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中学二年生へ語る 
宮川 千惠子(みやがわ ちえこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2019年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
1945年(昭和20年)今から73年も昔のお話しをします。私は春には5年生になる年です。皆さんの3才年下の妹さんのような女の子が話していると思って聞いてください。

当時は若い男性は強制的に兵隊にとられ、高校生や中学生女学生は勉強はろくにしないで兵器を作ったり磨いたり、兵隊さんの食糧を運んだり、兵隊さんの服を縫ったり、皆は戦争に役立つように働いていました。お友達のお父さんやお兄さんは戦地に行って、家にはお爺さんお婆さんやお母さんと子供達だけで家を守っていました。戦争も激しくなり、日本中の都市は爆弾や焼夷弾で破壊されていき、広島駅裏の町にも軒並みに爆弾が落ちて1軒に1個ずつ大きな穴が開きました。その時の事も覚えています。4月から敵の襲撃から子供達を守るために、3年生以上は田舎へ避難させる事になりました。田舎に知り合いのある子はそこへ、知り合いの無い子達は受け持ちの先生と田舎のお寺などに疎開して、お友達はバラバラに広島市を離れて行きました。これを学童疎開と云います。街の住宅も密集地は部分的に倒して類焼を防ぐために道路を拡げたりしました。これを建物疎開と云います。

私の家族は、父親は50才を過ぎていたので兵隊に取られなかったけど、3月頃一番上の兄は大学生でしたが、「軍隊に入れ!」という「赤紙」が来て1週間で、家族に別れをしに家に帰り、許嫁の女性と結婚式をして慌ただしく出征して行きました。4月には私は広島市舟入国民学校の5年生になりましたが、父親が疎開先を探してくれて、爆心地より10kmくらい離れた八幡村に、農家の納屋に畳を敷いた6畳くらいの部屋に、母親と2人で箪笥や家財道具と一緒に疎開しました。父親と16才の高校生だった兄は舟入幸町の家に残って住んでいました。広島市は夜の空襲が多くなり不安な日が続いていました。8月6日の前日は日曜日でしたから父親と兄は舟入幸町の家を留守にして、私の所に泊まりに来ていました。

8月6日の朝早く、父と兄は広島市へ向かいました。私は八幡国民学校へ出かけました。原子爆弾は8時15分に、広島の上空500m余りで爆発しました。まるで太陽が落ちて来て爆発したようで、爆発の中心は真空になり、次の瞬間は周りの空気や物体を吸い込んで、行き場がないからキノコ状となって空高く上昇、8分後には富士山(3776m)の2倍以上の9000mの高さまで達しました。瞬く間に広島市の殆どが火の海になったのです。前日の夜中は空襲警報になって、朝やっと解除された人々は、防空壕から外に出て各々自由に行動している時です。既に仕事を始めている者、出勤途中の者、病院などへ向かっている者、小さい子供に朝の食事を食べさせている者、寝不足でまだ寝ている者もいましたが、皆んな3000度とも4000度とも云われる熱線と物凄い爆風に焼かれてぶっ飛んで、何も考える暇なく殺されてしまいました。奇跡的に助かった人の話では、しばらく気を失っていて、気が付いて這い出そうとしても、世の中が真っ暗で、音も無く、自分がどうなっているのか解らなかったそうです。その内あちこちから、助けを求める声などが聞こえて来たそうです。キノコ雲で太陽の光が遮られて夜のようになった訳です。と同時にあちこちから燃え始め、火に追われる事になります。

