国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
暁部隊始末記 第八章 絶後の一週間 
篠原 優(しのはら ゆたか) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1964年 
被爆場所 宇品凱旋館 船舶司令部(暁第2940部隊)(広島市宇品町[現:広島市南区宇品海岸三丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部(暁第2940部隊)参謀部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
1、原爆の瞬間
昭和20年夏の特攻朝輸送が一段落を告げて、国内は本土決戦準備へと軍官民一体となって拍車をかけていた。

8月4日には、船舶部隊の大会同が行われ内地各部隊長や参謀連が宇品に集合した。そしてその部隊長会同が終って、まだ2、3の部隊長が用務のために宇品に居残っていた8月6日のことである。

この日、広島市にあの世紀の戦慄、原子爆弾が投下されたのであった。

8月6日午前7時9分、大型3機の敵機が豊後水道及び国東半島を北上したとの情報に基いて広島県全域に対し警戒警報が発令されたが、7時25分敵機は逐次南方に脱出したので7時31分警戒警報が解除せられた。警戒配置にあった在広各部隊及び市内は一斉にその配置を解き、午前8時前後には、屋内にあっては当日の作業にとりかかり、一方警報発令中のため出勤時刻に遅れたものは一せいに職場への道を急ぎ、加うるに市内疎開作業のため出勤した防衛召集による各隊員及び各学校、会社、工場よりの作業隊員などが市内に集っていたので、市内行動中の人員は夥しい数に上っていた。

午前8時過、市内上空に敵機の爆音を聞くとみるや、8時15分突如市内中央部上空から全市をおおう物すごい閃光とともに大爆発を生じ黒煙天をおおい爆心地から半径2㎞程度の範囲内の家屋は一瞬にして壊滅し、同時に殆んど市内全域にわたり火災を発生、時を経ずして市内は一面の火の海、焦熱地獄と化し去ったのであった。

当時軍隊及び市民の屋内にあったものは殆んど総てが家屋の下敷となりそのまま即死あるいは人事不省に陥り、意識あるものも脱出し得ないものが多かった。引続き発生した火災はこれらの人々を容赦なくその紅れんの焔に呑み尽くした。

一方屋外にあった軍隊の兵員、疎開作業中の人員或は街に溢れた市民は爆弾さく裂などの放射性能を有するせん光と強力な爆風とのため一瞬にして重軽傷を負い、しかもこれ等の大部は全裸あるいは半裸体となり強い火傷を負って皮ふがむけた。

暫くの後の市中の有りさまは死者とひん死の重傷者が折重って倒れ、それ等の総てが全裸体で顔も身体も共に熱気のためか、はれあがり被害前の面影の片りんさえも止めず、その誰かを判定するを得ない惨状で市民か軍人であるかは僅かに足にはいた靴で判別し得るのみであった。

この日、私は宇品凱旋館(現在第六管区海上保安本部)の2階食堂前の廊下を歩いていた一瞬であった。食堂では2人の将校が食卓を挟んで何かを話しているらしかった。その卓上に「ピカッ」と閃光を認めた。丁度写真のマグネシュームを焚くような閃光が、丸いフットボール位の大きさの火の玉となって飛び上ったように眼を射った。「おや、何か知らん」と思いながら5、6歩行き過ぎた途端に「ドン」と大きな音響が発して、この建物に直撃弾でも食ったような衝撃とともに「ガラガラ」と壁が落ち窓硝子が、こわれて飛んだ。「これはいけない。また次が来る」と思って、私は急いで階段を転ぶように駆け降りて本部前の広場に飛び出した。

B29の爆音は、この時遥かに中国山脈の彼方に消えていたが、みんなは不思議そうな顔色をして空を仰いでいた。

やがて見上げる彼方、瓦斯会社か御幸橋かの方向に当って、むくむくときのこ型の煙が夏雲のように上へ上へと拡がりながら上昇してゆくのが眼に映った。

その時この不思議なきのこ型の雲を見上げながら、いろいろの意見が飛んでいた。甲はいう。「これは瓦斯会社の大タンクに直撃弾が命中して、爆発したのではあるまいか。」乙はいう。「これは瓦斯会社附近ではあるまい。もっと遠方の市の中央部附近に投下したのであろう」。丙は語る「いや、これは米軍の新型強力爆弾ではないか」。と甲、乙、丙いろいろ様々の意見であったが、その当時は何とも判らなかった。その後、直ちに大本営から派遣された有末情報部長、仁科博士によってこれは原子爆弾であることがわかった。

