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原爆を知るおばあさんとして 
寺澤 英子(てらざわ ひでこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島市(西観音町)[現:広島市西区] 
被爆時職業 教師 
被爆時所属 観音国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●千田町の賀屋旅館
私の家族は賀屋旅館という宿を千田町で営んでいました。場所は千田町一丁目525番地の3、現在の電停鷹野橋と日赤病院前の間の辺りで、父・木枯島太郎(被爆当時66歳)、母・キョウ(55歳)、兄・稔(25歳)、姉・貞子(20歳)、そして親せきの人たちと一緒に暮らしていました。その頃、お客さんは出征前の兵士が多く、1937年に日中戦争が勃発して以降、下火になってしまうまで、宿を切り盛りしながらそこで暮らしました。

兵隊がたくさん泊まりに来たのは、戦地へ発つ宇品の港が近かったためです。当時は、今はそごうがある基町あたりから横川方面に向けて兵舎で、いつも門番が2人立っていました。そこから出征前の記念と言いますか、最後の食事のために賀屋旅館に泊まりにくるのです。当時、兵隊さん以外で、あのように旅館に過ごしに来た人はいなかったですね。

私はその時の様子をよく覚えています。鷹野橋のあたりで拡声器で「賀屋旅館」と呼んで、旅館の前にきました。兵隊たちが来ると、油の臭いで分かります。トラックで旅館に乗り付けて、20人ぐらいがバッと一斉に降りてきます。兵隊の持ち物は、背のう、鉄砲、野宿用の飯ごうなどです。兵士たちは宿に到着すると、靴をサッと並べて、荷物もきれいに並べて置きます。朝5時ごろ、港へ向かうためにトラックに乗り込んでいくときもサッと素早く、全てが整然としていました。そのような姿を、私は勇ましいなと思いながら眺めたものです。
 
●1937年ごろの千田町
千田町から海に出て潮が引いた時に貝を採った思い出もあります。元安川の向岸には広島刑務所がありましたので、囚人が移送されて来るときには、縄を付けられて刑務官と歩いているのが見えます。服の色でどうして捕まったか分かるようになっていました。何色はどんな犯罪をした人、とか言うように。怖いね、などと言いながら貝を採ったものです。

日中戦争が始まったのは1937年、私は10歳でした。最初の1~2年は、日本軍が中国の武漢三鎮(武昌市・漢口市・漢陽市)を陥落させたお祝いに街で旗行列をするなど景気がよく、母をはじめ旅館の皆が忙しそうに働いていました。しかし、1939~40年ごろになると、兵隊たちはもう旅館には泊まらず、そのまま戦地に出発するようになっていき、戦況が悪くなっているのを感じました。
 
●中町のパン組合
私が安田高等女学校に上がった1940年ごろ、戦況悪化のあおりを受け、賀屋旅館を手放すことにした木枯家は、中町に居を移しました。袋町国民学校の裏側の向かいあたり、中町2番地です。兄の稔は、その頃には兵役に行っていたので一緒に暮らしてはいませんでしたが、日曜には休暇がもらえましたし兵舎と家が近かったので、友達3、4人を連れて一時帰宅していました。夕方になると、兵舎に戻る合図のラッパがトットットーと鳴って帰っていきました。

父が新しく就いたのは、パンの共同組合の仕事でした。パン屋がパンを焼いて軍隊に納めますが、そのためのメリケン粉や砂糖、小豆などの材料を倉庫へもらいに来る人がいます。そういった材料やパンを管理していました。

1943年か44年までは、民間への販売用などにもパンを焼いていました。パンをもらうための切符が家1軒に5枚くらい出たとか、そういうことがあったように思います。でも、1945年に入ると食事もままならなくなり、父の職業柄、運がよければメリケン粉をちょっともらえる程度になってしまいました。
 
