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被爆していた英文パンフレット 
古市 敏則(ふるいち としのり) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島地方気象台 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
最近、押し入れを整理中に、古い英文パンフレットが見つかった。私は広島地方気象台の技術課員だった。江波の気象台の対岸(東側)に、陸軍の飛行場があり、そこに気象担当の将校がいて、その将校から、翻訳のため預かったものだ。被爆の数日前だった。日本側がどこかで撃墜したB29から入手した搭乗員用の航空気象解説書のようだが、被爆で死の一歩前までの病気になり、すっかり忘れていた。確か高木少尉と記憶している。

私たち気象台職員は、陸、海軍が敵地を占領すれば、第一に気象観測を実施し、電報でデータを送り、撤去するときも最後まで、観測通報するものと聞いていた。太平洋戦争の初期は、ラジオ、新聞で報道される前に天気図のデータが入ってくるので、どんどん天気図上に外国の資料が拡大していくのを楽しんでいた。戦争も後半になって、北方のアッツ、キスカのデータが入電しなくなった。南もフィリピンのデータが次第に入電しなくなった。戦況が思わしくない様子が、手にとるようにわかった。

また、各地方都市でB29の大編隊による夜間爆撃が続き、7月には私の両親、弟妹のいる高松も空襲にあい、着のみ着のままで、田舎へ縁故避難をした。呉軍港、大竹燃料所への空襲を見聞きしたり、広島の憲兵隊の将校が米軍の広島湾上陸の予想資料にと、潮汐について調査、解説を求めに来台したりしたので、腹を決めて職務に励むしかないと考えていた。広島より小都市がほとんど空襲を受けているのに、なぜ、広島だけが空襲を受けないのか。呉まで来襲して、なぜ、広島へよらないのかふしぎに思っていた。

そんな時に原爆。気象台の一部に被害が出た。気象原簿の保管責任者でもあったので、被爆までは、使わない古い原簿は横穴式防空壕にはじめから保管し、時々出して使う近年の原簿は玄関わきにタコツボ式の防空壕を作って保管していたのを、被爆後は、再空襲にそなえて、全部横穴式で保管するように、7日、ひとりで、タコツボから横穴に移した。夜は、原簿と一緒に防空壕でくらした。また、広島在住の職員は家庭のこともあり、当番からはずして、他県出身者が主流となって当番を続けた。こうした無理が重なったのか、11日夜中、当番中に発病した。くたくたに疲れたという感覚もなく、40度近い発熱中でも、頭がぼおっとしたりの自覚がなく、普通と少しも変わっていないつもりで働いていた。ただ、頭で思っていることと体とがあわないようになっていった。
やがて固形物が食べられなくなり、最後には流動物ものどを通らなくなった。赤痢ではないかといわれ、郷里の香川県へ。若い職員が私を背中に縛りつけ、自転車で駅まで運んでくれた。列車内は覚えていない。父母の疎開していた親類の家にたどりつくと同時に気絶した。完全に栄養失調だった私が、割合早く原爆病におかされ、どうしようもないところを、両親、弟妹の夜も寝ない看病で、九死に一生を得たことは、まことに天の助け、恵みとしか言いようがない。この後、父が私の荷物を広島のアパートに取りに行った。部屋はめちゃめちゃになっていたが、火災を免れたので英文パンフレットも残ったらしい。

戦後数年は、8月6日までにこの一年、原爆後遺症で死んだ人何人、と発表されるごとに、ちょうど配給品をもらうためにならんでいる行列を思い出し、原爆で死んでいく列の中にいて、順番が近づいてくる感じで、自分は、今年はその人数に入らなかったが、来年かな、再来年かな――と、自分が被爆者の死出の列の人間なのだと、毎年再認識させられた。今となっては、年が年だから、あまりこの8月6日の再認識ショックもなく、若い時によく発生した体の斑点、下痢、脱力感も、年とともに違和感が感ぜられなくなっている。
 
取材メモから――ノンフィクション作家の柳田邦男氏の作品に『空白の天気図』というのがある。その中に、古市さんは広島地方気象台の職員として登場している。東京の中央気象台(現・気象庁)へ打電する広島気象台からの第一報の電信文を布袋に入れて、被爆数時間後、市中心部の逓信局へ向かった。若い台員の加藤照明さん、高杉正明さん2人を連れて出発、燃えさかる街中へ近づいたが、舟入橋付近で進めなくなり引き返した。途中の避難所で、ゲートルや水筒姿の古市さんらに「兵隊さん、水下さい」と被爆者が群れ集まったのに、なにもできない。「水筒の水を一口ずつ飲ませてやるのが私たちにできる精一杯のことでした」

古市さんは病み上がりの体にむち打って、高松の気象台に勤め始めた。瀕死の状態でふる里に帰った4カ月後の年の瀬。「高松の気象台に出頭しなければ、クビ(退職)になる。今、固定給が確保できるのは、親子7人中、病気上がりの自分しかいない。はってでも高松の気象台へ出頭し、適当な日勤で身を立てるようにしなければ……」と決意して、一家7人で、気象台近くの家を捜し、農家の納屋を借りて、12月20日から出勤した。両親と弟1人、妹3人が古市さんの両肩にかかっていた。

18歳からの気象台勤務だったが、組合運動、転勤勧告3年と公務員としての条件が悪くなり、勤続27年余りで退職した。兄の印刷製版会社に再就職し、いまは年金生活を送っている。「24歳になった長男が中学校の国語の先生になったんです」と、声をはずませる。「最近はテレビの原爆や核の番組をビデオにとって長男に見せます。あまり自分のことは話さないですね。言ってもせんないことだし。私の体は10年くらい一般人より老化が早いようです。ただ、新聞や本などにできるだけ目を通して、頭だけは柔らかくしておこうと心がけています」
 
 
出典 朝日新聞大阪社会部編 『手記被爆者たちの40年』 朝日新聞社 1986年 59~62頁

  

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