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少年時代の傷跡 
木本 茂(きもと しげる) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島機械製作所(広島市南観音町[現:広島市西区観音新町四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第二中学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 戦時中の学生生活
 
昭和十六年の十二月八日冬晴れの寒い日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をして太平洋戦争が始まった。

開戦当時の私はまだ幼い小学校の卒業を控えた軍国少年で、日本は鬼畜米英に必ず勝つと信じていた。清国やロシアという大国に勝った日本は強国だと習い、ラジオのニュースは日本軍の勝利を報じていたからだ。

しかし昭和十二年の日中戦争の開始以降から始まっていた国内の物資不足は、あきらかに加速した。砂糖やマッチに始まり、米や野菜などの必須食糧や衣類など多くの生活必需品が配給制度の対象とされた。配給日には配給所となった商店の前に長蛇の列ができ、何時間もかけて少ない配給物を手に入れるしかなかった。
 
生活から戦争を感じ始めた昭和十七年に、私は広島市の西区観音町にあった県立広島第二中学校へ入学した。

ちなみに戦前の学校制度は現在とは違い、義務教育の課程は男女共学である公立小学校六年間のみだ。戦時中に小学校は『尋常小学校』という名になり、そこを卒業した後の男子には主に三つの進学ルートがあった。尋常小学校に付属する二年制の高等小学校、職業教育を行なう三年制の実業学校、そして五年制の旧制中学校だ。

私が通っていた県立広島第二中学校は通称で『二中』と呼ばれ、将来は大学進学を目指すエリート校であった。五年制の旧制中学校であり、十二から十六才の男子学生が通っていた。現在の学校制度に合わせて考えると、中高一貫の男子校である。

また二中は始業時間が七時と早かったので、広島市に自宅がある者以外はほとんどの生徒が寄宿舎に入っていた。寄宿舎は二中校舎のすぐ近くにあり、東寮(とうりょう)と西寮(せいりょう)の二つの大きな建物で構成されていた。並び建った二棟の寮が何階建てであったか覚えていないが、級友たちは二人一部屋で暮らしていたらしい。

私の自宅があったのは、広島市のすぐ東隣に接している西条盆地の賀茂郡西条町。そこは現在、東広島市西条町にあたる場所である。それにも関わらず私は入寮せずに、広島市内にあった親戚の家に下宿しながら三年生の夏頃まで二中に通っていた。

戦時下の中学生男子は登下校や学徒動員の作業へ行く際、学校が違っていても皆一様に国民服を着ていた。『国民服』とは、戦時下に大人から中学生までの男子が着た標準服で、全身がカーキ色の軍服のような服だ。夏でも長袖の上着に長ズボンで、冬はそれに防寒着を追加しただけの格好。物資不足の為に、年中ほとんど同じ服装で過ごしていた。

上着は前開きで四つの陶器製ボタンで留め、大きなポケットが胸元と横腹のあたりに左右二個ずつあった。ズボンにも大きなポケットがあって、よく物が入って便利だった。裾は空襲の避難時でも走りやすいよう、ふくらはぎにゲートルを巻いて留めていた。

学徒動員先に行くときは学校や個人名を判別する為に、白い布で作った名札と標識腕章を縫い付けるのが決まりだった。国民服の左胸上部に名前と血液型を書いた四角い名札、左上腕部に学校名が入った菱型の標識腕章布を付けた。手縫いの肩掛け布製カバンを常に持ち、分厚い座布団のような綿入り防空頭巾と赤チンや包帯などを入れていた。帽子は正面前方に二中の校章が入った、黒くて天井の形が丸い学生帽である。革製のツバと丈夫な厚いラシャ地の布で作られた、高級品であった。また靴は布靴で底がゴム製だったが、ゴムの質が悪いのか底面に穴が開きやすかったので厚紙を敷いて履いていた。

私と同じ年頃の女学生たちは、皆ほとんどが上は制服のセーラー服を着ていて下半身にはモンペを穿いていた。『モンペ』とは着物の生地から作られた農作業用のズボンで、足首の部分にはゴムが入って動きやすくなっていた。戦局悪化に伴って男性の国民服と同様に、モンペは空襲時の防空対策用の衣服として女性の着用が義務化された。

よく通学中に汽車で見かけた女学生らは集団で同じ方面に行く様子であり、推測するに同じ学校の生徒だったろう。しかしセーラー服の襟元に巻かれたスカーフの色や、下半身に穿いたモンペの色柄などが皆それぞれ違っていた。物資の乏しい戦時下にあっても工夫してオシャレをしていたのだろう、そんな女性らしい彼女らの心意気が眩しかった。
 
学徒動員について
 
昭和十三年には国内労働力を補充する目的で、中学生以上の学生が集団で勤労作業させられる『学徒動員』が始まっていた。

それでも私が中学一年生の頃は作業に動員される日も少なく、まだ教室に座って授業をまとも受けられる日が多かった。夏休みを一週間ほど削って、中学校と寮の間にあった畑での草取りやサツマイモの収穫など農作業を手伝わされる程度だった。

だが多感な思春期の頃を軍国少年として過ごしてきた私は、学問よりも挺身でお国の為に尽くすことが常識となっていた。上級生の先輩方は既に軍需工場へ出動しており、私もその後に続くことを夢見て動員命令が下るのを心待ちにしていた。
 
しかし二年生になると、長期休暇はもちろん日曜日にも勤労作業をさせられることが辛いと思うようになった。特に屋外での長時間の勤労作業はきついもので、冬場は寒さに凍えつつ夏場は汗みどろになって働いていた。たとえ屋内でも冷暖房はなく、教室に座って授業を受けている方がはるかに楽だったと昼食休憩中に懐かしんだりした。