さて、そんなことを話している間にも、広島市の被害が意外に大きいのに驚いた。

広島全市は殆んど壊滅的損害であるともいう。取り敢えず凱旋館の屋上に上って見るとあちこちと各所から火の手が上って、火災の煙が立ち昇り初めた。

間もなくトラックに積まれた罹災者が続々として運び込まれて来る。暑い真夏のことだから薄い夏服だけだったので、これがみんなぼろぼろに破れ、髪を振り乱し、血を流し、火傷で皮ふは垂れ、幽霊のように両手を前に垂れて歩いて来る。惨状、全く生きながらの地獄で、眼をおおわしめるものがある。

暁部隊本部でも関係各機関や司令部に連絡しようと思っても電話は全く不通である。仕方がないから自転車か自動車か徒歩で直接連絡するより外に方法がない。これとても道路が塞って並大抵のことでは行くことが出来ない。然し連絡者を飛ばして各方面と連絡をとり、情報を集めながら応急救助対策を急いでいた。

先ず運ばれて来る罹災者の救助作業である。軍医部や衛生機関の職員は直ちに罹災者の救助処置にとりかかった。凱旋館の大広間は、見る見る間に火傷患者で充満した。負傷の苦痛にうめく声が、さらぬだにこの炎暑のうちに、罹災者でむんむんするこの部屋の中を、ひとしお惨憺たるものにするのであった。敷かれた筵の上にも、運ばれた担架の上にも、土間の上にも、ひん死の重傷者が身を横たえて断末魔の苦しさに喘いでいる。この間を縫うようにして、船舶衛生機関は全力を挙げて、火傷に油薬をぬり、繃帯をし、注射をしながら寸刻の暇もなく、血まなこになって救助処置に奔走した。

此処に収容し切れない多数の患者は逐次に舟艇で似ノ島、金輪、坂、鯛尾、小屋浦、楽々園方面の収容所へ送られたのである。

宇品地区の収容人員は約5,000人と数えられた。その後の調査でわかった患者収容数は、似ノ島地区約7,000人、金輪地区約3,000人、坂、鯛尾地区600人、小屋浦地区3,000人、楽々園地区約1,000人と数えられた。

金輪収容所でも舟艇庫を片付けて患者を一杯収容した。ひどい火傷がただれた上に蝿が黒くたかって、室内は臭気に満ちている。苦しい呻き声が悲愴に響く。あそこでも、ここでも次ぎ次ぎと死んで行く。全くこの世ながらの地獄というべきであろう。然し収容されて手当を受けられるものは、まだしもよい方であろう。市内には幾万人の身動きならぬ同胞が、猛火に包まれながら或は炎天にさらされながら、その尊い人の命を、みとられることもなく失って死んで行ったことであろう。これは、まさに世紀の悲劇であり戦慄であろう。

船舶司令部参謀部の有田大尉は、総軍で勤務中に、この原爆の洗礼を受けた。ひん死の重傷を負って、今宇品桟橋から似島収容所へ送られようとしている。舟艇の中は、炎天の下に鉄部が熱して、焦げるような暑さであった。僚友の2、3人が桟橋から舟の中をのぞき込んでいる。有田大尉は、もう視力もなく半ば意識を失っているようである。その苦しさの中から「水が欲しい」と、唇を動かしていた。私は見かねて、本部へ使いを走らせて氷の一かけらを取よせた。そして、舟の中に入って、有田大尉の口の中へ、その氷の一かけらを入れてやった。眼を閉じたままで「うまい。うまい」と繰り返えしながら、ぐっとその氷のかけらを呑み込んだ。