一方、田舎にいる私は、学校に行き、この日5・6年生は山や畑に作業に行くのですが、私は膝に傷をして化膿していたので作業を休んでいました。もう1人の作業を休んでいた女の子と、2人きりで教室に残って本を読んでいました。2人は教室の広島側の1番前の席に座っていました。8時15分、原爆を投下したB29と云う敵の飛行機が頭の上を通って帰って行く飛行音を耳に感じていたその時、ピカッと光りました。私は「太陽の光が翼に反射して、まともにここに当ったのか?」と考えたか云ったか「ドーン」ともの凄い音と共に窓ガラスはメチャメチャに机の上に被さり、2人が気付いた時は教室の後ろで抱き合っていました。廊下の窓ガラスも落ち、静かになってから2人は2階から転がるように駆け下り、校庭の向こうの防空壕へ逃げました。すると1・2年生が頭や顔にガラス傷で血を流しながら泣き泣き逃げて来ましたので、下級生の世話をしました。やっと落ち着いて、何が起きたのか解らないまま、家に帰ろうとして校門を出た所で、慌てて私を迎えに来た母と会いました。母は目の前の山の上から(核分裂する)7色の火のかたまりが広島の上に膨れ上がってキノコ雲となってムクムクと登って行った、今まで見た事も無い光景を一気に話してくれました。家に帰ると、納屋の窓は障子ですが、障子の骨も折れて破れ、電球の傘も吹っ飛び、窓の外に下がっていた窓より大きい簾が家の中に飛び込んでいました。その内広島の黒い空から、パラパラとゴミや灰が降って来ました。母と私は、広島へ行った父や16才の高校生の兄や結婚したばかりの兄嫁や、親戚の安否を心配しながら、広島の何処がやられたのか、手掛かりはないかと、降って来るゴミを畑の中を走り回りながら拾い集めて、文字や地名のある物は母に判断して貰おうと思いましたが、母にもさっぱり判りませんでした。いっとき灰を含む黒い雨も降りました。放射能を含む怖い灰やゴミとも知らず、家にじっとしてもいられず、拾い集めていました。八幡村は広島の風下に当たり三日三晩ゴミが降って来ました(後に黒い雨の降った地域とされて問題になっています)。

父は広島の己斐駅に着き、市内電車に乗り換える為に並んでいました。3人前迄で満員となり、次の電車を待っていました。その駅は爆心地より2.5kmの所です。父は晴れ渡った青空に、3つの白い落下傘を見つけ、「何だろう?」とリュックを片手で肩にかけ、空を見上げていたその時でした。3つの落下傘はウランの原子爆弾や計器が積まれていたのですから、顔と胸と片手に火傷を負ってしまいました。しかし、火傷だけですんで良かったのです。前の電車に乗っていたら即死していて探しに行っても見つけられません。父は周りの人達と助け合い、励まし合って、山道を通って私のいる八幡村へ逃げ帰りました。山の中で下唇が何かわずらわしくて、手でつまんで払うと皮膚がぶら下がっていたらしく、下唇がむけてしまいました。手の傷から察して、顔の様子を石の凹みに溜まった水に映して見たりしたそうです。夕方5時頃だったでしょうか、父は村に着くと先ず医者に寄りました。村の最初の被爆患者として手厚い治療を受け、顔にガーゼを貼り包帯だらけで帰って来ました。私は遠くから父を見つけて駆け寄って、びっくりしました。火傷が痛々しいのと、父の声は異様な事態を伝えていました。村の人々が父の話を聞きに沢山駆けつけて来て、各々の肉親の安否を尋ねました。父はひどく興奮していて「広島は全滅だ」と説明していました。父は息子を探しに、今から行きたいと云いましたが、そんな体で行っちゃあ駄目だと止めると、この位は傷のうちに入らない、きっと息子は動けなくなっているか、死んでしまっているかと心配して、自分の火傷の痛みなど感じていないようでした。

