国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
奇跡の日 わが原爆体験記 
石井 一次(いしい いちじ) 
性別 男性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1949年 
被爆場所 中国軍管区歩兵第1補充隊(中国第104部隊)(広島市基町[現:広島市中区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区歩兵第1補充隊(中国第104部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

著者略歷
一九二三(大・一二)年 三月一五日生
一九四〇(昭・一五)年 旧日彰館中学校卒業
一九四三(昭・一八)年 旧国鉄へ就職(現JR)
一九四四(昭・一九)年 元西部第二部隊へ応召
一九四五(昭・二〇)年 広島にて被爆
一九七六(昭・五一)年 国鉄を定年にて退職
 健康状態 特に被爆の影響を感じないが、内臓疾患等にて数度手術
二〇〇九(平・二一)年 死去(八十六歳)
 
当時、人々をして第二部隊と言えば全滅を、全滅と言えばこの二部隊を連想させ、二部隊にいたと言えば生きている者は無いとまで言われていたほど、二部隊の将兵達はことごとく原爆の犠牲になったのである。
 
八月六日、思い出しても身震いのするような戦慄恐怖(せんりつきょうふ)の日であった。ああ光陰矢の如し!再四もめぐり来た八月六日、一閃(せん)の光、瞬時にして軍都広島を灰じんの原と化した彼の原子爆弾!
 
恐るべし、幾十万人の命を奪い、あらゆる物を破壊し尽くしたのろわれの日、爆心地に真近き第一〇四部隊(旧、西部第二部隊)の歩兵砲中隊の兵舎内にいて、奇跡的にも命ながらえ四度ものあの思い出深い日を迎えるとき、当時犠牲となりし幾多戦友の姿が、幻のように自分の脳裏(のうり)にはっきり浮かんでくる。
 
前日の八月五日には母が郷里から、妹は呉からやって来て、親子三人が部隊の集会所で面会をした。親戚が市中にあるので平素なら一泊して帰るのに、母はその日どうしても帰らねばならぬ用事があるとて、夕方に帰宅したばかりに幸いにも死の運命から逃れ得たのだった。隊内でも、外泊で五日の夜帰郷した為に助かった者と、外泊から帰隊した為に命を失った者、その日に限って使役をサボったおかげで命を拾った者等々、その運命の日にまつわる生死については幾多のうわさを聞いた。
 
およそ生死に関して言えば紙一重(ひとえ)で、ある者は生き、ある者は死んで行く。例えば行くべき所へ行かなかったとか、又はその反対に行ってはならぬところへ行ったとか、為すべき事を為さず、為すべからざりしことを為したとかで生死の運命が定まってしまう。人間この世に生をうけてからは、実に一寸先は死であり暗黒である。災難の起ころうとする以前の行動がその人の運命を左右する。その運命たるや、各人によって時には幸福となり、時には不幸をもたらす如く相違し、今もって実に不可解な謎(なぞ)である。
 
世界全人類幾十億あるといえども、かつて近代化学兵器の原子爆弾を真近(まじか(ママ))で身をもって経験し、しかも健全にて生き残っている者は果たして幾人であろうか。奇跡的に生死の境より逃れて、再々この記念すべき日を迎えるにあたり、尊い犠牲(ぎせい)者の冥福を祈ると共に、当時の有様を記して思い出としたい。
 
今でこそ「ピカ・ドン」(「ピカ」は閃光、「ドン」は爆発音、原子爆弾の俗称)と言えば八月六日、「ヒロシマ」と言えば原爆一号がすぐ想起できるが、当時は今日が何日やら明日が何曜日やら、そんなことは一度も考えたことがなかった。いや別に考える必要も余裕もなかったと言う方が当たっているかも知れない。健忘症にかかったわけではなかったが、やれ空襲、やれ物資疎開(そかい)、やれ建物取り壊し、やれ使役、穴掘りや防空壕(ごう)の水出し、警報や解除と言ったあわただしさに、落ちついて飯を食うこともできないほどに多忙な日々を過ごしていたが、日時は忘れても飯を食うことだけは感心にも誰も忘れてはいなかった。
 
