昭和20年私は気象大学の学生であったが、次第に戦況がきびしくなり夏休暇を出身地の広島気象台で実習を兼ねた応援のため8月4日広島に帰り、8月6日から勤務することになっていた。8月6日午前8時前家を出て電車に乗り、気象台のある江波に行くため土橋停留所(爆心地から500メートル位)で電車を乗り替えた。数分後西新町付近(爆心地から700メートル位)に来たとき運命の原子爆弾が炸裂した。前方でスパークの様な閃光が走り、砂煙が舞い上がり架線が垂れ下がり電車は止まった。そのときは原子爆弾とは知る由もなく、爆弾が近くに落ちたものと思い急いで電車から降り近くの防空壕に駆け込み次の爆弾投下を避けようとした。しばらく入っていたが爆弾投下もなく静かなので路上にでて見ると、砂塵は無く見通しがよくなっていた。すると周辺の家は殆ど倒壊し広島市内が見渡せる様になっていて、どんな爆弾が投下されたのかと驚きと不安な気持ちを持った。仕方なく気象台の方え歩いて行くことにしたが、倒壊した家屋が道を塞ぎ所々で火の手が上がり歩ける状態でなくなってきた。仕方なく気象台に行くことを諦め割合広い道を西に歩き祖母の疎開している田舎に行くことにした。
私は鉄製の満員電車で爆心とは反対側に居たため、殆ど無傷でメガネが無くなっている程度で普通に歩くことが出来た。途中火傷をしたと思われる多数の人が太田川に水を求めて降り、川辺に倒れている人も多数いた。また怪我や火傷で傷ついて倒れた人も多数見たけれど数があまりにも多く何も持たぬ私一人では何も出来なかった。私は本当に生地獄を目の前で見た様な感じで今も忘れることが出来ない。とくに板切れが目に突き刺さった女子学生が足早に通り過ぎる姿は目に焼きついている。私が30キロメーター位離れた田舎に着いたのは夜の8時過ぎであった。田舎(佐伯郡湯来町)でも相当大きな爆発音が聞こえた様で、家族や親戚の人が多数広島に出て居るので市内の状態を聞くため人々が私の家に集まり話が夜半まで続いた。親戚の人は市内停留所(爆心から2キロメーター位離れた所)で被災して顔は見るにしのびないほど火傷を受けていて、一時は快方に向かっていたが長くは生きることが出来なかった。私はほんの数分の差で電車に乗ることが出来たための幸運であった。
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