●被爆前の暮らし
当時、私は、14歳で、皆実町に、父(38歳)、母(36歳)、妹(3歳)と4人で暮らしていました。父は、薪炭や酒、しょうゆなどを扱う商売をしていて、陸軍被服支廠にも品物を納めていました。家の敷地内にはトタン屋根の倉庫があり、家もかなり大きくて2階には5部屋あり、被服支廠の人が下宿していました。父は仕事で、バタンコと呼ばれていたオート三輪を持っていました。当時としてはめずらしいものでした。
父の実家は高田郡吉田町(現在の安芸高田市吉田町)で、祖母は農業をしていました。食糧の少ない時期で、米は持ち運びも禁じられていた時代でしたが、父はバタンコの荷台の下に米をのせて実家から家に持って帰ったりもしていましたので、食事には不自由だった記憶はありませんでした。
私は昭和19年に県立広島第一高等女学校(通称「県女」)に合格しました。同じ皆実国民学校から私も含めて三人が県女に合格し、県女のある下中町まで一緒に通いました。しかし、授業を受けることができたのは、1年生のときぐらいで、それも空襲警報や警戒警報が出たらすぐに授業は中止になり、家に帰りました。2年に進級するとまもなく学徒動員が始まり、私は南観音町にある広島印刷に行くことになりました。
そのころには、家族4人で安芸郡瀬野村(現在の広島市安芸区)に疎開していました。きっかけは呉市で大空襲があったことで、街が焼けて呉方面の空が真っ赤になっている様子が皆実町の家の前の道路からも見えたのです。呉には軍港や海軍の工場があって何度も空襲を受けており、もうこれでは広島も危ないのではということで、母の実家があった瀬野村に疎開することになったのでした。
広島印刷では県女の2年生、3年生が約300人働いていました。私がいたのは加工部で、軍の極秘の印刷物や軍用の地図をそろえる作業をしていました。紙の間に空気を含ませて、たくさんの書類をそろえることが上手になりました。
●被爆時の状況
1945年8月6日、私はいつものように瀬野駅から広島駅まで山陽本線で、そして駅から市内電車で市の中心部を通って広島印刷の工場に向かいました。汽車はいつも遅れ気味で、この日も遅刻して、工場に着いたときには、県女の生徒は、朝礼のため、すでに工場の隣にある第二国民学校の校庭に整列していました。遅刻した汽車通学の私たちは列の一番後ろに並びました。先に整列していた人たちは校舎の影になっていましたが、私たちは影には入れませんでした。
原爆投下の瞬間のくわしいことはあまり覚えていません。自分のすぐ近くに爆弾が落ちたのだと思いました。無我夢中でとにかく日頃から訓練されていたように両手で目と耳を押さえ、地面に伏せました。しばらくしてそっと様子をうかがうと、爆風で粉塵が舞い上がり、周りはまったく見えなくなっていて、足元だけが見えました。逃げて行く人たちの足が見えましたので、私もそれについて行きました。行った先は防空壕だったのですが、すでに人がいっぱいで入ることができません。「これはだめだ」と思い、少しずつ見えるようになっていく中、また、人が逃げて行く方向について行き、サトイモの畑の中に逃げ込みました。
大きなサトイモの葉は、私たちが座るとちょうどかくれることができるくらいの高さがありました。その葉の下にかくれてひたすら身をすくめていることしかできませんでした。そのとき、友達に「ワキさん!顔から何かぶら下がっているよ!」と言われました。それはやけどをして、顔の左半分から首にかけて剝がれた皮膚でしたが、そのときはやけどとは思いませんでした。とにかく逃げるのに必死で、自分ではまったく気がつかず、痛みも感じませんでした。遅刻して、朝礼の列の後ろに並んでいた友達は同じようにやけどしていました。中には顔を全部焼いた人もいました。
しばらくして真っ黒な空から黒い大粒の雨がバラバラと降り出し、すぐに夕立のような土砂降りになりました。「油だ!油だ!油をまいて火をつける気だ!」という叫び声が聞こえ、みな右往左往するのですが、畑の中では逃げるところがありません。そのときのこわかったことは今でも忘れられません。
●己斐の山に避難