有田大尉は似島へ送られると、その手当の甲斐もなく、夜半に遂に息をひきとった。船舶輸送業務の練達の士を失った思いで、私は暫し追悼の祈りを捧げた。

世の中には不思議というものがある。また信じ得ないような霊媒ということもある。

有田大尉が息をひきとった、その日のことであるが、岩国に住んでいる同大尉の奥さんが、突然に船舶司令部を訪ねて来た。原爆直後で電話も電報もなく、まして夜半に死去した有田大尉のことを、家郷の奥さんへは知らせようと思っても知らせる手段がなかった。何とか早く、その死去を奥さんに知らさなければならないと、副官部でも焦慮していた所へ、突然に、その奥さんが訪ねて来られた。

私は、奥さんに会って、その死去を伝えて悔やみを述べ、いろいろと話をした後
「奥さん。どうして今日突然ここへ来られましたのですか。まさか夜半に死去して、まだ間がないのですから誰も、お知らせしたものはないでしょう。ほんとに不思議に思っているのですが」
 奥さんは、そっと眼がしらをおさえながら
「はい。昨夜、有田の夢を見ました。いえ夢ではないような気がいたします」と前置きして、こんなことを話された。
「昨夜の12時頃でしたか。ふと私の枕もとに有田が立っているのです。その顔色はまっ青でした。そして淋しそうに、夜が明けたらすぐに宇品に来てくれと申しました。私はそれで夢からさめました。今お話しによればその12時頃、有田は息をひきとったとのことですね。あれは有田の死の瞬間に、その霊が私の胸に入って来たのでありましょう」。

私は、今更ながらに世の中の不思議ということをしみじみと胸に思うのであった。そして、あの暑い舟の中での、氷の一かけらを「うまい、うまい」といって呑み込んだことを、せめて末期の水と、心ひそかに慰められるのであった。
 
2、その日の市役所前
私は、8月6日正午前、中国軍管区司令部へ連絡をとり、かつは市内の状況を知るために仙頭高級参謀とともに、自動車で宇品から専売局を経て比治山橋を渡り、文理大裏の富士見橋まで来た。附近は炎々として燃え上り、さなきだに暑い8月、この火焔の中で顔も体も灼けつくように熱い。附近の火焔は自動車の燃料油に引火する心配もあるのでもうこれ以上、自動車での前進は出来ない。やむを得ず、此処で自動車を降りて徒歩で火の海を潜りながら、やっと市役所前までたどり着いた。

見ると、市役所前の電車線路上は、ずっと紙屋町方面まで黒煙りをあげて燃え続いている。電柱という電柱は、総べて横倒しになって、これに電線が、がんじがらめにからんでいる。そしてその電柱はぶすぶすと燃えて火を噴いている。道路上一帯に鉄條網に加えて火焔放射機による火の海のようなものである。これではとても前進することはむつかしい。

市役所の前では、浴衣1枚で首に手拭を巻きつけて、手づかみで罹災者にカンメンポウを分けている人がいた。大きなブリキ缶から掴み出しては、来る者毎に分配している。これが生き残りの広島市助役柴田さんの姿であった。市長粟屋さんは、自宅において悲惨な圧死を遂げられたと語っていた。

附近の路上には歩行の出来ないひん死の重傷者がごろごろと地面に倒れて唸っている。

県立広島第一中学校の校庭の防空壕では、数十名の生徒が生埋めになっているともいう。

小さな子供を胸に抱いて、気が狂ったようになって「今私の家が焼けています。家の下には妻が下敷になって救いを求めていました。重い屋根に圧し潰されていますが、その下の隙間から妻の顔がのぞいていました。近所からの火焔が刻々に拡がって私の家を包みました。私は妻を救うために重い家屋の材木や屋根をはねのけようとしましたが、到底一人では掘り出すことは出来ません。このまま掘り続けていれば火勢に包まれて、妻も私もこの子も3人共々に焼け死ぬだけです。親子3人此処で一緒に死なうかとも思いましたが、この子のことを思えばそれも出来ませんでした。妻は火の廻わらぬ間に早く逃げて呉れと、家の下から血の出るような叫び声をあげています。私の胸は引き裂かれるように、つらいものでした。火はもう私の背中に廻わって、じりじりと熱くなって来ました。私は泣く泣く妻に手を合せて、燃えゆく火焔の中に死んでゆく妻に詫びました。生きながらの地獄と申しますか、私は気も狂いそうでした。」と涙を流しながら話した人もある。

