― 爆撃の街 広島 ―
昭和20年8月7日、朝
山陽本線、海田市駅(広島県安芸郡海田町)に下車した。晴天で朝陽はギラギラとまぶしかった。下り線ホームには、たくさんの通勤の男の人達が列車を待っていたが、話す人も少なく静かだった。その人々の間を縫うようにして進んだ。
広島は、昨日の爆撃で列車が不通になったとのことを耳にした。
「昨日の爆弾は、今までのと違うとったのう」
「きのう(6日)の昼から黒い雨が降ったんじゃ」
と、ボソボソと話すのが聞こえた。
わたし達のクラスは学徒動員解除ということで、3人の教官に引率されて8月5日の出発の予定だったが、軍の移送の関係で一日遅れの出発となった。昨日(6日)の朝、北陸本線の富山県の大門を出発し、北陸本線、東海道本線、山陽本線と乗り継いで山口へ向かった。
車中は、席に座る余地はなく立ち詰めの旅。若い体にも疲れは出た。車窓から景色を眺めるような気持ちの余裕はなかったが、田んぼの中に大きな黒牛が転んでいるのが目に入った。
ぎゅうぎゅうの立ち詰めの列車の中で一夜を過ごすことになった。途中、警戒警報が出て、トンネルの中でその解除をじっと待つことになった。「ここで爆撃されたらどうしよう」と不安と緊張の気持ちでいっぱいだった。そのうち警報解除となり、列車は再び動き出した。
夜が明け、外の景色が見えるようになる。「ああ、よかった。無事に夜が明けて朝の景色を見ることができて。」「これで山口へ帰れる、今夜は家族に会えるんだ」と…。
海田市駅の上り線の階段を降りると、そこには目を背けたくなるような異様な光景があった。
ホームに古びた一枚の筵を敷き、親子らしい二人が座っていた。母親の着物はボロボロ、頭髪はバラバラ。 顔も手も皮膚はなく生魚の皮を剥いだようだった。 側の幼な子も同じように…。子供が母親の膝の上によじ登ろうとするがなかなか這い上がることができず、母親は手を出そうともせず、声も出さず、じっと見ているだけだった。
初めて嗅ぐいやな臭いが、そこらじゅういっぱいに漂っていた。ホームの人は誰もが背を向けていた。人の間をかき分けるようにして、駅前の広場に出た。
小学校へ
やがて、山手の小学校へ引率されて行った。 腰を下ろしてゆっくり休む場が欲しかった。校庭に入ると、辺りから異様な臭気が漂ってきた。各教室の窓は開け放たれ、どの教室にも遺体がきちんと並べてあり、新たに運び込まれる遺体もあった。教室が遺体安置所になっていたのだ。どの遺体も風船のように膨らんだ泥色の顔で、着ている衣服も茶色っぽくこげて、静かに眠っているかのようだった。どの教室も。校舎の前の広場の空気までも異様な臭いに包まれていた。
誰かが運動場の片隅の防空壕を見つけた。4、5人が駆けて行ったが、すぐに血相を変えて走って帰ってきた。
「人がいっぱいで入れんよ。中は臭うて入らりゃあせんよ。」
爆撃で怪我をした人たちが避難して来たのだろう。夏休みの教室の変わり様、暑さの中、とうとう腰を下ろす場所は見つからなかった。やがて、警戒警報解除となり、校庭を出て行った。
広島の街へ
引率の教官の後を黙々と歩いた。17歳の少女達には話し声も笑いもなく、ただ黙々と歩を進めた。
街の通りへ出た。辺り一面、コンクリートの瓦礫の広がる世界。街並みの風景は見られなかった。見渡す限り瓦礫の平面の広がりで灰色の世界だった。全壊を免れた建物の二階の窓からは、真っ赤な炎が吹き出して、道行く人の皮膚に熱風を感じさせた。夏の日盛りに熱風があたり熱かったのを憶えている。
絶え間なく行き交う人たち、着ている服はボロボロ。顔も汚れたままの人の列が途切れることなく続いていた。全身真っ白な布に包まれ、目鼻口だけを見せて歩く人たちともすれ違った。誰も無口で静かに歩いていく。 道の片側に兵隊の遺体がズラリと並べてあった。鉄兜をかぶり、どの顔も泥色で風船のように膨らみ、静かに眠っているように見えた。元気な兵隊が一体一体調べながら、手帳に書き留めているのを見た。