サトイモ畑にどのくらいいたのかは分かりません。その後、先生の指示で、己斐に避難することになり、友達と一緒に山へ山へと逃げました。途中被爆した国民学校では、子どもが倒れた柱の下敷きになって「助けて、助けて」と呼んでいるのを見ました。かわいそうにと思ったのですが、どうしてあげることもできませんでした。
己斐までは福島川と山手川の2つの川があるのですが、どこをどう歩いたのか、記憶に残っていないです。ただ夢中で同じように逃げて行く人の後をついて行くだけでした。
●下級生に助けを求められる
己斐の坂を登りかけたときでした。
「県女のお姉さん•••県女のお姉さん•••」「あっ県女の生徒だ」
か細い声で必死の呼び声でした。彼女は全身真っ黒で、何も身につけず、目だけがぎょろぎょろと光って、牛小屋のわらの上に寝かされていました。私には彼女がだれか分かりませんでしたが、彼女は私が県女の先輩だと分かったのでしょう。力いっぱい呼んだのだと思います。
あまりにも悲惨な様子に、私はどうすることもできず、とにかく先生を捜して、「先生!先生!ここに県女の生徒が!」とお伝えするのが精一杯でした。彼女とは一言も話をしないで立ち去りました。自分が逃げることで精一杯だったのです。
8月6日、県女の1年生は土橋付近の建物疎開作業に動員されていました。爆心地から800メートルという至近距離で被爆した1年生と先生の226人は全滅でした。私に「県女のお姉さん•••」と声をかけてきた彼女もその一人で、まもなく亡くなったと思います。市内で被爆して大やけどを負い、真っ黒になって己斐に逃げてきた人が、そこら中に倒れていました。力つきてそのまま亡くなりました人は、己斐国民学校に運ばれ、校庭で山積みにされて火葬されたと聞きました。あのときあの1年生に一言でもお話しをして、名前だけでも聞いておいてあげればよかったのに、本当に申し訳なかったと、今でも思います。
●夜の市内を横断して海田市へ
広島印刷に動員されていた生徒たちは己斐の山に集合し、先生が学校に報告に行こうとしたのですが、市内の状況からしてとても学校にはたどり着けず、途中で戻って来られました。でもどこで聞かれたのか、親御さんが迎えにきてくださる生徒もぽつぽつといて、家族の迎えがある人だけは帰宅が許されました。
私は、父は来てくれないだろうか、家はどうなったのだろうか、もう亡くなってはいないだろうかと、いろいろ思い心配していました。そのとき、3年生で、瀬野村の隣の安芸郡中野村(現在の広島市安芸区)に帰る方がいると聞きました。名前も知らない方でしたが、お父様が迎えに来られていたのです。これは家に帰るチャンスだと思い、無理をお願いして一緒に連れて帰ってもらうことになりました。
時間は分かりませんが、夜になってから山を降り、まだ燃えている市内を、暗い中、焼け残り火の明かりをたよりに、3年生のお父様に先導していただき、家に帰りたい一心で歩きました。その頃はほとんどの生徒が下駄を履いていましたが、私はゴム底の靴を履いていまして、火事の地面の熱さをあまり感じないで済みました。
おそらくたくさんの死体があったと思うのですが、暗くてよく見えませんでした。足に何かちがう感覚を感じるとそれは倒れて亡くなった方の手だったりして、「ああ、ここにも人が死んでいる」と思いました。
市内の状況もすっかり変わってしまったので、どこをどう歩いたのかよく分からないのですが、たしか鷹野橋を通ったことは覚えています。印象的だったのは、比治山橋を渡って電車通りに出たときのことです。比治山線の比治山神社前の電車軌道の上にたくさんのお米が山積みになっていました。近くに食糧営団の倉庫があったので、火事で焼失させないために運び出したのでしょうか?そんなたくさんのお米を見たことがなかったので、「うわー!もったいない!こんなにお米が!」と思いました。
