私は当時(17歳)広島一中の夜間部に通学していました。その頃中国新聞社に勤める親戚がおり、その手びきで、社のボーイとして採用されました。
その頃はカメラなんてぶら下げて歩けるような時代ではなかったが、カメラは大好きでした。それにしてもフイルムは潤沢にあるわけでなし、写真屋さんで巻替えたフイルムを買ったものでした。
あの運命の写真はそういう情況のもとで、本当に偶然撮れたものでした。カメラはセミパールで結論を言いますと撮影したネガはありません。そのネガはハワイにいる従兄弟に送ってあげました。戦前、戦後はたいへん世話になりましたので、そのお礼にと、もしハワイで役にたつなら、との意味です。私の家は府中町のキリンビール工場の奥にあたる水分に住んでいまして、そのずっと山手に、あの水分峡(みくまりきょう)があるんです。
運命の日、8月6日、三菱重工に勤めていた学友が前日の夜勤あけで休みなので、水分峡(みくまりきょう)へ遊びに行こうということになりました。飯盒と米を持ち、朝早く家を出ました。
家を出て30分くらいでしたか、いつも社(中国新聞)に出勤する時刻です。もし出社していれば広島駅の近くか、もう少し市の中心に近い所にいたかも知れません。
このあたりに、当時精神病院がありまして、そこから100メートルくらい行ったときでした。空襲警報が出たように記憶していますが、なにげなく空を見上げると、落下傘が三個落ちてくるんです。友人と「ありゃ何じゃろ」と目をこらすと、B29が見えましたね、当時彼らは、よく宣伝ビラを撒いていたので、またそれだろうと思っていました。
そのB29が急旋回してゆく。おかしいな、と思って見送り、100メートル前方の松林の稜線に目をやったそのときです。ちょうど石を投げて起こる波紋、あんな形の虹が、ファッ、ふぁっと、出たんです。と同時に、写真の閃光粉を身近で焚かれたような風圧をグアッと感じたんです。前方にある直径20センチくらいの松の木がグラグラとゆれる。反射的に身を伏せて稜線を見ると真っ赤なエネルギーの塊、まるで赤い大きな太陽がもう一つ出たようで、一瞬のうちに視界が変わり、続いてその赤がどす黒くなり、灰色に変わり、これは見たこともない、いったい何が起こったのか、と風呂敷包みからカメラをとり出し、4~5枚たて続けに撮ったと思います。あのキノコ雲は最初か、終わりの方か、覚えていませんがその後はもう雲がひろがりすぎて、ファインダーにはとても納まらず撮れませんでした。雲がひろがり過ぎるとかえってエネルギーは感じなくなります。まさか原爆などとはつゆしらず、それから友人と飯を炊いて食べたんです。それから草ずりの滝の近所にきたとき、広島駅の方を見ると「ありゃ、燃えとるで」と話しあっているときに、友人の母が迎えにきました。非常時と判断したら、ただちに学校へ集合せよ、と言われていたので、学校と新聞社のことが心配になりました。とにかく家に帰り、再び皆がとめるのをふりきって、新聞社の腕章をつけ家を出ました。
それから府中の小学校のところまできたとき、向こうから私と同年くらいの少年とすれ違った。見れば手といわず顔からも皮膚がはがれて垂れさがったまま、女の人は「水をください、水を」といいながら避難してくる。私はそこから広島駅の東側の踏切をめざして荒神町に入ると両側は焼けてまだ燃えつづけている。私は戦闘帽を防火用水に浸し、マスクがわりにして、走りぬけ、荒神橋を渡って稲荷橋へ出て、キリンビール工場の裏から線路ぞいに駅の北側を京橋に出て、川ぞいを北上して流川に入り、やっと社にたどりつきました。午後でしたがはっきりとした時間の記憶はありません。
社にたどりついてみると、入口の脇の大きな防火用水の側に真っ赤な消防自動車の色が鮮烈に目に飛びこんできました。よく焼けないで残ったものだと奇異に感じられた。中に入ってみると宿直の益田さん(?)ともう一人、他の生きのこりの人が集まっていました。室をのぞいてみると大きな巻とり紙のロールがくすぶって真っ黒の塊にみえ、いくつかは炭化していた。再び外に出てみると社の前の興業銀行の所で「おーい、おーい」と呼ぶ声。だれかと目をこらすと社の小坂さんという方でした。この方も亡くなられましたが……。
例の黒い雨ですが、泉邸には降ったが私は会いませんでした。これは今日まで生き延びられた原因の一つかも知れませんが、それから2、3日して再び社に行ってみて驚いたことはあの当日、社の入口にあった消防自動車がきれいに焼けていたことでした。当日の宿直者の松田さんと岡田さんに、このことをたずねてもどうして焼けたかわからない。この二人の話から社の5階にあった資材置場から、まっ先に火が出たらしいという。
当時私はいたずら少年でした。とくに朝早く出勤前に掃除もせなならんで、社のあちこちを知っておかねばなりません。毎朝、顔を合わす加藤さんにはかわいがられました。加藤さんはお掃除専門で40~50歳くらいでした。再度、社を訪れたその日、落下した壁やら焼け机で足の踏み場もない階段を3階まであがりました。植木鉢を置いたベランダのところで、赤い珊瑚の玉のついた加藤さんのと思われるかんざしを拾いました。傍らにある一片の骨とともに……おそらくほかの人より早く出社し、お掃除をしていたときだったんでしょう、爆風をまともに受けたものと思われます。気の毒でした。
私は母校の広島一中にも、登校命令のことが頭にあったので、学校にも行きました。学校の近所は被害もひどく、真っ黒になった死体、ふくれあがった赤ん坊を抱いた女の人、そりゃひどいものでした。今でも脳裏を離れないのは、学校の裏口近くにあった武器庫の石畳の上に4~5歳ぐらい、何の外傷もない男の子の死体が横たわっていました。しかも裸であったので、かわいそうでなりませんでした。プールは死体でいっぱい、戦争とはひどいことをする、こんな殺し方は本当に許せません。何度思い出しても、あの爆発の瞬間の火の球の色は適切な表現の言葉が見当たりません。私は赤から二度目のどす黒い赤に変わった火の玉は、被爆で一瞬のうちに命を落とした、広島20万人の血の色だと思っております。戦争も核兵器もごめんです。(山田精三氏の項は、「反核・写真運動」として、氏の談話を、林重男がまとめました)
出典 「反核・写真運動」編 『母と子でみる 7 原爆を撮った男たち』 株式会社草の根出版会 1987年 67~70頁
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