●家族のこと
私の故郷は長崎です。長崎市水ノ浦町で父、母、姉3人、弟1人と暮らしていました。兄も2人いますが、長男の憲治は特攻隊を志願して甲種に合格し、海軍飛行予科練習生となって鹿児島県垂水市にいました。次男の栄治は学校を卒業後、株式会社錢高組に就職して実家を出ていました。長男が軍人だったこともあり、私は父から「ゆくゆくはお前も軍人になれ」と言われていました。
父、千代松と母、ソヨの家系みんながキリスト教徒で、私たちも家族全員がキリスト教の信者でした。私が幼稚園の時、母のソヨに「何で私はここの子になったのか」と聞いたことがあります。すると母は「胎内にあなたが宿った時から、あなたの将来のためにずっと祈っていた。神様に仕えるような人になってほしい」と答えました。この時の母との会話は、今でもずっと心に残っています。
●長崎から広島へ
父は三菱重工業(株)長崎造船所の係長でした。しかし、会社が広島に造船所を新設するのを機に転勤となり、昭和18年、先に単身で広島へ赴任していきました。私たちは、父が広島に引っ越してから1年後の1944年(昭和19年)9月25日に長崎を発(た)ち、翌日広島に着きました。私が国民学校2年生の時のことです。この時、一番上の姉・芳子だけが長崎市平戸小屋町の朝日国民学校で教師をしていたため、すぐに仕事を辞めることができず長崎に残りました。
無事広島には着いたものの、この時点で会社の社宅(南観音町)はまだ完成していませんでしたので、しばらくは広島造船所付近にあった「村上旅館」(江波町)で暮らすことになりました。旅館の窓からは、太田川の対岸にある吉島飛行場から飛び立つ観測機(オートジャイロ)を見ることができました。
●広島での生活
南観音町にできた社宅には1944年(昭和19年)の11月ころ移り住みました。広島造船所へは神戸と長崎のふたつの造船所から人員が集められたので、社宅で暮らす子どもたちが遊ぶときは、長崎、神戸、広島3つの方言が飛び交っていました。
同じ言葉でも、方言によって意味が全く違うものがありました。例えば、長崎では自分のことを「おい」、相手のことを「わい」と言いますが、関西では逆の意味なのです。神戸の子と遊んでいる時、「わいが先にするぞ」と言われ、私が相手より先にしようとすると、相手と被ってしまいケンカになることもありました。
広島の方言にも苦労しました。雨の日、傘を持っていた私は同じクラスの子に「傘に乗せてくれんか」と言われ、傘の上に人を乗せたら大変なことになると思い断りました。しかし、「乗せてくれんか」は広島弁で「入れてくれないか」を意味し、クラス中で「あいつはケチだ」と言われ、のけものにされたことがありました。
昭和20年の夏、長崎に残っていた姉、芳子の仕事の区切りがつき広島に引っ越してきました。広島に来てからは広島造船所で事務職に就いていたと思います。私より4歳年上の三番目の姉・洋子は、私と同じ観音国民学校の6年生でした。洋子は学校の集団疎開に参加していたので、原爆投下のときは比婆郡東城町(現在の庄原市)の能楽寺にいました。私も同じ場所に疎開するはずでしたが、幼少の弟がいて家で自由に動ける男子が私だけだったからか、母から「死ぬなら一緒に」と言われ、家に残ることになりました。
●原爆投下
8月6日は青空で快晴でした。8時少し前に、私は母からおつかいを頼まれました。病弱で野菜の買い出しに行けない、近所に住む六倉さんの奥さんのために、時折、野菜を届けていたのです。当時は野菜を買うのにも、自宅から7~8キロ離れた佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)や廿日市町(現在の廿日市市)まで行き、母の着物や父の靴等と物々交換で手に入れなければならないような時代でした。私は新鮮な瓜を2つ、両脇に抱え出かけました。
