序文
これは私の回顧録に過ぎない、戦記でもなく核戦争排絶を叫ぶ訴えを目的とするものでもない、私の軍隊生活の中で、いや人生の中で最も衝撃的な事件であって今でも生々しく想い出されるので全容を書き遺したに過ぎない。
原爆についての体験談を戦友会の便りに書いて欲しいと加藤嘉一兄より頼まれた時、内心では書く気は起きなかった。それは実に嫌な想出であり又悲惨な死を遂げた方々の姿を紹介せねばならずその霊を冒瀆する気持ちが引懸っていた為であった。原爆被爆者の多くが余り人に話さない現実は、想い出したくない、生き残った苛責の気持ちがある、到底判って貰えないと言う考えからで私も同じであった。然し原爆体験者がどんどん減ってゆきこの事件が歴史の一頁に葬られて行くに当り正確な情報を残しておくことは体験者の責務であると考え直し筆をとることにした。
起稿にあたり我が中隊と出動部隊の行動を記述の主軸とし悲惨な情景描写や私情私見は最小限度に止める積りだったが書き進む内に当時の情景が瞼に浮び胸が熱くなって罹災者の姿や妻のことを相当書き入れて了った。けれど之は原爆がもたらした罪悪を知って貰う上では必要なことかも知れない。
私が酷い火傷も受けず元気であった事と、軍人として任務を持って指揮した立場にあった事は幸いに原爆を冷静に見てこられたことに繋がり、瀕死の苦しみを味わった被爆者の手記や作家の想像と自説を加えた話よりは単調ではあるが間違いが少いものと思っている。而し乍ら最近戦友会等の雑誌に救援記事が出るようになり、又米軍の資料が公開されるに及び之を読んでいる内に私の記憶が誤っていたのではないかとの迷いもあったがこの文では自分の記憶に忠実に従った。従って日時、場所、行動で怪しい部分もあるかも知れないが何卒ご容赦賜りたい。
最後に犠牲になられた方達に対し君達の事を書いてご免ねとお詫を申し上げその御霊のご冥福を心よりお祈り申し上げる。
以上
原爆
真青な雲一つない運命の8月6日の朝が白んできた。前夜は宇品神田通り12丁目の我家に帰ったが宇部方面への空襲で広島も一晩中空襲警報が鳴り、ラジオの情報に噛りつき殆ど眠れなかった。警報は夜明け前に解除となったが寝る気にならず起きて顔を洗い出勤の支度をして朝食に掛った。飯を喰べながら半年前に結婚した妻に、呉も福山も宇部も焼かれたので愈々広島に大空襲があるに間違いないからとその時の注意と隊との連絡について話して午前6時すぎ我家を出た。
宇品線の鉄道線路に沿った田舎道を歩いていくと附近の畠には夏野菜が緑色に濡れ道端の小川には小さい目高が可愛らしく泳いで何時もと変わらぬ平和な風景が広がっていた。野戦船舶本廠の衛門を潜り桟橋に行くと金輪丸には軍属、徴用工、挺身隊の学生など工場で働く連中が一杯に乗船しており皆んな明るい元気な顔をしていた。我々将校は最後に乗り、船は静かに桟橋を離れて行ったがこの1時間余り後に残虐無比な原子爆弾が無警告で無辜の市民の上に落とされようとは誰一人予想している者は居なかった。
金輪島の暁6140部隊修理部の桟橋に上り私の造船中隊、隊名密隊の中隊事務室に入り週番士官の報告のあと広場に整列している兵に朝礼を行ない工場事務室で作業服に着替え奥の机の椅子に座って何やら話していた時、事務室の前の木船工場の方から電気溶接のアークのような青白い強烈な光が差込み室内を2秒近く照し続けた。私は立ち上って
「又木船工場で漏電スパークを起したな」
と怒鳴って入口の扉の方へ向った。両側に机を並べて仕事を始めていた下士官・軍属・兵も同時に立上って入口の方に駈けて行った。丁度全員が戸口に集って漏電個所は何処かと見ていた瞬間、ドーンと云う大音響が轟き全員事務室中央の床に吹飛ばされ折重なって倒れた。私は後にいたので一番下敷きになり踠いていると事務室の屋根に明取のために取付けられているワイヤネット入りの厚ガラスが壊れてスローモーションで落下してくるのが目に入った。避けることが出来ず俯伏せになって頭を抱えているとガラス片や瓦が音を立てて床を敲いた。
「退避!」
