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広島で被爆、3日後に長崎でも… 
福井 絹代(ふくい きぬよ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆) , 長崎(入市被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島市千田町二丁目[現:広島市中区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●はじめに
私の被爆者健康手帳には、広島と長崎の地名が記されています。
 
私は長崎市で生まれ、育ち、昭和19年(1944年)夏、父の転勤で広島市に引っ越しました。そして、翌年の8月6日、私が14歳のとき、千田町二丁目の自宅で被爆しました。命はとりとめましたが、自宅は全焼し、頼る者もおらず、生きていくために親戚を頼って長崎に向かいました。
 
広島で被爆して3日後の8月9日、乗っていた汽車は道ノ尾駅の手前で止まってしまいました。線路伝いに歩いて長崎市内を目指したところ、目にしたのは、広島と同じようにたくさんの傷ついた人たちと破壊された街でした。私は、広島と長崎で二度被爆したのです。
 
●生まれ育ったのは長崎市
私は、昭和5年(1930年)8月14日に長崎市で生まれ、大浦東山町に住んでいました。父相川義次は三菱重工業(株)に勤めていました。
 
私が7歳のときに両親が離婚し、母が家を出ました。父が家を空けるときは、私と2歳違いの弟相川國義は金屋町に住む母方の祖母の家に預けられることもありました。私は長崎で国民学校を卒業しました。
 
●父の転勤で広島へ
昭和19年(1944年)の夏、父が広島に転勤になり、家族3人は千田町二丁目で暮らし始めました。2階の窓からは、広島城が見えました。弟は千田国民学校に通うことになりました。
 
昭和20年(1945年)6月、父が軍に招集されました。当時私は14歳、弟國義は12歳でしたが、姉弟二人での生活を余儀なくされました。子ども二人の生活に不用心を心配した父は、友人の矢次さんを自宅に間借りさせましたが、矢次さんはほとんど家にいませんでした。
 
●千田町二丁目の自宅で被爆
昭和20年(1945年)8月6日、私は庭で洗濯物を干していました。私の朝食分の糊を捨ててしまった弟を叱ろうと思い、家に入ったときに原爆の閃光が走りました。
 
私も弟も崩れた家の下敷きになり、しばらく気を失っていました。先に抜け出した弟が、がれきからのぞく私の手を見つけて引っ張り出してくれました。私は顔をやけどして傷だらけ、左目はほとんど見えない状態でした。
 
私たち姉弟二人と、近所に住んでいた横尾のおばさんと息子さん、鈴木のおばさんと近所のお姉さんの6人は、何が起こったか分からないまま、弟國義が通う千田国民学校に逃げることにしました。ところが、学校のグランドにはすでにたくさんの人が集まっていて、6人が休める場所はありませんでした。
 
そこで、横尾のおばさんの提案で、比治山を目指すことになりました。私は目が痛くてたまりませんでした。心配する弟が、御幸橋辺りで、川の水に浸した布を私の目のまわりに巻いてくれました。弟は、御幸橋の上も、川の中も地獄だったと言っていました。弟はちぎれた死体だらけの川面に、よく布を浸してくれたと思います。
 
比治山もたくさんの人でした。再び横尾のおばさんの考えで、千田町にもどってみることになりました。千田町一帯は焼け野原となっていましたが、焼け残った風呂釜から、自宅があった場所が分かりました。横尾さん、鈴木さん、近所のお姉さんたちは、それぞれ親戚を頼っていくことになり、私と弟は二人きりになってしまいました。
 
●プールのそばで野宿
目は少しずつ見えるようになってきました。寝るところを探そうと、再び、千田国民学校を目指しましたが、やはり学校には二人が寝る場所はありませんでした。学校近くの平野町に広島文理科大学のプールがあることを思い出しました。ここにも大勢の被爆者がいましたが、二人が休むスペースはありました。私はしり込みしましたが、弟に手を引かれ、プールのそばで野宿することにしました。周りから聞こえるうめき声と泣き声で、ぐっすり眠ることはできませんでした。
 
●矢次さんと出会い、似島へ
8月7日の朝、一夜を明かしたプールのそばで、千田町の家に間借りしていた、父の友人の矢次さんに声を掛けられました。とっつきにくい人で、あまり話したことはなかったのですが、矢次さんが、知人がいる似島に連れて行ってくれることになりました。
 
似島の家に着くと、矢次さんは、行方不明の知人を捜すために、また広島の街に戻って行きました。私と弟は、その家にいるおばあさんから、救護所に行くように言われました。
 
学校だと思うのですが、救護所に行くと、兵隊から、私は牛乳瓶と箸を、弟は竹のお椀とさじを渡されました。私は、傷ついた兵士たちのウジをとるように、弟は、重湯を飲ませるように命じられました。重湯を飲ませるといっても、ひどいやけどで、どこが口なのかも分からない人ばかりでした。似島では、その日のうちに多くの人が亡くなっていきました。
 
日が暮れて、おばあさんの家に戻ると、空襲のサイレンが鳴り、防空壕に避難しました。その晩は、防空壕で眠りました。
 
●8月8日朝、再び広島市内へ
似島のおばあさんから、市内に戻った方がよいと言われ、弟と二人で市内に戻ることにしました。
 
父の一番上の兄相川武雄も三菱に勤めていて、南観音町に住んでいました。私は、この伯父もきっと亡くなってしまったに違いないと思いました。住む家がなくなった私たちは、親戚のいる長崎に戻るしかないと考えました。
 
