一 形見を残して
「学校へ集合せよ」待ちに待った通知が来たのは、昭和二十年六月も末のことであった。この年、四月五日づけで「広島高等師範学校に入学を許可する」という連絡はあったが、悪化をたどる戦局の中、学校への召集は延び延びになっていたのだった。入学式も行なわれるとのことだった。
私は母や祖母に手伝って貰い、広島行きの用意にかかった。極度な物資不足の中で、入寮の支度は大変なことであった。衣類・布団の類は、私自身が綿の木の種をまき、自分で収穫したものを、祖母がつむぎ、織ってくれたものだった。母は乏しい家計を遣り繰りし、寮生活に困らないだけのものを整えてくれ、私は鰻を釣って儲けたお金で、欲しかった古典の参考書類を買い集め、淳風寮あてにチッキで送った。
故郷、愛知県海部郡を出発したのは、七月二十日過ぎのよく晴れた日だった。この時、私には一つの覚悟が出来ていた。それは、一度家を離れたなら、再び、生きて故郷の土を踏むことは出来まい。お国の為ならそれも望むところだ。といったものだった。そのまゝ学徒動員され、戦地へ行くということも十分考えられたのである。父母はもちろん、まだ幼なかった弟妹にも、そのことはおぼろげに分っていたようであった。それまで、名古屋への空襲は熾烈を極め、その大半は灰燼に帰し、当時は周辺都市が連日のように、米空軍による焼夷弾攻撃の餌食になっていた。
私は、出発に当って墓参をすませ、母に散髪を頼み、その髪のいくらかを清書半紙に包んで、机の引き出しの奥に置いた。大げさ過ぎるようにも思われ、家族の誰にも言わなかったが、「形見」のつもりであった。
海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ。
出征兵士でもない。学徒動員でもない。しかし、故郷を離れ遊学するものには、それなりの覚悟が必要だと思った。米軍は、既に沖縄を占領してしまっていたのである。家族は一キロほど歩き、途中まで送ってくれた。今生の別離となるかもしれない見送りである。
この日は前夜から、三キロほど離れた桑名市が、B29の大空襲を受けていた。焼夷弾、それにまじる爆弾攻撃の前には、「七里の渡し」で有名なこの街もひとたまりなく、朝から盛んに猛煙を吹き上げ、焼けただれていた。この日、桑名市は全滅した。その煙を左手に見て、故郷を後にしたのだった。広島に着くまでに、まる一日かかったような気がする。思えば、この頃が空襲の最も激しい時期であったかもしれない。
汽車には名古屋駅から乗ったが、周囲は一面の焼け野原で、駅だけが取り残されていた。金のしゃちほこの名古屋城も既に焼け落ち、途中の一宮市・岐阜市も焼け果てていた。いや、街は無くなっていたといった方がよかったかもしれない。特に焼夷弾による絨毯爆撃を受けた岐阜市街を通り抜けた時は、車窓何も過ぎるものはなく、見渡す限り瓦礫の原であった。そんな中を、私の乗った汽車は一路広島へと向った。途中、何度も空襲に出合い、米軍機の機銃掃射も受けた。その度に列車は止まり、時には車外にも逃げ、空襲で燃え上る家々を車窓に眺めながらの旅だった。京都を除いた大都市はほとんどが傷ついていた。そうした中でも、私の心は比較的平静を保ち、不安を持たなかった。この時は、「死」をロマンチックに考え、それほど恐いとは思っていなかった。
広島。軍都であるここは、不思議に一度も空襲を受けず、市街はそのまま残り、折から家屋の強制疎開の最中で、中学の低学年の生徒を駆り出し、盛んに家の撤去作業を行なっていた。やがてくるだろう大空襲に備えるためである。それでも、激しい空襲を何回も体験して来た私にとって、ここは別天地のようにも思われ、淳風寮に落ち着き、しばし平和な生活を味わったものであった。
二 その時
八月六日は東洋工業の入社式であった。午前七時頃校庭に整列し、工場に向かうことになった。この時、私は腹痛に悩まされていた。入寮以来、豆かすとジャガいもが主食の食事に、すっかり腹を壊していたのだった。ふと、「今日は休もうか」と思った。しかし、「お国のため」休んでは申し訳ないと考え、勤労動員先きへ出向くことにした。中学の同窓であるH君が「体の調子が悪いので日赤病院へ行く」と言った。
「入社式だから出ろよ。病院は別な日にしたら…」
