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私と父の8月6日 
橋本 頼人(はしもと よりと) 
性別 男性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2024年 
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 己斐国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 ●被爆前の生活
私、橋本頼人(はしもとよりと)は被爆当時10歳で、己斐国民学校の4年生でした。父と二人の兄と私で、広島市己斐町(現在の西区己斐上町)に住んでいました。
 
父・政人(まさと)は佐伯郡八幡村利松出身で植木職人をしており、当時は茶臼山の一部の土地を持っていて、家は己斐上町の寺と交番の近くにありました。母は身体が弱く、私は赤ん坊のころ伯母からお乳をもらっていたそうです。母は私が3歳の時に病気で亡くなりました。兄二人は優秀で、父の自慢でした。長兄・義喜(よしき)は安芸郡船越町(現在の安芸区)にある日本製鋼所に勤めており、次兄・巧(たくみ)は広島工業専門学校の学生でした。一度、父に頼まれて次兄と煙草を買いに行き、途中でお金を落としてしまって、二人とも父にひどく怒られた思い出があります。私の家は決して豊かではありませんでしたが、平穏に暮らしていました。
 
●戦争について
そのころの己斐は今のようにたくさんの家はなく、我が家の向かいに軍の中佐の大きな家がある以外は、近所にはぽつぽつと小さな家が五、六軒建っている田舎でした。中佐のところへは、よく馬を連れた迎えの人が来ていました。
 
私の自宅には軍隊の所有する缶詰の入った木箱が20箱ほど置かれていて、倉庫のように使われていました。たしかお肉の缶詰だったと思いますが、私たち家族には1個も分けてもらえませんでした。
 
広場では四、五十代の女性たちが竹槍で「ヤー!」と敵を突く訓練をしていました。おそらく夫は皆戦争に出ていたのだと思います。父の実家近くの山にアメリカの爆撃機が墜落した時には、村の人々が竹槍を持って駆け付けたと聞きました。私は小さかったので戦争ということをあまり意識していませんでしたが、日本は強いのだと思っていました。
 
●8月6日
当時己斐国民学校では、1年生から4年生は学校ではなく己斐の山で授業を受けていました。そこは屋根も何もない山の中の青空教室で、私は近所の年下の子たちを連れて山道を通っていました。
 
その日の朝も、私はいつも通り近所の子たちと手をつないで、山の中を歩いて教室へ向かっていました。すると突然辺りがピカッと光り、「バーン」と鼓膜が破れるくらいの大きな音がしました。己斐の山が黄色くなり、私の身体は爆風で飛ばされました。私は咄嗟に目と耳を押さえました。目玉が飛び出さないように、こうするように教わっていたのです。何が起こったのか分かりませんが、己斐が攻撃されたのだと思いました。そのうち山のあちらこちらが燃えはじめ、私は怖がって泣いている女の子たちを連れて、家の方へ戻りました。帰る途中、黒い雨がざーざーと激しい勢いで降ってきました。近くの川も真っ黒になっていたのを覚えています。
 
女の子たちを送って、20分ほどして家に着くと、自宅の壁が吹き飛んで、屋根と柱だけになっていました。
 
家には、朝早く出かけていた父が帰ってきていました。父は私に、山の洞窟に隠れるよう言いました。山の洞窟というのは、茶臼山の中腹の斜面にサツマイモなどを保存する穴を掘って作った倉庫で、深さが1メートル程度の小さい穴ですが、私はそこに縮こまって身を潜めました。父は兄たちを探しに行くと言って出て行きましたが、日が暮れて夜になっても帰ってきませんでした。私はその間もずっと穴に隠れていました。サツマイモやキンカンを生のまま食べて空腹をしのぎ、何日経ったのか分かりませんが、ずっと一人ぼっちでした。心配になり茶臼山に登ってみると、広島市内が煙だらけで焼け野原になっていたのです。己斐ではなく、広島がやられたのです。恐ろしくてたまりませんでした。
 
●家族の被爆状況
 
父は建物疎開作業をするため、朝早く堺町へ出かけていたそうです。作業が早く終わったので、原爆投下時には自宅に帰って食事をしていました。ちょうど、自宅に置いてあった軍隊の缶詰入りの木箱が壁になり、爆風から父を守ってくれたのです。
 
長兄・義喜は仕事が休みで、朝早くから出かけており、外出先で被爆したそうです。次兄・巧は千田町の学校で被爆しました。兄たちはなかなか見つからず、父は十日間くらい毎日捜索に出かけていました。次兄は似島の救護所にいることが分かり、やがて兄たちは自力で家まで帰ってきました。二人とも全身にひどいやけどを負っていましたが、医者はおらず家には薬がないので、父が酢と大根をすりおろしたものを混ぜてやけどに塗り、手当てをしました。私は小さかったので、兄たちの寝ているそばには行かせてもらえませんでしたが、傷口にウジが湧いたのを覚えています。
 