作業を急ぐ必要がある現場では、たとえ日曜日であっても休日返上で動員させられた。

その急ぐ現場というと梅雨の開けた初夏の頃、岩国航空隊飛行場で新しい滑走路を造る作業に動員されたときだ。

作業は主に滑走路に盛り土をすることで、二人一組のペアで土を載せた藁むしろの畚(もっこ)の両端をそれぞれ持って運んだ。
炎天下の蒸し暑い外で肉体労働をするキツい現場だったが、昼食時に食事が提供されると聞いて楽しみだった。育ち盛りなのに食糧が乏しく満足に食べていない日々だったので、遠慮なく腹を満たせる機会が嬉しかったのだ。

でも提供された食事は粗末で、少量の麦飯に大豆カスを混ぜた炊き込み飯にタケノコやソラマメの煮物だった。『大豆カス』とは大豆から食用油を搾った後、圧し潰されて平らになった大豆の絞りカスを粉にした代用食品。本来は畑に蒔く肥料もしくは家畜に与える飼料だった大豆カスを、当時は厳しい食糧不足ゆえに人が食べていたのだ。

オカズは時期的にソラマメが収穫できる時期だったので、食堂には甘辛いソラマメ煮がどっさりと積んであった。その横にはタケノコの煮物も山積みで置いてあったが、それはどうしてか強烈な悪臭がして味はやけに塩辛かった。

大豆カス入り麦飯も硬めな野菜煮ばかりのオカズも食べ慣れない変な味で不味かったが、若くて食べ盛りだった私は腹いっぱいに食べた。同級生達も私と同じように食べていたので、皆一様に腹を減らしたままで作業をするよりマシだと考えたのだろう。

だが昼食休憩の後に始まった午後の作業中に、私はまったく予想外の激しい腹痛で苦しんだ。それは大豆カスやタケノコなど、消化の悪い食べ物を一度に大量に食べたせいだ。

汚い話になるが腹を壊して下痢をもよおしてしまった私は、冷や汗をかきながらグルグル鳴り続ける痛む腹をかかえて蹲った。こんな腹の状態では土を運ぶ力仕事なんぞ出来る筈がなくて、私は作業でペアを組んでいた友人へ頭を下げた。
「すまん。待て…行ってくるけぇ。ちぃと、待っとってくれんか」
「おぉ、わかった。待っとる」

苦笑して頷いてくれた友人を置き去りに腹の痛みに耐えながら歩き、トイレの無い屋外で用を足せる場所を探した。

数分後やっとのことで人目に付きにくい建物を見つけ、その裏に行った私はしゃがみ込んで下痢ウンチをした。皆一様に腹を下していた者が限られた場所で用を足すので、既にウンチはあって臭いし同級生と並んでウンチをする羽目になった。

秋になって二年生の同級だった何人かは志願して編入試験を受け、軍隊直属学校である『少年航空兵』へ行った。彼らの先輩の飛行機乗りは、あの戦闘機で勇敢に敵国軍艦に体当たりして海上に散った『神風特攻隊』の若者たちである。
 
昭和十九年に三年生になると勤労期間が次第に長くなっていき、通常授業の時間数が削られるようになった。八月半ばを過ぎた頃には『学徒勤労令』が施行されて、学生は年間を通して勤労作業へ従事することが決定された。私の動員先は軍需工場である三菱重工業広島機械製作所になり、軍用船や戦闘機の部品を造る手伝いをしていた。

二中は一学年のクラスに五十人ほど生徒が居て、それが五クラスあったから同級生の数は二百五十人くらいだったが。関東や関西などの都会から疎開してきた転入生の人数が増えたので、この頃には二百七十人ほどになっていた。

戦局が悪くなったのと新たな級友が増えたことが重なり、自宅から通える生徒は寮を出ることになった。それに伴い始業時間は七時から八時になり、また終日の勤労作業日は学校へ寄らず直接に動員先へ行くようになった。

同学年で同じクラスの特に仲が良かった友人である槙田くんと中田くんも寮を出て、自宅から汽車通学を始めた。夏頃に私も事情があって下宿していた広島市内の親戚の家を出ることになったので、彼らと一緒に登下校した。

それは親戚の家の主であった私の叔父の都合で、住んでいた西条町の私の自宅から広島市へ帰ることになったからだ。

叔父は陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)という、兵隊の食糧や軍馬の飼料などを調達、補給する組織に勤めていた。糧秣廠倉庫は宇品にあったが、開戦後に軍専用であった宇品線から長い貨物汽車を出して西条町に物資を運んでいた。

もし広島市が空襲されても大事な糧秣が燃やされないよう、西条町の松賀山や酒蔵などに疎開させて隠す為だ。日本の戦況が悪くなって学童が田舎へ疎開し出したように軍需物資も疎開して、山中へ隠す為に移されていたのだった。
 
四年生になった昭和二十年の春、日本軍の戦局はいよいよ劣勢になって本土決戦が近づく気配を感じるようになった。

それを強く意識したのは、五年制だった中学課程が短縮されて先輩方が四年で中学校を卒業した日のことだ。戦地に若者を早く送り込む為に卒業が早められたのだと、口には出さずとも察してしまった皆は怖がっていた。近所や動員先の工場に居た十七歳から四十歳の男性はことごとく召集されたが、それでも兵隊が足りなかったのだろう。

そんな不穏な日々を過ごして新学期が始まる直前、政府は国内の不足労働力を補う為『決戦教育措置要綱』を決定。これによって四月一日より翌年の三月三十一日まで、小学校を除いた学生の通常授業は原則的に停止されたのである。冬休みや夏休みなどの長期休暇はもちろん日曜日も勤労作業にあてられ、一ヶ月に二回ほどしか休日が無くなった。

六月半ば頃に三菱重工業広島機械製作所での作業を午前中で終えて学校に帰った日だった、二中へ軍人がやって来た。各中学に配属された退役将校で、その偉そうな態度と跨っていた美しい毛並みをした軍馬が印象に残っている。

グラウンドへ集合して整列せよと言われたので、久しぶりに『体操』の授業でも行うのかと期待していたが違った。

まず『軍人勅諭』忠節・礼儀・武勇・信義・質素という五つの軍人が守るべき徳目を習い、白兵戦訓練をさせられた。白兵戦訓練では直接に敵と対戦する方法を学び、手榴弾に模した石を投げたり剣銃に模した形の木の棒を持って突撃した。