度々警報は発せられたが「広島には敵機は来ない。各都市は次々に攻撃されているのに、軍都の広島がやられないのは、やっぱり秘密の設備でもしてあるのだろう」とみんなが口々に語り合い、そしてたよりないながらも信じていたのだ。今から考えると、原爆投下以前に米機の散布したビラの中に“花の京都を後にして、疎開するなら広島へ”と印刷してあったのを見ても、なんとなく思い当たる節が無いでもない。
 
ピカドン前夜に空襲警報(くうしゅうけいほう)があったので当日は一時間の起床延期であった。丁度自分は、その週の馬屋勤務に当たっていたので、起床後馬屋へ行って馬の手入れをしていたら警報が出た。間もなく手入れを終えて班内へ帰ってみると、戦友達は朝食を終えていて、勤務で遅くなった者が二、三人食事をしていた。自分らも冷たくなった味噌汁をすすりながら食事をしていると、警報は解除になったと伝えてきた。当時は暑中でもあり、営内では上半身裸体になる事を許されていたので、みんな半身裸体でポリポリ(軍隊用語でグズグスの意)していた。八時には毎日特定の勤務者以外は営舎庭で点呼をとるのが日課だった。自分も八月一日から一週間、西練兵場横の陸軍病院の取り壊し作業に行く事になっていたが、二日程で体調をくずしていたので他の戦友に代わってもらっていた。
 
朝食も終わり、勤務に出る者は三人、四人と弁当と巻きゲートルを手にして出て行った。戦友の蔵田上等兵が「おい石井、おれは七班へ飯盒を返しに行ってくるからのう」と言いながら階下へ降りて行った。例によって例の如く、週番下士官が竹刀(しない)で廊下を叩き「ピーピー」と笛を吹きながら「点呼集合!」とどなりつつ階下の各班を廻っていた。
 
「おい、週番下士がこない間にみんな出ろ」と古参の兵隊もまた班内でどなり始めた。
食事が終わってからこの間、非常に長いようであるが実際は十分間余りだった。その後も班内に残った二、三人の初年兵が、古参兵からどなられながら食事の後片づけをしていた。別段の勤務もなく、あわてて点呼にでる必要もないままに暫時くつろいでいた自分も、斑内でひとりボサッとしているのも格好(かっこう)つかず、初年兵の掃除の手伝いでもしてやろうと思った。そして箒(ほうき)を握ってかがみこみ、テーブルの下を掃いていたその時、ピカッと稲妻(いなづま)のような異様な閃光(せんこう)が目にはいった。その瞬間、うしろを振り返ると窓の方からほの暖かいようなものを左頬(ほほ)に感じた。
 
「おやっ」と思ったがその時、二、三日前に見習い士官が「近いうちに焼夷弾(しょういだん)の実験がある」と言ったことを思い出して「ははー焼夷弾の実験でもやったのだな」と思った瞬時に「ドド……」とものすごい勢いで棟木(むなぎ)や天井が落ちかかってきた。「しまった!やられた」と感じると共に、昨日面会に来た母と妹の姿が走馬燈(そうまとう)のように頭にうかんだ。
 
間もなく土埃(ほこり)が鼻や口から入り息苦しくなった。目の前がぐらぐらとして真っ暗となり、あたかも千尋(じん)の谷底へ突き落とされるような感じで何も分からなくなってしまった。わずかな記憶としては、ピカッと光ってから兵舎の倒れるまでに、前記のように見習い士官の言ったことを思い浮かべた程にわずかな余裕があった。ああ、しかし誰が次に起こるべき一大悲惨事を予期し得たであろうか。
 