と叫んで飛起き散乱している残骸を乗越えて全員無我夢中で事務室脇の防空壕に飛込んだ。暫くジーツとしていたが次の爆発音も航空機の爆音もなくシーンと静かなので独り壕を出て辺りを見廻すと、兵舎も工場も建っているし上空には敵機の姿もない。全員を外に出して見ると下田兵長は頭より血を流し他の連中も顔や手から血を出している。私は下敷きになったせいか腕に軽い切傷を受けただけで済んだ。原爆炸裂は8時15分であったのでその数分後の情況であった。何が起きたのかさっぱり見当がつかなかったが先ず傷の手当てをせねばと一同事務室に戻り応急手当てをした。私は兵や工員、学生達にも多数負傷者が出ていると睨み中隊事務室で指揮を執らうと思って事務室脇の出入口より中隊広場に飛出すと中隊の方からこちらに走ってくる下士官達と途中でバッタリ出合った。
「隊長!何があったんですか」
「判らん」
「怪我をされていますね」
「大した傷ではない、お前達の方はどうだ」
「これから調べるところです」
その時長谷川曹長がやって来て
「隊長!あれは一体何ですか」
と裏の建物の方を指差したので振返って見ると白銀に包まれた紅蓮の火柱が傲然と天に向って聳えているではないか!良く見ると紅蓮の火柱は中で昇っているかと思うと下に降りている炎もある。衣の間に見え隠れする炎は熔鉱炉から流れ出る鉄のように輝き、その炎の中には紫色や黒色や緑色など色々の縞が混り活発に動いている。そして白銀の割目より金色や赤や紫の炎と黒い煙が太陽のプロミネントのように空中に吹き出している。この灼熱の巨大な火柱は捩れたり膨れたり生き物のように動き仲々形を崩さうとしない。何と云う荘厳で華麗な火柱かと一同忘然として見惚れて了った。爆発は何だったのか、何処で爆発したのか、我々の被害はどの位かと云う今までの心配はその瞬間全く忘れて了っていた位それは美しい光景であった。
その内に次第に正気に戻り誰云うとなく、あの火柱は比治山の燃料タンクが爆発して燃えてるのだとか火薬庫の爆発だらうと云うことになった。静まり返っていた広場附近が騒きだしたのでハッと気が付き、とに角負傷者の手当てをするよう命じ私は急いで本部に走った。本部事務所内もガラスや机書類が散乱し職員が右往左往していたが、鈴木大尉の姿を見付けたので何が起きたのか把えて尋ねたら
「俺も分らん、本廠とも連絡がとれない、何か分ったら直ぐ連絡するから取あえず被害状況を調べてくれ」
と云って走り去って行った。
工場事務室に帰り被害状况を調べるように命じ室内を見渡すと天井の屋根には大きな穴が明き入口の扉と窓は吹飛び机、椅子は倒れ一面ガラス片と瓦と木片で蔽われ惨膽たる有様であった。良く見ると入口戸の太い木の柱が裂けて曲っていたのには驚いた。こんな凄い爆風にも拘らず誰も大怪我しなかったのに首を傾げて道路に出ると棟続きの船具工場の扉は健在で窓ガラスが毀れ枠が外れた位の軽い損害であったのには狐に騙された様な感じがした。之は普通の爆風でなく何か気体の塊りが飛んできたか爆風が反射して丁度事務室の所に集中したのではないかと考えた。その時確か高橋軍曹か下田兵長と思うが工場事務室から出て来て
「隊長、防空監視哨に登って見ませんか、市内の様子が分るかも知れません」
と言うのでソーダ3人で行かうと早速出発した。
この防空監視哨は密隊の裏山の頂上に造成中で初めは対空機関銃陣地として計画したが本部長より無駄なことだと認めて貰えず、対空監視哨として許可されたもので山道を拓き頂上下の山林に連絡小屋を建てたところでこれから電灯電話線を曳き防空壕を掘らんとしていたのであった。そして最後にトーチカ式の監視哨と望遠鏡を備える計画で下士官連中はここまでは本部長も来ないだらうから瀬戸内や広島市の灯りを眺め乍ら完成月見の宴をしようと楽しみにしていたのだった。
3人で金輪神社よりの獣道のような山道を一気に駆登り約100m程の山頂に着いて火柱の立った方角を見た瞬間、自分の目を疑って了った。何時もは青い海の宇品港と黒い輸送船そして民家犇めく宇品の街が目の前に広がりその先の広島の街がビルヂングと家が樹々の緑と共に陽炎に搖ぎ呼吸し背後の山脈は青く霞んで見えるのに今目の前に有る光景は何だ!これは一体どうしたことなのか!