●灯火管制と夜間疎開
中町は繁華な地区でしたが、1945年ごろには、夜になると灯火管制で真っ暗でした。電気が夕方5時ごろについても、風呂敷で包んで暗くしてしまいます。本通も真っ暗になるのですが、ポツポツとだけ明かりが灯っていました。それは手相を見てくれる人たちです。兵隊がたまにやってきて手相を見せて将来を占ってもらっていました。

夜の間だけ疎開する夜間疎開も行われるようになりました。夜になると、町内会で行こうと声を掛け合い、頭巾をかぶって20人くらいで行列します。何十分も歩いて広島駅の裏手の山際にある饒津神社の境内に寝に行くのです。空襲警報が出ていなくても、いつ出るか分からないと言って行くのでした。お宮には入れてもらえないので、蚊がいたにも関わらず外の庭で寝ました。

空襲に備えてそんな風に灯火管制や夜間疎開をしていたのですが、結局広島では夜間の空襲はほとんどありませんでした。それがまさか、破壊されず奇麗なままの街に原爆を落とされることになるなんて、思いもしませんでした。「広島は空襲されなくて幸運ね」くらいに思っていたのです。報道は連日、日本軍の勝利を伝えていましたし、中国の街を陥落させたりすると、お祝いの旗行列で歩いたりしていたのですから。
 
●国民学校の教員に
1944年、私は国民学校の教員になりました。最初に勤めたのは観音国民学校です。多くの子どもたちは既に地方に疎開して、児童の人数は少なかったです。戦争末期には随分少なくなっていました。先生も大分少なくなっていました。そのため、2学年を合わせてクラスが編成されており、私は3年生と4年生の複式のクラスの担任でした。疎開先は学校によって決まっていて、観音国民学校は比婆郡の東城、徳雲寺いうお寺でした。

親と離れたくない子どもたちは疎開先に行かず、攻撃に備えて西観音町に近い人は西観音町の集会所、南観音町に近い人は南観音町の集会所に分かれて勉強していました。
 
●あの日の通勤風景
8月6日は太陽がきらきらと光って暑い日で、私が出掛けたのは朝7時半ごろでした。紙屋町から今と同じ出で立ちのあの電車に乗ると、車窓に建物疎開作業が見えました。家を倒した衝撃でパッと砂煙が舞い上がる中、男の人が縄を引っ張っている姿を覚えています。特に十日市のほうがひどかったですね。

観音を通って、観音国民学校の最寄りの天満町で電車を降ります。200か300メートルほど歩いて学校に行き、それから西観音寄りの集会所に出勤しました。
 
●原爆が落とされた瞬間
出勤して、黒板に「8月6日」とその日の日付を書きました。その日、ペアで仕事をすることになっていた先生が、「B29が来た。警戒警報が解除になったいうのに、何で飛行機が来るんかね」と言いました。その声と同時に原爆が炸裂しました。最初私は、集会所か、その先生を爆弾が直撃したのだと思いました。天井もバァっと落ち、後から聞きましたが落ちてきた柱で打たれてその先生は亡くなったそうです。警戒警報が解除になった直後に原爆が落とされたため、子どもたちはまだ登校しておらず、いるのは大人だけでした。

気が付いた時、私は原爆の爆風で飛ばされたのか、屋外のアスファルトの上にいました。県立広島第二中学校から集会所前に延びる道路です。あの頃の家はみな木造ですから、壊れた家の破片や砂煙が舞い上がり、目から口から入ってきて、息ができず、もうこれで死ぬのだと思いました。

昼間なのに外は真っ暗でした。投げ出された時に右半身をひどく負傷しましたから、右側から爆風が来たのだろうと思います。右腕の真ん中をひどく切り、顔の右側も傷つきました。また、右脚のひざ下もひどくえぐれて穴が開き、骨が見えてしまうほどでした。右太ももやわき腹などにガラス片が突き刺さりました。でも、私は屋内にいたからまだましだった方で、外にいた人は服はもとより皮膚まで引き裂けました。