と声を掛け、広島駅から汽車で四キロほど東の向洋に行き、会社の講堂に入った。
今もはっきり覚えている。最初は鶴田先生の講話であった。この先生は「人間の尊厳」について語られ、人の顔は絶対に殴ってはならないと力説された。殴る蹴る等の行為が日常茶飯事であったこの時代、別世界の話を聞くようだったが、感銘は深かった。つづいて社長のご挨拶。この方が演壇に登ろうとして、下手からトットットッと中央に進まれた時だった。突然、強烈な閃光が渦を巻いた。フラッシュを何万発たいたらあのような光になるのか。「光る」というよりも闇を引っ張った感じだった。目がくらんだ。次の瞬間に轟音。右側の窓から爆風が襲った。
「やられた!」
とっさに目と耳を手で押さえて、腰掛けの下に潜って伏せた。空襲体験のあった私は、「次が来るぞ」と思ったが、あとの攻撃はなかった。気がつくと、窓ガラスの破片が砂のようになって床の表面を覆い、窓側から二列めの席にいた私は、頭にもガラスの粉を一杯かぶっていた。講堂下手の舞台のすみでは、犬丸先生が顔に怪我をし、それをハンカチでおさえられ、時計が八時十五分を指して止ったのが目に入った。
「タイヒー」
「タイヒー」
廊下で叫ぶ避難命令。私達は一斉に二階の階段を駆け降りた。何気なく左手を見ると、遥か広島の上空と覚しき所に猛煙が吹き上がっている。普通の煙ではなかった。その煙には力があり、巨大な柱となって、天空を突き抜くかのように立ち昇っていた。渦まき、光を帯び、赤い炎さえ伴なって、あとからあとから噴出する。その激しさに、一瞬ただならぬものを感じた。「弾薬庫の爆発か?」とも思った。空襲警報も解除になっていたので、ドイツの開発したV1号・V2号が米軍の手に渡り、太平洋上遥かな所から広島に発射され、弾薬庫に命中したのではないか。第二、第三の攻撃がきっと来る。「今度はこの工場かもしれないぞ?」そんな想像が頭のすみを過った。
続く攻撃はなかった。防空壕から出て改めて工場を見ると、窓ガラスは一枚として満足なものはなく、枠だけが残り、怪我人も相当出たようであった。私達は工場前の広場に集合を命ぜられ、しばらく待機した。ここは、大州街道に面しており、やがて不思議な情景を見ることになった。
どれほどの時間が経過したのだろうか。広島方面から逃げて来る人がひっきりなしに街道を埋め、人の群れは東へ東へと流れて行く。始めは額や頬から血を流しながらも、衣服はわりに整った人達だった。時がたつにつれ、顔は薄黒くすすけ、水ぶくれが出来、やがて、赤く焼けただれ、ボロボロの服をまとった集団に変っていった。どの人も無口で、素足のまま逃がれて行くのである。不思議であった。
この頃、広島から情報が入ったようである。「高師・文理大が危険!救助に向かえ」とのことで、この日、入社式に参加した一年生全員は、直ちに出動することになった。大州街道を通り、段原―霞町―旭町―広陵前へと道を取ったようだった。広島駅へ向かう道は途中で遮断されており、迂回させられた。この時の指揮官は犬丸先生と戸田豊三郎先生であった。
市内に入るに従い惨状はいよいよ激しくなった。空襲の被害とは違う。どうしてこんなことになったのか、理解も出来ないままに行く。この頃、上空にはきのこ雲がその形を整えていた。まだ見たこともない、なんとも不思議な雲であった。途中、学校からご真影を奉戴して避難して来た人々に会う。ほっとする間もなく又、空襲警報である。私達は蓮田の中に身を潜め、解除を待った。比治山の東側を抜ける頃、街の凄惨なさまが目を覆った。
千田公園(爆心地から二・五キロの地点)で昼弁当を食べながら大休止をする。ここでは多くの被災者に会った。上半身素っ裸の人がいる。その背中にはガラス片がびっしり突き刺さっている。頭髪をカッパのように切り揃えた人がいる。広島に来て間がなかった私は、
「あれー。妙な髪型の人がいる」
と驚いたが、そうではなかった。帽子をかぶっていた部分だけは、髪が焼けないで残ったとのことだった。
被爆した人々は一ように言った。ピカーと光り、飴の煮えたぎった湯のようなものが全身にねばりつき、「アツー」と思った瞬間、爆風に吹き飛ばされた。あまりの熱さにのたうち回るが、回りは真っ暗な闇だった。ようやく視界が開く頃、身に纏っていたものはパンツとバンド一本位であったとか。こんな話を聞いている時、高師や文理大を脱出することの出来た学生が、救助を求めてやって来た。第一号の収容者となったのが横田輝俊君、続いて集まる学生を収容しながら、ここを連絡本部にするという決定があった。