自宅から300メートル離れた場所にも広島造船所の別の社宅があり、そこへ向かって歩いていた時です。後ろからものすごく強烈な熱さを感じました。そして目の前がこの世のものとは思えないほどの真っ黄色の世界に包まれたのです。私は学校で教わっていた通り、すぐさま伏せ、鼓膜が破れないように耳の穴に親指を入れ、目玉が飛び出ないように手のひらで目を覆いました。社宅の建物の陰にいたおかげで閃光を直接受けず、体がビリビリする程度の熱さで済みました。この日は半ズボン姿だったので、もし建物の陰にいなかったら、大やけどをしていたことでしょう。また、社宅の防空壕の入口に置かれていたつい立て(ちょうど子どもが隠れられるくらいの高さのもの)が、たまたま爆心地に向かって立っていたおかげで、爆風も受けないですみました。
ほどなくして爆風が収まったので、私は家に帰ろうと歩き始めました。こんな時でも六倉さんに渡す瓜は抱えて持っていました。もう少しで家に着くところで、ご近所の宮内さんが玄関先で座布団を抱えてうずくまっていました。どうしたのかと尋ねると「お腹が…」と言うので見てみると、爆風で飛ばされた石がお腹に刺さっていました。宮内さんはその後、亡くなられました。
家に帰ると1階の天井板が落ちていました。私が入っていくとその天井板が割れ、隙間から血だらけの母と弟の宣治の姿が現れました。私は二人の姿を見て、思わず「お母さん、誰にやられたの!?」と言いました。この時点では、原爆が落とされたことを知る由もなく、誰かに攻撃されたとばかりに思ったのです。その後避難して初めて、ひどい目に遭ったのは我が家だけではなかったことを知りました。
●避難先で見た惨状
母と弟と再会した後、避難を始めました。その途中、ひどいやけどを負ったおじさんと出会いました。この人は野良仕事をしているときに背後から熱を浴びたそうで、着ていた絣の着物は、紺色部分が焼け焦げ、白の十字模様の箇所だけが焼けた背中に食い込んで残っている状態でした。
そのおじさんも一緒に、陸軍の救護所があると聞いていた南観音町の現在の県営総合グランドに向かいました。最初のころは、私たちと同じ軽症の人たちがほとんどでしたが、時間が経つにつれ、爆心地近くにいたであろう人たちが、ひどい姿で続々とやって来るようになりました。
グランドにやっと着いたころ、真っ黒な雨に遭いました。コールタールのような雨で、体につくとなかなか取れません。「敵が、次は油をまいて火をつけるそうだ」との噂がすぐに流れていました。グランドに到着した後は、軍が作った防空壕の奥にいたので、どのくらいの量の雨が降ったのかは分かりません。
しばらく防空壕にいた後、私たちは家に戻ることにしました。その途中、大勢の人たちが倒れたまま放置されているのを目にしました。「水をください…」「水を飲ませてください…」とお願いされても、偉い軍医の人に「水を飲ませると死ぬ」と言われたので、何もしてあげられませんでした。
避難する人たちの中に、鮮やかな色の夏用の訪問着を着た女の子がいました。背後から原爆を受けたようで、着物の後ろだけが焼け焦げていました。救護活動をしていた軍人は「非国民は後にしろ」と言ってこの子を助けようとしませんでした。恐らく裕福な家の子でモンペを着ていなかったため、彼は彼女の格好だけでそう判断したのです。この時に聞いた「非国民は後にしろ」の言葉は、今でも頭から離れません。
歩き続けていると、倒れている人たちの背中が金色に光っていることに気付きました。とてもきれいに見えたので、母に「何であの人たちの背中は光っているの?」と尋ねると「あれはね、ハエの卵ですよ」と教えてくれ、私はゾッとしました。
●家族の被爆状況
昼ごろ家に戻ると、姉二人が無事でいました。姉たちは朝早くに買い物に行った後、家の2階で休んでいた時に被爆しました。私は母と弟と再会後すぐに避難したので、この時まで姉たちとは会えていませんでした。被爆後も家の階段が残っていたので、階段が支えとなり2階は耐えることができたのです。もし階段が壊れていれば家は潰れていて、姉たちはまず無事ではなかったと思います。2人とも大きなけがはありませんでしたが、長姉の芳子のまぶたの上部には、亡くなるまでガラスが入っていました。「まだ音がするのよ」と言って触るとジョリジョリと顔から音が鳴っていました。