げにも貴重なる幾多の生命をば、この世から奪い去ったのろうべき現実が展開して行ったのである。
 
「みんな元気か、おーい」というかすかなかすかな声が、どこからともなく聞こえてくるのを夢うつつに耳にし、その声が次第に近づいて来る。遠い無限の世界から現実の世界に呼び戻され、ついには頭の上ではっきりと聞き取れるようになった。思わずわれにかえり、無我夢中で倒れ重なった棟木や天井板の間から這い出した。体中を見廻し手足をさすってみたが異状はない。後頭部を打撲しわずかに血がにじんでいた。右の胸と腰を打っていて、そこに痛みを覚えるだけで他にかすり傷ひとつない。生きていた、自分は生きていたのだ、奇跡だ。喜びとも悲しみともつかない涙がとめどもなく流れ出た。助かったその時の嬉しさは、何にもたとえようのないものであり、生への執着心がぼつ然とわき出てきた。
 
一方、わが喜びの反面、眼前に展開された悲惨なる光景!おしつぶされた棟木や瓦や木片等々、二重三重に重なったわら布団(ふとん)の間からは、人間断末魔のあえぎやうめき声が高く低く、そこここから聞こえてくる。ほんの寸前までいかめしく建ち並んでいた巨大なる兵舎の姿は今はなし。実に無惨にも吹っ飛び破壊(はかい)しつくされてしまった。それのみか兵舎を取り囲んでいた塀も市街の建物も、影形もなくて、ただがれきの砂漠と化し、市街の方はもうもうたる砂じん・黒煙・火災に見舞われている。
 
そこら一面は足の踏み場もないほどに木切やがれきが木(こ)っ端(ぱ)みじんに散乱し、まるでこの世の終わりを見るばかりの惨たんたる光景であった。兵舎の外に出ていた者はと見ると、あわれ体中を真っ赤に染め、衣服は裂け、帽子は吹っ飛び、幽霊のように手をだらりと下げてそこかしこに彷徨(ほうこう)している。三人、五人と群をなし、ある者は人の肩にすがり、手を引かれ、肩を組んで続々と避難している。あるいは呆然と佇んでいる者、うめいている者、倒れている者数しれぬ惨状。自分の周囲からはしきりに救いを求める悲痛な声が後を絶たない。腰から下を棟木や瓦ではさまれて、身動きひとつ出来ずくるうている某班長。一面を火傷(やけど)して膨(ふく)れあがった兵士。重傷で出血甚だしき為に刻々と青ざめ倒れていく者、兵舎の下敷きとなって救いを求める声やうめき声が間断なく、足下の棟木やわら布団のすき間から聞こえてくる。遠く近く気息えんえん消えるが如く、恨むが如く……に。
 
下敷きになったまま救助も出来ず、大きなはりの下で圧死した者、または猛火に呑まれてそのまま焼死した者数知れず、生きている者すら誰ひとり無傷な者はなく、全く為す術もない有様でみすみす見殺しの状況であった。これがこの世の地獄でなくして何であろう。
 
一時は呆然としてこの異様で残酷きわまる光景を眺めていた自分も、ふと我にかえり無我夢中、眼前に重傷を負って倒れているK班長を抱き起こした。左眼のした五、六センチ三日月形に傷口が裂け、そこからどす黒い血がどくどくと流れ出ている。思わず腰のタオルをとって傷口を覆(おお)った。なおよく見ると、左手首から血が、下腹からも更に頭部からも流れている。刻々と彼の顔は青ざめていくが手のつけようがない。
 
その時自分の肩を叩く者があり、ふり返ってみると田辺古兵だった。「おい怪我(けが)はなかったか?」「はい大丈夫です。班長は自分が介抱しますから、他の人を······」「うん、では頼むぞ」うめき声をたよりに探し且つ助け出そうとしたが、十重二十重(とえはたえ)に折り重なった倒壊散乱物の山に阻(はば)まれて、到底一人の力ではどうすることも出来なかった。(約二週間後彼は宇品病院で爆弾症のため血を吐いて死んだとの事だ。神石郡の出身で、最近一等兵になったばかりの良い兵士だった)
 
「吉岡軍曹の声がする。ここらしいぞ、みんな来い」「おーい、吉岡軍曹しっかりせい。苦しかろうが待っとれよ、いま助け出してやるから!」谷岡准尉の声のようだ。いつまた米機の空襲があるやもしれず、辺りに散らばっている鉄かぶとをかぶり、十字鍬を手に棟木の間をくぐりぬけ、ようやくその場に到達する。見るからに誰も彼も火傷をしたり顔や手足に負傷をしており、満足な体をした兵士は一人もいなかった。
 