御幸橋なら渡ることが出来ると分り、午後一時頃出発をした。この橋の西側の袂は救助隊の前進基地となり、かなり混雑していたが、私達は隊伍を組み、高師の正面玄関に到着した。途中、馬がはらわたを出し、大きくふくれあがって、焼け死んでいるのを見た。文理大・高師の木造の部分は、完全に焼失していた。時に鉄筋コンクリートの図書館が、窓から真紅の炎を出し、燃えさかっていた。今朝まで住んでいた淳風寮は今は影もかたちもなく、おきが三十センチぐらいの層となり、カッカッとおこっているだけだった。苦労して買い集め、宝もの同様にして持って来た参考書類も、祖母や母が丹精をこめて整えてくれた衣類も、すべて烏有に帰した後だった。みんなは、しばし茫然自失。手のつけようもないまま、一先ず御幸橋の方へと引き返すことになった。
三 軍の指揮下に
比治山の東側(原爆の裏側になった)を通っている頃、民家は瓦がくずれたり、軒が傾いた程度で、それ程にも思わなかったが、御幸橋の袂に立つと、被害はその全貌を現わして来た。橋の北側のコンクリート製の欄干は橋上に倒れ、南側のそれは川底に落ち、橋はまだ熱かった。靴底を通して感じた熱さは今も忘れられない。運ばれて来る遺体、負傷者はひきもきらず、ここから軍隊のトラックで宇品方面に連れて行かれるとのことだった。木造の家屋は全て燃え尽きて、余燼がいたる所にくすぶっていた。ふと気がつくと、全身まっ黒にすすけた四、五歳の坊やがヨロヨロと歩き出し、見えない目に母を探し呼んでいた。すぐ軍のトラックに収容されていったが、この子の姿は、今も忘れることが出来ない。ここで
「軍の指揮下に入り、市民の救助にあたれ」
という命令を受けた。新一年生の我々はまだお互いの顔も名前も知らぬまま、高師の一年であるということだけを絆に、五、六人で班を編成し、市内に散った。二時頃であったか、折から真夏の太陽が照りつけているはずなのに、この日は不思議に暑いとは思わなかった。この頃、あの原爆特有のきのこ雲はどうなっていたであろうか。夕立のように降ったという黒い雨に会わなかったのも、幸運であった。
私は数人の友人と京橋川西側の小川(今は無くなっている)の川沿いに高師の方へ向った。すぐに大人の男の遺体を発見する。二倍にもふくれ、黒く焼けただれて「大」の字になって横たわっていた。これを軍のトラックに乗せ、又、少し歩くと、柱に頭をはさまれ、焼け死んでいる少年を見つけた。半こげの柱をこじ上げて引き出すと、柱の下敷きになっていた頭の部分だけが白かった。
どこで見つけたか、戸板を持って来るものがおり、その少年の遺体を乗せ、四人がかりで遺体収容所に運んだ。学校のグランドらしかった。どこもここも遺体の山だ。ピラミッド状に大きく山積みされ、歩くすきまもないほどだった。後で聞くと、まだ呼吸のある人まで積み上げられていったとか……。
再び小川添いに行く。川の中には、被爆後六時間は経過しているというのに、膝まで水につかり放心したように立っている大人が沢山いた。ほとんどの人がパンツだけだった。全身に火傷を負い、頭髪は燃え、手の平や手の甲の皮膚はめくれあがり、今にもはがれそうであった。
「助けてくれ!」
と挙げる手を握って引き上げようとすると、手袋を抜がせるように「スポッ」と皮が抜けて来るような気がした。やむなく道路に腹這いになり、腰に残ったバンドに手を掛け、一人ずつ引き上げて行く。
「頑張ってね!」
「頑張ってください」
声をかけながら助けた数はどれほどであったろうか。とにかくおびただしかった。これらの人々は恐らく通勤途中であったろう。突然の閃光と灼熱、続く爆風に川の中に投げこまれ、気がついたら地獄絵さながらの変りはてた自分達の姿がそこにあった。阿鼻叫喚の巷があった。そして回りは忽ち劫火に包まれて行くのである。どれ程驚いたことだろう。しかし、この時は誰もがうつろで声もなかった。
四 高橋学生課長のこと
