小谷民子は原爆が投下された1945年8月6日の早朝、いつものように自宅から学校へ向かった。母の小原とみ江(旧姓長島、初婚姓小谷)は、その日に限って民子が幾度も後ろを振り返るのを奇異に感じた。しかし、民子はそのまま歩き続け、爆心地から2キロ以内の場所にある比治山近くの進徳女学校へ向かった。進徳女学校の校舎は原爆により全焼、生徒教職員384名が犠牲となった。
民子が学校へ向かう頃、爆心地から20キロ離れた江田島では、民子の従妹の丸本美栄(旧姓:長島、当時9歳)とその兄敏朗が、広島上空に舞い上がるキノコ雲を目撃した。それが一体何なのかも知らず、二人は「真青な空にこんな綺麗な雲は今まで見たことないねえ!」と囁き合った。事実、当時、それが一体何なのか知る術もなく、大人たちは化学工場か火薬工場が爆発したと噂していた。
爆発後、とみ江は、行方のわからぬ娘の民子を探して焼け野原となった広島の街に駆り出した。原爆が投下されたその日から毎日とみ江は、民子を見つけたらすぐ水を飲ませてあげたい一心で竹水筒を二つ持ち歩いた。被爆した街を朝から晩まで歩き続けた。全身が焼き爛れ、生死もわからぬ被爆者たちを目の当たりにしたとみ江は、「水をちょうだい」と歩み寄り懇願する被爆者たちに、「娘の民子が見つかったら飲ませんといけんけいね。あげられんのよ。ごめんね。ごめんね。」と涙して謝りながらそうした場面から何度も立ち去った。
遂に、民子の消息がわかり、似島の救護所に送られていることが判明した。民子の体は、背中側が頭から足先まで火傷で黒く焦げていた。そんな状態にも関わらず、民子は意識もあり、会話することができた。8月10日、民子は自宅に連れ戻され、とみ江は必死の看護を続けた。しかし、同月23日、民子は生き地獄を去った。わずか13歳だった。民子は逝く前、泣き崩れる母に向かって「島岡のおばちゃんに赤ちゃんが生まれたら、私の生まれ変わりじゃけんね。悲しまんでもいいよ。心配せんでもいいよ。」と、母親を慰めるかのように最期の言葉を残した。隣人の島岡佑三子さんが、母とみ江の親友で妊娠中だったこと、そして、自分が逝っても島岡のおばさんが母を側で支えてくれることを民子は承知していた。
上記、小谷民子の被爆状況は、とみ江の姪丸本美栄(旧姓:長島)の口述を長女丸本美加が原爆資料館資料も参照しながら記した。とみ江は、一人娘民子を原爆で亡くしたため、美栄(とみ江の姉長島朝子の四女;民子の従妹)が娘がわりとなった。
美加は、小学校時代(小五まで)、とみ江の隣家に暮らしていたため、とみ江が毎朝夕の食前・食後に数時間も民子の遺影前で拝み祈る姿を見て育った。しばらくしてから、美加は両親からその理由を聞かされた。民子を探しながらすれ違った多くの被爆者、水を懇願した被爆者たちに水筒水を差し伸べることができなかったことを悔やみ、そんな自分を許せず祈り続けていた、と。とみ江は82歳で亡くなるまで毎日祈り続けた。
注釈:
●小谷民子は、小原とみ江(旧姓:長島、初婚の姓:小谷)の実娘であり(小原とみ江の出生時本籍地:島根県能見郡布部村大宇布部)、小原時男の義娘である(小原時男本籍地:広島県安芸郡府中町;戦後、とみ江とともに広島県安芸郡府中町大須へ転居)。民子の実父である小谷久雄とは死別(小谷久雄: 島根県能見郡広瀬町大宇富田)。とみ江は、当時、広島中国電力勤務で島根に頻繁に出張訪問した小原時男と知り合い再婚し、広島県安芸郡府中町へ転居。亡くなるまで府中町に暮らす。
●進徳女学校の被爆死傷者数は、進徳女子高等学校ホームページ沿革に記載。
https://www.shintoku.ed.jp/about/#history
●安芸府中町史第5巻 別冊『府中町被爆体験記』P. 131. 熊巳マス子(旧姓 石井)の体験記による記述によると、民子は被爆後、似島の救護所に一旦運ばれ8月10日に自宅に連れ戻された。 |