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被爆について思うこと(平成27年度) 
匿名(とくめい) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2015年 
被爆場所 広島地方気象台(広島市江波町[現:広島市中区江波南1丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中央気象台附属気象技術官養成所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
私は当時19才、中央気象台(現気象庁)附属気象技術官養成所本科第2学年に在学していた学生で、あの時は夏休暇で出身地の気象台で業務の実習を受けていた。広島では江波山に気象台があって、あの日、江波山上にあった陸軍の高射砲陣地の兵隊が、気象台に来ては上層風の観測及その整理をしていて、その観測結果の計算整理を気象台事務室2階で行っていたのを見学していた。

その時、兵隊のアリャ!という大声と共に室を飛出してきた。昼の日中に照明弾を落す馬鹿がいるのかと一瞬の思いと共に兵隊の後を追ったが、既にもうかくれる余地は残っていなかった。これはヤバイと思うと共に脚が動かなくなり、ズボンを下してみると両脚が真赤になっていた。間もなく気象台職員が1階から担架をもって助けに来てくれて、山下の陸軍病院にかつぎこまれた。気象台と陸軍病院は近いので、初めのうちは軍医も、これは重傷で直ちに手術するといっていたが、市民が病院に集中するようになって、病院全体がるつぼのようになり、私の治療などかまう段ではなく、結局そのまま山上の気象台宿直室にかつぎこまれた。しかしその怪我が不幸中の幸いというか、荒廃した市中に10日だったか11日だったかに、一緒に生活していた姉を探すため市中に入ったのみで、後は江波山上の宿直室に15日まで寝ていて、姉は遂に探すことは出来なかったが、私自身の放射能の影響は、他の市民に比べて遙かに弱いものだったのかも知れない。

書けばキリがない程色々な思いが乱れるが、粗筋は以上のようなものであった。この間、江波山上にあった高射砲陣地が、私と火傷してやっとたどりついた同じ実習生の2人の14日までの食事を全て提供してくれた。これは無一物になった2人の学生にとって唯々、感謝、軍隊への感謝の一語につきる。このような軍隊の民間援助の話は聞いたことがないので世間に報告しておく。

今となっては被爆の細部には矛盾が多く、文字に現わすのが難しいが、私としては私の実習生活をみててくれた末、犠牲になったなつかしい姉に申し訳なく、唯感謝するのみである。個人的な思いは出来るだけはぶいたが、たゞたゞ姉の冥福を祈りつつ拙文をとじる。


 
  

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