いつか文理大の構内に入っていた。井戸に落ちて救助を求めている人を発見する。この時一諸だったのは、長縄君、愛宕君、津田君と私だった。早速中に降りて引き上げる。頬に大きな裂傷があって重態だった。この方が文理大の学生課長、高橋悦郎先生であった。戸板に乗せ、国泰寺二丁目側の道路に出て日赤病院に運んだ。右側の民家が燃え、盛んに煙や炎を吹きつけてくる。路面を這うようにして、くぐり抜けつつ走った。
日赤の玄関前は負傷者でごったがえしていた。日陰を選び、先生の横になられる場所を取って、そのまま看病を続ける。医師に応急処置を頼んだが、注射一本したのみで、傷口はそのままだった。玄関前で処置に当る医師は二、三人。看護婦四、五人であった。細長い机を並べ、薬品も少なく、赤チンばかりが目立っていた。
重傷の先生を「なんとかしたい」と思ったが、病院内はもう一杯で、入り込む余地もなく、又、火の手は病院の裏まで迫り、必死の消火作業が行なわれているとのことであった。どうにも手の尽くしようがないまま、次第に時がたって行く。「高橋先生重態」と本部に連絡を出したが、なんの応答もなかった。
先生はどんなに苦しかったことだろう。でも、「苦しい」とは一言も漏らされなかった。表情と呼吸のようすで、それと知れた。やがてたえだえに
「みなさんに、よろしく」
とのみおっしゃって、息を引きとられた。
「あっ、先生、先生!」
と叫び、
「ご遺言は!」
お尋ねしようとしたが、続く言葉もなく逝ってしまわれた。末期の水はさし上げた記憶である。ご遺体はようやく連絡の取れた本部へ丁重にお送りした。
それにしてもすごい死にざまだと思った。意識はかなりはっきりされていたので、きっと苦しかったことと思う。又、当然、ご家族への想いも多かったであろうに、ご自身のことについては何一つおっしゃることもなく、同僚の身に思いを馳せ、それを気づかいながら亡くなっていかれた。私はいいようのない感動を覚えた。
そういえば、文理大の豊田生徒主事補も大学本館の中で劫火に包まれ、「君が代」を歌いながら亡くなっていかれたとか…。耳に入ってくる先生方の死は、どなたも美しく見事だった。
注 同窓の記録によると、豊田先生は「君が代」でなく「天皇陛下万歳」の三唱をされたと書いたものが多い。私の記憶違いかも知れないと思っている。
五 日赤病院前
日赤病院(爆心地から一・五キロ)の付近は、鉄筋のビルだけ崩れずに残っていた。日赤も建物はそのまま残ったが、窓ガラスはすべてなく、内部も相当にやられたようであった。
ここの玄関前の庭は、筆舌に尽し難く、火傷・裂傷・骨折とさまざまな負傷者で埋まっていた。わけて火傷のひどさは焦熱地獄そのものであった。白い薬をつけ、狐が立った時のように、一様に手を上げている人々の群れ、顔が赤くふくれて二倍にもはれあがり、唇が二、三センチも突き出し、目もふさがってしまった素っ裸の少年。背中や腕の皮膚がたれさがり、肉がむき出しになった、いたいけな幼児達。誰も彼もが
「おじさん、みずー」
「水をちょうだい」
と寄って来る。「水をやると死ぬ」と聞いては、それも出来ない。
「水をちょうだい」
「水をちょうだい」
「水を!水を!」
むらがり寄って来るその子達の、二目と見られないかわいそうな姿。その異様さもさることながら、何よりも、水をやれないことが口惜しかった。
「おーい、佐野(私の旧姓)」という声にふりかえると、同郷のH君が立っていた。顔の半面にガラス片が一杯ささり、まだ治療も受けずにいた。工場へ来ていたものと思っていたが、彼はこの日、日赤に来ていたのだ。すぐ「お医者さんを」と思ったが順番が来ない。やむなく、私が赤チンを塗りたくる。色白の彼の顔の半分は、たちまち真赤に染った。爆心地の近くにおり、これだけの軽傷ですんだことにほっとしながら、本部に連れて行って横田君に渡した。
日赤にはまだ同窓生がいるとのことであった。
「広島高師の生徒はいませんかー」
大声で叫ぶと手を上げるものがいる。正面からやられ、顔の前後の判別も定かではない。「名前は」と言うと「Oです」と答える。日赤病院へ来ようとして、その前の路上で正面から被爆したのだという。もう一足早く日赤についておればと思いつつ、
「大丈夫か」
「大丈夫だ。もっとひどい人から先に助けてやってくれ」
と、依然として廊下の壁にもたれて立っている。恐らく物も十分に見えないであろう。その気丈さに驚いたが、すぐ本部へ行くよう手配した。その時、私も名乗っておいたが、彼は恐らく覚えていまい。
