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被爆体験(手記) 
吉田 章枝(よしだ ふみえ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 中国配電㈱ 製作所(大洲製作所)(広島市大洲町[現:広島市南区大州四丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 8月6日
 
今から64年前の、昭和20年8月6日、朝8時15分、世界で初めて、この広島に原子爆弾が落とされました。
 
8月6日の朝、私は、いつものように7時前に家を出ました。いつもはまだ寝ている父が起きだして「今日は、警報が出ているから気をつけて行きなさい」と玄関まで送ってくれました。私は「ハイ、行ってきます」と、父の顔を見ながらいいました。
 
19歳の姉は、広島城の中にあった軍の師団司令部へ勤めに出かけました。母と7歳の妹は自宅におりました。
私は、女学校4年生、16才でした。3年の2学期から、中国電力大洲工場に動員されていました。政府が戦争中の労働力不足を補うため、終戦の1年前、昭和19年8月に学徒勤労令という法律がつくられ、中学生以上の生徒はみんな、強制的に、軍需工場や建物疎開などの勤労奉仕に行っておりました。それを学徒動員といいます。ですから、勉強をしたくても勉強もできず、お国のためにと、みんな一生懸命働いておりました。
 
その頃の服装は、母が古い着物を直して縫ってくれたモンペをはいて、上着はグレーのブラウスを着ていました。白いものは目立って敵の攻撃の目標のなるからと、みんなグレーに染め直していました。頭に白い鉢巻を巻き、足は下駄履きです。長い間ズックの配給がないので、いつのまにかみんな下駄を履くようになったのでした。左肩から防空頭巾を斜めにかけ、右肩には手製のカバンをかけています。カバンの中には非常食用の大豆を煎って缶に入れたものやタオルなどを入れていました。
 
その日は、ぎらぎらと夏の日がとてもまぶしく照り付けていました。広島駅を通り過ぎて、やがていつもの集合場所につき、みんなと朝のあいさつをして、先生の引率で2列に整列し、大きな声で軍歌を歌いながら、5分ほど歩いて工場に着きました。
 
工場は爆心地から約2.5km離れたところにありました。
 
工場に入り、仕事が始まりました。私たちの仕事は、潜水艦に積み込む配電盤の部品を作る作業です。私は旋盤の前に立ち、やすりを使い始めていました。
 
突然、ピカッと、ものすごく強い光が目にとび込みました。反射的に机の下に身を伏せると同時に、ドンと大きな音がして、建物の土壁やガラスの破片が降りかかり、周囲は砂ぼこりがたちこめました。
 
やっとおさまった頃、机の下からそっと這い出してみました。何が起きたのか、お友達はどこへいったか見当たりません。そばに出てこられた班長さんが、私の手をひっぱって走り出され、そのまま防空壕にとび込みました。下駄履きの音がカタカタと鳴ったのをおぼえています。
 
どのくらいの時間が経ったのか、わかりません。気がついたら、私は工場の食堂の窓から外を見ていました。前の道をトボトボと歩く人が見えます。体中にボロ布をまとったような人達が、両手を前に出して、何かをぶらさげているような格好で、次から次へと、ゾロゾロと東の方の郊外に向かって歩いていきます。だいぶ経ってから、そのボロ布のようなものが、火傷で傷ついた皮膚だということを、誰かから知らされました。
 
「広島駅の方がやられたらしく、火災が起きているから駅前は通れない」そんな声がだんだん聞こえてきました。長い長い時間が経ちました。やっと牛田へ帰られる先生に引率されて、友人4人と家の方へ向かって歩き始めました。大洲から矢賀へ抜ける地下道は、停電のため水があふれて通れません。線路を渡って、止まったままの貨車の下を何度かくぐりぬけ、矢賀に出ました。途中の家々にはたくさん負傷者が庭の方へ出ているようすです。
 