宇品の港町、舟入、観音の港町はあるもののその奥は茶褐色の平坦な広場でその中に墓石のようなビルが建っているだけである。そして遠い北の山脈がすぐ目の前に迫って来ている。眼鏡をとり見渡すと今迄見えなかった市を流れる幾条かの川が目前に白く光って見えるし、何処か分らなかった広島駅がはっきり見え鉄道線路も手にとるように見える。茶褐色の原っぱに目を移すと何もない広場に白い道らしいものがあるだけで火災は無い。更に港町を見ると処々に赤い炎がチラチラ見えるが黒煙を上げている火事は見当らなかった。地獄の賽の河原で人魂が遊んでいる如き不気味な炎に思われた。多分午前9時前であったらう、夏の太陽がギラギラ輝く頃なのにあたりは灰色の靄に包まれ風もなく動く物も見当たらない静寂そのものであった。火柱は既に消滅し空には爆発で生じた雲が一面に広がり下面は黒い陰を作り北西の山の方へ移動していた。高橋も下田も私の渡した眼鏡で見ていたが何も喋らず唸っているだけだった。いくら見てもどうして広島市が消えて茶褐色の広場と化したのか、何処で爆発があったのか全く判らず不思議な世界を覗いた心地で黙って下山した。
中隊に戻り被害状况を調べに出掛けてみると兵舎は窓ガラスが破れた位であり鉄船工場は北側の広島に面した壁に十米四方位の穴が明き屋根は各処で剝されていたが鉄骨の骨組や機械は健在であった。隣りの木船工場も壁や屋根が一部抜けたが建物自体は余り損害がなくその他船具、塗装工場、船台、資材庫も損傷軽微で一番酷くやられたのは工場事務室の建物であった。従って死者、重傷者はなく殆ど打撲、切傷による怪我であった。
一通り見廻って浮ドックと舟艇の様子を見ようと右隣の鋳造工場の道を歩いていた時、浮ドック管理の竹林技術少尉にバッタリ逢って彼からこんな話を聞いた。
「今、船に行ったら無線の係の者が米軍の短波放送が広島に原子爆弾を投下したと言っていると云うので俺もラジオを聞いたところジャズ音楽の合間に英語で…アトミックボンブ……ヒロシマ……と喋っているのを二度聞いた。ことによるとこれは原子爆弾かも知れないぜ、ほんとうだと之は大変なことになるぜ」
修理部には技術将校が多く彼等は学卒の技術者であるので酒の席で時々原子爆弾のことが話題になった。その破壊力は山を吹飛ばす威力があるとか、原子から出る放射線に当ると死んで了うとか、この開発に理化学研究所で仁科博士達が一生懸命に努力しているとか、そして之が完成したら戦况は一遍に逆転して了うことなどで私も興味深く之を聞いたものであった。竹林少尉の聞いた米軍放送が誠であれば容易ならぬ事で日本は負けるであらうと云う考えが頭を過った。そして又今迄理解出来なかった奇妙な現象が何となく説明できるようで原子爆弾かも知れないと言う考えが次第に大きくなった。奇妙な現象とは
〇青白い鋭く長い閃光
〇たった一回の爆発で広島市が消えた事
〇火柱がいつ迄も美しく燃え続けた姿
〇爆風が団塊的で濃淡の差が大きい事
で過去の知識や経験では説明不可能であったからである。竹林少尉の話をきいて嫌な気持ちにさせられていた時本部より伝令が来て直ぐ本部長の所に来るようにとのことで駈付けると原中佐が
「今船舶司令部より命令が下った。之は作戦命令である。命令の内容は修理部より部隊を編成し広島市内の被災者救助作業に必要な道路、橋の啓開と確保をせよ。細部は船舶司令部にて指示する。と言うもので本職は工兵科出身の小倉中尉に隊長を命ずる。出動人員、部隊の編成、携行武器と機材については貴官に委せる。なお必要な弾薬、被服、糧秣は本部に取りに来い。」
中隊幹部を呼集し命令を伝達し、出動人員、出動幹部を先づ決め各分掌を指示し速やかに準備にかゝり完了次第中隊広場に集合することを命じた。
余り急だし私自身戦闘部隊の編成の経験がなかったので些か戸惑ったけれど幸い馴れていた人事係の小林准尉が助けてくれたので見事に出動態勢が出来上った。指揮班は野中見習士官、長谷川曹長、高橋・小沢両軍曹と兵3名位、各分隊には実戦経験の伍長の下に若くて頑健な兵を選び強力な布陣となった。分隊長の中に河内伍長と言う元やくざであったと言う男がいて落着き拂っていたのが反って頼母しく思った記憶がある。機材は造船工場であるので何でも揃ったが医療品、通信機、爆薬等は本部より貰った。正確に覚えていないが100名近い作業部隊が完全軍装で小銃を担ぎ広場に整列したのは午前10時前と思う。