日赤前はますます患者でふくれる。軽傷の人は私達で赤チンを塗ってあげる。時に皮膚のたれさがったものを、鋏で切ったりもした。少数の医師、看護婦。皆、黙々として救助に専念する。崇高な姿であった。
五時半頃であったろうか。突然私の視界がくらんだ。日射病だったと思う。仕事は沢山あり、少しの間でも休むことは申し訳なく思ったが、やむなく日陰を選んで横になった。まっ暗な視界。ぼんやりとした意識の中に、隣で母と娘の会話だけがはっきり聞えた。
「お母さん、死ぬのはいや…」
「お念仏をとなえなさい。ね、お念仏を!」
「いやー。死ぬのはいや、死ぬのは…」
「お念仏をとなえて、まいらせてもらうんですよ。ね、おねんぶつをとなえ…」
「いやよー。いや…」
娘の声は段々と細く弱くなって行く。母親は「お前は、もうとても助からない」と娘に覚悟をうながし、ただ「なむあみだぶつ」の称名を唱え、「迷わず成仏させてもらうように」と繰り返し言い聞かせていた。そして、「なまんだぶ、なまんだぶ」「なまんだぶつ、なまんだぶつ」
自らもお念仏を唱え、娘の「極楽往生」を、ひたすら願うのであった。
どんな怪我をしていたのであろうか。視界はかすんでいて確かめるすべもなかったが、世の常でない悲痛な会話に、私の意識もようやく戻って来た。
ほっとする間もなく、大腿骨を折った五十才ぐらいの男の人が、「介抱してくれ」としきりにせがんだ。
長かった八月六日の日もようやく暮れそめ、私の回りには同級生は誰もいなかった。引き上げ命令が下っていたようである。西も東も分らない土地だ。迷子になったら大変だど、急いで本隊の後を追う。途中、御幸橋から暮れなずむ瀬戸内海を眺め、端正な似島の姿が目に入った時、なぜか涙がこみ上げ、とめどなく流れた。
「ああ 劫火。どうして…」
罪もない市民を、誰がこのような責め苦に合わせるのか。胸の中につき上げてくる怒りはあったが、言葉にはならず、涙ばかり流れるのであった。一日中、耐え続けて来た涙だった。いくら泣いても恥かしくないと思った。それは、やがてくる敗戦の予感の涙でもあったような気がする。
この時、似島には多くの負傷者が集められ、地獄の苦しみをなめていたそうである。それは後になって知ったことであった。
注 似島は安芸小富士とも呼ばれ、富士山の形をした美しい島であった。二年後広島に出て、御幸橋の袂に下宿した私は、寂しくなるといつもこの島を眺め、郷愁と青春の感傷をなぐさめたものだった。今なおなつかしい島である。
六 防空壕の中で
千田公園についた時、本隊は東洋工業へ引き揚げたあとで、遅れたものは、重傷者の看病をすることになった。ここでは皆、防空壕の中に収容されていた。私が担当した壕の中には二人の患者がいた。ともに高師の一年生。「国漢」の生徒ではなかった。一人は大腿骨骨折、もう一人は正面からの被爆であった。手さぐりで京橋川の水を汲んで来る。川面は暗く何も見えないが、昼間だったら、水に浮かんで流れる無数の死体を見ただろう。
手探りしながら
「どう、苦しくないっ!」
「うん、大丈夫だ」
「大丈夫だから、君も早く休んで…」
二人とも口を揃えて答える。「どんなに苦しかったろう」と思う。それにしても、高師の生徒達は誰も弱音を吐かなかった。そして相手を思いやった。これには感心した。朝まで水で冷やしてあげようと思いつつ、昼間の疲れで、ついうとうととしてしまった。翌七日の朝、壕の中で目覚める。折からさし込む光の中で、二人の怪我の様子が分った。火傷をしている方はひどかった。顔はめちゃくちゃで、これ又、前後の区別もつかない。壕をとび出して、班長に報告した。
「まだ生きているか!」
と言う。これには驚き腹が立った。班長達は「一晩持つだろうか」と心配していたようである。しかし多くの怪我人の対応に忙がしく、それさえ私に話している暇が無かったかも知れない。でも、「話しておいてくれれば、もっと丁寧に看病してやれたのに…」とつい寝込んでしまったことが悔まれた。後日談になるが、この二人は共に助かっていた。敗戦後、乃美尾の校舎で再会した時、この夜の礼をいわれ、生命のあったことを喜びあった。しかし、その顔に残る無残なケロイドや、蚕の蛹のように縮んでしまった耳を見て、心が痛んだものだった。いや、正視するに忍びなかった。広島高師の生徒で、その体に劫火のつめあとを残した者は、この他にも多かった。