大内越峠(おおちごとうげ)を越えようと峠に上って見ると、市街地は真っ黒い煙でおおわれて、何も見えません。火の先は、尾長まで延びてきてチョロチョロと燃えていました。峠の道は負傷者でいっぱいなので、峠を後戻りして、中山、戸坂を通って、知らない道を山伝いに歩きました。夕方おそく、この饒津(にぎつ)神社前までたどりつきました。
 
その時、1人の少年がすっと近づいてきました。衣服は焼けただれて何も見につけず裸足のままで、顔もまったく見分けがつかなくなっていました。友人の1人が、「○○ちゃん!」と呼んで走りよりました。それは、友人の弟さんでした。後に友人は「むこうから『おねえちゃん!』と呼んだからわかったけれど、呼ばれるまでは全く気付かなかった」と、話していました。友人と弟さんは大須賀町の家のほうへと帰っていきました。その弟さんは翌日亡くなられたそうです。
 
饒津神社は本殿が焼け落ちて垣だけが残っていました。神社の境内に、母を見つけました。両方から駆け寄って抱き合いました。涙があふれだしてきました。父も姉も妹も帰って来ません。わが家は全壊して、ペシャンコになって跡かたもありません。なすすべもなく、その夜は、倒れた家から畳2枚を近所の人が持ち出して来て下さって、みんなで横になりました。市内中心部の西の空は、いつまでも赤く染まっていました。
 
8月7日
 
翌朝早く、八丁堀の家へ帰るという友達2人と一緒に出かけました。常盤(ときわ)橋を渡り白島へ入ると、そこからは一面の焼け野原です。ときわ橋の横の鉄橋の上で、横倒しになった貨車がまだ燃えていました。
 
白島で2人と別れ、私は1人で、姉を探しに軍隊の師団司令部があった広島城の方へと向いました。道路には、何もかも黒焦げになって、見分けのつかないものがゴロゴロと、ころがっていました。倒れた電柱の先から、火がちょろちょろと燃えています。音もなく、しんと静まりかえった街、何一つ動きのない街を私は、ただ1人で歩きました。なるべく周囲を見ないようにと、ただ足許ばかりを見つめながら歩いていきました。しばらく歩く中、遂に、恐ろしさのあまり私の足は前に進まなくなりました。
 
遠くから人影が見えてきました。その人は、今朝、島から船で宇品に着き、歩いてここまで来られ、これから牛田へ行くといわれるので、私はそのおじさんにお願いしました。「どうぞ、わたしを饒津のところまで連れて帰って下さい。1人ではとても恐くて歩けないのです」と、後ろからついて帰りました。
 
午後、校長先生に道で会いました。校長先生は「3年生が師団司令部でたくさん怪我をして、東照宮の下にいる。人手が足りない。手伝ってもらえないだろうか」とおっしゃいましたが、私は事情をお話してお断りしました。〈今は、母1人を残しては、どこへも行けない〉と思ったからです。
 
夕方になって、お隣の奥さんの遺体を、倒れた家屋の下からご主人が掘り出されました。遺体はきれいなままでした。ちょうどその時、そこの長女ののりちゃんが動員先から帰ってきました。のりちゃんの妹さんは、女学校1年生で、建物疎開作業に行っていて、全身大火傷を負って防空壕に寝かされていましたが、おかあさんが見つかったことを、お父さんが知らせに行かれると、もうたった1人で息絶えていたそうです。御主人もひどく体が弱って、だるそうにしていらっしゃいました。
 
それで、妹の幸枝は、「お隣の奥さんと一緒に、どこかへ逃げたのだろうか」という母の希みは絶たれてしまいました。妹も我が家の下敷きになっているに違いないと思っても、女手ではどうにもなりません。
 
