貰った同氏の回想録「ロンサムレディー号との日々」には、戦艦[榛名]を呉湾で攻撃した際、被弾して山口県柳井市の山林に墜落した後、捕虜になって広島へつれてこられ、中国憲兵隊司令部で取り調べを受けたときの様子などが克明に記述されていて、大変参考になった。

また、家族同然のように思っていた部下の乗組員たちが、自国の原爆で死んだことを知ったときの衝撃と深い悲しみ、真実を公表したがらない軍や政府へのいらだち、戦争や原爆の使用には反対であるとして、平和を願う気持を訴える記述などは、とくに印象深かった。

また、昨年の八月に放映された、TSSテレビ新広島制作の番組「語られなかった真実、原爆で死んだアメリカ兵」には、カートライト氏のほかに、アトキンソン軍曹の妹と娘、ルーパー少尉の妻、およびライアン少尉の兄などが、肉親や仲間の原爆死について、遺族としての心境を語っている場面があった。

人によって言い方は違うが、戦争や原爆の使用に反対し、平和を願う気持が強いことでは、みなの意見が一致していた。また、原爆の犠牲になったという事実が、戦後長く知らされなかったこと、政府の支援が十分得られなかったことなど、自国の政府や軍部の対応にたいする批判的な意見も聞かれた。遺族の話を聞いて、われわれ日本の被爆者の心情とも共通するところが多いように思った。

しかし、このような意見はアメリカ社会ではまだ少数で、被爆捕虜の実態も、一般にはあまり知られていないようである(カートライト氏)。
 
おわりに
本書の主な目的は冒頭でも述べたように、被爆の直前に、捕虜関係の責任者だった父親から聞いた話や、一部の捕虜に直接会ったときの印象など、私自身の記憶をもとに、その背景を探ることによって、今なお不明な部分が多い被爆捕虜の全体像に迫ろうとしたものである。

もとより、私が捕虜に関して見聞したことは、全体像からすれば、ごく一部にすぎない。また、自分ではつい昨日のことのように、鮮明に記憶しているつもりでも、半世紀以上も前のことであれば、不十分なところも少なくなかっただろう。しかし、森氏、藤田氏、カートライト氏など、日米双方から、当時の実情を知る上で最もふさわしい人々の協力が得られたことにより、私の記憶していたことはほぼ完全に検証できて、全体像の解明に一歩近づくことが出来たのではないかと考えている。ご協力頂いた方々に感謝したい。

自国の原爆の犠牲になった米兵捕虜を回想し、その遺族の心情に触れて改めて思うことは、戦争の悲惨さ、非情さであり、戦争がもたらすさまざまな悲劇は、敗者のみならず、勝者も負わなければならない宿命だということである。

また戦争がもたらす悲劇のなかには、さまざまな理由によって、実態が十分明らかにされないまま、時とともに風化するものも少なくない。瞬時の無差別・大量殺戮が行なわれる原爆の場合、とくにこの傾向がつよいと考えられる。悲劇の実態をできるだけ明らかにし、正しい歴史として後世に、また世界に伝えることが、世界で唯一、核戦争の悲劇を実体験した国民としての責務と言えるだろう。

ところで、近年被爆者の高齢化によって、被爆体験の風化が懸念されている。そこで国は体験記を募集し、広島、長崎に建設した「原爆死没者追悼平和祈念館」で保存、公開することによって、被爆体験の継承を図っていこうとしている。一瞬にしてすべてが失われる原爆攻撃では、さまざまな被害の実態を知る唯一の手がかりとして、体験者の証言が非常に重要な意味をもつ。

しかし、証言は個人の記憶に基づくものであるから、概して断片的であり、そのとき個人が置かれたさまざまな状況によって、同じものに対しても個人差が大きい。多様な証言のなかから、真相を追究する歴史的研究が是非とも必要であろう。また、このことによって体験者自体の記憶が蘇ることも期待できる。

また近年、広島、長崎などの被爆地では、市民レベルでも被爆の歴史を検証するさまざまな試みが為されていると聞いている。追悼平和祈念館のような国の組織とともに協力し、われわれの被爆体験を人類の歴史として、世界各国で後々の世まで語り継がれるようなものに育て上げてもらいたいと思う。
 
                                                                        平成十七年(2005年)十二月
 
                                                                                    中村 明夫
 
 
主な参考資料
 
トーマス・C・カートライト 「爆撃機ロンサムレディー号との日々」
(T.C.Cartwright Date With the Lonesome Lady 2002 EAKIN PRESS)
 
ヒル・グッドスピード 「予期せざる戦死者 ある海軍航空兵の廣島への道」
(Hill Goodspeed Unlikely Casualty A Naval Aviator's Path to Hiroshima 1995)
 
森 重昭 「秘話開封 原爆で死んだ米兵を追って」 2002 月刊文芸春秋
 
藤田明孝 「証言 原爆による被爆前後の中国憲兵隊司令部追憶記」 2004 NHK出版
 
大塚 誠 「稲妻の閃光」(大塚 誠憲兵曹長遺稿)1978
 
NHKと中国新聞の原爆報道 「ヒロシマはどう記録されたか」2003 NHK出版
 
中村明夫 「父と米軍捕虜の最期・原爆で逝った父親と米軍捕虜の思い出の記」1998被爆体験記
 
中村晴子「廣嶋原子爆弾と風水害1946」 被爆体験記(和歌集)
 
中村知夫・中村明夫 「中村晴子の和歌による体験記の背景と補足説明」1998
 
全国憲友会編纂 「日本憲兵正史(限定版)」1976研文書院
 
テレビ新広廣島 「語られなかった真実 原爆で死んだアメリカ兵」(テレビ番組)2004
 
 
 ロンサムレディー号の乗組員
 
後列左より
 ツェームズ・ライアン少尉(爆撃手・原爆死)
 ダーディン・ルーパー少尉(副操縦士・原爆死)
 トーマス・カートライト中尉(機長・生存)
 ロイ・ペーデルセン少尉(航法士・墜落死)
 
前列左より
 ヒュー・ヘンリー・アトキンソン軍曹(通信士・原爆死)
 バッフオード・エリソン軍曹(機関士・原爆死)
 ウィリアム・エイブル軍曹(銃撃手・生存)
 ジョン・ロング伍長(銃撃手・原爆死)
 ベーカー(病気のため搭乗せず、かわりに乗ったニール軍曹が原爆死)
 
被爆時における中国憲兵隊司令部一階主要部分の配置図(推定される米兵捕虜の収容状況)
 
仮設留置場
エリソン軍曹 No.1 アトキンソン軍曹 No.2 ライアン少尉 No.3 ポーター中尉 No.4 ルーパー少尉 No.5
 
留置場 ダビンスキー機長 モルナー軍曹 
 
(絵あり)
捕虜三態
二番目の独房にいた捕虜 アトキンソン軍曹と思われる
 
足を負傷した捕虜 ライアン少尉と思われる
ポーター中尉 父の表情をうかがっている
監視兵 手の傷を調べている
父(中村中佐)
  

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