威張った態度の軍人教官に口やかましく怒鳴られながら訓練をさせられ、私を含めた級友たちは軍人嫌いになった。それに白兵戦訓練をしても戦闘機から爆弾を落とす鬼畜米英には歯が立たず、役に立たないことは明らかだった。

自宅の最寄り駅である西条駅から広島駅まで汽車で登下校していると、空襲警報が鳴って汽車が停まることがよくあった。いつも超満員だった蒸し暑い車両の中で、はるか上空を通過していく敵の爆撃機の音をじっと息を潜めて聞いていた。

幸いにも乗っていた汽車に向けて空襲されず、助かったので安堵はしていたが敵機に対して何もできない己の無力にも打ちひしがれていた。
 
原爆が投下された日の記憶
 
昭和二十年の夏は例年と変わらない酷暑だったが、原爆が投下された六日は特に朝から暑くて雲一つない良い天気だった。

真夏の直射日光が容赦なく照りつけてきて気温も高いので、駅に向かって歩いているだけでもダラダラ汗をかいた。黒い学生帽と長袖長ズボンの国民服という、どう考えても夏向きでない動員学生の制服を私はきちんと着ていた。六日は珍しく日曜日が休日だった翌日の月曜日で、学校に寄らず三菱重工広島機械製作所へ直接行く日だったのだ。

私はいつも通学していたとおりに西条駅から朝五時過ぎの汽車に乗って、五十分くらいかけて広島駅に到着した。広島駅の山陽線のホームに降り立ったときは、西条駅の隣駅である八本松駅から乗ってきた槙田くんと一緒だった。

当時は広島駅の南口を出て駅前にあった路面電車の乗り場で、一両編成の路面電車に乗り換えた。そして西観音の電停で降りてから、動員先の南観音町までは広島電鉄の青バスに乗った。それぞれの交通機関に乗り継ぎする際の待ち時間もあったし、動員先の工場に着くまでには自宅を出てから二時間以上は掛かっていた。

工場に着いた七時過ぎにサイレンが鳴って敵機接近の警戒警報が出たので、私は工場の建物内にじっと隠れていた。防空壕はあるにはあったが工場には防空壕に収容できる人数以上の人が働いていて、壕内に入れる見込みは薄かった。

何事も起こらず七時半頃には警報が解除されたのでホッと胸を撫で下ろし、工場内で顔を合わせた仲の良い級友たちと話をした。
「やれやれ、今日も大丈夫じゃったのぉ」
「ほぉじゃのー」
「また、呉あたりに行ったんじゃないんか」

いままでは広島市内に居て空襲警報が出ても、敵機はすべて市内を素通りで飛び去って呉方面に飛んで行った。呉はアジア太平洋地域で最大規模を誇った大日本帝国海軍の拠点軍港があり、製鉄所や造船などの軍需工場が沢山あった。七月二十四日から二十九日まで呉では大空襲があったが、広島市はそれまで目立った空襲をされていなかった。

当時の広島市は、中四国地方を管轄する大日本帝国陸軍の軍事拠点の都だった。それなのに空襲がないのは、本当に不思議で恵まれたことだった。軍神と崇められた陸軍の『乃木大将』が、広島市を拠点にされたおかげで守られていると半ば信じていた者も居た。
「それより、今日の給食は何が出るかのぉ?」

この頃の工場では工員さんのほとんどが兵隊に取られていて、機械を動かして行なう作業が出来なくなっていた。動員学生である私達は重い工業部品の運搬や土木作業など単純だが肉体を使う重労働をしていて、昼食時間が最大の楽しみだった。
「給食か。そうじゃのぉ…オカズは、魚の煮付けじゃろ」
「今頃はアジが旬じゃけぇ、ワシはアジの味噌煮がええのぉ」
「ワシはなんでもええけぇ。腹いっぱい食えるのが、楽しみじゃ」

三菱重工広島機械製作所の工場では二年生のときに行った岩国航空隊飛行場の作業現場より、質の良い昼食を腹いっぱい食べられた。

大豆カスが入っていない麦飯でオカズは魚や野菜の煮物と漬物など、味も悪くなかったし、おかわりも許された。戦局が悪くなっていって食糧が乏しい日々で、いつも腹をすかして過ごしている育ち盛りにとっては最高の食事だった。

そんな重労働後の給食を楽しみにしながら、今日もいつもと同じ特別なことなど起こらない日だと思っていた。
 
原爆投下の瞬間は朝礼が終わって作業班ごとに別れ、担当の作業現場へと向かって屋外を歩いているときだった。八時十五分、南観音町地先の三菱重工業広島機械製作所、爆心地から四千五百メートルの地点で私は被爆した。

いつも作業現場まで歩いて八分ほど掛かったが、あのときはそのちょうど半分の三から四分くらい経ったときであった。
「うッ!?眩しい?なんじゃ、なんか光った…カミナリかッ!?」

カミナリが落ちたかのようなピカッと眩しい光が閃いて、パァッと眩くて目を開けていられないほど明るくなった。

光った数秒後にドーンと轟音が鳴り響き、背後からドォッと強い風が全身を押される勢いで吹いて帽子が飛んだ。広島市の南の果てに三菱重工広島機械製作所はあったから、原爆投下時の爆風は私の後ろから吹き抜けたのだ。

当時の学生帽は高級で大事なものだったから、飛んでいく帽子を見て焦って追いかけたことをよく覚えている。
「うぉ!なんじゃ、あれはッ!?」
「はーッ?ありゃ、雲…入道雲かッ!?」

無事に帽子を拾いあげた後でハッと気がつくと、何やら皆が空を指して大声で騒いでいるので私も空を見上げた。

晴れわたる青空に急に出現した真っ白な入道雲が、みるみるうちにムクムク大きく頭を膨らませて盛り上がっていく。日光を照り返して白く輝く丸い頭を支える足を伸ばして高く高く、いつも見る雲では有り得ない速度で成長した。
「デカい雲じゃのぉ」
「キノコみたいな形じゃ」
「ただの雲かッ?まだまだ大きゅうなりよるで」

