あれから50年、当時の記憶も、だいぶ薄れがちとなりました。がしかし被爆直後の広島市の惨状は未だに、私の脳裏に強烈に鮮明に深く焼きついてはなれません。
8月6日、市街壊滅の報で、私達江田島幸の浦で、所謂㋹特攻隊要員として猛訓練中の陸軍船舶練習部第10教育隊に直ちに救援の出動命令が下り、正午大発動艇で宇品港に上陸、桟橋付近には、似島に移送される全身血まみれ、大火傷の老若男女の夥しい被爆者が、悲鳴や、うめき声をあげて、うづくまったり横臥しているのを見て、血の凍る思いがして、極度の緊張感を生じました。直ぐ爆心地に向けて電車道路沿いに、猛火の中、瓦礫の山と化した街中を、障害物を排除しながら、徒歩で中心部に到着、中国銀行、八丁堀方面で約1週間、焼け残ったビルの中、或は電車内で野営、殆ど不眠不休で負傷者の救護、屍体処理、火葬等に従事しました。爆発時の高熱の閃光を浴びた為、大火傷された被爆者も多く「兵隊さん水を!」と、とぎれとぎれに力なくつぶやいて息を引き取っていきました。又極熱に堪えかねての水分欲しさに、井戸の中、防火用水槽の中、河川等には夥しい無残な屍体がありました。そして収容した遺体は、焼け残りの木材を拾い集め、適当に組んで其の上に10体~20体単位で、安置して涙ながらに、そして心に念仏を唱え、ご冥福を祈りながら断腸の思いで火葬に付しました。殆ど氏名の確認はできず、性別と大体の年齢、特徴を推定して記録しました。余りにも遺体の損傷の凄まじさに、最初は吐き気を催したり、食欲も皆無と云った状態でしたが、ひたすら救援の使命感に燃えて全力を尽しました。戦後ずっと、私達は戦友会を年1回、開催していますが、毎年、原爆後遺症で戦友の何人かゞ不帰の客となっています。
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