次姉の昌子は西高等女学校(現在の西区にあった女学校、原爆投下後に廃校となった)の2年生で、当日は学徒動員に行く予定でした。昌子の友達が家まで迎えに来ると、母は買い物から疲れて帰ってきた我が子を気遣って「悪いけどあなただけで先に行ってください」と、昌子を起こしもせずに言いました。その結果、姉は家にいて命拾いをしましたが、その友達はそのまま帰ってきませんでした。この子の父親は消防団員で、たまたまその日、自分のベルトを娘に付けてあげていて、それが目印になって変わり果てた姿になっても娘を捜し出すことができたそうです。
そのうち父も帰ってきて「みんな元気か、何ともないか」と声をかけてくれました。父は仕事場を疎開させる準備をしていて、江波町から疎開先に車で行く途中で被爆し、熱線を右側から受け顔半分にやけどを負いました。再会した時、やけどしている側から父の顔を見たので、初めに声をかけられた時は父と気づかず「自分もひどいけがをしているのに、親切な人がいるものだ」と思いました。しかし、反対側から見た瞬間、自分の父親と分かりとても驚きました。当時の車にはクーラーがなく、猛暑日で車の窓が全開だったおかげでガラスの破片によるけがはありませんでしたが、被爆により右手の親指以外がやけどで溶けて離れなくなったため、一本一本、指を分離させる手術を受けなければなりませんでした。
広島の家族はなんとか全員無事でしたが、爆心地から800メートル程のところに住んでいた長崎の親戚は、大勢、原爆で亡くなりました。
●終戦後すぐ母の出産
8月17日、身重だった母がまだ泥やガラスの破片だらけだった自宅の、2階の畳の上で弟の広治を出産しました。この時に母を助けてくれたのが、徴用されてか、もしくは自分で望むかで近所に住んでいた朝鮮の人たちでした。母は貧しい暮らしをしながらも、その人たちに野菜を分けてあげたりしていて、その恩返しをしてくれたのです。小学3年生で掃除を上手くできなかった私を手伝ってくれたのも、その人たちでした。
母の出産後は大変でした。被爆後は、どこの家も修理しないと住めない状態でした。そのため、周りの家からは朝から晩まで金づちの音が鳴り響き、赤ん坊はとても眠れたものではありませんでした。私が工事をしている家に行き、しばらく止めるようにお願いすると1、2分間騒音が止まるのが関の山でした。
●戦後の幟町教会
モーゼの十戒には、一週間の七日目は主の日として労働を休むよう定められていますが、キリスト教では亡くなって三日目に復活したキリストを主に捧げる日にしなさいと定められています。我が家では、広島に越してきてからも、日曜のたび礼拝に行かなければという意識が家族全員にありました。被爆前は、市の中心部にあった幟町教会までバスで通っていましたが、戦後の動乱期の間は、歩いて通わなければなりませんでした。母が出産後体調を崩していて、父も仕事のことで忙しかった時期は、長姉の芳子が教会へきょうだいを連れて行ってくれました。私とひと回り以上歳が離れていた芳子は、戦後、私が通っていた観音国民学校で教師をしていました。
頑丈に建てられていた幟町の教会は、被爆後も倒壊はしませんでしたが、延焼で焼け落ちてしまいました。被爆の年の暮れころに、その焼け跡に二畳もないくらいの小さなバラックが建てられ、そこでミサが開かれるようになりました。そこには折りたたみベッドがあり、ミサの時にはたたんで端に寄せ、その奥に祭壇が作られていました。小さいバラックなので信者全員が入ることはできません。あふれた人たちは、寒空の下でミサに参加していました。
ミサの後の楽しみは、信者たちに出されるちょっとした料理でした。中でも私が大好きだったのはコンビーフが混ざったご飯で、今でも思い出すと自分で作ってみようかと思います。