不自然な巨大雲を唖然と見つめていたら、ついに雲は上空に達した後で横に広がって太陽光を遮ってしまった。すると白かった雲の色が赤茶けた不気味な色に変化し、私は思わず開いていた口を閉じてゴクッと唾を飲み込んだ。
「ありゃあ、爆撃で出来た雲じゃッ!」

そう誰かが叫んだ声がして、市内中心部に何か大変な爆弾が落とされたんじゃないかと皆はザワザワ噂し合った。

それから程なく朝礼を行なった鋳錬工場の建物に、工場で働く人々は全員集合をかけられた。二中から来ていた私達四年生と三年生も、出席をとって被害状況を確かめた。

爆風によって工場敷地内の建物が傾いたり窓ガラスが割れた際、ケガをした者は数人いたが死者は居なかった。屋外に居た私はまったくの無傷であったが、建物内に居た人は割れたガラスや物が飛んできてケガしたらしい。

つまり爆心地から四キロほど離れても建物を破壊するくらい爆風は強かったが、熱線は伝わらなかったのだ。

点呼と安否確認の後すぐに学校からの指示で解散が命じられ、動員学徒はそれぞれ帰宅することになった。帰宅を始めたのは九時半過ぎ頃だったような、動揺していて時計を持っていたのに何時だったか覚えていない。

工場の敷地を出て畑に挟まれた道を歩いていき、庚午橋(こうごばし)の手前で私は馬に引かれたリアカーに出会った。

その普通なら荷物を運ぶために使うリアカーの荷台には、小学生の子供が乗って傍らに小父さんが付き添っていた。小父さんは三菱の従業員の制服を着ていて、ゆっくりと歩む馬を促して私が歩いてきたのとは逆方面へと歩いて行く。

観音町には三菱造船に勤める人の社宅があったから、そこに帰っていく子供だろうと推測しつつ擦れ違って気がついた。馬のお尻が焼けて皮がチリチリに縮れて爛れ、自力で歩けないような酷いケガをした子供は声をあげて泣いていた。
「うわぁ!?こりゃあ酷いことなっとる…どうして、こないになったんじゃろうか?」

私はそんな悲惨な状態になった人馬に驚いてショックを受け、市内方面に行く気力が萎えて立ち止まってしまった。

しばらく辺りを見ないようにして道端にあった木の影に私は立っていたのだが、ふと背中をポンと軽く叩かれた。
「木本くん、何しとるん?いっしょに帰ろうや」
「バスが動いとらんけぇ、歩いて帰ろうで」

声を掛けてきたのは工場で働いていたときの班は違ったが、仲の良い通学仲間である中田くんと槙田くんだった。それで怖気づいて固まっていた肉体が解れ、このときほど友達が居てくれたことを有難いと思ったことはない。

勇気づけられた私は小走りに駆け寄り、彼らと歩調を合わせるようにして横並びになって一緒に歩き出した。

私達は広島市の西端にある己斐駅へ行こうと思い、迷わぬよう現在は太田川放水路になった己斐川沿いを歩いた。市内は激しく炎上していて煙がモウモウと立って通れそうになく、仕様がないので迂回して国鉄の駅を目指した。

だんだん市街地に近づくにつれて空気が熱くなり、何やら生臭いような異様な臭気が鼻を突くようになってきた。

爆心地から約二キロにあたる観音本町の手前あたりで、己斐川は細い支流である山手川と福島川に別れている。福島川にかかっていた西大橋のふもとに着くと、川岸は橋を渡ろうと順番待ちをする大勢の人々であふれていた。

大火事になって焼けている市内の火から逃れたいから、皆同じように橋を渡って己斐方面へ逃げようとしていたのだ。
「あッ!」

ふと目の前に重度の火傷をしている人が現れて、私は見た瞬間に驚いて声を上げて思わず顔を背けてしまった。

髪は焼けてボサボサに縮れ、火傷で黒く変色した顔からはペロリと剥がれた皮膚が首に垂れ下がっていた。その男か女かも解らない人は、両腕を幽霊のように前に突き出したまま道に寝転んで動かなくなってしまった。
「こりゃあ、えれぇ酷いケガ人がおるのぉ…」
「おう。大変じゃ!こがぁな大勢の人がケガして、どうして…」

中田くんと槙田くんは西大橋まで来て初めて負傷者の姿をまともに見たらしく、呆然と目を見開いて絶句していた。

橋近くの地面に座り込んだ大勢の大人も子供も、皆こちらに焼け爛れた手を伸ばして「水をくれ」と訴えてくる。前方へ突き出された手の爪のところから長くダラリと垂れ下がっているのは、火傷で剥がれてしまった腕の皮膚だった。

私達はまったくの無傷だったから、そんな酷いケガをしてボロボロになって水を欲しがる人々を哀れに思った。しかし「水をくれ」と言われても水筒は持っていなかったし、どういう風に与えてやったらいいか解からなかった。

ケガや火傷をしていても歩ける元気のある人は、水を求めて福島川に向かってゾロゾロと列を成して降りていく。でも川に入って水を手ですくって飲んだら倒れて動かなくなる人、または力尽きて川に流されていく人なども居た。

そんな悲惨な被災者から目をそらし、私は爆風でダメージを受けた鉄筋コンクリート造の西大橋を足早に渡った。

次に山手川にかかっていた小さな木造の旭橋を渡って、己斐駅に到着したところでザーッと激しい雨が降ってきた。
「うわぁ…どしゃぶりの雨じゃ!」

降り出したのは三菱重工機械製作所の工場を出発してから三十分ほどが経った頃で、十時過ぎだったように思う。

この雨が原爆投下後に降る有毒な放射性物質を含んだ『黒い雨』だったようだが、当時の私にその認識はなかった。雨粒の色が黒いとは思わなかったし、重症の被災者の中には喉の渇きに堪えかねて両手に雨を集めて飲む人もいた。