戦闘のための出動ではないが罹災地での工兵作業のためなので重装備となったが今省るにこの装備が或は二次放射能を幾分か遮る働きをしたのではないだらうか。我々はその後1日半、被爆地で作業と救助に当ったが復員迄兵士の中で原爆症で斃れた者はいなかった。然し私自身復員して4ヶ月目に原因不明の高熱と倦怠症が出て2ヶ月程寝て了ったのはやはり放射能に侵されていたのであった。長谷川他、指揮班の連中と戦後再会したが皆元気であり原爆の話となるとその治療法に話が集中して来た。生き残った被爆者の意見を総合すると先づ栄養を十分摂っていた者、酒が強かった者、魚、海草を沢山喰べた者は酷い火傷を受けたに拘らず回復して健康を取戻したと言う結論になり私の想像した重装備は関係なく軍の給与と頑健な者を選んだことの方が影響が大きかったのかも知れない。
余談はさて置き本部長に出発の報告をして本部将兵に見送られ衛兵の捧銃の中を抜刀して通った時は異様な緊張を覚えた。桟橋より1隻の大発には私と兵が、もう1隻には器材と兵が乗り宇品船舶司令部前の大桟橋に向って金輪島を離れた。
やがて大桟橋に近づくと其処に異様な光景が目に入った。桟橋上には数えきれない半裸体の火傷で全身が腫れ上った群衆が犇き合っていた。更に近付いて見ると彼等は顔も身体もぶくぶくにふくれ西瓜のように丸くなった顔には眉毛はなく、唇は浮腫んで捲れ、目鼻は脹れた顔の中に沈んで漸くその場所が分るだけであり頭にはお椀をかぶせた支那人の剃髪のような髪の毛が残っていた。そして上半身の皮膚は焼爛れて襤褸布のように垂れ身体に纏り着き、両腕を前に差出し肘を曲げ手を宙に浮かせている。中には赤黒い血が乾いて付いている者もいる。生きていると思えない哀れな姿は気の毒でとても書く気になれないので止めにさせて頂く。
この怪奇な人間と思えぬ人達が我々の大発が近づくにつれ動き出し達着点の方へ寄って来るので私は慄然と悪寒を覚え、このまゝ艇をつけたら彼等が雪崩れ込んで来て抱付かれ収拾つかなると怖れ艇を後進させた。兵を見ると顔色は真青で中には震えている者もいるので勇を鼓して大声で怒鳴った。
「皆んな落着け!戦場ではもっと悲惨な状況もある、これが戦場だ!しっかりせー」
私もきっと真青で声も上づっていたと思うが怒鳴ったせいかやゝ落着きを取戻した。兎に角、化物の居ない場所はないかと見回したが本廠桟橋も駄目だし岸壁にもあちらこちらに屯しているのでどうしようかと様子を見ながら暫く考えていたが一箇所人の居ない岸壁が見付かった。岸壁の下の水際には岩石がゴロゴロしており岩壁の高さは水面上2m以上あったが何としても上陸せねばならないので思い切って全速で達着することにした。無事にうまく達着してくれと祈る気持ちで岩石の上に乗り上げると幸いに歩板は岸壁のすぐ近くまで来ていたので難なく上陸を果たすことができた。後の大発の姿は見えなかったが後できくと本廠桟橋に着けたと云う。私の方が臆病であったようだ。
隊伍を整え船舶司令部の玄関前に来て私1人が司令部の中に入り附近にいた将校に命により金輪島より救援隊が到着したので司令官に取継いで貰いたいと伝え暫く待っていたが五分たっても何の応答もない。司令部内の慌しい人の動きを見ているとやがて肩章をつけた少佐だと思うが近寄って来て
「金輪島から来た部隊か?」
「そうです。命令を頂きに参りました」
「ご苦労、広島市内は全滅し第五師団も警察も消防も全て壊滅した。生きているのは暁部隊だけである。呉の海軍にも近在の陸軍部隊にも救援を頼んでいるが返答はない。その内に到着すると思うが後続部隊が市内に入れるよう道路、橋梁を啓開し確保して貰いたい。罹災者の救出は後にせよ。市内の様子は分らないのでこれからの行動は全て貴官に一任する。市内の状況は逐次司令部に報告して欲しい。今トラックを準備させているから準備でき次第直ちに出動せよ」
2台か3台のトラックに器材と共に乗車し死の街へ向って出発したのは記憶が確かでないが計算するに午前10時50分頃ではなかったかと思う。
