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語り伝えようヒロシマ 
梅宮 玉枝(うめみや たまえ) 
性別 女性  被爆時年齢 1歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私が広島で被爆したのは二歳にも満たない時でした。母や近所の人達と親族や知人と救助するために広島に入市し、残留放射能を受けた被爆者です。現在千葉県柏市の公務員として、児童相手の仕事をしながら来春、十六年三月には定年を迎える身です。

長い期間、広島県民以外の人とのつながりの中で、ヒロシマに対する意識の移りかわりを、仕事を通して感じてきました。

私が広島出身の被爆者だと知ると、先輩の戦争体験者の方は、戦地でのこと、東京大空襲や家族が出兵された時の話をされ、子供さんを疎開させた時の、親子の淋しさや不びんさを涙ながらに語られた。私もわかる範囲で答えたものです。

学生時代に教科書で学習しただけの私にとっては、体験者のやさしい語りの中から伝わる重さに驚いたのは社会人になった頃のことです。「ヒロシマ」から想像するもので一番多かったのは、原子爆弾と答えた当時の児童たち。

それが「広島カープ」や「サンフレッチェ」になり、文化遺産の話をしても宮島は思い出すのに原爆ドームを口にする児が少なくなった。それが今日ではそれすらも知らない児の多い現実を知り悲しくなります。

「私は被爆者です」と教えると、焼けただれた皮膚やケロイドを見つけようと目を輝かせてさがそうとする。目に見える症状がなければ信用できない様子だ。

わたしは日本、アメリカ双方とも被害国であり、加害国でもあると教えているし、事実を真正面から見る素直さと勇気を持った人間として成長してほしいと願っています。しかし残忍、残酷、残虐なものをテレビや本、ゲーム等で見なれている現代っ子たち。殺人事件をニュースで知ると、家族の気持ちを察することも忘れて、殺人の方法に関心がある。マスコミによって作られた性格なら悲しいことだ。ドライな感覚の児童たちに、外傷ならともかく、心の痛みを理解させることは本当に難しい。「話さなければ伝わらない」と父が口にしていた。人に話せるだけの記憶が私にあればいいのだが幼すぎて何も覚えていない。

二十一年生まれの体験のない妹は、両親から聞いた話を、未熟ながらも語っている。戦争の無意味さや平和の尊さ、原子爆弾の威力を伝えなくては昔話になってしまう。子育ての終わった妹は語りつぐことをライフワークにするのだと私に言う。仕事であれこれ悩む私とちがって、ボランティア活動に精を出すのは立派なことだと思う。

私の父は二十七歳の時、爆心地から千八百メートルの場所で直接被爆し、認定被爆者となり胃癌で死去したが、生前によく言っていた。

「広島市内が見渡せる山の上で、一日中ゆっくり望遠鏡を通してながめる余裕のある人間はいなかった。家族を探す人や家路に急ぐ人達が、死体をまたぎながら走りまわった気が狂わんばかりの状態、町の情景をこと細かに覚えてはいなくても、あの時の気持ちを忘れたことはないはずだ。その事を若者に話すことは、生き残った人の大切な役目だと思うぞ。」

本当にその通りだし、私も定年後は妹を見習って活動をしてみようと思う。病気がちで入退院をくり返してきた私、遠方の橋本久勝先生の診療を受けたくて、日帰りという強行日程で広島まで何度行ったことやら。おかげで現在健康にすごしている。こんな私だから語れることがあると思う。生きていることこそが、最高のしあわせであり平和であることを信じて伝えよう。
  

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