伯父は、広島で被爆しましたが、亡くなってはいませんでした。私たちが住んでいた千田町二丁目の焼け跡を訪ね、私たちと同じように風呂釜を見て家の位置を判断し、小さな2つの白骨体を見つけ、絹代と國義も亡くなったと思っていたのでした。このことは、戦後ずいぶん経って、伯父から聞きました。
 
私と弟は、宇品から歩いて広島駅を目指しました。途中、道路の両側に白米の握り飯が並べてあり、二人で飛びつきましたが、腐っていてすぐに吐き出しました。食べることはできませんでした。
 
千田町を通って、八丁堀を抜け、広島駅まで歩きました。すさまじい惨状でした。広島駅の近くで、り災証明書を発行してもらい、西に向かう汽車に乗ることができました。
 
●長崎に向かう
広島を出て、8月8日の夜遅く、門司駅だったと思うのですが、汽車から降ろされ、長崎に向かう汽車を待っているとき、見知らぬおばさんが、二人に桃(水蜜桃)をくださいました。この時食べた桃のおいしさを忘れることはできません。だれもがたいへんなときに、見知らぬ土地で、見知らぬ方からの親切を思い出すと、今でも涙が出ます。
 
8月9日、二人が乗った汽車は長崎に向かっていました。道ノ尾駅の手前で、急停車し、全員退避と指示されました。大人たちは山へ避難しましたが、私たち二人は汽車の下に潜り込みました。しばらくたってから、二人は長崎駅方面に線路伝いに歩きはじめました。すると、広島で見たやけどやけがをした人が歩いてきて、線路のそばで亡くなっていきます。線路伝いに死体が続いていました。途中、死体を踏み越えることもありました。広島に落とされた新型爆弾が長崎にも落とされたのでした。広島で見た死体はほぼ原形をとどめていましたが、長崎ではみな真っ黒となり、人も馬も真っ黒でした。
 
私たちは、長崎市の金屋町にある母方の祖母の家を目指しましたが、燃えてなくなっていました。そこで、父の兄がいる大浦元町に向かいました。一帯の家は残っており、伯父の家を訪ねましたが、だれもいません。8月9日の夜、疲れ切った私たちは、そこに泊めさせてもらうことにしました。私と國義が疲れて眠っていると、おばさんが家に戻り、頭の上から「誰ね?」とどなられました。私は、「絹代と國義です。広島から戻ってきました」と伝えると、おばさんは「よう生きとったね」と喜んでくれました。そして、親戚の者がいる防空壕に連れていかれましたが、防空壕は人で一杯で、入口付近で横になることもできないまま、一晩を過ごしました。
 
●8月10日、40キロを歩いて母の実家へ
大浦元町で一晩お世話になったのですが、大きな家ではなく、二人が一緒に暮らすのは難しいので、長崎県西彼杵郡黒崎村(現在の長崎市)にある母の実家を頼ることになりました。夜明け前、大浦から40キロ離れた黒崎村を目指して、二人は歩きはじめました。
 
遺体や苦しむ人たちの悲惨な状況と悪臭の中、上空を敵機が飛ぶこともありました。途中、弟の手を引いたり、なだめたりしながら、いくつかの山を越えて、黒崎村にたどり着きました。そこには、金屋町の祖母がいました。そして、母もいたのです。広島にいた二人が来たことにみんな驚いていました。
 
●戦後の暮らし
私と弟は、しばらく黒崎村で暮らしました。父は、復員後、長崎で療養した後に、黒崎村にやってきました。
 
父は、仕事のために上京することになりました。ただ、当時、東京への移動には人数の制限があったため、最初は父と弟だけで、私は少し後に上京しました。父は東京で後妻を得て、4人で暮らしていました。
 
●結婚、そして青森へ
昭和27年(1952年)、親しい人に紹介してもらった夫と結婚することになりました。夫には、私が被爆していることを伝え、健康診断を受けて結婚しました。
 
昭和28年(1953年)、最初の子を妊娠したとき、夫や保健婦から、産むことを断念するように言われました。それでも、私はどうしても産みたかったのです。二人目のときは、私自身が出産をためらいましたが、夫は産むように言いました。二人とも難産でした。
 
昭和30年(1955年)、父が亡くなり、夫の実家がある青森市に移り住むことになりました。初めての土地でしたが、暮らしやすいところでした。昭和45年(1970年)に、青森で被爆者健康手帳を取得しました。被爆したことを隠していたわけではないのですが、「ピカドンか」などと言われるのはいやでした。
 
●弟國義のこと
私が青森に行ってからは、弟國義と会えなくなりました。おそらく40年ぐらい会っていなかったと思うのですが、電話ではよく話をしていました。いつも1時間ぐらい話していました。
 
弟は、被爆した当時のことを、たくさんの絵に残しています。広島の平和記念資料館に保存してあります。令和3年(2021年)8月、私は、青森県の遺族代表として、平和記念式典に参列した際、資料館で、初めて原本を見せてもらいました。二人の広島と長崎での体験が分かりやすく描かれています。弟は詳しい体験記も書いています。
 
弟は、実の母に育ててもらった小さいころの記憶がありません。被爆後に黒崎村で会ったときの印象が強いのかもしれません。ずっと東京で暮らしていましたが、亡くなる前は、母がいた長崎市の黒崎で過ごしました。
 
●おわりに
私たち姉弟は、戦時中、生まれ育った街を離れ、14歳の姉と12歳の弟が二人で暮らしていて、広島で被爆し、長崎でも被爆しました。
 
平和な時代に暮らす人たちに、私たちの体験、経験を想像することはできるのでしょうか。難しいかもしれませんが、こうして体験記に残すことで、年代・世代を超えて平和への思いを共有してもらいたいなと思います。 

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