あらゆる手段を尽くして倒壊物を取り除こうとしたがビクともしない。下からのうめき声は益々苦しそうで弱々しくなる。刻々と死が迫ってきたのであろう。可哀想だがどうすることも出来ない。
 
その頃、炊事場と医務室の方から火災が起こっていたのに気がついた。黒煙はもうもうと天を突き、風は塵埃(じんあい)をともなって烈しくなり、危険はいよいよ我々の身辺に迫ってきた。谷岡准尉が「石井、怪我はなかったか?危ないから早く逃げろ」と怒鳴(どな)った。頭部から血が流れていた。火傷をしていたのだ。
 
自分も刻々と迫りくる身の危険を感じたので、他の兵達と共にその救助作業を打ち切った。悲しくもうすれ行くうめき声に、後髪を引かれる思いでその場を去り地面に降りようとした。その時、第一内務班のあったと思われる辺りで、しかも身近な場所からひん死の急を告げ助けを求める声がした。折り重なった倒木の間をよくよく探すと、中野幹部候補生が強打で腰をぬかし立ち上がれないでいた。その上首には五十銭銀貨ほどの大穴をあけられ、丁度ざくろのように真っ赤な肉が露出。軍衣は流れる血と埃で汚れ果て、首の傷口からはかすかに息が漏れているように思えた。顔は生気なく真っ青である。「助けてくれ、助けてくれ」としきりに救いを求めている。「しっかりしろ、歩けるか!」とどなったものの腰をぬかしている彼は、無論立って歩かれようはずもなくもだえ苦しんだ。連れ出そうとしても折り重なる屋根の梁(はり)の間に、丁度牢(ろう)屋の中のような所にいるので入ることもできない。「よし、歩かれんのなら這って出ろ」と叫ぶと、彼はおもむろに苦しみながら這い出してきた。しかし地面までは約三米も高い所にいるので引きずり降ろす他はない。棟木(むなぎ)によりかかって降ろしたものの、ここでも破片や釘の散乱ではだしでの歩行は無理であった。
 
何か履物はないかと事務室のあった所へ探しに行くと、営内靴(か)が二足倒れた柱の間にはさまっていた。その一足には「壇上」と註記してあった。先達て見習い士官になったばかりの色の白い男前の士官だが、彼もやはり下敷きになってやられたのか。当時わが中隊の見習い士官は階下の士官室にいて、ほとんど皆やられたらしかった。名の書いてない方の一足を履いてもとの所に来てみると、例の候補生はがれきの上にぐったりとなって転がっていた。「おい、しっかりしろ!気をしっかりもて」とはげまして彼を抱き起こし、腕を肩にして裏門へ向かった。営庭は足の踏み場もない程にがらくたが散乱し、作業中隊も歩兵砲同様に兵舎はおしつぶされ、いずこも同じがれきの山となっていた。そこでもやはりうめき声が聞こえており、傷の軽い兵が力なく救出を試みていた。市街の火災のもうもうたる黒煙が営庭の上を覆った。電車道に出ると後ろから「私も手伝ってあげましょう」と一人の赤穂部隊の兵が助勢してくれた。ついこの間編成された赤穂部隊は、七日に岐阜の方へ行くとかで、出立準備を終えていたのである。彼も頭部をやられているのか、鉢巻をしている手ぬぐいが血で染まり、血が顔を伝って流れ落ちていた。そして汗とほこりの為、流れる血も汚れて黒くなっていた。「もう歩けない。苦しい、水をくれ、水を…」と候補生はのさばるようにしてへたばってしまった。二人でしきりに励ましながら、引きずるようにして浅野泉邸の前まで来た。家という家はことごとく破壊され、電柱や樹木は根こそぎ吹っ飛び、木片はそこら一面に散乱している。
 