こういう悲劇は数限りなく市内の各所に起ったことであろう。

私と、仙頭参謀とはほんのひと時の間に、いくつかのこんな惨状を見聞した。
 
3、広島中枢機関の潰滅と暁部隊長の決心、処置
やがて逐次に集まる情報によると広島市の災害は予想を超えて大きい。殆んど全市が火の海であり死の都と化し去った。

瞬間的数秒間に広島市は地獄と化した。広島市役所も県庁も全滅的であるという。

当時の軍隊の状況を見ると各部隊とも一瞬にして中枢幹部及び兵員の大部分を失い辛うじて避難したものも何処にいるのか知ることも出来ず全くその機能を失っていた。翌7日になって漸く各部隊避難者も逐次復帰して各部隊とも連絡を一応とり得るようになった。

然し軍司令官を始め殆んど幹部、多数の兵員を失った各部隊は依然としてその機能を発揮するに至らず中国軍管区司令部にあってもその隷下部隊を掌握することが困難であった。

中国軍管区司令官藤井洋治中将も原爆投下の瞬間に尊い犠牲となって相果てた。

第二総軍司令官畑元帥は、広島市に戒厳令を発令するとともに、比較的損害の軽微であった船舶部隊をして救護並に復旧業務を担任させた。

中国統監府の髙野統監も広島市長粟屋仙吉氏も既に原爆の犠牲となって、県庁も市役所も殆んどその組織と機能とを失っていた。

広島地区の警備を担任する地区司令部も潰滅の悲運に際会していた。僅かに宇品地区の一角に残った暁部隊こそ唯一の活動機能であった。溺れるものは藁をもつかむというが、この暁部隊の残ったことは全く災害広島市にとっては藁以上に浮袋にもひとしい有難さであった。

暁部隊佐伯中将は、こんな情況の下に、直ちに広島災害の応急復旧、救助の決心を確めて、これを実行するために敢然として起ち上った。

此の頃一般の戦況は日々に深刻化し、米軍は今秋11月には九州南部に上陸し、来春3月頃には大挙して関東地方に上陸を決行するであろうと予想されていた。暁部隊は勿論、国内は所謂本土決戦一辺倒に塗りつぶされていた。

此の時、広島市のこの惨事に直面して、暁部隊長は部下各部隊長及び幕僚を集めて次の訓示を与えた。

「広島市は空前にして絶後の悲劇に際会した。暁部隊は今やその業務の総てをなげうって、唯ひたすらに戦災の応急救助と復旧に任じなければならない。各部隊長は速かに現地に進出して相互に協力して、強力に広島市の応急救助、復旧に努力せよ。この期間を先ず1週間と予定する。予は今から広島市役所南側広場に復旧司令所を進めて、全般の指揮に当ろうとする」。

かくして佐伯中将は幕僚と共に、広島市役所南側の広場に天幕を張って泊り込み、此処に昼夜を別たず応急的救助並びに復旧作業の陣頭指揮をとったのである。

そしてその応急対策措置事項として挙げられた大要は次の通りであった。
 1.死傷者の応急処置、特に負傷者の救助、衛生を統一強化すること。
 2.広島市内の警備を厳にし、治安を維持すること。
 3.速かに食糧の補給を行うこと。
 4.市内の交通整理を行う、これがために主要幹線道路の片付けをして通行可能にする。
 5.市内水道の給水能力を復旧すること。
 6.通信網の応急的修理を促進し、主要地点に電話線を架設すること。

差し当って右の措置をとるために、県庁、市役所、その他の関係機関の生残りの人々と協力して、応急にその救助、復旧作業を開始したのである。

先ず船舶司令官は広島市を大体、東西南北の四つの地区に分けて、船舶兵団長沢田保富中将、船舶練習部長芳村正義中将、船舶砲兵団長中井千万騎少将、船舶本廠長梶秀逸少将を夫々各地区の警備司令官に任命して、応急的救助作業に乗り出したのである。