私はやけどやけがはしませんでしたが、しばらく経つと足にできものがたくさんできました。治療はできなかったので、古いシャツを裂いて包帯の代わりに足に巻いていました。
 
●戦争が終わって
被爆直後から、己斐国民学校は救護所となりました。校庭に穴をいくつも掘り、毎晩そこに原爆で亡くなった遺体を置いて油をかけて焼いていました。中途半端に焼けた遺体の、その何とも言えない臭いが己斐の谷中に充満して、とてもくさかったです。その臭いは何日も消えずに漂っていました。
 
終戦については、父から「日本が負けたで」と知らされました。そうか、負けたか、と思っただけで、食べ物に困らなくなるならそれでいいと思いました。自宅に置いてあった缶詰の箱は、終戦後に軍隊が全て回収してしまいました。そしてその缶詰を闇市で売っていたそうです。
 
学校が再開すると、教科書の中の、アメリカのことが悪く書いてある部分を破って燃やしました。
 
●兄たちの死
長兄・義喜は自宅で療養していましたが、昭和21年3月に亡くなりました。次兄・巧は髪の毛が全て抜けてしまいましたが、回復し元気になりました。しかし、昭和22年7月、友人と川へ遊びに行ってそこで転倒し頭を打って亡くなりました。遺体が自宅に戻ってきた時、父は仕事のため不在で、私は数日間一人で兄の遺体と過ごしました。身体が腐らないように、医者がおなかに薬を入れていたのを覚えています。兄たちは二人とも、己斐の山にある焼き場に連れて行き、そこで自分たちで焼きました。
 
●父と二人の生活
父と二人きりになり、その後も生活は苦しく、いつも空腹でした。当時は物々交換が主流だったので、私は自分の家で育てたサツマイモをハマサキという己斐の八百屋へ持って行き、父が仕事帰りに「揚げはん」(揚げたカマボコのこと)を貰って帰ることがありました。父に「イモを出しとけ」と言われたことをすっかり忘れてしまい、夜中に取りに行ったこともあります。その時は怖くて、暗闇の竹藪の中を走って行きました。家に帰っても誰もおらず、みじめな気持ちになることもありました。
 
小学校を卒業後、庚午中学校ができていたので、太田川沿いを歩いて通いました。お金持ちの家の子は電車を使って通学していましたが、我が家にはお金がなかったので歩きでした。中学校の校庭にはイモが植えられていたので、「イモ中」なんて呼んでいました。中学生のころ、人の山で果物を勝手に取って食べて怒られたこともありました。その後、父が家に八朔を植えてくれました。
 
年に一度、父と近所の人たちと一緒に茶臼山で花見をすることが私の楽しみでした。山に登って皆で弁当を比べたりしました。父が用意してくれた弁当に羊羹が入っていると、とても嬉しかったものです。
 
●就職と結婚
中学校では、就職組と進学組に分かれていました。私は就職組で、卒業後に父が植木屋の仕事で社長の家に出入りしていたことが縁で、横川にある広島製針という針工場に就職をしました。しかし、不景気によりわずか8か月で整理解雇されてしまいました。その時は一度に30人くらいが解雇されました。
 
昭和27年、17歳の時に、近所の人の伝で広島市水道局で働くことになりました。当時は建設業が人気で、公務員の成り手があまりいなかったそうです。3年間は臨時職員として働きました。日給は千円くらいだったと思います。自転車を買ってもらい、通勤に使っていました。
 
水道局に勤めるようになって、生活が安定しました。きちんとした食事をとることができるようになり、細くて小柄だった身体が成長して大きくなりました。車に乗る人がまだ少なかったころに運転免許を取得し、先輩職員を車の助手席に乗せて運転をしていました。職場では野球部に入部し、それで体が鍛えられたのだと思います。今でも野球観戦をします。水道局の職員も、原爆によりたくさんの方が亡くなりました。現在も広島市中区基町の水道局の敷地に「水道部員殉職之碑」があります。
 
27歳で父に勧められ、妻・多津子(たづこ)と結婚しました。多津子も被爆者です。結婚を機に己斐の家を出て、曙町や三篠に住み、二人の息子に恵まれました。その後、父の実家である佐伯区利松に家を建てました。
 
母の顔は写真でしか知らず、兄たちを亡くしてからは父と二人きりで生きてきた私ですが、家族ができ、にぎやかになりました。妻にはたくさん苦労をかけましたが、幸せに暮らしてきました。
 
●平和への思い
孫が小学生のころ、担任の先生に頼まれて、子どもたちに被爆体験について話をしたことがあります。その時はじめて、原爆のことを話しました。それまでは自分の体験を口に出すのも嫌で、家族にも話しませんでした。苦しかったこと、食べる物もなく辛かったこと……苦しい経験は、本当は話したくありません。被爆当時のことを考えると、己斐国民学校の校庭から漂ってきた、人間を焼くあの臭いがよみがえってきます。この時に話した私の被爆体験は、孫たちが感想文集にまとめてくれました。
 
なぜ今も戦争が起こっているのでしょう。戦争はしてはいけません。二度とあのような思いはしたくありません。
  

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