屋外にいた通行人は、大火傷(やけど)で黒焦げになりそこら中に転がっており、髪をふり乱して気が狂ったかに見える女が何やらわめいている。ぼろぼろに裂けた衣服を着けてはいるものの、男女の分別もつかない迄に火傷重傷を負って倒れている。側にはこれも火傷を負った子供が、母親の乳房を求めて執ように泣き叫んでいる。水を求めている者、防火用水の水そうへ首を突っ込んで死んでいる者、あちらからもこちらからも「助けてくれー」と救いを求め、かつうめいている。国防色の軍用自動車が止まっていたが、窓ガラスは飛び散り、開いたドアからは死んだ兵隊の運転手が鮮血に染まって外へはみ出していた。
 
避難者の数は次第に増し、見る人、会う人で無傷の者は誰ひとりとてなく、二目(ふため)と見ることの出来ない程に傷ついている。実にむごたらしい限りの姿である。
 
路上には数多くの死体が横たわり、自動車・荷車は投げ出され、電車の窓ガラスは全部が散乱。車内に人影は見えなかったが、運転台の辺りに飛び散ったガラスの破片と共に、若い女のものと思われる一本の薄緑(うすみどり)色のパラソルが投げてあった。恐らく負傷して避難したのであろう、そこら辺に彼女と思(おぼ)しき若い女の姿は見うけられなかった。やっとの事で泉邸の北側、太田川の河岸までたどりついたが、またここでも行きづまり、倒れた人の群で足のふみ場もない程だった。
 
ひとまずはその幹候生をそこに座らせて、さてこれから先どうしたものか、考えようとしたが興奮していて気は落ち着かず、足もとには死者・重傷者・火傷患者等が折り重なってうめき・わめき・なげくの修羅場(しゅらば)が展開しており、無数の肉塊があたかもうじ虫の様にうようよとうごめいている。異様な光景と共に悪臭異臭はぷんぷんと鼻を突き、蠅は真っ黒になる程に死体や傷口にとまり、熱気をおびた黒煙やほこりで呼吸も困難になる程だった。逓信(ていしん)局の方からは、次第に火災が河岸に向けて延びてくる。常盤(ときわ)橋は燃えていて渡れない。鉄橋も汽車が横倒しになっていて通れない。饒津(にぎつ)神社の林も燃えている。誰もが向こう岸に向かって避難しようとあせっているが、満足に動ける者はひとりもなく右往左往してなす術(すべ)もない。割合元気なものが柱や戸板につかまって、二人、三人と泳いで岸を離れて行くが、中程まで行って川下に流されたり溺(おぼ)れたりで、向こう岸へ泳ぎつく者はほんのわずかだった。
 
そうこうしている内に次第に火炎も迫り風も強まってきた。崩れかけた家陰にじっとしゃがんで熱風を避けていたが、すき間から容赦なくほこりと共に吹き込んでくるので呼吸も苦しく、その上打撲した右の胸が痛くなったのに気がついた。刻々と自分の運命が死に近づいていくような気がして、次第に意識不明に陥(おちい)ろうとした。その時突然、目前の河岸に建っていた家屋が一大音響と共に河中へ燃え崩れていった。「ハッ」と気をとり戻し、こうしていては危ない、早く逃げなければと思案するのだが、気ばかり焦って動きがともなわない。
 
時折火薬庫の爆発と思われる大音響と共に、部隊のあった方角の林の中から黒煙が上がって天を覆う。川下を見ると、泉邸裏の川の中は向こう岸への避難者の群が小さな黒山のように見える。折も折、突如として竜巻の様な黒煙が泉邸の林の中から立ち上った、かと見るや忽ち黒煙は川の面まで延びてきて、一瞬にしてその辺一帯は真暗になった。後聞(あとぎ)きによると、この時川の中にいた数多くの人々は気の毒にもその黒煙の犠牲となって溺死(できし)し、その死体は多く川下に流れたとの事だ。
 
やっとのこと思い立って岸壁をくだり、潮水(しおみず)のひいた泥沼のような河岸を岸壁にそって川上へと歩く、その途中でふと目にした兵士。「おい、蔵田じゃないか」「あっ石井か、おれは胸をやられた!」「川上へ行こう」と言って手をとって立ち上がり、歩き始めたところ二、三歩行った所に沼地があり、ずぶずぶと足がのめり込み、彼の胸の辺りまで水に浸(ひた)った。「アチ…火傷の所が痛いよう」と非常に苦しそうだった。
 