16才の兄は学徒動員で兵器廠に向かう途中、爆心地を通り抜けて爆心地より1.8kmの所で、丁度カーブした土塀に沿って歩いていて、後方から熱い爆風に飛ばされて、伏した上から建物が崩れて来て、気を失ったかもしれませんが、「生きてるな!」と気付くと、馬鹿な事に爆弾の落ちた家に伏したのかな?と思いながら這い出し、全身打撲しましたが、周りの人は大火傷しているのに兄は土塀のお陰で3000℃の光には免れて、火傷はしませんでした。兄は火を逃れながら、近くの比治山に逃げました。動ける人は、どんどん火から逃げて比治山に逃げて来て、そこで出会った友達とお昼頃まで市内の様子を眺めていましたが、広島市を横切って、渡れる橋を探しながら八幡村へ帰って来ました。途中に、全身を火傷した友人に呼び止められ、その友人を戸板に乗せて、4人の友達で担いで市内を横切って歩くと、「兵隊さん助けてくれ」と足をつかまれたりしたが、仕方なく振り払ってしまったと云っていました。兄達は重傷の友人を救済のトラックに預けてから、兄は八幡村へ帰って来たのです。夜8時か9時に、最寄りの駅に置いてあった自転車に乗って、「生きて帰ったぞ~」と遠くからリンリン鳴らしながら帰って来ました。嬉しかったです。

翌日から父よりも重症の人々が続々と運ばれ、逃げて来ました。黒く焼けただれた皮膚を焼けてない皮膚にぶら下げ、顔はスイカのようにまん丸に腫れ上がり元の顔は判りません。こんなに沢山の怪我人がこの村に逃げて来ると、村の人口が増えると、又敵に狙われて、こんな爆弾が落とされるのではないかと、子供の私には、それはそれは怖い事でした。学校の教室や、お寺や、農家の座敷や、お医者の周りの木陰には怪我人が溢れていました。

父の顔も腫れ上がり、目も口も僅かしか開きません。口の隙間からスプーンで少しずつ重湯など入れてあげたり、うちわで扇いであげたりして、家族が付きっきりで看病しているので火傷の傷にはウジ虫は湧きませんでしたが、狭い部屋に悪臭を放っていました。兄は高熱を出し、赤痢のような激しい下痢に苦しみました。私も高熱を出しました。自分では急に地獄に放り込まれて、興奮して何日も眠れないのが苦しくて、その為に熱が出るのだと思いましたが、母は私もお腹をこわしたかと思って心配してくれました。母もきっと体調を崩していたでしょうが、皆を死なせてはならないと一生懸命看病してくれました。

私達は学校へ行って、お掃除をしたり何かの手伝いをしました。その中で2才くらいの男の子が頭を包帯して、よく泣いていた子を私はおんぶしてお守りをしました。その子には私くらいのお姉さんが居たのでしょうか私に懐いてくれました。家族からはぐれた重傷の人達の傷には、ハエがたかり、お医者さんが毎日ガーゼを取り替えても、取り替えても、次の日にはガーゼの下にウジ虫が湧いていたそうです。薬も無くなり、湧いてくるウジ虫を、村の主婦達が行って、ピンセットや割り箸で取り除くのが治療でした。

広島の惨事の3日後の8月9日には更に威力のあるプルトニウムの原子爆弾が長崎に落とされました。その6日後の8月15日に終戦となりました。敵が上陸して来る前にと、急いで母と私は広島市舟入幸町の自宅へ行って来ました。自宅は全焼していました。結婚したばかりの兄嫁さんは、彼女の実家にいて背中に沢山のガラス傷を負っていましたが、先ずは皆元気でした。

八幡村の被災者がいつ頃まで学校やお寺や農家の座敷に何日いたのか、今では全く覚えがありませんが、どんどん亡くなったり、家族に会えて引き揚げる人もいたり、私が可愛がっていた坊やも何処かへ行ってしまいました。

怪我人が沢山逃げて来て、ハエが皆さんを苦しめました。現在のように殺虫剤はありませんから、私達はハエを叩き殺して100匹200匹と取って毎日学校へ持って行ったり、また広島の人々に草団子を配る為にと、道ばたの草を摘んで学校へ持って行ったりしました。私達はこんな事をして広島を助けているつもりで一生懸命でした。