妹 幸枝(ゆきえ)のこと
 
翌日夕方になって、やっと、家路へ急いでいるという消防団の人に無理にお願いして、倒れた家を掘り起こして、妹を探して貰いました。母が「居ったよ、幸枝が居ったよ!」と大声で叫びました。足が見えてきました。藤色地に水玉もようのワンピースも見えてきました。妹は、首に大きな家の梁を受けていたから「おそらく即死だったでしょう」と、消防の人が云われました。ピカッと光った瞬間、妹は「お母ちゃん!」と一声、大きな声で叫んだということでしたが、母も建物の下敷きになって動けないので、「幸枝ちゃん、すぐに行くから待ってなさい!」と、叫んだそうです。母は、やっとガレキをかきわけ外に出てみたが、誰も見当たらなかったそうです。
 
妹の身体は、まだやわらかく、かすり傷一つなく、まるで眠っているままの姿で母に抱かれていました。妹は小学校1年生でした。そばに、どこからか、おはぎが1つ、ころがり出ていました。それは前日、姉19歳、妹7歳の誕生日を祝って、母が心をこめて作ったおはぎでした。母は、6日のおやつに妹に食べさせようと思って残していたのでした。昨夜の家族そろっての夕食、姉や妹の笑顔が目に浮かんできました。
 
妹の遺体は、母と2人で抱いて東練兵場へ運びました。そこにでは、山のように積み上げられた遺体を、どんどん燃やしていました。ごうごうと音を立てながらすごい勢いで燃えていきます。手を合わす間もなく、妹の水玉もようのワンピースも燃えてしまいました。妹はおとなしいやさしい子でした。私とは年が9つ違っていましたので、一緒に遊んであげたこともなく、いつも1人でお人形を抱いて遊ぶことが多く、時々近所のせっちゃんとなかよくおままごとなどをしていました。
 
翌朝、母と2人で、妹のお骨を拾いに行きました。誰のものともわからないお骨が、山のように積まれています。そっとお骨を拾い、母は大事に抱いて帰りました。その隣ではまた、新たに運ばれてきた遺体がどんどん焼かれていました。
 
姉 凉(すず)枝(え)を探して
 
翌日、夕方近くなって母と、19歳の姉を探しに師団司令部へ行きました。広島城は天守閣もなく、大本営も跡形もありません。お堀近くには黒焦げの死体が折り重なり、お堀の水には、たくさんの人たちの遺体が浮かんでいました。燃え残った大木が、ななめになって何本か立っています。
 
軍隊の司令部跡に、軍人さんがただ1人腰掛けておられました。母は近づいていき、「林 凉枝の母でございます」と、挨拶しました。偶然にも、その人は姉の直属の上司、山本曹長さんという方でした。5日から大阪に出張していて、7日に急いで広島に帰り着かれたとのことでした。
 
母は重ねて云いました。「覚悟して来ておりますが、娘は?」と。その人は「こちらにどうぞ」。と案内して下さいました。「ここが、林さんの机があった場所です。『おかあちゃん、助けて!熱いよ!』と、叫んだそうです」と、仰いました。
 
母はその場にしゃがみ込み、焼跡を掘りました。お骨が出てきました。真っ白にやけて小さく小さくなっています。母は頭の骨を持って「娘です。間違いありません。この小さい歯は、凉枝の歯です」と言って、抱きしめて泣きました。そして、いつまでも、母はそのまま動きませんでした。姉は色白でふっくらとして目もと涼やかな、小さい口許にいつも微笑みをたたえた美しい人でした。
 
しばらくして、軍人さんが何か云われました。母は、いつのまにか用意して来ていたらしく風呂敷を出して、お骨を拾い始めました。その人も一緒に手伝ってくださいました。私は何故か涙が出ずに、立ちすくんだままで、じっとその光景をみつめていました。
 
田舎から祖父が出てきて、姉と妹のお骨を持って帰って行きました。
 
その夜、私は、母の手を取って、いいました。「お母ちゃん、大丈夫よ。2人で生きていこうね。私はもう子供じゃないんだからどんな仕事もできる。工場のお仕事でも何でもできるんだから、2人で生きようね」と、2人抱き合って泣きました。母は何も言わずに、私を強く強く抱きしめてくれました。涙がいつまでもいつまでもとめどなく流れてきました。 
 