川岸にも折り重なってつづく流木の列を踏み越えて、ようやく川上の河原にたどりついた。ここでも避難者が方々から集まってくる。疲れたので腰を下ろそうとした時、目の前の草むらの中に生後二カ月とも見える赤ん坊が可哀想に、もみじのような手をひろげて冷たいむくろとなって転がっていた。木陰や石垣の陰には負傷者や火傷者が横たわってひしめいている。
 
突然「空襲(くうしゅう)空襲」という叫び声が起こった。みんな一斉(せい)に散り散りになって岩陰や木陰に待避(たいひ)した。「B-29が来たんだろう」生きた顔色は見られぬくらいおびえきっている。「ドド…」と大音響(おんきょう)がした。空を見上げると黒煙もうもうと立ちこめ、見る間に四辺は夕暮れ時の様に薄暗くなってきた。「ざあーっ」と大夕立がきて、秋のような肌寒さを感じた。間もなく今のは空襲ではなく、部隊の火薬庫が爆発したらしいと誰となく口走っていた。気がついてみると蔵田の姿が見えない。立ち上がって歩こうとしたら急に気分が悪くなり、黄色い胃液をおう吐(と)した。腹の中には何もないので苦しかった。二、三回同じことをくり返したが、胃液のにがい分のみ吐き出した。疲れ切ったのか、火炎の危険から脱して安心したのか、歩くには動悸(どうき)も打って苦しいので、そこら辺の石ころの上に横たわり、そのまま前後不覚となり深い眠りに落ちこんだ。
 
ふと体に寒さを覚えて目をさますと、裸の上半身に一枚の軍衣(ぐんい)がかけられていた。未知の人の温かい心遣(や)りに心深く感謝したものである。その上衣(うわぎ)を身に着け、よろめく足で一歩一歩、神田橋を渡って牛田へ出た。沢山の避難者に交(ま)じって、中隊の兵等とも出会ったが、元気なものは一人としてなく、傷あとも痛々しく、衣服はずたずた、はだしで敗残兵そのもの、たよりない足どりで歩いていた。結局彼らは何所(どこ)で死んだやら、その後の消息は全く分からなかった。
 
丁度その折、自分の隣町の三良坂出身の村上二等兵も、頭部から首の方をやられて苦しそうであったが、我々とはいつとなく離ればなれになってしまっていた。彼もすでにその時には死運が明らかであったが、やはり何所かで死んでしまったと聞いた。彼とはピカドンより以前に隊内で慰問袋(いもんぶくろ)の配給があった時、彼の分には砂糖が入っており、自分の分には人形の胴の中に小豆(あずき)が入っていた。そこで誰かが「村上の砂糖と石井の小豆とで、ぜんざいをつくって食べたら美味(おい)しいのになあ」と冗談(じょうだん)を言ったことから、彼が隣の町の者でしかも自分達の卒業した中学校の後輩であることが分かって知り合った。その小豆はある日、東練兵場へ使役に行った折に二、三人の同輩と民家へ立ち寄り、塩を入れて煮てもらい食べた思い出がある。ぜんざいとは言えない代物(しろもの)だったが、とてもおいしいと感じたものだ。その小豆は慰問袋の中の手紙やら雑誌でみると、おそらく日華事変当時の昭和十四、五年のものらしかった。砂糖にしてもその頃にはまだあった…。
 
とにかくに行くあてもなく、生気も抜けた格好(かっこう)で人の後にくっついて牛田の山のふもとにたどり着いた。ここもまた同様に患者の群であふれており、火傷の手当てに油を塗ってもらっていたが、血と膿と油と汗で吐きたくなるような悪臭を放っていた。体も益々疲れるし打撲の胸も痛むので、またその辺りの草むらに横たわった。耳もと近くでうめき声がする。今が何時頃か、朝なのか昼なのかさえ皆目(かいもく)見当がつかない。でも少しも空腹を感じない代り(ママ)、気分が悪くて仕方がない。
 