私は雨を飲まなかったが集中豪雨のような凄まじい降り方だったので、頭から雨を被って全身が濡れてしまった。
「はぁ…かなわんのぉ。服がビショ濡れじゃ」
「おーい、走るで!己斐駅ん中で、雨宿りしよぉーや」

しばらく雨宿りがてら己斐駅の構内で汽車を待っていたが、雨が止んでも一向に汽車が来る様子はなかった。そこで私達三人は線路沿いを歩いていき、山手川に掛かっている鉄橋を渡って横川駅へ行くことにした。

この爆心地から約二キロ地点にある鉄橋を渡る際、線路の両側に茂る木々が放射状に焦げていたのを覚えている。木は爆弾から出た熱線で燃えただろうか、さらに市内が真っ赤に燃えていて煙が出ているのがよく見えた。

鉄橋を渡った後で歩いた横川駅までの道には、市内から逃げて来た大勢のケガをした避難者であふれていた。

顔を火傷で腫らした人やガラスが体に刺さった人、血塗れの体にボロキレを着たような人が続々と歩いてくる。そのボロキレに見えたものは恐らく顎や手先に剥けた皮膚で、服は着ていたのかどうか確かめた記憶はない。

不謹慎な表現ではあるが、この地獄を彷徨う亡者のような被災者の群れに構っている余裕など私達にはなかった。
汽車が無くても駅に避難者は集まり、親戚や知り合いなどが居る縁故地に避難しようとしている人が多かった。

しばらく歩き続けて私達はやっと横川駅に着いたが、この駅にも汽車は通っていないと言われてしまった。乗れる汽車が無くても駅に避難者は集まり、親戚や知り合いなどが居る縁故地に避難しようとしている人が多かった。
「ふぅ、腹減った。たいぎぃ…歩きづめで疲れたのぉ」
「そうじゃのぉ…給食、食いそびれたけぇ」 

このとき非常事態であったのに中田くんの腹は切なく鳴っていたので、たぶん昼食時間であったろうと思う。

私は同意こそしてみたものの食欲はなくて、何か食べたいと訴える中田くんの逞しさに内心で驚きつつも呆れた。横川駅の売店は閉まっていて、もし開いていても政府発行の『旅行用外食券』が無ければ何も買えなかった。
「おい…じっとしとっても意味ないけぇ、次に行こうや」

疲れて座り込んでいた私と中田くんの肩を叩いた槙田くんに促され、また線路沿いに歩いて広島駅を目指した。

だが広島駅に近づくにつれて空気が熱くなり、何かが燃えているのか煙たい臭いが強く鼻を刺激してきた。

太田川に掛かる鉄橋を渡ろうとした際、ボロボロボソボソボロボソボソとあっちこちで何か音がするのに気づいた。線路軌道上にある長い鉄レールの下に平行に敷かれた枕木が、ボロボロボソボソと炎を上げて燃えているのだ。
「うわぁ…燃えとる。こりゃあ、とても渡れそうにないで」
「ほぉじゃの。なんで、燃えとるんじゃろ?」
「しょーがないけぇ、横川駅に引き返そうや」

私達は仕方なく元来た道を引き返していったが、当時の横川駅周辺はまだ田舎だったので田畑や竹やぶが多くあった。

ある竹やぶの中に建っていた一軒の藁屋根の家が、何でか火事になっていてゴウゴウと燃えているのを見つけた。近くに寄っていくと温かくて、そこで自分達が雨に降られてビショビショに濡れたままで寒かったことに気づいた。

そこで休憩を取ることにし、皆で国民服の上着を脱いで燃え盛っている民家の火に向けて干したのを覚えている。

数十分くらい経った頃に、半乾き程度の状態になった上着をシャツの上に羽織ってから私は二人に声を掛けた。
「いつまでもボーっとしとる訳にもいかんけぇ、帰り道を探そうで」
「おう。でも横川駅は汽車が通っとらんし、広島駅にも行けんじゃろ」
「そぉじゃけど…どっかの駅で、山陽線に乗らんと帰れんぞ」
「じゃったら、向洋か海田まで歩くか?道解かるんか?」

横川駅に戻っても汽車は来ないし、広島駅に行こうにも川を渡る唯一の道である鉄橋は燃えていて通れない。そんな八方ふさがりの状況下で中田くんに詰め寄られて、私はすっかり困って考え込んでしまった。
「うーん」

現在の東広島である賀茂郡にあった自宅の最寄り駅の西条から、広島駅まで山陽本線の汽車に乗ったことはある。当時の旅客汽車はすべてが各駅停車だったから、広島駅に着くまでに停まる途中の駅の名前は覚えていた。

しかし広島市内については、観音町にあった二中まで路面電車で通学していた範囲の道しか解からない。現在は燃えていて通れない市内中心部を避けつつ、向洋や海田に至るまでの道など私に解かる筈もなかった。

私と中田くんが困って途方に暮れていると、今まで黙っていた槙田くんが口を挟んだ。
「のぉ、ワシに任せてくれんか。地図が無ぉても大丈夫じゃ、道は『ここ』に入っとるけぇ」

槙田くんが『ここ』と自分の頭を指差して自信たっぷりに言うので、私と中田くんは彼に従うことにした。

そこからずっと槙田くんの後に付いて今の祇園の方へ行く道、バスの通る太い道路をずっと北上して歩いた。すると広島市東区の牛田に着いて、支流に枝分かれする前の広い太田川の対岸に水源地がある場所へ出た。

牛田水源地は爆心地から二.八キロにあり、広島市の水道に使用された給水施設で送水ポンプ室の建物があった。その建物がある前に流れる太田川は広くて、対岸へ渡るには渡船業の船頭さんが手漕ぎ式の小さな舟に乗せてくれる。