元来暁部隊というのは船舶作戦部隊であって、当時は本土決戦準備ということに夢中になっていた時ではあるが、この広島市の世紀の大惨害を看過する訳には行かない。否、むしろ、広島市の戦災応急救助こそ何を棄ておいても乗り出すべき大仕事として、船の部隊は陸へ飛び上ってこの難作業へと精魂を傾けたのである。若しこの時、広島市に暁部隊が残存していなかったならば、その惨害は更に加わり、その応急復旧は更に更に遅れたであろう。暁部隊は広島市にとっては、救いの神として感謝されたのである。今にして懐えばこれが所謂軍閥最後の罪滅しでもあり、宇品湾頭の一角に五十有一年を育ぐくまれた暁部隊の広島市民への御恩返しの一端でもあったのであろうか。

かくして一望千里の焼野ヶ原と化しつつある広島市の応急救助の第一歩は踏み出されたのである。こんな場合に何から手をつけてよいか迷うものである。佐伯中将は市役所南側広場の天幕の中に寝起きして、思索を練りながら、この大任を果すための総指揮に当った。そして関係方面と協力しながら一石宛その措置を講じて行った。

1.衛生について
暁部隊において出動させ得る全衛生機関を動員して、患者の分散収容、救護所の設置、伝染病予防の防疫対策、死体の処置、救護班の強化を図った。

2.警備について
原爆投下直後の混乱時期の民心安定及び治安警備も重大な問題であった。

軍管区司令部や地区司令部は殆んど潰滅していたので、当初は暁部隊長が警備司令官となって治安警備に任じた。

大阪の中部軍司令官から、その後次のような応援部隊が派遣され、これと共に警備も中国軍管区司令部に復帰した。軍司令官藤井中将が原爆のために戦死したので、参謀長松村秀逸少将が、その負傷をもいとわず日夜の激しい仕事に邁進した。

 中部軍からの応援派遣部隊
 第231師団の歩兵約1,000人
 電気中隊の一小隊
 建築勤務中隊の二小隊
 防疫給水機関若干
 野戦病院1個
 救護班5個
 自動車小隊(10輌)

広島駅、横川駅、己斐駅には間もなく、小さいながらも広島市民による警防団が出来た。

また広島駅前は、罹災者や死者の捜索のために多数の人が混雑したので、此処に罹災者相談所が設けられた。そして各罹災者収容所の収容者氏名や年令を調査し、又死者名簿をも備付け或は罹災証明書などを交付することとなった。

放送局は民心安定のために各要所に拡声機の備付を準備した。当時はラジオを聞かうにも聞かれない状態であった。

3.食糧補給について
広島市内の食糧は、灰じんに帰した。所によっては食糧倉庫の蜜柑の缶詰などが、原爆のために道路上に転がっているのを見受けたが市民は食糧に窮乏していた。

市役所でも給食に努めていたが、なかなか解決の手は打たれなかった。

陸海軍部隊は協力して、8日間の炊事を分担して、補給廠で4千人分、船舶部隊で2千人分、呉の海軍関係で7千人分の焚き出しを行った。

県当局は小豆島から醬油を、愛媛県からイリコを、竹原町から缶詰24万個を広島市に集めるように手配したのである。

4.交通について
主要交通幹線道路を速かに開放して人や車の交通が出来るようにすること、これが先ず応急の交通措置であった。道路上には電車、自動車、自転車などいろいろの車が、原爆瞬間のままにその残骸を横たえている。又電柱は悉く倒れ電線は鉄條網のように交通を阻んでいる。そこでこれらの障碍物を路上から排除しなければならない。然しこれは仲々の難作業である。何分にも器具もなく牽引するための動力もない。まだ余じんくすぶる中を、炎熱の下に汗みどろになって、唯暁部隊の兵員の人力によってのみこの作業は行われた。かくして道路の復旧は出来たが、電車も自動車も焼けてしまった。何とかしてバスの復活を急がなければということになって、局地の小運送のためにトラック30台を運転することとなった。広島鉄道局でも省営バスを運行することになった。そしてその燃料や修理は広島兵器補給廠が、これを担任することとなった。