しばらくすると「歩ける者は玖(く)村へ行け」という声が聞こえる。いつまで此所にいてもどうなるものでもないと思い、再び起き上がり、川に沿って玖村へと避難者の群に加わった。
 
その日は玖村へ避難したが、学校は重傷者や死者のため混乱していたので、民家にて二、三泊した後、再び東練兵場の近くの民家に集合、八月十三、四日頃安佐郡安村へ疎開(そかい)、そこで終戦のラジオ放送を聞く羽目とはなった。
 
その頃は各地に疎開させていた物資を集めるために、毎日毎日使役として働いていたが、比較的元気な者か軽傷者だけで、中隊の者が百名にも足りない程の人数であった。如何に多数の犠牲者を出したかが伺われる。それのみか、更に恐るべき事が我々を待ち受けていたのである。
 
八月二十五日、安村から似(に)の島の衛(えい)兵に派遣されることになり、横川までは自動車の便を借り、横川からは徒歩で宇品へ向かった。根こそぎ吹き飛ばされて、今は跡形もない広島城の石垣や、我々のいた兵舎の方角を左に見て、紙屋町に出て南下した。がれきの砂漠と化した市街や、原爆以来約二十日、未だに家の下敷きとなったまま焼けくすぶっている死がいの悪臭に、当時の悲惨な光景を思い浮かべつつ宇品にたどりつき、船で似の島へ渡った。
 
その頃、召集解除で帰郷した者が死んだとか、外泊で帰ったまま寝ついて、ついに死んでしまったとか、風の便りに聞いてはいたが本当(ママ)にはしなかった。ところが二十七、八日頃から体がだるくなり、髪の毛が少しずつ抜け出して、歯茎(はぐき)からも少し血が出始めた。
 
九月一日、宇品病院に行ってみると、向井上等兵に出会った。彼は髪の毛が全部抜け丸坊主(ぼうず)になっていたが元気そうであった。「どうしたんだ」「うん、全部入院しなければいけないと言われたので、昨日トラックでみんな入院したんだ。元気な者も三、四人死んだぞ」と冗談(じょうだん)ともつかぬ事を言っていたが、彼も二、三日後には血を吐いて死んだと聞き驚いた。自分は大した事もなさそうなので、医師に診てもらい安村の原隊へ帰るつもりで診断を受けた。「ばか!こんな体で帰れるか、すぐ入院だ」と叱られてびっくり仰天(ぎょうてん)した。その夜から苦しい約一か月、奇怪なる原子爆弾症(ばくだんしょう)との闘(たたか)いが始まった。
 
頭髪は抜け歯はゆるぎ、歯茎(はぐき)は浮いて紫色になり血がにじみ出る。また吐血もして真っ黒な糞便(ふんべん)は所かまわず垂れ放題(ほうだい)。意識はもうろうとなり体は衰弱(すいじゃく)する一方。熱は四十度を下らず、うわ言を口にし悪夢にうなされる。食欲もなく汗にぬれ、体のいたるところに紫色の斑(まだら)を生じ、注射した跡はまた紫に変わっていく。今思い浮かべてもぞっとして、身に栗(あわ)を生じる。
 
同じ病棟(びょうとう)の同室で、同じく枕を並べて寝ていた者や、あれほど元気に死の一瞬前まで話していた者が、次々に死んでいくのを現実にこの目で見つめては、全く生きた心地もせず、あたかも寸刻毎に死体の運ばれる担架(たんか)を見送りながら、不可解(ふかかい)な謎(なぞ)の中にあるとしか考えられなかった。
 
こうして生死の境をさまよった揚句(あげく)、母や妹、親戚や隣人、更には旅路(だびじ)で出会った人の愛、美しい心情と手厚い看護(かんご)によって、人生の危(あや)うい一機(いちき)を乗り越えるを得た。
 
十月七日、全快退院となった。感謝。
 
正に広島の原爆の日こそは、わが生涯における運命の日、奇跡の日である。
 
一九四九(昭・二四)年夏記
 
石井一次
 
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針