私たちは、真夏の太陽が遠慮なく照りつけ異臭が漂う中を歩き続けた。
ふと山側の方を見ると、駅らしい建物が見えた。駅舎と思われるホームの屋根は、波を打つように曲がって見えた。グニャグニャのホームらしき所に、窓ガラスは飛び散り窓枠だけになった一両の車両が見えた。あれは広島駅だろう。海田市駅からここまで、真夏の暑さに耐えながら歩いて来たのだ。
やがて、鉄橋にさしかかった。これを渡らなければ家族と会うことはできない。向こう岸は遠かった。上り方面へ歩く人も途切れることなく反対側から渡ってくる。こちらも誰一人ひるむことなく、一歩ずつ枕木を踏み外すことなく渡った。生まれて初めての経験である。川幅もあり、下を見れば小石の河原で、水が小石の間を静かに流れていた。クラス全員が向う岸の土地に足をつけることができた。誰の顔も和やかになった。不安と緊張から解放された少女たちの顔。笑みを浮かべて歩き始めた。ここでも白布に身を包んだ人とすれ違った。消毒や薬品の匂いをぷんぷん振りまくようにして歩いて行った。
己斐の駅
己斐の駅に着いた。荒野と化した広島の街を通り、鉄橋の枕木を一歩一歩踏みしめながら渡り、やっと街並みの見える駅に着いたのだ。己斐駅のホームで列車を待つ。今まで縦に並んでいた列が丸くなることができた。教官の顔も見ることができた。口数の少なかった仲間もおしゃべりをするようにもなった。
昨日の朝、富山(大門)を出発して列車で一晩明かし、爆撃で破壊された広島の街中を、真夏の日中を歩き、鉄橋の枕木を一歩一歩踏みしめて進み、ここまで帰って来たのだ。三十数名の少女を引率して帰ってきた教官の疲れはさぞかしだったろう。
下り列車に乗る。これで我が家へ帰れる。友達同志の話し声も、明るく賑やかになった。
故郷へ
岩国へさしかかると、一人、二人と、下車していった。座席にも座れるようになった。脳裏に描くのは家族と逢ったときの光景。早く日の明るいうちに帰り着きたい。しかし、既に夏の太陽は少し西に傾いていた。久しぶりに見る山口県の景色。山も、海も、懐かしかった。約10か月ぶりの故郷の地だった。
― 学徒動員(名古屋~富山越中大門)―
学徒勤労令(昭和19年8月23日発令)
昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発した。戦争が激しくなり、若い男の人たちは赤紙で招集され、仕事を辞め、家族と別れて軍に入隊。訓練の後、戦地へ送られて行った。また、自ら志願して軍隊に入った若者もいた。日本軍は、いろいろな場所で戦い、負傷し、戦場で御国のためにと尊い命を奪われた人も多かった。その中には若者もたくさんいた。幼馴染みの男の子も逝ってしまった。日本国内は戦争一色に染まって行った。
そのうち学徒勤労令が発令となり、中等学校以上の男子生徒が学業を捨てて動員され、あちこちの軍需工場へ送られるようになった。やがて、女子学徒にも勤労令が発令され、学業を離れて軍需工場へ動員されるようになった。
昭和19年秋、わたし達も遠く富山まで向かわされることとなった。
名古屋
最初に向かったのは名古屋だった。毎日、宿舎から工場まで往復した。工場では、万力と金槌で簡単な操作の訓練が続いた。作業中、警戒警報のサイレンが鳴り、防空頭巾をかぶり駆け足で宿舎まで避難するということが、名古屋滞在中に何度かあった。
富山へ
秋が深まり少し寒さを感じる頃、富山へ移動することになった。夜行列車で北陸本線を富山方面へ向かった。列車の外は真っ白な雪。車窓にボタン雪のような雪がしきりに吹きつけ、窓は真っ白になっていた。明くる朝、越中大門の駅に下車した。辺りは見たこともない雪の量で、一面の銀世界。民家の屋根は見えるが軒下まで雪の塀。道路だけはきちんと開けて、通行は楽にできた。でも、足元はビチョビチョで靴は濡れてしまう。冷たかったのを覚えている。足の指に霜やけができて赤く腫れ、夜、体が温もると痒くなって寝つきを妨げられた。