工兵隊は破壊された橋梁の修理に任じた。

鉄道は機関車の給水能力が乏しく水圧の附与に困った。山陽線の列車は岩国と河内とで給水することとなったが、上下48本の列車の給水能力を求めることが出来なかった。

広島駅の貯蔵石炭は燃え出したので、これの消火に困却した。

それでもいろいろの努力の結果、山陽線は8月8日14時には下り、16時には上り列車が開通した。

5.通信について
電話通信線は全く杜絶して、官庁相互の通信連絡も困難を極めた。やがて逓信局関係では50名の作業員とトラック3台、電柱3百本をもって、先ず応急通信線を架設することとなった。

放送局の応急復旧作業も逐次着手された。

6.給水について
水道施設は市内各所の破孔が多く各所から噴水して水圧が低下し給水能力が甚だしく乏しくなった。

広島市は水道の破孔を塞いで1日8万立方米の給水を目途として復旧を急いだ。当時水道水源地の給水能力は1日4万立方米に低下していた。佐伯中将はこれを心配して、自ら水源地に自動車を飛ばせて、市の給水関係者を督励した。佐伯中将は燃えるような熱意をもって、この広島市水道復旧に努力した。

此の頃大本営からは、第二部長有末中将が仁科博士らの科学者陣を伴って、吉島飛行場に到着して、この爆弾についての諸情報を集め、「確かに原子爆弾に違いない」という判決を得たのであった。続いて長崎市へ原子爆弾第二号が投下された。

8月9日、佐伯中将が市役所横の天幕の中で指揮をとっている所へ「8月9日、ソ連軍が参戦して、どんどん満洲に侵入して来た。北鮮方面にもすでに上陸しつつある」という重大なる情報がもたらされた。

一同は沈痛な面持で、「とうとうソ連軍が参戦したか」と心で苦い汁をなめながら、敢えて口を開くものもない。世紀の原爆、そしてソ連参戦、日本は重大局面に直面した。
 
4、比治山会談
こんなにして広島市復旧の悲願に燃える暁部隊長は、8月8日のひるさがり、中国統監府や県、市の生残り職員たちと、市内比治山下の比治山神社に集合して重要会談を行った。

境内にずらりと敷いたムシロの上で、青空を仰ぎながら会談であった。

暁部隊の幕僚、松野副官、谷口参謀、私なども、まぶしげに、そのムシロの上に坐っていた。

当時の状況では、戦争はますます激烈となり秋には本土決戦に突入するかも知れないという前提が控えている。その上広島にはもう草も木も生えない。生命あるものは一切住むことが出来ない。婦人は子供を産まなくなるという流言が、真面目に考えられていた時である。広島市の今後の人口、家屋、交通問題などの議題もそれらの流言が重要函数となって論議されたこともちろんである。

被害建物の主なものは、第二総軍司令部、中国軍管区司令部、広島地区司令部、中国総監府、軍需管理局、県庁、財務局、逓信局、控訴院、地裁、専売局、貯金支局、電話局、広島郵便局、鉄道管理部など市内のほとんどの重要施設であった。

これらの重要機関の所在地ということも多大な関心事であった。

この比治山会談の席上で、中国軍管区司令部から、広島市の将来の構想として「市内にある軍事的、政治的重要機関を市の周辺の丘陵地帯へ散開させようという計画が提出された。即ち
 1.第二総軍司令部は二葉山へ
 2.中国統監府は三滝山へ
 3.中国軍管区司令部は牛田の山へ
 4.暁部隊司令部は井口の山地へ
 5.県庁、市役所、地区司令部は己斐北方の山へ
というわけである。