行列に並んで渡し船の順番を待っていたら、何処からか現れた小母さんが「学生さーん」と私達に声をかけてきた。小母さんは市の郊外から歩いて来たのか身綺麗で、私は自分達以外でケガをしていない人を久しぶりに見た。
「なんですか?」
「あんたら、二中の学生さんじゃろ?何年生?」
「はい。四年生です」
「私は一年生三学級〇〇の母です。息子は今朝、動員作業に行ったんじゃけどね…あんたら、どこに居るか知らん?」

たぶん小母さんは私達の被る黒い学生帽の正面にあった校章を見て、二中の生徒であると解かったのだろう。

でも当時は連絡網がないから学徒動員先は学年が違うと解からないし、誰がどこに行ったのか知るよしもない。しかしながら母親らしい小母さんは我が子が心配で、二中の先輩である私達に縋るように尋ねているのだ。

私達は何も有益な情報を返してあげられそうにないので、罪悪感のようなものを覚えて顔を見合わせた。
「えー、えっと…寮住まいの奴が言うとったような…」 
「そうじゃ!一年生は、市内中心部で建物疎開に出とるんです」

寮生で一年生と同室だった同級生が言っていた事を、いち早く思い出した中田君がそう苦し紛れに答えた。それに続けて地理好きの槙田くんが、一年生が作業動員していた場所について詳しい情報を付け加える。
「たしか鶴見橋を渡ってから西へ、白神(しらがみ)神社を中心に防火帯を造っとる筈です」

『防火帯』とは空襲で火事になったとき、火の手が回っても消火できるように造った緊急用の道路のことである。

空襲が来る前にあらかじめ燃えやすい木造の家を倒して『防火帯』を造るのが、建物疎開の主たる目的だった。具体的には空き家の柱へ縄を縛り付けて大勢で引き倒した後で、屋根瓦や畳などを片づけて広い道路を造るのだ。

その努力がまったく報われなかったのは、市内中心部の全域が炎に包まれている現状から見て明らかだった。
「そう。教えてくれて、ありがとね」
「でも見てください。市内は大火事なっとるんで、今は入れんと思います」

この牛田浄水場付近は爆心地から約二.八キロ離れているが、私が指差した市街地の空は赤く染まっていた。いつもなら背の高い建物に遮られて見えない筈の市内が、焦土と化して真っ赤に燃えている光景がよく見えた。
「あぁ…たしかに、こりゃ市内に入るんは無理じゃね」

小母さんは明らかに気落ちしていたが、私達に軽く会釈して何処かへ行ってしまった。

ようやく順番が来て私達は渡し舟へ特別に無料で乗せて貰い、太田川の対岸にある水源地のところへ渡った。小舟を降りたら、また道案内をしてくれる槙田くんに従って私達は太田川に沿って北へ進んだ。ずっと根気強く歩いて行くと、芸備線の戸坂(へさか)駅に着いた。

戸坂には市内から逃れた大勢の一般市民の被災者が居て、沢山の兵隊も集まって行き倒れになっていた。爆心地からは四キロ以上も離れていたが、当時の戸坂村には陸軍病院があったから被災者が集まっていたらしい。

一般市民も兵隊も皆一様に酷いケガをしていて、まったくケガをしていないのは私達三人だけのようであった。それに気づいた一人の兵隊さんが私達をじっと見つめつつ、こちらに歩いて近寄りながら呼びかけてきた。
「あんたら三人…中学生か、ちぃと助けてくれんか?」

私達はまだ十六才の子供でケガ人を助けられる能力はなく、また兵隊は大嫌いであった。

中学校に派遣されていた偉そうな軍人教官、役に立たないのに厳しい白兵戦訓練が脳裏によみがえってくる。この兵隊も軍人教官と同じように、きっと威圧的に怒鳴って私達に理不尽な命令をしてくるに違いない。

逃げ出したくなって思わず後ずさったが、兵隊は諦めずに「待て」と呼びかけ続けてくる。

兵隊はケガをして脚を悪くしていたのか、軍刀を杖のように使ってゆっくりとこちらに向かって歩いていた。だから私達はどうにかして兵隊から逃げようじゃないかと、三人で目配せして小声で作戦を立て始めた。
「どうする?」
「ワシが見計らって合図するけぇ、逃げようで」
「よっしゃ」
「わかったで」

槙田くんの提案にうなずきつつジリジリと少しずつ後ずさりしていき、さりげなく兵隊から距離を取っていく。

ようやく被災者の人混みに紛れて兵隊の姿が見えにくくなったとき、槙田くんが「走れ!」と小声で叫んだ。それを合図にして三人ほぼ同時にバッと素早く身を翻して、ダァァーッと一気に走って逃げてしまった。

今でも原爆投下の日に逃げ帰ったことを思い出すと、一番に浮かぶのがこの兵隊から逃げ出したときの状況だ。

あの道路端にいっぱいケガ人が倒れている状況で、もし兵隊を助ける手伝いをしていたらキリがなかったろう。罪悪感はあるが自分達の身が可愛いし、凄惨なケガを負った被災者だらけの道端で野宿したくなかった。

三人とも地獄のような場所から一刻も早く家に帰りたかったから、逃げる選択をしたのは仕方ないと思う。

必死に足を動かしてダァァーッと坂道を駆けあがり、しばらく息を切らせて苦しくなってしまうまで走った。カンカン照りで暑い日差しの下を走ったものだから、汗がドッと噴き出て心臓がバクバクと早鐘を打った。

木々が茂る薄暗い山道で三人だけだと気づいてから、ホッとして顔を見合わせて笑った。

それから槙田くんがふいに歩きながら軍歌を歌い出したので、私と中田くんも一緒に声を揃えて歌った。歌った曲は『海ゆかば』『同期の桜』『月月火水木金金』などで、歌うと疲れていても不思議と脚が動いた。

今度はずっと芸備線沿いに南下して牛田山を越えたら、当時のキリンビール広島工場あたりに着いた。現在このキリンビール広島工場は解体され、イオンモール府中ソレイユというショッピングモールになっている。