その後しばらく記憶がありません。気が付くと、黒い雨が降ってきて、地面が水浸しになったことは覚えています。道行く人は皮膚を垂らし、目玉も飛び出していて、お母さんを呼んだり、水を欲したりしていました。傷ついた人が、あてもなく数歩歩くと倒れてしまうのを見ても、私はどうしてあげることもできず、血だらけのまま立ちすくみました。
 
●避難
どちらに逃げてよいのやらと困っていると、同僚で3年生を担当する先生に出会いました。その先生と出会ったことが運命だったと思います。その先生は、「まあひどい」と言って、南観音町に住む彼女の児童の保護者を頼って、私を連れて行ってくれたのです。児童とお母さんがおられて、家が焼けなかったので、おにぎりを作ってくださいました。蚊帳もあって、赤チンも塗ってもらえて、ありがたかったです。15日の終戦の日までそこに身を寄せました。

その間中、私は早く中町に帰りたいと願っていました。けがを押しても帰って、家族の安否を確認したかったのです。でも、街が燃え盛っていて、行ってはいけないと止められました。あまりに燃えたせいか、空が昼も夜も、1週間も真っ赤だったような気がします。真っ赤に燃える街を見て、もう中町には帰れないと覚悟しました。
それでも、助けてくれた3年生担当の先生は、蟹屋の家に帰っていきました。彼女には外傷はなかったと思ったのですが、その後早くに亡くなったと聞いています。もしかすると、原爆投下直後に爆心地に入って強い放射能を浴びた影響なのでしょうか。生きていれば、今でもとてもありがたく思っていると、先生にお礼を言いたいのですけれど。
 
●終戦直後
終戦を迎えたことは、玉音放送でなく人づてに聞いて知りました。私は日本が負けるなんて思ってもいなかったので、その時はまだ、負けたとは信じられず、また、けがも負ってこの先どうなるのか不安でした。すぐに安佐郡緑井村の父方の叔母の家まで歩いて向かいました。緊急時にはそこに集まるように事前に家族で決めていたからです。道中、既にアメリカ軍の人が駐留していて悪さをされたらと恐れて、私は顔に炭を塗って緑井村に向かいました。

大けがをしていた右脚は、緑井村に着いてから急に大出血してしまいました。手当てしないと出血多量で命を落とすやもと思われるほどで、リヤカーに乗せてもらって今井医院に連れていってもらい、医師に縫ってもらいました。骨が見えそうなくらいえぐれていたので、南観音町や緑井村にたどり着くまでは血が止まっていたことの方が不思議なくらいだったのです。

緑井村には、私より先に被爆前は市内南竹屋町の西正寺に住んでいた父の妹夫婦も避難して来ていました。私はそこで母を待ったのですが、なかなか来ないのです。3日目に、広島市中心部にいた人は全滅と聞いて絶望し、ご飯も食べずに頭がぼーっとなるまで泣きました。8月6日の朝は、母が出掛けに手を握ってくれたのです。その時のぬくもりを今も覚えていて、悲しくて悲しくてたまらないです。母の遺骨は見つかっていないのですが、兄が広島に戻ってから、家の跡地に母の眼鏡を見つけて死亡届を出しました。

フィリピンの戦地に行ったと思っていた兄は、まだ四国で訓練しながら戦地に赴くのを待つ間に終戦を迎えたそうで、幸いにも生きて広島に戻りました。姉・貞子は県庁へ行く途中で原爆に遭いましたが、母と同じく遺骨は見つかりませんでした。そのことを私は、新聞の投書に「戸籍だけが残った」と書きました。手元にあるのは、国民学校教員免許状と、姉の友達から取り寄せた写真だけです。
 
●父の帰還
よく私のことを捜したものだと感心しますが、初めて会う生徒の家族が、10月に学校を再開することを緑井村に知らせに来ました。それで私は、勤めていた学校に戻ることにしました。