平常は軍関係者のみの粛然とした船舶司令部の敷地も形相が一変し焼け爛れた男女の区別もつかない被爆者で埋め尽くされていた。建物の陰に蹲っている者、道端に寝ている者、海の彼方に虚ろな目を向けて岸壁に凭れている者、幽霊のように誰かを捜している者などなど誰もが無言で無表情で放心状態であった。私達は静かに被爆者の間を縫うようにトラックを進め敷地外に出た。この頃になると見馴れてきたためか怖しさも柔ぎ逆にこんな酷い目に逢わせた野蛮なアメ公への敵愾心が湧き何としても仕返しをしてやらうと憤りを覚えた。宇品海岸通りに出ると以前は賑わっていた電車通りは屋根瓦、看板、板塀、電線が散乱しその中を被爆者が次々に下を向いて腕を前に垂して私達のトラックが通るのに見向きもせず足を停めるでもなく幽鬼のようにゆっくり港の方に歩いていた。一般の爆撃なら血だらけになった者も混る筈なのに一様に火傷の人達ばかりなのはやはり原子爆弾でその熱線にやられたのに違いないと思うに至った。
散乱物を片付けたり避けたりして緩っくり市内に向い神田通りに入ったら自然に目は我家を捜すようになり妻はどうなっているだらうか、この人達のように火膨になって苦しんでいるのではないか、一寸様子を見たいと思ったが軍人として隊長として任務に邁進せねばと振拂って何とか生きていて呉れと祈り通り過ぎた。この附近は火災を出している家はなかったが屋根のない家、崩れかゝった家はあるが潰された家はなく家の中に居れば助かっているだらうと望みを託した。
神田通りを過ぎると段々被害は大きくなり倒れた電柱、垂れ下った架線、飛んで来た樹木や家の一部等が多くなり皆実町に入った時初めて火を出している家を見た。その火事は潰された家の下からボソボソと燃え出していたが消している訳にもゆかず道路の啓開に主力を注いだ。進んでいく間に女性の声で
「兵隊さーん助けて……子供が家の下敷きになってんのヨー」
と言う叫びが聴えたが姿は見えず、
「後から救助隊が来るから頑張れよ」
と励まし目を瞑って作業を進めた。作業中通り掛った被爆者は必ずと言う程
「兵隊さん水を一杯下さい」
と懇願するので構わず水筒より水を飲ませてあげた。水を飲ますと死ぬと言うのは平時の場合でこの苦しんでいる姿とうまさうに飲む顔を考えると断ることはとても出来なかった。空になった水筒は崩れた家に入って蛇口をひねると不思議に水が出るので補給した。
灼熱の太陽と焼けてる大地、燃える火の熱風そして埃の中の障害物除去作業は泥と汗に塗れた苦しい作業だったが兵は身を挺して奮闘してくれた。時計を見ると正午を遙に過ぎていたので近くの比較的しっかりした広島電鉄の本社ビルで昼食休憩とした。裏手の破れた水道管の水で顔や手を洗い飯盒の蓋を開けたが全然食欲がない。凄惨な光景、熱気と悪臭のためだらう。小半時して作業に掛ったが後続の救援部隊の姿は見えない。負傷者の救けを求める数は絶えることなく困ったけれど後続隊に望みを託して啓開に邁進した。
千田町辺りは散乱状態がひどく焼けた電車、車、樹木に電線、架線が懸り電柱が道を塞ぎ周辺の倒壊家屋は所々で火を出していた。然し道路上には火焔は及ばす消火する手間がかゝらなかったのには助かった。漸く鷹野橋に出ると今度は障害物が少くなって来た。これは強烈な爆風で木造家屋は潰され発火して灰になりコンクリートの建物は微塵に砕かれて瓦礫と化し道路上の雑物は吹飛ばされたからであらう。勿論死者の亡骸は散見されたが火傷でさまよう人の姿は余り見られなくなった。鷹野橋から八丁堀の方を見渡すとそこは平坦な廃墟と化した広場で福屋デパートだけが目の前に俺は崩れなかったぞと言わんばかりに焼けて聳えていた。一ヶ分隊を八丁堀への道路の啓開に出し本隊は元安川の向こうの未知の舟入地区に進んだ。舟入地区は千田町と同じく倒壊家屋と火災家屋が広がり川岸にはまだ沢山の被爆者が屯ろし道を歩いている人もいるので、一先づ空地に作業隊本部を作ることにした。その場所は焼野原で地理に疎かったので確かではないが後で兵隊に聞いたところによると住吉橋の近くの公園のところであったと言う。爆心地より約1.3㎞位のところで此処から北は廃墟の広場となっていた。
後続の暁救援隊の人達の手記によると神崎国民学校を救援隊本部としたと記されているが我々の本部は空地に天幕を張った粗末なものでここに兵器、器材、糧秣、装具を卸した。そして先づ長谷川曹長を船舶司令部と本部に報告に出し交替要員の派遣を頼んだ。本隊の半分くらいを舟入地区の道路の啓開に、残りを付近の被爆者の救助に当らせることにし、私は本部天幕で指揮をとった。