七 死の世界の中で
八月七日は千田公園の本部から、日赤や高師への連絡係を勤める。全市にわたる惨状が段々とはっきりして来た。
爆弾は一発だった。落下傘につるされて落ちて来て、相生橋の上あたりで爆発したそうである。
千田公園を出て、日赤へ向けて歩く電車道の両側の歩道は、黒く焼け焦げた遺体が、下図のようにびっしりと並べられていた。それが一キロも二キロも続くのである。一面死の世界であった。音もない世界だった。その中を私だけが生きて歩く。私は線路の中央を通りながら、まっすぐ前を見て歩いた。と、中にはまだ呼吸のある人が一、二人いて
「兄さーん、水をくださーい」
と、かすれた声で呼ぶ。途方にくれたが、任務の方に重点を置いた。
「おねがいします。水を…」
「おねがいです。水を一口…」
末期の水を欲しがっていた。死ぬ前に、
「ほんの一口、恵んで…」
という。必死の哀願に胸を搔きむしられながら歩いた。
突然、B29が飛来。上空を旋回する。「又、あの爆弾が…」と思った時、「ゾー」とした。恐怖が全身を貫いた。もう一度「あれ」を落されたら、今度は私もやられる。この人達のように劫火にあぶられ、黒焦げとなり、異郷の路傍に倒れなければならない。夢中になって近くの防空壕に逃げ込んだ。生きているものは、自分一人という不安に、体の震えが止まらなかった。壕の中に一人ですくんでいた。
家を出る時、「死」をそれほど恐いと思ってもみなかった。いや、お国の為には命を惜しんではならないとさえ考えていた。それがどうだ。現実に迫る死の不安をどうしようもなかったのだ。
この夜から遺体を焼く火が全市を包んだ。その火の光で街は一晩中明るかった。そして、その死者の数は二十万とも二十五万とも伝えられた。
「鬼火が出る」
警備に出た友人達の話を聞いたのも、この夜からであった。
八 泥水をすすって
思えば八月六日は長い一日だった。必死の救助活動の中でも、ふと、空腹を感じた。夕食に貰っておいた乾パンを、ズボンのポケットから出し、バリバリとかんだ。飲みこもうとすると、どうにものどを通らない。何回やっても駄目であった。「ああ、これで私も駄目か」と思った。口が渇いているのだと気づくには時間がかかった。
水はどこにも無かった。気がつくと日赤の前で地下の水道管が破裂し、泥水となって吹き出している。それを弁当箱に掬い、しばらくかしげて持っていると、砂が片方に沈みようやく澄んで来る。そうして何杯も何杯も飲んだ。ようやく生きかえった思いに、乾パンをかじる。うまかった。同時に、渇きが本当に恐ろしいものだということもこの時知った。忘れ得ないことである。
今一つ忘れ得ないことがあった。六日、三時頃からだったと思う。市内に救助のトラックが目立った。よく見ると高師の上級生が運転しているのだった。帽子と徽章ですぐに分った。手を上げると誰も気軽に止ってくれた。食糧が欲しいと言えば、人造米のお握りや乾パンなど十分に渡してくれ、病人がいるといえば、すぐ本部まで運んでくれた。O君や高橋先生の遺体の輸送も皆先輩が快く引き受けてくれたのだった。
どこの誰かも知らない。頼りは、お互いの帽子と徽章のみであった。同窓というものはこんなにありがたいものか!広島に出て来て十余日。知人もなく、右も左も全く知らない土地。焦熱地獄のただ中にあって、何んともいえない連帯感と力強さを感じたものだった。
九 寮の中で
六日、七日とまる二日間、市民救助に明け暮れた私は、七日の夕方遅く東洋工業の寮に辿り着いた。着のみ着のままながら怪我もなく、寮の板ばりの床に横たわるだけでも嬉しかった。十分に働いたという充実感もあった。
寮では色々な情報が入って来た。あの日の爆弾は新型爆弾であったということ。それは、わずか一発で、広島の市街を全滅させてしまったということ。
御幸橋の袂から救助に散った幾つかの班は女高師の方面に行ったものがおり、酸鼻をきわめた女高師の生徒の被害、その救助活動の模様を伝えた。燃えさかる火、柱の下敷きになって身動きも出来ない女生徒。助けようとしても火の回りが早くて、どうしても救助しきれず、あたら、花の命を炎の中に見捨てて来たと、口惜し涙を流すものもいた。