私達は大きなキリンビール広島工場の後ろを通って、今度は山陽本線の線路沿いに向洋駅まで歩いていった。そして向洋駅で会った駅員に、次の海田駅まで行ったら、山陽本線が折り返し運転をしていると聞いた。

海田駅まで行ってみたら、顔見知りの西条方面から通学時いっしょに来ていた中学生がたくさん居た。
「アンタも無事か!元気じゃったんか?」
「おう!アンタも元気そうじゃの、木本くん」

彼らとの再会を喜び合って肩を小突いて話をしながら、ようやく家に帰れるんだという実感がわいてきた。

顔見知りの中学生以外には一般の人や学生なども汽車に乗るの待っていて、海田駅の待合室は人であふれていた。だが困ったことに汽車はなかなか来ず、来ても治療が必要な負傷者優先で元気な人は乗せてもらえない。

何時間くらい待ったか昼過ぎから夕方になって、海田駅で夜を明かすことを覚悟した。
「おおッ!アンタ、二年の〇〇じゃろ!」

そのとき槙田くんがハッと気づいたように、ケガ人の列に並んでいた痩せっぽちの少年の肩を掴んだ。声をかけられた少年は二中の校章がついたソフト帽を被り、火傷をした顔を傾けてポカンと口を開いた。
「え…あの、誰?」
「槙田じゃ!アンタの近所、志和に住んどる四年の槙田」
「あ、志和の…槙田って…えッ?本当に、槙田先輩ですか?」

知り合いである槙田くんに出会えて嬉しかったのか、少年は上ずった高い声を上げた。

その顔の左半分は痛々しくも火傷のせいで肌が赤くなり、大豆粒くらいの水疱がプツプツと無数にあった。水泡は唇や目蓋の上にもできていて、ふつうに目を開けて声を出すという動作だけでも辛そうに見えた。

後で知ったことだが、被爆したとき二中の二年生達は広島駅付近で中山町方面に向けて行進していたらしい。広島駅は爆心地から二キロほど、外に居た人は原爆から出た放射線の熱線によって火傷を負ったのだ。

槙田くんは少年の横に寄り添っていき、自然な感じで少年と共に列に並んでから私と中田くんに手招きした。
「ひどい火傷じゃのぉ…顔が腫れて、目は見えとるんか?痛むか?」
「目…見えるけんど、ぼやけます。痛い?より…なんか熱い。熱いけど、寒い…です」

横から心配そうに声をかけた槙田くんの問いに、少年はしきりに首をかしげて頼りのない返事をする。おそらくケガのせいで熱が出ていたのだろう、立っていてもフラフラで体が傾いたところを支えてやった。
「あ…先輩、その…すいません」 
「大丈夫か?支えちゃるけぇ、すがって良いぞ」
「ワシらが志和に、アンタを連れて帰っちゃるけんのぉ」
「荷物も持っちゃるけぇ、かしてみぃ」

私と槙田くんがフラつく少年の体を左右から挟んで支えてやり、中田くんが荷物を持ってやった。それから同じ方面に帰るケガ人の付き添いということで、私達三人は汽車へうまい具合に乗れたのだ。

見知らぬ道を迷わずに案内をしてくれた槙田くん、ここでも彼の要領の良さと行動力に救われてしまった。そして普段はバスと路面電車に山陽本線の汽車を乗り継いで帰宅していたのが、いかに楽ちんだったか知った。

いつもより鈍足で走る超満員の汽車に揺られ、八本松駅で下車した槙田くんと二年生の少年を見送った。

西条の自宅にたどり着いたのは夕陽が落ちる直前の頃、体感的に午後七時くらいだ。慣れない長距離を歩き回って疲れ切っていた私を、父母は共に喜んで温かく出迎えてくれた。

なんと広島市から四十キロ離れた西条でも、原爆投下の瞬間には眩い光に辺りが包まれて数秒後にドーンと大きな音が聞こえたらしい。さらに昼過ぎには沢山のケガ人が国鉄に乗って来たので、新型爆弾が落とされたと噂し合っていたそうだ。

そんな状況でケガ一つない息子の私が帰ったのだから、父母はどんなに嬉しかったろう。

私の昭和二十年八月六日のヒロシマでの被爆体験、長かった夏の一日が終わった。

市内から逃げ帰った数日後に病院で診て貰ったが、私は幸いにケガもなく原爆症に苦しむことも無かった。

しかし広島市で被爆して自宅に帰ってから終戦に至るまでの一週間と少し、その間の日々は何も覚えていない。

動員作業も通学もないので数年ぶりに夏休みを貰ったようなものだったが、私は何もする気がしなかった。体の疲れが取れないので死んだように寝て、起きたら畑のトマトを食うというダラけた生活をした。

ケガは無くとも精神的な苦痛があったのだろう、少年期の私にとっては受け止めきれない衝撃だったのだ。

そして八月十五日、終戦の日になった。正午に公民館に行き、ラジオから放送された天皇陛下のお言葉を近所の人々と聴いた。五分ほど難しい漢語体でのお言葉で話されたが、意味は解かった。主に天皇陛下がどうして終戦を望まれたのか語られた内容に、軍国少年であった自分は強いショックを受けた。

まだ戦争が終わったという実感がなく、嬉しいよりも鬼畜米英に侵略されるのではないかと不安だった。しばらく感情的になって涙がこぼれて止まらず、筆舌に尽くしがたい心を切り裂いて痛めつけられた経験であった。
 
戦後の学生生活と平和への祈り 
 
私が通った県立広島第二中学校は、現在の県立広島観音高等学校の前身となる学校だ。

戦時中に校舎が建っていた場所は広島市西区観音本町二丁目で、そこは爆心地から約一.八キロという近距離だった。ゆえに原爆投下によって校舎は倒壊全焼してしまい、職員七名と生徒三百四十三名が犠牲になった。