被爆当日、山陽本線は広島駅は不通で、海田市駅での折り返し運転でした。己斐の山から海田市まで10キロ以上あると思いますが、8月6日の夜、あの生き地獄の中をよく歩いたものだと思います。今ではとても考えられません。何時間かかったのかも分かりません。海田市駅からは汽車に乗り、私を連れて帰ってくださった3年生とそのお父様とは安芸中野で別れ、ようやく瀬野に着いたのでした。そのお父様には本当に感謝しております。
●両親との再会
瀬野駅に着いて真っ暗なホームに降りると、「姉さん、姉さん、こっちじゃ、こっちじゃ」という父の声が聞こえました。「あっ?お父さんじゃ?」と思って見るとなんと父と伯母(父の姉)がそこにいたのです。「お父さーん!」と思わず呼びました。父も私に気がつき、「おお、よかったのー」と寄ってきました。
実は皆実町の家の倉庫は8月6日に建物疎開になるはずでした。それで、父は前日の5日に皆実町に帰っていて被爆し、顔や首にガラス破片の傷を受けて、包帯をいっぱいしていました。ちょうど皆実町の近所に来ていた伯母を連れて瀬野に帰ってきたところでした。海田市から私と同じ車両のすぐ近くに乗っていたようなのですが、お互い気がつかないまま、瀬野まで来て、降りたときに初めて分かったのでした。
駅を出ると、真っ暗な中たくさんの人が待っていました。みな瀬野から広島に通勤通学している家族が心配で迎えに来ていたのでした。その中に母の姿を見つけることができました。
家に着いたのは何時頃だったのでしょうか?その日、食事をしたかどうかも覚えていません。とにかく気力だけで家に戻ってきました。
●やけどの治療
私の顔は左半分をせん光でやけどし、皮膚が剝がれてぶら下がっているような状態でしたが、それでも当時はまだ軽傷の方でした。病院や救護所は、重傷者であふれかえっており、薬も不足していましたので、とても治療は受けられないだろうとあきらめていました。しかし、近所にお住まいだった看護婦さんが私の姿を見て家に来て下さったのでした。
やけどはすでに膿んでウジがわいていました。看護婦さんは「ちょっと痛いけどがまんしてね」と言って、ウジをピンセットで取り、膿を赤身が出るまできれいにこそげとって、ぴたっと紙を貼り、上から天ぷら油を塗ってくださいました。「下から皮膚が生えるまで、この紙を剝いだらだめよ」と言われました。
看護婦さんに診てもらったのはその1回きりでしたが、その手当てが良かったのか、おかげさまでほとんどあとも残らずきれいに治りました。顔のことなので、母はどんな気持ちだったのでしょうか。このやけどの傷はどうなるのだろうかとずいぶんと心配したと思うのですが、私も母も、やけどの話は一言もしませんでした。
それよりも終戦になって、占領軍が来たら若い娘はさらわれるといううわさがあり、もし来たらどこに逃げようかと思い、そちらの方がこわかった記憶があります。
●学校の再開
県女は当時の下中町・爆心地から600メートルという至近距離にあり、校舎は全壊全焼し、在校していた教職員・生徒は全滅、また土橋付近の建物疎開作業に動員されていた1年生と引率の先生226人も全滅という悲しい被害を出しました。学校が再開されたのは10月になってからで、草津町の仮校舎で一時授業があり、昭和21年からは元の陸軍被服支廠で授業が始まりました。と言っても大きな倉庫をいくつかに区切ったような教室で、隣で授業している先生の声が全部聞こえるというような状況でしたが、それはそれで楽しかったです。
学制改革により、県女は昭和23年4月県立広島有朋高等学校に、そして昭和24年4月には現在の県立広島皆実高等学校に引き継がれ、私の同級生が皆実高校の第1回の卒業生になりました。私は新制高校に進学することもできましたが、男女共学になじめなかったので、県女のまま卒業しました。当時、両親は、私が養子縁組で家を継がなければいけないので、大学は行かない方がよいという考えもあったようです。
卒業してからは、お茶、お花、お琴、料理、染色、和裁等の習いごとをして、また、週に3日は洋裁学校に行きました。洋裁は得意で、男物のスーツでも仕立てられるくらいまで習いました。そのうち茶道は大好きで今でも続けています。
●被爆後の暮らし
