●はじめに
私は、今は平和記念公園となっている天神町で生まれ、育ちました。天神町にはいろいろなお店やお医者さん、大きな旅館もあって、にぎやかな街でした。98歳になった今でも、天神町で過ごしたころの楽しい思い出がよみがえります。
広島に原爆が落とされたとき、私は郊外にいたのですが、祖母たちは爆心地に近い天神町で被爆し、亡くなりました。原爆で自宅を失った私たち夫婦と娘は、戦後すぐに天神町を離れ、遠い町で暮らすことになりました。
●天神町
平和記念公園の昔の街並みを復元した地図を見ると、被爆前の街の様子やそこにいた人たちの顔が浮かんできます。天神町のある中島地区は活気があり、笑顔があふれる街でした。
天神町は元安川に面して南北に長く、町内会が北組と南組に分かれていて、私が住んでいた天神町14番地は北組にありました。南組に天神さんがあり、お祭りのときは、天神町筋に夜店が出てとても楽しかったです。材木町の妙法院の中にかさもり大明神が祭ってあり、ここにも夜店が出ることがありました。
新橋(今の平和大橋)のたもとにあった公設市場にはよく行きました。天神町筋にあった神戸屋のパンは有名でした。あんこが入った揚げパンがおいしかったのに、戦争になり、あんこも油もなくなって作れなくなってしまいました。
祖母が通っていた筑紫眼科の東に、川に下りる石段があり、わが家の向かいにあった大きな天城旅館の南端までが遊泳場になっていました。監視員がいて、赤と白の旗が立っているところでしか泳いではいけないことになっていましたが、子どもたちは冒険好きです。元安川の対岸にある菊川旅館の石垣まで泳いで帰ってきては、「行ってきた」と、誇らしげに言っていました。天城旅館の一人息子は同級生でした。
今の原爆ドーム・産業奨励館も子どもたちの遊び場でした。3階から1階まで、階段の手すりを滑り台のようにして一気に滑り降りるのです。スリル満点でしたが、よく怒られました。産業奨励館の前の貸しボートにもよく乗っていました。
祖母は、中島本町にあった原田外科に入院したことがあります。私は植田産婦人科で長女・裕子を出産し、生まれた後は、進藤小児科にお世話になりました。東皮膚科に行ったこともあります。
中島本町には、映画館が2つありました。昭和シネマ(元世界館)では新しい洋画を、もう一つの高千穂館では古い洋画を上映していました。夜は、1本分の値段で2本の映画を観ることができる「ナイトショー」が人気でした。学校では禁止されていましたが、こっそり家を抜け出して見に行き、祖母にしかられたことがありました。スター写真館では、証明写真を撮ってもらいました。
家の裏、西隣は材木町で、同級生の女の子がいる中島酒店でした。
煮豆売りは車を引いて、豆腐屋や金魚売りはたらいを担いでやってきました。どこの家にも中庭があって、わが家でも庭の池で金魚を飼っていました。
戦争中の思い出もあります。広島に軍人が多くなり、軍人が泊まる旅館が足りなくなりました。軍から軍人を泊められる家がないかとの照会があり、わが家の2階には5人ほど泊めていました。お金が支給されたので、料理は近くの魚屋さんに頼んで、わが家では泊めるだけです。戦地に赴く兵士から、私の写真を欲しいと言われ、渡したことがあります。戦死した兵士の遺族が、最後に泊まった家を見たいと言って訪ねてきたこともありました。
●父の死、祖父母との暮らし
私は大正12年(1923年)に天神町で生まれました。2歳のとき、軍人だった父・田村時之祐が亡くなりました。父の死後、しばらく天神町から離れ、宇品にあった母の実家で過ごしていたのですが、私は5歳になると、父の実家である天神町の田村家に引き取られ、祖父母と暮らすことになりました。その後、母は再婚しましたが、私は、夏休みに母の嫁ぎ先を訪れるなど母との関係は続いていました。
祖父母は、私を大切に育ててくれました。祖父は能(謡)の先生で、自宅の2階に稽古用の部屋がありました。私は材木町にあった誓願寺の無得幼稚園、水主町にあった中島尋常小学校に通いました。誓願寺には田村家のお墓があり、幼稚園に行く前にいつもお参りしていました。祖父が亡くなり、祖母との二人暮らしになりましたので、手に職をつけたいと考え、広島女子商業学校に入学しました。天神町から南段原町まで1時間歩いて通学していました。
●広島師団司令部に就職、そして結婚
女子商を卒業した後、校長の推薦で、広島城の中にあった広島師団司令部に勤めることになりました。就職前に憲兵が自宅に調査に来て驚きました。