救助は元気な者よりトラックに乗せ宇品へ運ぶことその時氏名を記録すこと、重傷者は後にし死体は放置することを指示し私も被爆者の担ぎ上げを手伝った。先づ火傷者の腕を捉えて引張上げようとしたら腕の皮がズルリと剝げ滑り落して了った。露わになった筋肉を見て可哀さうなことをしたと下に降り腰を抱えてトラックに乗せた。しかし彼は痛いともありがとうとも言はず苦しさうに倒れ込んだ。手に付いた焼けた皮膚は粘りついて仲々取れなかった。殆どの者が無口で放心状態であったのに小学5年生位の男の子が火傷もせず走って来て何か喋って笑ったのに驚かされたが精神錯乱状態で言っている意味が分からず独りでトラックに飛乗ったことが記憶に強く残っている。
満載したトラックが全部出発したので私は川原に集っている人達の様子を見に出掛けた。ひどいやけどの人を囲んで川の水で冷している一群が沢山あり、又顔や手に刺ったガラスを互に抜き合っている若い女性の一群もいた。川には白い膓を出した魚が流れていたが死体は不思議にも見なかった。水辺に寝ている人は沢山居たがその中には事切れている者もいたと思う。救援に来たとは云え全ての人が負傷し苦んでいるのに自分が無傷で元気でいることが何か悪いことのように思われてならなかった。
数回の罹災者輸送を終え一休みする頃、太陽は西に傾き酷熱の外気もやゝ涼しくなってきた。その頃長谷川曹長が戻って来て次の報告があった。
「金輪島は死傷者で一杯で兵舎は全部彼等で埋まり兵隊はその治療と看病に追われています。次々に死んで行くので死体は艀や大発に積んで似之島に運んでいます。本部長より救援部隊が到着しているから作業が済み次第直ちに帰隊せよとの命令です。
それから耳にしたことですが今夜、理研の仁科博士一行が広島に来るとの事です。隊の中では原子爆弾だらうと云う噂ですが、上より特殊爆弾であると口止めされています」
八丁堀方面の分隊、舟入南への分隊も帰って来て大体の状況が判明したが報告の中に怪しな話があって之は原子爆弾以外に考えられないと思うに至った。而しその時は二次放射線障害があることは知らずに被爆地で半日以上汗を流し続けていたのだった。
夜間作業に備えて夕食の支度にかかるよう命じたところ或伍長が焼残った土蔵の中より米と缶詰を見付けて来た。米は良かったが缶詰は丸く膨れていたので原爆の毒が入って腐っているかも知れないと捨てさせた。又、或兵隊は数羽の白色の鶏を把えてきた。焼けてもおらず元気であるので一寸不思議に感じたが構わず殺して料理した。食料の一部は握飯と汁にして被爆者にも喰べるよう報せたが喰べに来る人は見当らなかった。食事後敵機が低空で飛んで来たので慌てて防空壕に入ったが銃撃してはこなかった。敵機が去った時或る下士官が
「今度来たら撃ってやる」と怒鳴っていたのが聞えた。
赤い太陽が渦捲く煤塵の彼方に沈んで行く頃フト見ると目の前の木橋の裏面の縦桁が黄燐の燃えるような色でボソボソと火を噴いた。変な所から今頃何で燃え出したのか不審に思って見ていると次第に消えて行った。すると今度は川向こうの角に半壊していた学校のような木造の大きな2階建の建物がパッと火を吹いた。皆んなで眺めているとすぐに焼け尽きて灰になった。時間を測っていなかったが感じでは十数分の出来事であった。
既に夜間作業隊は出拂い指揮班幹部のみ残って雑談している内に夜の帷が降りたが辺りは明るく灯は必要なかった。これはあちらこちらで亡霊の彷徨のように燃える火の為であったのだらう、段々静かになって行くにつれ昼のあの惨劇が嘘のように思われた。その夜のことはいくら考えても想い出せない。多分2日間寝ておらずこの1日激しいショックと活動で疲労の極に達し起きていても頭脳は眠って了って居たためと思う。
東の空が白みかゝる頃、本部の机に伏していた私はパッと目を醒した。見ると部下は空地のあちこちで寝ているのでソット起き歩哨に北方の偵察に行く旨告げて独り本部を後にした。薄暗い廃墟の中を歩いて行くと焼けた自転車がありよく見るとタイヤはないが本体は余り傷んでいない。試しに乗って見ると立派に走るのでこの方が早いと之を利用することにした。中心部に入るとそこは瓦礫地帯で黒焦げの死体が随所に見え、中には白骨化したものもあった。道路際の小さい黒焦げの死体を抱いた焼死体には胸が痛んだ。石造りの大手町の日本銀行の建物は厳然として立っていたので之を基点として独身時代お世話になった下宿の木村さんの家を捜した。然し距離感が無いのと露地が隠れて了っているのと一面広場となっているので見付けることが出来なかった。それから紙屋町を経て相生橋に出るとユニークな丸屋根の商工奨励館、今の原爆ドームにぶつかった。中に入ると鴨しい石と煉瓦とコンクリートの堆積物の山でこの下に何人かの人が生埋めになっていると思ったがどうすることも出来なかった。