その時出されて初めて口にしたココアについて、とても面白いやりとりがありました。食事の支度をしていたチースリク神父が、私たちがココアを飲んでいると「もういっぱいですか?」と聞くのです。私が「はい、もう(お腹)いっぱいです」と答えると、チースリク神父は「もう一杯」と勘違いして、おかわりが注がれました。当時の広島はイエズス会の布教の重要拠点だったので、外国人の神父は珍しくなく、チースリク神父もその一人でした。
教会があった敷地は、しばらくトタンのバラックがぽつんと建っているだけの状態でしたが、大きなトラックに乗って進駐軍が呉市から毎週やって来るようになると、一気に片付け作業が進みました。灰、瓦礫、焼け跡全てを片付け、焼ける前とほとんど同じ場所に司祭館が再建され、大変驚きました。
●司祭としての道
1954年(昭和29年)、17歳の私は、これからの人生をどうするか、司祭として生きていくかという問題を考えるため、広島の郊外の長束修練院に泊まり込みで約3日間かけて「選定の黙想」という指導を受けました。それは長束修練院の院長、アルペ神父が広島を去る直前に行った最後の「選定の黙想」でした。アルぺ神父のお話を聞き司祭になることを決意した私は、翌1955年(昭和30年)、上京して神学校哲学院から上智大学へ通い、五年間は文学部哲学科(東京都四谷)で、四年間は神学部神学科(東京都練馬区)で学びました。
神学校の後輩に長谷川儀さんという人がいました。長谷川さんは、爆心地から1.2キロほど離れた川原で、友人が川に飛び込んで遊んでいるのを見ている時に被爆し、背中や腕に重傷を負いました。生死をさまよっているところを、医学の心得があったアルペ神父に救われ一命をとりとめ、神父の道を目指していました。
長谷川さんは、初めはフランシスコ会の修道院に行っていたのですが、被爆が原因で体調不良を起こしてからはそこでの厳しい修練を断念し、養生しながら幟町教会で手伝いをしていたのでした。実は、長谷川神父は私より6歳も年上なのですが、神父になったのが私より後だったのには、このような理由があったのです。
体が弱かった長谷川さんが、神学校の院長先生から、「怠けている」と嫌味を言われたことがありました。長谷川さんは被爆時のやけどのせいで、彼の背中の肉と骨の間にほとんどすき間が無くなっていることや、あの惨事から何年も経っているのに未だにつらい思いをしていることを私は知っていたので、院長先生に対し、「自分が被爆したこともないのに、あなたは見た目だけで人を判断するのですか?」と詰め寄りました。
●次世代への平和の思い
ヤコブの手紙の2章15節には、「もし兄弟姉妹が着るものもなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」とあります。人を十字架につけて、自分はそれにより楽をするのではなく、主のために命を捧げて働かなければなりません。ヨハネによる福音書15章13節キリストの言葉に「友のために命を捨てる、これ以上の愛はない」とあります。これこそが平和を成し遂げる根本的な部分だと思います。
私が上智大学在学中、世界一周を終えて帰国したアルペ神父が、生徒の前でお話をされたことがあります。「教会を支えているのは誰だと思いますか。メキシコでは、お金持ちの多額の寄付ではなく、貧しい人々が差し出す1ペソの積み重ねで教会が成り立っていましたよ。」
踏まれればしおれてしまう野の草のように、私たちは一人では何もできない存在かもしれませんが、一人ひとりが踏み出す一歩が集まって、大きなことが成し遂げられていくのです。平和への取り組みに関しても同じことだと思います。自分が持っている能力や命を相手のために捧げること、その積み重ねで平和が築かれていくのです。
私は1964年(昭和39年)に司祭となって以来、広島司教区内(広島市内、福山市、尾道市、松江市、呉市)の教会で50年以上働いてきました(2021年現在、幟町の広島司教館に在籍)。これからも役務となるのであれば、生きている限り証言活動を続けていきたいと思っています。 |