女性が少ない職場で、門兵にじろじろ見られるのはいやでしたが、楽しいこともありました。昼休みに、軍人さんたちとバレーボールやテニスをしましたし、酒舗では、戦況の悪化で市中には出回らなくなっていたお菓子を買うことができました。
「留守宅送金係」として3年勤めましたが、結核を患って司令部を退職し、県立広島病院に通院しながら材木町にあった洋裁学校に通いました。その後、半年ほど銀行にも勤めました。
私が20歳のとき、祖母がもってきた縁談により本間太郎と結婚しました。太郎は、第百生命徴兵保険の広島支社に勤めていました。結婚後も、私たち夫婦は天神町で祖母と住まいを共にしていました。昭和18年に長女・裕子が生まれました。
●8月6日
被爆当時、天神町のわが家には、私たち夫婦と2歳の娘の裕子、祖母の田村ヨシと親戚の田村ツネの5人が暮らしていましたが、空襲に備え、安佐郡古市町(現在の広島市安佐南区)に友人のつてで家を借り、私と娘の裕子が古市に、祖母が天神町に残っていましたので、主人は天神町と古市の家を行ったり来たりして寝泊まりしていました。
8月6日の朝、夫・太郎は、古市の仮住まいを出て、自転車で仕事に向かいました。
原爆が投下された8時15分、古市の家の2階で、私が裕子にご飯を食べさせようとしたときでした。爆風で食べさせていたものが飛び、自分たちもつぶされそうになりました。裕子をすぐに抱いてふせましたが、棚の上から物が落ちてきました。
臨時の疎開先で近所の人とは親しくはなかったのですが、「大丈夫ですかー。すぐに避難しましょう」と言って、私と裕子がいる2階まで来てくれました。家を貸してくれた友達も飛んできて、慌てて裕子をおんぶして近くの農家の離れに逃げました。けがはありませんでした。
そのうち、広島市内から、たくさんの負傷者が避難してきました。途中で倒れる人も少なくありません。町内会長の指示で、川土手で井桁格子のように遺体を積んで焼くようになり、臭いが町中にただよっていました。あの臭いは今でも忘れることができません。
夫は横川で被爆し、やけどを負い、黒い雨に遭いながらも、古市の家に帰ってきました。夫が着ていた白いワイシャツはぼろぼろになって、灰色の汁が付いていました。洗濯しても汚れはなかなか落ちませんでした。夫は、被爆直後の大混乱で治療はしてもらえませんでしたが、自分で応急処置を施していました。夫・太郎の実家は神戸で、外科と眼科を開業していました。
天神町にいた祖母・ヨシと親戚・ツネの二人の安否が分かりません。夫は天神町に行こうとしましたが、ひどい火災で兵に止められ、すぐには市内に入ることができませんでした。夫は、被爆から3日目に天神町に入りましたが、街は壊滅し、焼き尽くされていました。避難所を捜しますが、2人の行方は分かりません。数日後、夫が天神町の自宅跡を訪ねると、他の人が占有しようと看板を立てているのを目にしたので、驚いて抜いたそうです。後に私も娘の裕子を連れて市内を捜し歩きましたが、何の手がかりもありませんでした。捜し疲れた古市への帰り道でカエルがよく鳴いていたので、今でもカエルの声を聞くと、当時が思い出され悲しくなります。
●鞆町へ
祖母・田村ヨシと親戚のツネの行方は分からず、天神町で爆死したと考えるしかありませんでした。天神町の自宅を失った私たち親子3人は、本間家の別荘がある沼隈郡鞆町(現在の福山市)に行くことにしました。広島駅から、負傷者がたくさん乗っている汽車で東に向かいました。尾道に着いたとき、天皇陛下から終戦を知らせる放送があったことを聞きました。福山駅に降り立ったとき、福山は空襲による焼け野が原で、まだ煙が立っていました。
しばらくは鞆町で暮らすことになりました。私も夫も髪の毛がごっそりと抜けました。
裕子の妹・玲子、眞由美が鞆で生まれました。玲子が中学に上がる前ごろ、本間の実家から声をかけられ、神戸市で生活することになりました。
●神戸での暮らし
半世紀以上、神戸で暮らしています。
夫は広島では保険会社に勤めていましたが、原爆にあって以来、伏せっていることが多くなり、神戸に戻ってからもほとんど働くことができませんでした。そのため、私は生活費や3人の子どもの学費を捻出するために仕事を見つけ、つらいときもありましたが働き続けました。夫は昭和49年に65歳で亡くなりました。私と娘2人はがんに侵されましたが、3人ともがんばって生きています。私自身は一人で過ごす時間が長くなりましたが、孫にも恵まれ、おだやかな毎日を送っています。
天神町に住んでいた人はほとんど亡くなりました。私たち家族も原爆の後遺症に苦しみました。原爆は恐ろしいものです。戦争をしてはいけません。みんなで楽しく過ごした天神町に思いをはせながら、戦争がない平和な世の中であることを願っています。 |