明るくなってきたが鳥の囀ずる声も犬猫の姿も人影もなく静寂は屍の街のまゝであった。原爆を書いた本は沢山あるが、中には事実と些か違うものもある。爆心地の近くで奇蹟的に命拾いした人、その直後救援に入った暁部隊と特幹の連中の手記は比較的正しく書かれているが恐怖と苦痛で感情が出過ぎている点があるのは否めない。それに対し作家と云う人に依るものは聞いた話や想像を上手に組合せて面白く書いているように感ずる。髪を振り乱し喚いていたと言うが髪の長い女性は居なかったし喚く程元気な人には会わなかった。又広島市は一面火の海となりと言うが金輪島より見た時も啓開作業した時も火災は分散的で異様な燃え方であった。著者は原爆による火災と焼夷弾による火災とは全く異質なものであることを知らなかったとしか思えない。又喉を癒すべく防火用槽に首を突込んで死んでいる人、川で水を飲んで死亡した死体が累々と流れて川面を埋めているなどは全く出鱈目と思う。私はそんな光景を見なかったし部下の兵隊よりそのような報告を聞いた覚えはない。原爆当日逃げる途中で見た人はあらうが翌日の昼頃には殆どの罹災者の救出と死体の集収は救援隊で済まされていたので翌日以降市内に入った人は見ていない筈と考える。
ガラガラとタイヤのない自転車を漕いて舟入の本部に戻ると兵隊は元気に朝食をとっている者、作業準備に入っている者と騒がしく、急に自分を取戻した。隊の大部分は舟入地区と観音地区の整理、救出に行くこととし指揮班は此処で炊出し、救出、死体の収集と宇品への運搬、救出者名簿の作成、他部隊との連絡、そして捜索に来た家族等の案内、説明にあたることにした。
焼死体はいいが腐れて蛆の湧いている死体を扱うことは誠に嫌な仕事であったが焼くことも放置することも出来ず止むなく収集した。その途中幹部の誰かが私の妻の生死を確かめに行くように言って呉れたので甘えて自転車に乗って我家に向った。我家に近ずくと壁は抜け家の中が丸見えであった。玄関に飛込むと台所脇の茶の間に妻がボンヤリ立っていた。生きていた!火傷もしていない!よかった!と夢中で声をかけると彼女は黙って抱付いてきた。そして暫くして怖ろしかった昨日のことを次のように話した。
「昨日は私は市内の疎開作業に出る割当ての日ではなかったんですが、坂本のおばさんや岡本の美枝子さんが行く日なので一緒に行きたいと思って交替してくれる方を捜したけど誰も居らず残されました。隣組長の坂本のおじさんがお米の袋を集めに来たので袋を出したんだけど坂本のおばさんが疎開作業に行っていないのでおじさんでは分からないだらうと思ってお手伝いに坂本へ行きました。坂本の質蔵の所で分けている時パッと眩しい光が差し前の塀が真赤になりそしてドーンと言う物凄い音がしましたのでその場に俯せになりました。爆風で物が飛んで来て肩と腕に怪我をしました。起き上がって空を見ると飛行機が飛んでいましたので慌てて防空壕に入りました。暫くたって防空壕を出て家に戻ると壁は抜け落ち、硝子戸は全部割れ、家具は倒れ、食器は飛散り足の踏場もない有様でした。何が起きたのかどうすればいいのか途方に呉れたけれど気を取り直し、先づ喰べる物を作らねばとお釜を捜し薪を捜しやっとご飯を炊いておむすびを作りました。その時隊の当番兵の鱧谷さんが見えられ軍曹殿より隊長の家に行き奥さんが怪我をしていられたらすぐ隊へ連れてくるように無事だったら手伝ってくるように言われましたと申すので早速家の中の片付けを頼みました。
その時フト家の前を見ましたらボロボロになった美枝子さんの姿が見えました。美枝子さんは坂本の家に入って行ったので私も後を追って坂本に行き着物や手甲の布を鋏で切って脱がせ、おじさんが火傷の薬だと持って来た馬の油薬を塗ってあげました。その時坂本のおばさんが同じような姿で帰られましたが誰か分りませんでした。おばさんが美枝子さーんと呼んだので分りました。美枝子さんと同じように着物を脱がせ油薬りを塗ってあげましたが可哀さうでなりませんでした。お二人の看病とご近所のやげどした方達のお見舞いやら家の中の片付けをし夜は隣組の事務をしていた岡田みさゑさんと子供さんが怖しいので一緒に寝ましょうと言うので3人で蚊帳の中で抱き合って休みました。」
彼女が生きていたことは奇跡と思った。若し皆んなと作業に行っていたら、又家の中に居たらどうなっていただらうか?