六日、校内の警備隊として残った者達の報告もあった。折からの空襲警報解除の報に、校内警備の配置を解き、一列になって寮に入る時、閃光一閃。続く爆風に吹き飛ばされたとのことであった。ここにも運と不運があった。先頭の者は鉄筋の建物の中を抜けて木造の淳風寮に入り、中央の者は鉄筋の建物の中、後尾はまだグランドにいた。これが明暗を分けた。
先に寮内に入ったものは、そのまま建物の下敷となり、鉄筋校舎の中に入ったものは、爆風でコンクリートの壁にたたきつけられたが、頭に瘤を作った程度で終った。グランドの者は全身に熱線を浴び、続いて爆風にとばされ、暗黒になったグランドで熱さにのたうちまわり、呻吟したという。
二階建てのどっしりした淳風寮も、一発の爆弾に瞬時に押し潰され、火を発し、運よく屋根を破って脱出することの出来たものもあったが、何人かは梁にはさまれ、生きながらにして炎に身を焼かれて逝ったとか…。
七日、寮の焼け跡の整備に行ったグループの話によると、そこから四、五人の骨盤のみを発見したということであった。名前は忘れたが、十日程前私達の入寮を歓迎して下さった室長も、その故人の中に入っておられたとか。悲しくてやりきれないことばかりであった。
ここ東洋工業の寮の何棟かは、怪我人の収容所にも当てられていた。日赤病院で赤チンを塗ってやったH君。「自分より他の人を助けよ」と言ったO君。夜、防空壕で看病した二人もここにいると聞いて見舞った。病室はごったがえし、医療も思うにまかせず、看病人も少なかった。病室に入ると先ず物がすえるような異臭が鼻をついた。申し訳がなかったけれど、いたたまれない悪臭である。私は吐き気を催しそうになった。焼け爛れた皮膚や、肉が生きながらにくさり始めているのだという。異様にふくらんだ顔や腹。青黒く色を変えて来た火傷。そこに、はえが盛んに集まる。誰も彼も虚ろな目をしてうめき声を上げている。まさにこの世の地獄であった。あとで聞くと、この頃から傷口にうじ虫が湧き始めたということであった。
痛ましい話には際限がなかった。わけてかわいそうに思ったのは、市街の疎開作業に加わっていた中学生達であった。前にも述べたように中学の低学年がその勤労奉仕に駆り出されていたのである。その生徒達の頭上に閃光が襲い、爆風はこの少年少女達を木の葉のように吹きとばした。閃光にさらされた体は焼けただれ、皮膚はむけてたれ下った。泣くもの、叫ぶもの、一瞬にして回りは「劫火の海」と化していったという…。
十 病人を送って
八月八日の夕方、「病人を連れて帰れ」という命令が出た。私達はH君の看病をして、皆より一足先きに故郷に帰ることになった。私はまだ広島の人々の救助に心が残った。やらねばならぬことが多い気がした。しかし、救助もようやく軌道に乗り、人手はあるからよいとのことだった。付添いは臼杵君と私。手渡されたのは被災証明と当日の夕食一食分だけであった。三人は向洋から鮨詰めの汽車に乗り、三原で乗り継いだ。真っ暗なプラットホームに体を寄せ合い、しゃべることもない。
「ああ、腹がへったなあー」
思わずつぶやいた。隣の客が
「どこの被災ですか」と聞く。
「広島です」
と答えると、持っていた弁当を「食べなさい」と出してくれた。遠慮はしたが、ありがたかった。親切が身にしみた。それは純綿のお握りであった。白米だけのご飯を食べるのは何日ぶりだったか…。
途中、京都駅で下車。臼杵君の家でしばし疲れを落す。風呂に入れてもらい、食事もご馳走になって生きかえった。
京都で臼杵君に別れ、H君と名古屋駅に着いた時は、もう九日の終車が出たあとだった。ここから家までは約二十キロ。歩いてでも帰りたかったが、怪我人がいてはそうもならなかった。駅前の焼け跡で野宿をすることにした。星空は美しかったが心は沈むばかりであった。汽車の中で、ソ連参戦のニュースを聞いていたからである。「日本も終りか」と思った。「神国日本が敗けるようなことがあってたまるもんか」と否定しながらも、浮き立って来るものは何もなかった。
八月十日の朝もようやく白みはじめ始発の電車が出る頃、
「家まで送ろう」と言うと、「一人で帰る」と言うH君。この時、彼の草履の鼻緒が切れた。足の指にもガラス片が刺さっていて、はだしで歩くととても痛そうだった。私の草履を与え、私ははだしになった。はだしのままで近鉄電車に乗り弥富から四キロの道を家まで歩くのである。鉄かぶと一個を肩にかけ、まだ明けやらぬ田圃道をはだしでトボトボと行く。途中、出勤する父にパッタリと遇う。父は夢ではないかと驚き、喜んだ。