そのうち全滅した一年生は三百二十一人で、引率教員四人を含めて被爆から数日のうちに亡くなった。牛田の水源地付近で私達に話しかけてきた小母さん、彼女の一年生だった息子も亡くなったのだ。

学校が再開された日付は正確には覚えていないが、あの戦後直後にやって来た巨大な枕崎台風の直後だった。

猛烈な風と雨を引き連れた枕崎台風が鹿児島県に上陸したのは九月十七日で、広島県を翌日の十八日に通過した。特に呉市の被害が大きかったらしいが、西条でも大雨で山が崩れて土石流が発生して十三人が亡くなった。

広島市内はこの台風による風雨で原爆の放射性物質が洗い流され、放射線量が大きく下がったらしい。また私達が逃げる際に渡った西大橋は、この台風が起こした大水によって破壊されて流されたという。

枕崎台風が過ぎ去って数日後、私は二中から通学せよという電報連絡が来たので西条駅から徒歩で出発した。というのも台風後の復旧作業がまだ終わっておらず、汽車が不通状態であったからだ。

山崩れで土砂が流されて枕木が宙釣りになっている線路上を、私は広島駅に向かって顔なじみの生徒達と歩いた。

八本松駅で偶然にも槙田くんと一緒になり、おしゃべりな彼と歩くにつれて私は楽しくなってきた。相変わらず要領の良い槙田くんは、自宅から乗ってきた自転車を線路でも押して足取りも調子が良かった。

いつもは汽車で通う線路を歩くなんて、めったに出来ない経験で正直ワクワクしたが道のりは長すぎた。

次第に疲れて足取りが乱れてきていた私の横で、ふいに槙田くんが歩きながら元気に歌い出した。あの兵隊から逃げ帰っていたときに歌ったような軍歌ではない、なんとも懐かしい二中の校歌だった。

促すようにチラチラと目配せしてくるので、少し恥ずかしかったが私も一緒に声を出して歌い出した。やはり歌うと疲れていても不思議と脚が動いて、いつの間にか顔見知りの二中の生徒達と校歌を大合唱していた。
 
九月の終わりから二中は可部・廿日市・海田の三ヶ所に分教場で授業再開、戦後一年三ヶ月後には新校舎に移転した。移転先は現在の観音高等学校の所在地である南観音町で、元の場所には広島市立観音小学校が建っている。

私達の学年は卒業するまで分教場で授業を受けていたが、校舎はバラックという粗末な建物だった。

バラック校舎はトタンの屋根で壁は有り合わせの焼け跡から拾ってきたような木材、さらに窓にはガラスが無かった。引き戸式で木の窓枠はあってもガラスの代わりに油紙、ハエ取り紙のような色をした紙が貼られていた。

油紙は紙なので雨に弱くて破れやすく、でも障子のように破れてもすぐ修繕できるのが利点だった。また油紙はガラスより通気性が良くて隙間風が入ってくるので、夏は良いが冬は寒くて堪らなかった。

運動場で死体を焼く臭いも容赦なく入り込み、授業中に吐き気を催したこともあった。
 
二中にあった設備で一番に思い出されるのは、全長五十メートルで幅が十五メートルあった立派なプールだ。県内では初の日本水泳連盟から公認されたプールで、数多くの名選手を生み出して広島の水泳界を支えた。

『フジヤマのトビウオ』と呼ばれ、終戦後に次々と世界記録を連発していた古橋廣之進選手をご存知だろうか。日本水泳界のヒーローであった古橋選手が広島を訪れた際、このプールで泳いで子ども達に水泳を教えた。

私より一学年下の者が古橋選手に憧れて、昭和三十九年の東京オリンピックに出場した有名な水泳選手が出た。

プールは観音小学校になっても使われ、昭和六十三年まで広島市主催の児童水泳記録会の会場としても使用された。被爆五十周年を迎えた平成七年に老朽化で惜しくも取り壊しが決まり、六十二年間の歴史に幕を下ろした。
 
最後に私が学徒動員で働いた三菱重工業広島機械製作所、その工場内の被爆者について書いておく。

被爆直後に点呼をとったときはケガ人が数人だけだったが、後で死者が三人出ていたことを知った。工場内での被爆が直接の死亡原因ではなく、避難や帰宅の途中に負ったケガや体内被曝のせいらしい。

また爆心地から一キロの雑魚場町で、建物疎開作業に出ていた三菱の従業員ら四十人が亡くなった。

雑魚場町から直線上にある中島新町には、三百二十一人の二中の一年生と引率教員四人が同じく居た。中島新町は爆心地から僅か五百メートルの爆心地直下で、付近を流れる本川の土手前の道で朝礼中に被爆した。

その場所は現在、平和記念公園の入り口近くにあたり『広島県立第二中学校慰霊碑』が建てられている。

彼らが建物疎開作業で造った防火帯の道は、白神(しらがみ)神社を中心とする南北百メートル、東西五キロメートルであった。

そこに居た人々は広島市国民義勇隊が二万二千五百人、郡部の国民義勇隊七千人、動員学徒は九千百十人ほど。主な作業場所は小網町・鶴見町・雑魚場町・水主町付近の四か所で、この四地域に約一万八千人が居た。

いずれも爆心地付近であり、ほとんどの建物疎開に従事した人々が原爆直撃を受けて死亡しただろう。

このような凄惨な数の被害者を出して造られた防火帯の道は、現在『平和大通り』になっている。おびただしい数の原爆慰霊碑と、日本国内ならびに世界中の国々から寄贈された樹木がある美しい道路だ。

毎年年末には華やかなライトアップ『ひろしまドリミネーション』が開催され、平和そのものである。もし観光で訪れたなら、どうか脚を止めて慰霊碑や被爆建物・樹木などの説明板を読んでみて欲しい。

亡くなった方々のご冥福を祈り、二度と戦争が起こらず原子爆弾も使われることがない平和な世界を望む。
                                             おわり 
 
この被爆体験手記は、生前の木本茂氏にインタビューをさせていただいた音声データを元に藤原聖子が文章を製作いたしました。 

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