国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
鎮魂のしおり(馬場君への祈り) 
吉川 冨士子(よしかわ ふじこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2006年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
ゆっくりと目を開けた彼は驚きで言葉を失いました。「ここはどこ、何があったの」…周囲は煙の渦です。頭の中は真っ白です。しばらく考えて、「そうだ、あのB29が爆弾を落としたに違いない」。あの時の雷に撃たれたような衝撃を思い出しました。「きっとあの時、吹き飛ばされたに違いない。どれくらい経ったんだろうか」と思いを巡らせました。

まるでタイムスリップしたようでした。周囲の様子はすっかり変わっていました。一足飛びに地獄の中に迷い込んだみたいです。建物は崩れ飛び散り、瓦礫の山と化しています。原形を留めている建物は皆無でした。人は焼けただれ、手足はちぎれて、そこらに散乱しています。

彼は立ち上がると歩き始めました。足下に気をつけて歩かなければ、家の瓦礫や人につまずきます。町には道というものがなくなっていました。川に沿って歩くことにしました。すると一緒に歩いている人が干しいもを一切れくれました。ひたすら歩き続けて、家とは反対方向の江波山にたどり着きました。そこで大勢の被災者と一緒に一夜を過ごしました。山から見下ろすと町は火の海でした。

その頃、田舎では、「広島に大型爆弾が落とされたそうだ」「市内は全滅だそうな」「今朝、うちの者が市内に行ったけど、どうなったか」と、互いに家族や知人を案じ助けに出かける人、被災者に炊き出しの用意をする人、救急の支度をする人、市内に消火に出かける人などで、皆、目の回るような忙しさでした。

村人たちは被災者たちに重湯を出したり、傷の応急手当をしたりして、普段の訓練の成果を発揮しました。その場で座り込む人、行く当てがあるのか歩き出す人、そのまま息絶える人など、すべての被災者の世話が村人に委ねられました。

村の焼き場だけではとても処理できる死体数ではありませんでしたから、川原に仮の焼き場を作りました。村中、人の焼ける匂いでむせるようでした。

暑い季節ですから、傷口はうみます。それに蝿がたかり、うじ虫が湧いた状態で動いている人もいました。むしろに横たわる人、横たわりたくても全身火傷で横になれない人…。重湯を飲むのに椀をもてない人もいます。爆風のためか手の皮がむけて、手袋を脱いでぶらさげたように、手首に手の皮が垂れ下がっているのです。世話をされる方もする方も辛い思いをしました。

慌ただしい日が3日過ぎました。すっかり汚れた姿の馬場君が家に辿り着いたのです。近所の人々は、彼をまるで幽霊でも見るような目で見ました。彼はそんな人たちに懐かしい思いで、笑顔で「ただいま帰りました」と敬礼して通りました。家に入ってほっとしました。家族も大喜びでした。馬場君はかすり傷一つ負っていませんでした。とりわけ、お母さんは「よう帰ってきた」と、まるで他の言葉を忘れたかのように繰り返していました。

この3日間、家族はどんなに彼のことを案じたことか。何も音沙汰もない彼のことを。しかし、笑顔で元気いっぱいの姿で帰って来たのです。このことは心配に明け暮れている村人にも一筋の灯をともしたのでした。この3日間、彼はどんな目に遭って過ごして来たのだろうか、それにしてもよく生き延びたものだと口々に彼の帰還を喜びあう村人でした。

馬場君はそれから2、3日とても元気に過ごしました。そして彼は突如、体の不調を訴えたのです。少し熱もあるようです。あんなに元気だったのに、寝込むようになりました。無理もない、3日も大変な目に遭ったのだから、しばらく休んでいれば今に元気を取り戻すだろうと誰もが思っていました。

食糧難の折、近所の人たちも馬場君を心配して、産みたての卵や川魚を釣って持ち寄りました。しかし、一向に良くなる気配がありません。

ある夕食の席で馬場君は、「お母さん、今夜の食事は全然味が無い。まるで糠か砂をかむみたい」と言って箸を置きました。「少しでも頑張って食べないと元気になれないよ」と言われて、無理をして食べようとするのですがだめでした。

食欲は目に見えて落ちていきました。体力も日に日に落ちていきます。ある朝、「お母さん、今何時?」と聞くのです。「もう10時を回ったころよ。起きてみる?」と答えると、馬場君は「ふうん」と言って周囲を見回しました。そして、「10時でも真っ暗だよ」と言いました。目を開けてきょろきょろしているのですが、物が見えている目ではありません。お母さんの心は凍りつく思いでした。「何ということ!この子は味がわからなくなっただけでなく、視力も失うと言うのでしょうか」

それから数日後に、彼は静かに短い生涯を閉じたのでした。

彼が往って家族の悲しみはいかほどだったことでしょう。あの元気いっぱいの笑顔で敬礼して帰ってきた彼が、まるでロウソクの灯でも消すように、生きる証を一つずつ消してふっと往ってしまったのです。家族はもとより、村人の落胆は一通りのものではありませんでした。放射能、原爆症などについて知識もない人々は、ただ得体の知れない大型爆弾による病気の底知れぬ怖さに、不安な毎日を送ることになりました。

原爆は待望の中学生になったばかりの馬場君をも、容赦なくこの世から消し去ってしまったのです。

若くして往きし彼らの魂の
          安らかなれと祈りて幾年

富士子
  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針