広島市全滅のニュースは全国に飛び、
「淳一は死んだ」
家族のものは皆そう思って、悲嘆にくれていたようであった。
「淳一が帰った!」
真っ先に見つけた母が叫んだ。家中がパアーと明るくなって行くように思った。よれよれの姿であっても、怪我もなく無事に帰った私を見て、みんなは、小躍りせんばかりに喜んでくれた。まだ寝床にいた弟達も、とび起きて来て私を迎えた。
「よう生きて帰れたなあー」
母は嬉し涙にくれながら、私を仏間に座らせ、灯明をあげ「お参りをせよ」と勧めるのだった。
そこには、私の写真を飾り、茶碗に盛った飯と水が供えられ、線香が一本、細い紫煙をなびかせていた。
十一 抜け毛
家に落ち着いてからも、劫火の悪夢は覚めなかった。この頃になると、「あれは原子爆弾だった」とささやかれ始めた。
下痢は一層激しくなった。病院へ行くと、被爆の模様を細かく尋ねられ、血液検査もあった。白血球の数値は高く、「要注意だ」と診断された。下痢も、それに関係があるとのことだった。二次被爆をしていたのだ。
九死に一生を得、幸運を喜んだものの、又、新たな不安が残った。白血病にかかると、髪の毛が抜け始めるとか…。
以後、私は抜け毛を恐れた。秋は、櫛の歯に残る抜け毛の多さにおびえたものである。この不安は、四十代に入ってもなお消えなかった。劫火が私に残した、爪あとの一つであった。
原爆俳句
―体験を元に―
被爆者の手帳座右にし原爆忌
顔知らぬ養父の御名を流灯に
吹く風に流灯一つ一つ失す
(平成十四年)
黒焦げの死屍積みし日よひろしま忌
焼きし命二十万とやひろしま忌
被爆者手帳胸に祈れりひろしま忌
茸雲いまも鮮明ひろしま忌
水水の声耳朶にありひろしま忌
閃光に街一つ失せひろしま忌
ガラス片背ナに立つ夢ひろしま忌
(平成十五年)
忘れ得ぬかの閃光広島忌
茸雲しかと瞼に広島忌
忘れめや街の死したる広島忌
死屍の山せちに築きぬ広島忌
この川を死屍の埋めし広島忌
夢に出て水乞ふ子らや広島忌
献水に涙あらたや広島忌
(平成十六年)
生き地獄今もまなうら広島忌
(平成十七年)
広島へ祈りに参ず原爆忌
白蓮の池に平和の鐘を打つ
黙禱に閃光はしる広島忌
灼くるとは今日は言ふまじ広島忌
蝉よ哭け命十万失せし日ぞ
吾が証言ビデオに収む広島忌
流灯や死屍の流れし川面埋め
(平成十八年)
鳩放ち平和祈れり広島忌
ドーム背に流灯川面埋めつくし
火を噴きて流灯闇を流るるも
流燈や死屍の流れし川面埋め
(平成十九年)
広島忌死没者二十五万とぞ
師も友も逝きたる日なり広島忌
地獄絵もこの日にしかず広島忌
忘れ得ぬ死の静寂や広島忌
(平成二十年)
平和の鐘打ちて黙祷広島忌
一発に街は廃墟や広島忌
献水の儀式身にしむ広島忌
末期の水乞ふ声耳朶に広島忌
爆心地に立ちて祈れば露地灼くる
流灯や師の名友の名書き連ね
(平成二十一年)
爆心地夾竹桃の花の燃え
献水に涙をしぼる広島忌
水乞ひし声な忘れそ広島忌
死の静寂今も忘れず広島忌
流灯の原爆ドーム離れ得ず
(平成二十二年)
鶴折って平和を祈る広島忌
阿鼻叫喚今もまなうら広島忌
まなうらに皮膚融けし子等広島忌
胸に秘む被爆者手帳原爆忌
(平成二十三年)
三吉の詩碑に涙す広島忌
その閃光その轟音や広島忌
一弾に一市壊滅ひろしま忌
平和の鐘ひびき暮れゆく原爆忌
(平成二十四年)
忘れ得ぬその閃光や広島忌
一弾に十万の死や広島忌
阿鼻叫喚の地獄はこれぞ広島忌
茸雲今も眼に広島忌
水乞ひし顔まなうらに広島忌
防空壕に徹夜の看取り広島忌
助け得ざりしことの口惜しさ広島忌
(平成二十五年)
大噴水天まで伸びよ原爆忌
流灯の先を憂ひて爪立てる
広島忌平和大橋たもとほり
(平成二十六年)
大噴水宙にとどけとひろしま忌
白蓮の池に平和の鐘を打つ
(平成二十七年)
その時は十七歳や広島忌
原爆の吾も語り部広島忌
一弾に一市壊滅広島忌
茸雲今もまなうら広島忌
三吉の詩碑に涙す広島忌
(平成二十八年)
一弾に一市消えたる原爆忌
髪の燃え皮膚とけし日ぞ原爆忌
(平成二十九年)
まなうらの地獄絵消えず原爆忌
目瞑れば茸雲あり原爆忌
常に持つ被爆者手帳原爆忌
卒寿なほ語部たらん原爆忌
(平成三十年) |