奥田静夫(死没者 筆者の父)は晴天の8月6日いつものように自転車で牛田の自宅を出、市内の職場に向かった。
私は白島の国民学校一年生に在籍していたが、あの日は集合場所である饒津神社境内にいた。
警戒警報が出たが間もなく止んだようだった。暫らくして飛行機の音がしたかと思う間もなくパッと閃光に照らされ、強い風に吹き飛ばされた、失神していたのか気がつくと石段のところにいたはずが鳥居の近くで倒れ、折れた枝が覆いかぶさっていた。必死に枝を払いのけ家に帰ろうと思った。頭を怪我しヒリヒリしたので川に降りて水をかけた。何人かが水の中に入っていた。水は飲むな!と誰かが言った。
常盤橋の鉄橋では貨物列車が傾いて止まり壊れた野菜の箱が河原に散乱していた。貨車から落ちた何頭かの馬が河原に横たわっていたり立っているものもいた。
大粒の黒い雨が降る中、燃え上がった饒津神社の火の手は牛田へ通じる道を塞いでいたので川沿いの土手を伝って自宅に帰った。
煤けた顔、焼けてボロボロになった衣服をまとった人たちが「水を!水を!」と呻き、防火水槽の水を飲もうとしたが誰かに止められていた。
自宅は燃えていなかったが、屋根の一部は崩れ落ち建具や家具は庭中に飛散、柱には割れたガラスが無数突き刺さっていた。誰もいなかった。私は日頃から遊びに行っていた近所の民家に駐屯していた兵隊さんのところに行った。夕方ごろか、遠目で家の様子を見たところ座敷に黒いものがうずくまっていたが怖くて近付けなかった。兵隊さんが乾パンをくれ泊めてくれた。
次の日、近所の人が「お母さんが探しているよ」と教えてくれ家に帰った。母が可部から兄が観音から来ていた。家に帰ってみるとあの黒いうずくまっていたのは、全身が赤黒く焼けただれ焼け残った服が皮膚に貼りついた父の姿であった。
聴き取れた父の言葉によると、自転車ごと広島城の堀に飛ばされたが這い上がり、火を避けて右往左往しながら家にたどり着いたとのことであった。思えばあの体であの距離をよく耐え忍んで帰ってこられたものだ。当時父子二人の家庭、さぞかし私のことが気がかりの一心であったろうと、いまさらながら親心に敬服している。
痛い!いたい!とあのがっしりした体格の父が呻いた。身体に触ると痛がるので横に臥せることもままならなかった。水を含ませた手ぬぐいを口にあてがいウチワでハエや蚊を払うことくらいしか為す術はなかった。「勝也、勉強しろ!」と言い残して父は8月8日息を引きとった。享年56歳、当人にとっても残された私にとっても誠に残念な人生の幕引きであった。
亡骸を戸板にのせ、母兄私の三人で途中何度も休みながら牛田小学校の校庭まで運び、壊れた家の木材を集めて山積みにし火葬した。
平成29年1月15日 奥田勝也(現姓 山村)記
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