10月初旬に学校が再開するという折、なんと、1か月半も戻らなかったので、てっきり亡くなったと思っていた父が、緑井村にやってきました。父は白島線の終点で、電車の中で被爆したそうです。すぐに物陰にかがんだため、大けがはしたものの、命は助かりました。でも、車掌さんは立ったまま骨になってしまうまで焼かれていたそうです。真夏で防火水槽にはボウフラが湧いていたのですが、水が欲しくてその中に8人ほどが頭を突っ込んでいるのを見たとも言っていました。そして父は、家族を捜しに中町へ行ったそうです。英子はいないかと立て札を立ててくれたのだと、後から人に聞いて知りました。

その後は、後頭部に穴が開いたようなけががひどくウジ虫が湧いてしまって、宇品の保養所で手当てを受けていました。家に戻った時も、ガーゼを当てていましたが穴は開いたままでした。私は嬉しくて父に抱きつきましたが、母への愛着と思慕はとても強く、父を目の前にしても、母を失った悲しみが心に突き刺さったままでした。その父はそれから3年後に他界しました。
 
●学校の再開
再開した観音国民学校で働くため、私は焼け残った三菱造船の社宅に住まわせてもらいました。親を亡くした子どもも多く、まだ複式(当時の複式は午前・午後の二部制)のままでした。子供たちは衛生状態が悪く、シラミが湧いて卵を産み、白髪頭のような見た目でした。体にわくシラミにも悩まされていました。占領軍からDDTというお薬が配られて、それをかけてもらうために児童が行列を作り、順番に消毒していきました。食べ物が手に入らないので、子どもたちはいつもお腹を空かせていて、成長も遅かったです。勉強に身を入れないといけないのですけれど、お腹が減ってそれどころではなく、集中できませんでしたね。
 
●戦後の広島
戦後すぐの広島の街で印象に残っているのは、相生橋の辺りの川に面したバラックです。スラムといった感じで、トイレも今のようには処理できず垂れ流されていました。汚物も垂れ流されているのに、生活に使う人もいました。ちまたに物はないけれど闇市が立って、生活は悲惨でした。原爆の被害もさることながら、このような困難な時代を経て復興してきたことを、もっと多くの人に知ってもらいたいです。
 
●結婚と出産
しばらくして、基町の復興住宅の抽選に当たったので引っ越しました。とはいえ、同居していた兄が早くに結婚したものですから、私は家に居づらくなって、しょっちゅう親せきの西正寺に泊まりに行っていました。基町に移って3年ほどたった頃、夫と結婚しました。幸い、職場などで私自身が差別を受けるようなことはありませんでしたが、それでも、夫と結婚するときは、まず初めに確認しました。「私が原爆に遭ってるけど、それでもいいの?」と。

夫は北京から引き揚げてきた人でした。輸送船みたいな船で帰還するのは大変だったと聞いています。結婚後は五日市の光禅寺の庫裏に一時的に身を寄せたのち、五日市に家を借りて越しました。

1952年の5月には長男が生まれ、その後、女の子が生まれました。長男が生まれるときは、健康で生まれてきてくれるか、もしものことがあったら…と、特に心配しました。当の息子も知らないことですが、実は毎日、近くにある塩屋神社に「五体満足で生まれてほしい」と拝みに行きました。長男が無事に生まれてきてくれた時には、それは安堵しました。
 
●体の不調を抱えながら
しかし、自分の体調には様々な不安を抱えてきました。1946年、学校が再開したばかりだというのに、私は体調を崩して逓信病院に入院し、2か月休職しました。アメリカから粉のミルクが配られて、それを飲んだからなのか分かりませんが、その後にお腹に回虫が湧いてしまったのです。加えて、背中の筋の強烈な痛みに襲われ、生理も3年止まりました。

その時の症状は病院での治療の甲斐があってよくなりましたが、その後も、甲状腺の機能が低いせいで強い悪寒を感じますし、40代で白内障にもなりました。肺ガンになり入退院を繰り返しました。13カ所に刺さったガラス片(へん)は、40代になるまで20年以上取り出さずに放置され続けたため、上から皮膚が覆うように治って、表面からは見えなくなってしまいました。後に、ガラスの破片がうき上がってきたので、外科の先生に皮膚を切って、そのいくつかを出してもらいました。