坂本の家にお見舞いに行くとおばさんは死んだように横たわり油薬と白い軟膏薬を塗られ、変形して膨れた顔だけ見えていた。付添いの家の人が団扇で煽ぎ乍ら膿に湧く蛆を取除いておられ見ておられず慰めの言葉も出ずソッとその場を去った。坂本のおばさんは母親のように家内を可愛がっておられ、美枝子さんは将校の奥さんで年頃も同じでいつも一緒に行動していた仲良しだったのに目の前にこのような恰好になったのを見せられて戦争の酷さに胸が締められるようだった。
駐屯地へ帰り様子を聞くと殆どの者が観音地区に移動し救助に当っているとのことなので指揮班も移動することにし焼残った学校のような建物に本部を設けた。救出した人数、死体の数は覚えてないが鴨しい数だったと思う。作業を見ながら目を背後の山に向けると面白いことに山の林が爆心地より放射線状の形で幾条の筋になって焼けているのに気がついた。やはり熱線は緻密な団塊となって飛んで行ったと考えざるを得なかった。夕方になると大分片付いたし後続の他部隊も入っていると言うので我々の任務は完了したと判断し帰隊することになった。部隊を纏め引揚げるに当って兵の親戚の者とか云う被爆者が数名いて怪我も軽いので隊長の家に今夜泊めてほしいと云うので途中で隊伍を外れ我家に連れて行った。妻に彼等を託し残った米と鶏や糧秣を置いて近所の人にも配給するよう頼んで本体の後を追い合流し司令部に行き報告し金輪島へ暗い海を渡って帰った。
桟橋に上がると修理部は正に修羅場と化していた。中隊に戻ると中隊広場には臭い亡骸が沢山並べられ家族と思われる人々が死体を囲んで別れの祈りをしていた。この死体は似之島の火葬場に運ぶことになっていて艀や大発の到着を待っているとのことだった。早速装具を解き兵舎の見廻りに行くと兵隊の寝る内務班は全部被爆した重傷者で埋り腐った肉の異様な悪臭が鼻を突き、窓は破れているのに至内は風もなく暑く蒸れ、ランプの下には白い脹れた人体が呻き私は気分が悪くなった。全兵舎を視察する積りでいたが途中で諦めて中隊事務室に帰った。それにも拘らず看護の兵は彼等の間を往き来して薬を塗り蛆を取り頭を冷やし水を飲ませ譫言を聞いて記帳している姿にはほんとうに偉いと頭が下った。その内に動かなくなった者には死亡を確認し中隊広場に運び、空になった寝台には新しい重傷者が寝かされる、治療の方法も判らず軍医もおらずただ火傷の薬の油薬と白い軟膏を塗り切傷の消毒と沃チンを塗る位の手当しか出来ないので殆どの者が殪れて行った。
事務室で休んでいると或下士官が
「似之島はもう一杯で処理しきれないと云っていますがこのまゝ待っていると腐敗するので金輪島の浜で荼毘にしたらどうでしょうか」
と云うので独断で許可した。暫くしてどんな様子かと見に行くと木材を井桁に積みその上に屍を並べお経をあげ石油を撒き点火すると夜空に赤い炎が舞い黒い煙をあげ異様な臭いの中屍が動き出した。凄惨と言うか怪奇と云うか怖ろしい光景であった。私は途中で帰ったが兵は徹夜で火葬を続け死体処理をした。
翌8月8日にはソ連参戦の情報が入り兵科将校は前線出動の覚悟を決めた。中隊では死体処理と被爆者の家族への引渡しを行うと共に防空壕掘りと資材の隠匿が急がれた。兵舎の中の重傷者の数も急に少くなったため工場や倉庫に分散していた兵士も兵舎に戻した。
翌8月9日には長崎に原爆投下の情報が入り愈々最後の時が近付いたと思い、妻への遺言状を認めた。被害僅少の船舶司令部関係の宇品地区への米軍の攻撃に対する準備と対応について何の指示も無く、勿論作業指示もなく唯不安な時を過していた。隊の上村軍曹が私の妻の避難先として郊外の可部町八木の農家を見付けてくれたので翌10日に帰宅して妻に宇品は危ないのですぐ八木のここに避難するように明日隊よりトラックを廻すから必要の物を纏めて用意しておくよう申し渡し遺言状も手渡し私が戦死したら見るように言った。彼女の移動に当っての怖ろしい話は後日聞かされたがここでは割愛する。
何時空襲があっても驚かないぞと対戦準備をしていた時終戦の詔勅が下された。信じられない心境に陥ったが考えて見ると敗戦は明らかでありこれ以上続けても犠牲者を増すだけで勝利は覚束ないと判ってきた。それならば何故もう1ヶ月でも半月でも早く決断できなかったのか、原爆を落とされてその威力、惨状を知って初めて目が醒めたのか、無惨な死を遂げた何十万の罪のない広島、長崎の人達は一体何だったのか。紛れもなく彼等は終戦の為の生贄であり、引続き見舞れるであらう他の都市の原爆被災者を救った犠牲者であったのだと思った。
終戦後も被爆者の死、広島市の惨状を見て来たがこれは多くの人によって紹介されているので省略することにする。私は兵隊を復員させ、終戦事務処理をしガランとした軍隊の兵舎と軍工場の中を歩いていながら、これから我々幹部はどう責任をとらされるのか、我々の頑張った青春そして死んで行った戦友と名も知らぬ島で屍となった兵士は全く無駄なことだったのか遣瀬ない気持であった。これから日本がどうなるのか分からないけれど原爆のような悪魔の兵器が現れたことは人類にとって大きな不幸をもたらすように思えた。
おわり
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