寮はと言うと、一階の窓は雪で閉ざされて真っ暗。昼も電灯が必要な状態だった。私は運よく二階の部屋に落ち着くことになった。窓を開けると下からの雪の壁に手が届く。
さぞかし寒かったろうにどのようにその冬を過ごしたか、火の気のない部屋でどのように過ごしたろうか。暖をとるのは自分の体温と自分の寝具だけ。しかし、冬の間、風邪などの病気はしなかった。若さという力だったのだろう。冷えた身体で自分の布団にもぐり込んで睡眠できたのも、若さだったのだろう。発熱の病人が出れば、窓の外の雪を氷代わりに利用した。
寮生活 ― シラミ ―
一日の作業を終え、唯一の楽しみは入浴。週に2回くらいだったろうか。女工さんたちと一緒の大浴場だった。ここでシラミの初体験。夜、体が温まってくると、体のあちこちがかゆくなってくる。夜中、暗い電灯の下で、下着の縫い目や皺に潜んでいるシラミを探し、両手の親指の爪で潰して次の眠りに入ることしばしば。その時の「プチッ」という音は、今も忘れられない。卒業後時々開催された同総会の席でも話題となり、みんなで感を一つにした。 衛生、不衛生などと言える時代ではなかった。当時の大浴場でなければ経験できないことだった。
もう一つ忘れられないのが食事。昼食には尾頭つきのニシンの煮付が出てきた。最初の頃は、ニシン自体の匂いが鼻についたが、毎日食器に盛られるとそれにも慣れて来た。毎昼食の野菜とニシンの煮付けで満腹を感じていた。
寮の後ろ側に庄川が流れていた。川面の雪が少しずつ消えて行き、近づく春を感じるようになってきた。両岸の低木の姿が見られるようになると、近所の農家の人が寮のそばにある畑の雪を掘り起こして野菜を持ち帰って行く姿をよく見受けた。掘り起こしたところから黒々とした土が見えた。雪国の人たちの生活を垣間見ることができた。
夜の警報
その頃から、消灯して眠りに入った頃、突然サイレンが鳴り響くことがあった。警戒警報だ。
敵機(アメリカ)B29がこちらへ襲来するという報せである。せっかく温もりかけたふとんを蹴って、避難の用意。防空頭巾と肩掛の袋を身に着けて寮の近くの農家の庭先へ避難して、B29が飛び去るのをじっと待った。頭上を飛ぶB29の編隊に、何とも言えない不気味さと恐怖感を憶えた。編隊は、いつも富山市の方へ飛んで行った(2、3回)。
「今夜はB29が多いね。」
何時もより大きい爆音を響かせて頭上を飛び去って行った。しばらくすると、大きな爆発音が次から次へ。富山市方面の夜空が昼間のように明るくなった、何か所も何か所も。農家の庭先の生垣の間から眺めていた。
翌日、職場で富山市の空襲の話を聞いた。B29は、最初、市の周辺を爆撃し、次いで焼夷弾を街中に落としたと。市民が逃げようにも道を塞がれたような形でやられたのだと、工員さんたちから聞いた。
職場
工場では、それぞれの持ち場へ配置された。「尾部ナセル」飛行機の尾翼あたりの数多くの小さな部品が分類して並べてあって、現場からの部品の注文に応じて処理する仕事だった。いつの頃からか部品が揃わず、現場からの注文に応じられなくなった。小さな部品だが、不揃いで箱の隅まで探したこともあった。組立現場では作業が進まず、組立途中の機体が長い間居座っていた。部品調達のために1時間くらい離れた福野工場へ、2、3回出張させられたが、ここでも部品不足で、手ぶらで帰ったこともあった。
「これじゃあ、日本は大丈夫?」
と、部品庫の陰でひそひそと話したこともあった。「仙崎(山口県)の方では、国防婦人会が竹ヤリの練習をしているそうだと手紙に書いてあったよ」という友達もいた。17才の少女が戦争の行く末を案じる場面もあった。
