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ヒバクシャからの手紙 
小平 信彦(こだいら のぶひこ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 


1945年に私は陸軍技術大尉として野戦船舶本廠(暁6140部隊)修理部第2電気工場長兼中隊長として広島市宇品港の金輪島の部隊に勤務していた。8月6日午前8時ごろ中隊事務室で書類に目をとうしていた時、外で何か電気のショートしたような青い光がパットした。何だろうと思って外へ出ようとした10数秒後にバーンガラガラと言う爆風、壁に掛けてある物が落ち土煙が舞い上がった。傍にいた兵隊はパット伏せたがその後何も無いので外に出てみると、鋳物工場、北造機の外壁が無残に崩れ多少の負傷者が出ている模様であった。取り敢えず中隊全員を集合したが異状はなかった。建物のガラス、スレート等弱いものは全部破損して中隊の屋根も大分涼しくなった。第二電気には被害はなかった。医務室に行ってみたらそれでもかなりの負傷者が集まっていたが重症者はいない。宇品の方を見ると街の中心からクラゲの様なピンク色の雲がモクモクと立ち上がっている。慌てて宿舎からカメラを取って来たがピンク色は消え巨大な積乱雲となっていた。最も今のようなカラーフィルムはなく、其の時カメラに入っていたのは医務室から貰ってきたレントゲン間接撮影用の白黒のフィルムだったのでピンク色の撮影は不可能だった。撮影の場所は爆心の南約5000Mだったので画像の大きさから積乱雲の高度は約8000Mとなる。

何の爆発か分からず、火薬庫、燃料タンク、など皆勝手な想像をしていたが原子爆弾とは誰も予想できなかった。もし本当ならもう戦争にならないと思った。金輪の山から市内を見るとモウモウと一面の火災で宇品へ様子を見に行った兵隊の話では屋根瓦は全部なくなっており市電は動かず市内には入れず帰ってきた。金輪は爆心の南約4kmにある。夕刻から患者が次々に搬入されてきたが皆着物まで真っ黒なのに驚いた。これは原爆に伴って放射能を含んだ黒い雨が降ったためであった。

火傷のため水を欲しがっている者が多かったが医者によると余り水を飲ませてはいけないとの事であった。搬送途中で既に死亡した者、親と別れて名前のわからない子供も多かった。収容所に行って見ると大勢の患者が熱い熱いと呻いていた。割合軽傷の者に当時の様子を聞いてみるとただ一瞬バーンという爆発があっただけとの事である。

これが原爆と分かったのは東京の理研から仁科博士の一行が来られて放射能の測定をして行かれてからであった。夜に入って山田大尉、島田中尉と共に大岡少佐の指揮下で市内に救援に向かうことになり、3隻のヤンマーに分乗して12:00頃市内に向かう。出発が遅れた為途中で干潮になり江波の飛行場近くに上陸した。遠く近くの火災で道路は明るいが電柱が倒れており進むのは容易でない。電線に脚をとられてうっかりやわらかい物に捉まったら死体だったりしてぎょ!ようやく西大橋へきた。この付近は家もまばらで火災も少ない。取り敢えず己斐橋(爆心の西約1700M)に本部を設けたが、付近の藪や草むらに大勢の負傷者が市中から逃てきていることが分かった。夜が明けるに従ってその数は徐々に増加し既に死亡している者もいる。火傷をした手足が物に触れると痛いので手足を上に上げて死んでいる者がいる。薄い物でも着衣があるとその下は火傷を免れている。夜が明けたら救援のための舟艇を出すとのことで患者を集めたがそれもこないで、患者は集まる一方、其のかたはら死体の収容もおこなったのでそれが次第に腐敗し始めたが身元確認のため中々火葬の許可がでない。

近くの屠殺場から冷凍牛肉を貰ってきて久しぶりに美味い食事にありつけた。死体をつかんだ手で平気で握り飯を食べられるのもこのような状況からである。9日なって漸く火葬の許可が下り広場に細長い穴を掘り燃え残った家屋の木材を集め火葬を始めたが、兵隊の中に昔陰亡だった者がいてどうやら方がついた。

この頃から家族を探しに来る人が見え始めたが、惨めな死体を見つけるより分らず仕舞いの方が良いのではないかと思った。一通りの治療を終了して医室が帰ったあと娘さんが慌てて駆け込んできて「家の母が変だから直ぐ来てください」というので一緒に行って見たら既に脈は無く死亡していた。やむなく尤もらしい顔で「御臨終です」と生まれて始めて医師法違反を承知の上で死亡宣告をした。3人の子供を残してこれからどうしたらよいかと泣き崩れる娘さんを見て戦争の悲惨さの一端をみせつけられた。食事が満足に来ないので破壊された冷凍工場からミカンと牛肉を持ち出して代用食とした。死体の焼却のため付近は異様な臭気が漂ってた。

500以上もの死体を3列に並べて火葬にするところは何とも言いようのない壮絶さである。これがまた氏名の分るものは極めて稀でその年齢も不明、なかには男女の区別のつかぬものもいる。秋庭少尉が何処からかダットサンやオートバイを拾ってきて便利に活用した。

今度の作業で完全な徹夜が2回、その前後も碌に寝ていなかったが意外にもつものだということが分った。乾パン一袋で1日働いたりもした。

輸送船が沈没するのは敵潜水艦からの魚雷と他航空機からばら撒かれる機雷による事が多い。音響機雷、磁気機雷、等があり磁気機雷に対しては船の外周に巻いた数回の電線に直流を流すことで回避でき、音響機雷に対しては商用周波数のバイブレータが効果があった。しかし水圧機雷にたいしては実態が良く分っていないので人間の入れる大きなドラム缶をつくって実測を始めようとした時終戦となってしまった。

ス号の取り付け調整の為出向いた造船所のなかで三井の玉造船所は大変快適なクラブに宿泊させてくれるので有難かった。当時は一般に食料事情は悪く軍人には特別に配給があるのと、時々部隊で食事をしてくるので市内での下宿は歓迎された。宇品では港にある凱旋館に泊まっていたがここの2号室では毎晩のようにマージャンをしていた。高橋、脇本、島田、小平の面々。

ス号の性能を向上するため船底の前に付けたり、流線型のカバーを付けたりしたが走行に伴う気泡による雑音に悩まされ、停止した船からは7KMから10KMも距離が延びるのに実際に運行している時はそこまで届かない。公式の性能では良好な結果が報告されるので間違った能力が宣伝されることになってしまう。佐伯湾で海軍に潜水艦を出してもらい海防艦と比較しとことがあったが全くお話にならなかった。この時斉藤成文君(大学の電気の同級生)が海軍側の立会い官としてきていた。海軍には前から性能の良い探知機があるのだからそれを貰ってくればよいと思うのだがどうも陸海軍の仲の悪いことは最後まで直らなかった。輸送船はス号が付いているにも拘らず撃沈される一方で一時30数隻あった大型輸送船が20年5月には運行できる船は殆ど0になって終戦をむかえる事となった。無線機工場で作業していた工員と兵隊には作業中に使用していたテスターなどの工具一式を持てるだけ持たせて帰郷させた。
小平信彦
  

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