皆実町の家は、原爆では焼けなかったものの、昭和20年9月17日の枕崎台風で被害を受け住めなくなってしまいました。また、「広島は70年草木も生えない」といううわさがあり、このため、戦後約1年間はそのまま瀬野で暮らし、父は商売を休止し会社勤めをしていたようです。
1年してトタン屋根の倉庫が残っていましたので、中を住めるようにして瀬野から皆実町に帰りました。
そして以前のように薪炭や酒を扱う商売を始めました。それとは別に家族の食べ物を調達するために、父はバタンコ(オート三輪)で郊外の農家から野菜や卵を買ってきました。すると近所の人から分けて欲しいと言われたのです。これはもしかするとよい商売になるかもということで、父は毎日のように農家に野菜を仕入れに行き、戻ると店に並べる暇もなく、バタンコの荷台からあっという間に売り切れてしまいました。母も忙しくて大変だったと思います。
私は二人姉妹の長女でしたので、両親からは「お前はお婿さんを迎えて家を継ぐんだ」と言われており、自分でもそういうものだと思っていました。結婚したのは昭和27年でした。夫は戦争中特別攻撃隊員に志願して飛行機に乗っていましたが、出撃しないまま終戦になりました。終戦後、広島に帰ってからは、焼け跡でがれきの片付けなどもしたと聞きました。当時は「特攻くずれ」といって、乱暴を働く元特攻隊員もいたようなのですが、夫は実父にいさめられ、県庁に入り、県の職員として働きました。私の父が夫の実家にあいさつに行って、養子縁組をお願いしまして承諾してもらえたとき、帰ってから父はうれしくて泣いていました。
●健康への被害
私の家族では、父と私が直接被爆、母は8月10日に当時3歳の妹を背負って、皆実町の家の様子を見に行き、入市被爆しています。幸いに4人とも後障害に苦しむこともなく、私の顔のやけどは少し分かる程度でほとんどあとを残すことなく治ったのは幸運だったと思います。父が手続きをしてくれて被爆者健康手帳は早くから持っていました。
しかし、友人の中には子どもの縁談に差し支えるからと被爆者であることをひた隠しにしていた人もいます。また、一緒に南観音町で被爆した友人の中には、若くしてがんで亡くなった人もいました。
私の体は、歳を取ってからは、足がパンパンに腫れ、体重が増えて、眠たくて日常生活に支障をきたすことがありました。診察を受けると甲状腺が悪いということで、もう10年くらい薬を飲んでおり、今はある程度落ち着いています。これも原爆のためではと思います。妹は白血病で1年近く広島赤十字・原爆病院に入院した時期もありました。今ではまあまあ元気にしております。
●平和への思い
最近になって、県女のときの同級生だった親友から被爆後のことについて初めて具体的に話を聞きました。その人は原爆で両親を亡くされて、本当に苦労したそうです。もちろん両親が亡くなったことは知っていましたが、それがどんなに大変なことだったか、友人はこれまでにまったく話したことがなく、私も分かっていませんでした。どうしてもっと早く言ってくれなかったのか、私にも何か助けることができたかもしれないのにと涙を流しながら聞きました。
私の家族はみな無事だったし、私の苦しみも被爆者の中では軽い方だった、まだ幸せな方だったと思います。両親が亡くなったというのは、本当に大変なことで、原爆でそれまでの生活が一変し、自身も傷ついたことを思うと、このようなことは二度とあってはならないし、そういう人の経験こそ、記録に残して継承していってほしいと思います。
戦後、科学技術の発展は目覚ましいものがありますが、同時に核実験が次々と行われ、世界中で戦争や内戦が絶えることはありません。私自身の被爆体験が少しでも役に立つならばと思い、口述を残すことにしました。そして私の体験だけでなく、原爆により家族や生活を奪われてその後の人生を狂わされた人たちのことを少しでも多く残して、後世に伝えていただければと思います。
今の日本の平和は大切なものであり、いつまでも続くこと、そして核兵器のない平和な世界が実現することを心より願っております。
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