― 動員解除 ―
昭和20年8月5日。
私たちの学年だけ、動員学徒勤労令が解除となった。帰郷できるというので、いそいそと身の回りの整理をした。
ところが、急に出発が一日延期ということになった。後で聞いた話だが、私たちが乗る予定だった8月5日の列車は、軍隊優先のため民間人は乗れなくなったとのことで、出発は一日遅れの8月6日の朝ということになった。
大門出発
6日朝、出発。大門の地を離れた。
列車の中では殆ど立ち詰めで、自分の手荷物の上に腰を下ろして交代々々で休んだ。夜、トンネルの中で警戒警報が鳴った。列車はそこへ止まったまま。「もし爆撃されたらどうなる?」という不安と緊張で、話をする者は誰一人いなかった。やがて解除となり、ヤレヤレ。恐怖感から解放された。
列車は走り出した。7日朝を迎え、真夏の朝の光を浴びて海田市駅に下車した。そして、昭和20年8月7日のヒロシマで「真夏の地獄絵」を見ることとなった。
帰宅休養
7日、日も暮れてみんなが寝静まるころ、家に辿り着いた。当時は電話もなく、バスもなく、一人とぼとぼと暗い田舎の夜道を歩いたのだ。
4、5日休養した後、学校に戻ることになった。その間に、私の頭に取り付いていたシラミを駆除しなければならなかった。早速、祖母が山から馬酔木の枝を持ち帰り、その煎じ汁で頭を洗ってくれた。おかげで頭もきれいさっぱりとなったのを憶えている。昔の人には、自然の草木を利用する知恵があった。
帰校
8月13日、学校へ戻った。寮の部屋の窓から明るい声が響いていた。運動場の真中は耕され、サツマイモ畑になっていた。
光工廠 爆撃
8月14日午後、警戒警報のサイレンが鳴った。何時ものように身支度をして、動員前にみんなで掘った防空壕へ避難した。校舎の裏の林の中にいくつかの壕を掘っていたのだ。そのうち、B29が南の方から爆音を響かせて頭上を通り過ぎたと思うと、爆発音が聞こえ、壕の壁がグラグラ揺れた。頭の上からは土がボロボロと落ちてきた。
光(山口県光市)の工廠がやられたのだ。一番近くの工場が爆撃されたのだった。壕からの距離は2、3キロメートルばかりだろうか。B29のあの音は、今も耳に焼きついている。ここには旧制の中学生や女学生が動員中だったと後から聞いた。山口中学校や中村女学校の生徒の犠牲者が出たそうだ。
翌15日、終戦。日本は無条件降伏で負けたのだ。全寮に放送が流れた。今まで、戦時色の濃い音楽が流れていたが、しばらくすると、明るい「りんごの唄」が流れるようになった。
― 終わりに ―
終戦から75年。あの戦争の時代を生きた人たちもだんだん少なくなってきた。平和な世に生きている自分たち。現在の幸せが次の世代へと永く続いてほしいものだ。
昭和20年8月7日、原爆の恐ろしい力を見せつけられた経験を書き留めた。一日遅れで原爆の後の生々しい広島の街を歩いて経験したこと、見た光景や臭いを書き残しておきたいと思いながらも、75年の長い年月が過ぎてしまった。しかし、あの時の広島の光景や臭いは、今も頭に残っている。そして毎年盆が近づくと、その時の情景が鮮明に蘇ってくる。
「今までにない爆弾」→ 「ピカドン」→「原子爆弾」と、その名も次第に変わって行った。
あの時の広島の街の光景は、現在の広島市の様子からはうかがい知ることは難しかろう。昭和38年秋ごろ、修学旅行の引率で原爆資料館を見学したのを思い出す。
太平洋戦争(昭和16年12月8日〜昭和20年8月15日)を経験した者として、戦争に勝とうと老いも若きも国民一体となったあの時代を忘れることはできない。
「どうぞ、平和で幸せな日々が永遠に続きますように」と、願わずにはいられない。
おわり
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