私は昭和20年当時、己斐本町に住んでいました。父母と3つ違いの兄と4人で、暮らしていました。陸軍に志願しましたが、身体検査で痔が見つかり、治してから出直すよう言われ、東洋整缶(軍需工場本社は天満町)、己斐の山手にある工場に勤めていました。
原爆が落ちた8月6日は、夜勤あけで、(当時はどの家にも防火用貯水槽がありました。)家のすぐ近くにある防火用貯水槽の蓋の上で、水中鉄砲を作っていました。爆弾が落ちたら、すぐ目と耳をふさぐよう言われていたためそうしました。しばらくして目を開けると、目の前の手が見えないほど塵がいっぱいで、何度顔をふいても何も見えませんでした。目が見えなくなったかと思うくらいでした。もうしばらくすると、ゆっくり霧が晴れるように塵がなくなってきました。自宅前に新築の家が建って居たためか、外に出ていたのに、無傷でした。
父も部屋にいた為か、ほとんど怪我をしていませんでした。
母サヨは、すぐ近くの川土手で被爆しました。自宅から、100メートル位はなれた山陽本線の踏切り近くで、母を見つけ自宅に連れて帰りました。
兄、巌は、観音にある旭製工(鉄工所)に勤めていました。旋盤を使って仕事をしていて、工場で必要な人材だということで、召集は延期されていました。
工場内で被爆し、徒歩で帰宅しました。
原爆が落ちて、1~2時間たっていたでしょうか、家族で、己斐小学校に避難しました。避難するとき、黒い雨が降りました。傘も何もなく、濡れて行きました。己斐小学校の上にある、同級生の家に行ったら、被爆した人たちで、いっぱいでした。そこで、その上にある同級生の家に泊めてもらいました。二日泊めてもらい自宅に帰りました。
自宅は、瓦が壊れ、ガラスが割れ、風通しが良くなっていました。
戸が無かったため、蚊帳を吊って寝ました。兄と壊れた瓦屋根や戸の修理をしました。
食べ物は、町内会で炊き出しがあり、むすびを持ってきてもらっていました。一か月位配給があり、食べるものでは困りませんでした。
原爆が落ちて10日もしないうちに、雑草が生えてき出しました。
母は、体の2分の1を火傷していました。小学校に軍医がいた為、母を連れて行きました。軍医は、沢山の患者がいて、忙しいためガーゼをひどく剥がしていました。母が嫌がった為、自宅隣の薬局で、薬を買い自宅で、ガーゼ交換をしました。痛がるので、本当にゆっくりしかはがせなかった為4時間位かかっていました。足には、ウジがわいていました。このころ家にあった小豆を、医者に持って行き、往診に来てもらいましたが、助からないのでもう来ないと言われました。診れば治る人は、いっぱいおる。とも言われました。9月18日、「お父さんと仲良く暮らしてください。」と言い残し56才で亡くなりました。
父、勘造は、昭和30年10月26日に亡くなる。
兄、巌は、観音の三菱重工に定年まで勤め平成19年4月30日に亡くなる。
2012年10月15日 記 |