父は一時的に元気になり、12月末に呉線の安芸郡坂町小屋浦の集合住宅に移り住みました。小屋浦は広島や呉の焼け出された人の集まりでした。広島へ仕事に行き来する父の姿を今も記憶していますが、いつの間にか体調を崩して3年後に亡くなりました。私は中学2年の夏でした。隣近所の家からもお葬式が多かったです。見た目は無傷の人も放射能を浴びているので、毛が抜けたり、血便を出したり、歯茎から血が出たり、原因も解らないままバタバタと亡くなるので、あの日助かった人達も次は自分の番ではないかと、何年も何年もビクビクして過ごされていました。

以上は私の当時の記憶からですが、親戚などの助けを受けて、大人になって結婚してから気付いた事があります。それは奇跡的に助かった人達の中には、生きている事を苦しむ人達がいました。現在の人には「生きている事を苦しむ」と言う意味がお判りではないでしょうけど、火の中で叫ぶ人々を助けられず火から逃げて自分だけ生き残った人が沢山いました。広島市の中心部で建物疎開のために倒された住宅の瓦や木材を整理する為に、広島市内の中学校、女学校の1・2年生がかり出され、6295人の生徒がいっっぺんに焼き殺されたのは広島の被害の特徴です。広島市には中学1・2年生は殆ど居なくなりました。当時高校生だった私の兄の妻は、女学校の2年生でしたが、あの日たまたま体調が悪くてお休みしていて、命拾いしました。この兄嫁さんの女学校では676人の生徒が殺され、作業を休んだ十数人の命拾いした生徒は、この偶然を喜ぶどころか、生きている事の苦しみは計り知れません。生きている兄嫁達は、8月6日の平和式典の日、犠牲になられた先生や生徒の慰霊碑にお参りに行くのも、人の目を避けて、日が暮れて人が居なくなってから、お参りに行っていたそうです。私の夫も中学2年生でしたが、夫の中学校はこの作業に参加しなかったので生き延びています。夫は何故自分の中学校が参加しなかったかを説明するのも心苦しくて被爆証言をする事を嫌がります。

昭和の終わり頃、逗子市内の被爆者の会(つばきの会)が出来て、毎月のように集まって色々話し合ったり平和活動をしながら、私は沢山のことを教えられました。その頃は私は53才位で一番若い被爆者でした。キノコ雲の下から這い出して奇跡的に助かった人も何人かいらっしゃいました。ある人は、全身火傷した10才の弟さんが「死んだがまし、死んだがまし」と苦しみながら亡くなったと。ある人は中学1年生の弟さんを探すのも死体の歯型で見分けるのに沢山の口を開けて探し回ったが見つからなかったと。つばきの会では互いに解りあえるので、気を許して涙ながらに話してくださいました。

広島は翌日から軍隊が来て、何万という死体をトラックに積んで運び出しましたが、死体は暑い夏だから、どんどん腐っていくし、手で抱き上げる事は出来ないから畑を耕すクワのようなもので引っ掛けて寄せて積み上げる、人間扱いはしていられなくて、その中には、まだ生きている事の確認なくトラックに積まれた者もいたそうです。何処かでゴミのように穴に埋めたのでしょう。逃げた人々もだんだん死んでいくと、肉親の人や近所の人が焼け残った木材で火葬したそうです。

核爆弾の悲劇は写真や言葉だけでは伝え切れず、もどかしい限りです。写真には熱さも、においも、苦しむ声も、無念の涙も、写せないです。ひどく火傷した人、爆風で飛ばされて大怪我している人、飛んで来た物が刺さったままの人、風圧で目が飛び出して良く見えないと訴えている人、どんなに大怪我していても、動ける者は自力で逃げ回らなければなりません、動けない者は助けられる事なく死んでしまいました。広島市は7本の綺麗な川が瀬戸内海に流れ込んでいますが、燃え拡がる火から皆は川へ逃げました。川へたどり着いて命尽きる人が沢山いて、川は死体でいっぱいで、川を渡るのも死体を踏んでしまう有様だったそうです。私は、先輩達から、こうした沢山の体験談を聞いたり、証言集を読んだりしました。