そんな中悲しかったのが、看護師さんからの言葉です。「原爆の後遺症が出て入院していても、(被爆者には医療保障の給付金があるから)お金がもらえていいじゃない」と言われました。ちっともよくなんてありません。被爆の後遺症で、どんなに体が苦しく、不安に思いながら暮らしていかなければならないか、もっと多くの人に知ってもらいたいと思います。
 
●教員生活を通して
59歳まで働いて教員を退職しました。定年直前に筋ジストロフィーで移動に困難がある子どもが体勢を崩した時、身を挺して助けてけがをしてしまったため、1年早く職場を離れました。公務障害となりました。

教員を長く続けてきたことには、被爆者として子どもたちに伝えたいことがあったことも影響しています。教員生活中、さまざまなことに取り組みました。                                                                                                 第2回広島平和音楽祭に簡単な作詞を応募して、音楽祭の冊子に掲載してもらったり、戦後、平和教育ができる世の中になったので、平和公園、原爆ドーム、原爆の子の像に有志の子どもたちを連れて行き、体験を語ることにも取り組みました。当時の教え子たちとは深い絆で結ばれ、今でも私を訪ねてきてくれることがあります。

引退後にも、何度も学校を訪問し「おばあちゃんの8月6日」などと題して子どもに向けて話をしました。孫の学校に行ったこともあります。2016年の8月6日には、松井一實広島市長の平和宣言に私の被爆体験が盛り込まれ、報道機関から取材も受けました。
 
●次世代に伝えたいメッセージ
私が原爆の体験を語ってきた中で一番伝えたかったのは、原爆の恐ろしさと戦争の惨めさです。戦争ほど無駄なものはありません。そして、あんなにひどい原爆や核兵器は絶対にいりません。昨今、社会のニュースに関心を持たなかったり、選挙のときに投票に行かない若い世代の人が増えていますが、そのことが戦争につながるということを理解してほしいと思います。

一昨年、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑の前でスピーチをしました。アメリカのことを憎いかと私に尋ねる人もいますが、私は憎いとは思いません。亡くなった母のことを思えば、原爆さえ落とされていなければと思いますが、日本も相手を攻撃して破壊しました。誤ったのは、当時の戦争を指導した人たちでした。そのために、若い人たちが犠牲になりました。指導者の考え方や言動は大事だと思います。ですので、影響力のあるアメリカ大統領のオバマ氏が広島を好意的に訪問した事は嬉しかったです。

私は「感謝すること」を信条としています。平和な社会も当たり前なことではなく有り難いことなのですから、大変感謝しています。若い人も、この先も平和が当たり前に保たれていくとは思わず、選挙や平和に関心を持ってほしいのです。
 
●家族へ
最後に、私の思いを受け止め、引き継いでくれている家族のことを、とてもありがたく思っています。長男は学校の教員になり、原爆について次世代に伝える活動に関心を持ってくれています。さらに孫も、原爆のことを勉強して平和公園のガイドをしたり、運営しているゲストハウスのお客さんに英語で私の話をしてくれたりしています。時折、ゲストハウスに泊まる海外のお客さんと、私も交流することもあります。フランス人のお客さんが私の誕生日を覚えていて、カードを送ってくれたこともありました。

子どもや孫が原爆の話を伝えてくれることがとても嬉しいです。そして、息子や孫が自分の利益ばかりにとらわれず、精いっぱい好きなことや大切だと思えることをしている姿も、素晴らしいと思っています。

今の平和はすごい過去があり、それぞれの人達の苦しみや格闘があって成立していることを決して忘れないで、戦争について考えまた行動して、戦争がない世の中が続くことを念頭において、戦争のつまらないことを知ってほしいと切実に思います。 

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