これらは附近の山に横穴を掘って、その中で業務をとり、相互間の連絡は夜間にバスを運転するという案であった。

この議題は比治山会談における重要議案であった。今考えると、何だか夢のような、ウソのような話ではあるが、当時としては、これが真剣に考えられた。

そしてその後幾年かを経過した。

その比治山会談のあった比治山神社で結婚式を挙げる花むこ、花嫁。そしてその新夫婦の間にできた孫を連れて、初詣りするおばあさん。

私は通りすがりに、ふとこんな状景を見るにつけて、あの比治山会談のムシロの上に坐っていた一人として、当時を思い起して感慨無量のものがある。

ピカドンという言葉で表わされた原子爆弾投下の広島市も、今比治山の上にABCCの建物、そして緑も青々と繁り、平和な姿を現わしている。
 
5、李鍝公殿下の悲劇
李鍝公殿下は第二総軍参謀として、毎日広島市郊外の高須の官邸から御付武官を随えて乗馬で二葉の里の第二総軍司令部へ通勤していた。

8月6日、午前8時15分、殿下は何時もの通り乗馬で丁度相生橋に差しかかった。そしてこの不運の一瞬に、殿下は乗馬と共に原爆の炸裂によって、橋上から河中に吹き飛ばされた。

御付武官の飯田中佐は、当日痔が悪いというので乗馬での随行が出来ず、後から乗用車によって別途に総軍司令部に向ったのである。

第二総軍司令部では、李鍝公中佐の安否について、畑元帥を初め幕僚一同が心痛していた。まして御付武官の身でありながら、この日に限って随行出来なかった飯田中佐は、はたの見る眼も気の毒なほどに心配して身の措き所もないような様子であった。

第二総軍では殿下の行方を捜索するために百方手段が講ぜられた。ところがその行方は杳としてわからない。この捜索命令はもとより宇品の暁部隊に対しても下令された。当時としては皇公族としてその身分は特別の待遇であった。

暁部隊では、若しかという懸念から太田川本川や元安川へ発動艇をのぼらせて水上からの捜索を続けた。

そしてその日の夕刻、元安川をのぼって来た発動艇は、遂にひん死の重傷の殿下の姿を相生橋下の岸に発見した。その傍には乗馬が一頭息絶えて横たわっていた。

殿下の御体を発動艇に移して、取り敢えず宇品船舶司令部の凱旋館の貴賓室に収容して応急の手当を施した。

私は、青山の陸軍大学校教官時代に一緒に勤務していたこともあるので、飛ぶようにして貴賓室に殿下を御見舞申し上げた。

然し殿下はすでに意識も乱れて、唯顔面に苦痛の色のみが浮んで、言葉も出ない有様であった。その夜、似島の収容所にお移しして手当に努めたが、その効もなく死去された。

時は8月6日の夜半、7日の早朝には御遺体を飛行機で朝鮮京城の本邸、妃殿下の許へ御送り申し上げなければならない。時を経過しては真夏のこととて御遺体が腐るようなことがあってはならない。

高須の官邸からは公族付の多くの人々が、似島へ馳せ参じたが、ただおろおろとして、何の事後整理も出来ない。

この間にあって、流石に御付武官飯田中佐は、深くその悲しみと自責の念を胸にたたみながら、実にてきぱきと事後整理の処置を講じた。沈着そして冷静、綿密周到な注意をもって殿下の死後の後始末は完了した。

後は7日の早朝を待って、御遺体を発動艇で吉島の飛行場にお運びして、総軍参謀、御付武官そして公族付の側近の人々が供奉して飛行機で京城にお運びするだけであった。

総ての準備は完了した。一同は御遺体を囲んで、ほっとした気持も幾分は生まれ、明けるに早い夏の夜明けを待った。

あたりを見廻わすと御付武官の飯田中佐の姿が、さきほどから見られない。さっきまであれほど、てきぱきと明快な処置を講じていた飯田中佐の姿が見えないのは、おかしいとみんないぶかし気に、あたりに眼を配った。

その瞬間、後の山手ににぶいけん銃の音がした。みんな音の方向へ駆けつけて見ると飯田中佐は見事に、こめかみを射ち抜いて自決していた。そしてそのポケットには「御付武官として本朝殿下に随行出来なかったことは申訳ない。今は後始末も総べて終ったので、これで思い残すことはない。此の上は殿下の御供をして死出の旅に参ります。」という悲痛なる遺書が一通収められていた。

原爆投下にまつわる李鍝公殿下の悲劇の一幕であった。
 
出典 篠原 優 『暁部隊始末記』 1964年 pp. 392-423
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
                                         

 
 
 
 
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針