敗戦後の日本は、長い間この原爆の悲劇を世界の人々に訴える事を禁じられ、その間、アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国とどんどん核兵器の研究開発が進み、地球上の生物を幾度も幾度も殺せるほどの沢山の核爆弾を造ってしまいました。最大時は7万発以上の爆弾になりました。被爆者は原爆の悲劇を口止めされていた悔しい年月が過ぎてやっと口を開き、当時の記憶を書き留めて世間に話せるようになりました。勇気ある被爆者は「核は絶対悪だ」と世界に訴え、国連にも行って訴えました。そうした被爆者や市民団体の努力が実って、2007年にICANが発足されました。(ICAN:核兵器使用禁止を訴える国際的活動団体)

ICANなどの活動により核兵器は少しずつ減らされて、2013年には18000発、2018年3月には14200発までになり、今なお削減されつつあります。こうしたICANの10年間の活動が認められて、2017年ノーベル平和賞がICANに与えられました。その際、被爆者であるサーロー節子様が授与式の挨拶に被爆証言をなさいました。彼女は広島市内の女学校2年生で同級生を沢山失った年代のお方です。

被爆者は、「世界の核兵器廃絶」を願って、原爆の悲惨さを語り継いでいます。年々少なくなっていく被爆者も微力ながら、証言集を書いたり、原爆被災者の写真展を開いたり、戦争を知らない皆さんとお話をしたりしています。今日、お感じになった事を、ご家族やお友達と話し合ってください。そして、皆さんの将来に「核兵器の無い世界」が来ますように貢献してくださる事をお願い致します。
 
【追記】
私事ですが女学院中学に入学し2年生の夏、父親は死亡しました。広島市内の母の実家の援助を受け、中・高を卒業し、母が再婚したところへ養女となり、神戸女子薬大へ学びました。比較的体の弱い子として、時々学校を休む事もありましたが特に大病はしなく成人しました。汗もやにきびがよく疔になり、23才の頃広大病院に勤務していた頃、背中の疔が中々治らず血液検査したり医者を困らせました。

結婚してめばちこ(ものもらい)が出来、つわりで吐く勢いで芯が出て治り、これが最後に体質が変ったのか化膿しなくなり、三人の子に恵まれました。

昭和60年頃、長女が年頃になった頃、広島の知人の娘さんが紹介された男性との結婚をことわった理由が「男性の母親が被爆者で30才余りで白血病で亡くなっておられる」という事でした。私共の子が被爆二世である事で結婚出来なくなる事を心配し、出来る丈東京地方で恋愛して結婚出来ますように願いました。長女・長男は結婚しました。3人の子は成人してからも、健康診断では特別に甲状腺ホルモンの数値を気遣っています。

在住している逗子市では1988年に神奈川県原爆被災者の会の支部となり、証言集を作ったり逗子市の平和活動に参加したり、小学生・中学生にかたりべをしに行っています。私は先輩達が高齢となり死亡されたりして、5年前からかたりべを行っています。
私が当時5年生だったので、小学校6年生も中学2年生も身動きもしない程集中して聞き入ってくれます。話しているうちに当時の悲しい世界に吸い込まれて、うっかりするとこみ上げて来て声が出せなくなったりしますが、冷静に話す努力をしながら、何とか話しております。逗子市には小学校が6校ありますが、6年生に話す時は、赤ちゃんの頃被爆された佐々木偵子さんが6年生になって白血病になり、中学1年生で亡くなられた話をし、当時のお友達の運動によって平和公園に「平和を祈る折り鶴の少女」の像が出来た事を話したり、70年振りに八幡村へ行ってみた感想を話して、6年生の子ども達の真剣な目差しを少し和ませております。

最近、中高時代の友人とこの歳になるまで原爆の話を何もしないでいた事に互いにおどろきながら、思い出を話し合っています。 

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