父を探して…
 
次の日から母と2人で、父を探しに出かけることにしました。
 
父はあの日、いつものように8時ちょうどに、自転車に乗って家を出たようです。戦闘帽をかぶり、足にゲートルを巻いた姿です。出掛けに、母が銀杏の実を植木鉢に5つうめておいたのが、4本だけ芽を出しているのを見て「4本というのは縁起が悪いから、もう一つ植えておきなさい」と云い置いて元気に出かけて行ったとのことです。自転車で15分といえば、どの辺りを走っていたのだろうか。皆目、見当がつきません。
 
八丁堀の辺りか、それとも相生橋の上あたりだったのでしょうか。毎日々々、人の集まっている所、救護所になっている所と、父を尋ね歩きました。どこかに名前が書き出してないだろうか。何か手がかりになるものは残っていないだろうかと焼け跡の道を歩いてゆきます。もう黒こげの遺体を見ることも、川の中に浮かんで大きくふくれてしまった遺体を見ることにも、だんだん恐しさを感じなくなったような気さえして来ました。川に浮かんだ遺体は船へ次々と引き上げられていきます。男女の区別など見分けられません。頭が少し焼け残っているのは、帽子をかぶっていた人でしょうか。じりじりと真夏の太陽は照りつけてきます。あちこちに水道管が破れて水がふき出しています。それを口に含み、タオルを水でしぼって頭にかぶり、焼跡の道をあてどもなく歩きます。東から西へ、北から南へと父を訪ねて歩きました。
 
どこからか「戦争は終わったらしい。日本は負けたんだ」という声が伝わって来るようになりました。
 
母は、庭に埋めておいた陶器類を掘り出して、お金に替えてきました。おばあちゃんの形見の錦手(にしきで)の大皿も、父が好きだったどびん蒸しのセットも、みんな消えてゆきました。
お隣のご主人の様子が、おかしいらしい。歯茎から出血し、下痢が止まらない。顔には暗紫色の斑点が表れ始めました。悪いガスを吸われたらしいと聞きました。それが、放射線の被害だったと後で知りました。ある朝、親戚の人が大八車を持ってきて、それに乗せて行かれました。のりちゃんが、後ろからついて行きました。お母さん、妹さんと続いて亡くしてしまったのりちゃんが、とぼとぼと歩いて行きました。
 
9月になって
 
周りは急に淋しくなってしまいました。気が付くと、公園から段々人が少なくなっていきます。私たちはいくあてもありません。父がどこからか帰ってくるような気がして、ひたすら待っていました。
 
9月に入り雨が降り出し、暑かった長い長い夏も終わりを告げようとしてきました。
 
或る日、母は言いました。「お父ちゃんは、あの爆風で吹き飛ばされちゃったんだろう。『秋子、秋子!』と、呼びながら、これだけ探して見つからないということは、きっと、そうだと思うよ。そろそろ死亡届を出そうと思うけど、それでいいか」と、私にききました。父も、姉も、妹も、みんな母の名前を呼びながら逝ってしまったのです。母と私2人だけがここに残されたのです。私は、「それでいいよ」と、涙ながらにうなずきました。
 
母と共に、市役所へ届けを出しに行きました。焼け跡に机を出したまま、市の人が受け付けにいました。何の証拠もない、行方不明のままだったけれど、何とか届けは受理してもらえました。私は心の中で思いました。〈父は、私たちの中に生きている。私の胸にいつまでも生きつづけている…〉と。
 
次の日、父の勤務先へ届けに行きました。ガランとした広い事務室にたった1人、男の人が居られました。手続きを終えたあと、父の机の中から萩焼きの小さな一輪差しと、お湯呑を持って来てくださいました。父は、50歳1ヶ月でした。
  

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