国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
「ヒロシマの羅針盤」を胸に ―父・清水良治と伯父・岡本利夏の被爆― 
杉浦 圭子(すぎうら けいこ) 
性別   被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2025年 
被爆場所 広島県立広島商業学校(広島市皆実町一丁目[現:広島市南区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島商業学校1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
 原爆投下前の広島の写真。米軍が上空から撮影したその航空写真を見る度に、私は胸が締め付けられるような気持ちになります。びっしりと並んだ瓦屋根の下には人間が住んでいて、家族、妻や子ども、お年寄りもいて、人々がささやかに懸命に生きていました。そこに一発の原子爆弾がアメリカによって投下され、一瞬にして広島の街は廃墟と化したのです。

NHK時代、私は被爆2世のアナウンサーとして、原爆・平和関連番組を数多く担当しました。第二の人生では、広島市の家族伝承者として、父の被爆体験と、取材でお世話になった被爆者の方々の意志と行動を伝えていきたいと考えています。

【少年時代の父】
私の父、清水良治(しみずりょうじ)は、昭和7年5月6日に生まれた。代々、農家だった清水家は、広島市の中心部から北北東へ約10キロの郊外(現在の広島市安佐南区八木)にあった。

小さい頃の良治は、勉強はせず農作業も手伝わず、イタズラばかりして遊んでいる少年だった。国民学校3年生の頃には太田川を泳いで渡り、戦争ごっこでは、近所の竹藪をシンガポールと名付け、そこへ攻め込んでは大暴れをしていた。当時は日本軍が、シンガポールをイギリスから奪い取り占領していて、子どもの遊びにも戦況がそのまま反映されていたのである。(※)

良治の父親、禎三(ていそう)は体が弱く、良治が11歳の時に病気で亡くなった。母の絹代(きぬよ)と祖母のワカが二人で田んぼや畑を耕して、良治と姉と弟の3人を養ってくれたが、家計はかなり苦しく、良治は早く大きくなって一家を支えなければならなかった。

国民学校の担任の先生が良治に、「戦争中は戦争に必要なものを作る『工業』が輝いて見えるが、戦争が終わったら必ず『商業』が日の目を見る。だから先輩が多くて歴史のある『県商』へ行け。」と勧めてくれた。「県商」とは県立の商業学校「広島県立広島商業学校」(当時)のことである。

先生のアドバイスに従った良治は、国民学校を卒業すると 「県商」へ入学した。それは、原爆投下4か月前のことだった。

※ 1942(昭和17)年2月、日本軍はシンガポール占領し、昭南島(しょうなんとう)と改称した。
 
【当時の日本の様子】
戦争が長引くにつれ戦況が悪化の一途をたどっていた日本では、食料や燃料などの物資も資金も労働力も、何もかもが足りなくなっていった。1938年に施行された「国家総動員法」では、国の経済や国民生活すべてが政府の指導により制限された。そのような状況下で、子どもたちは学校で授業を受ける機会が少なくなり、食料不足を補うための畑仕事など、様々な作業を強いられるようになっていた。

1944年11月、広島市では国からの指示を受け、空襲による火災の延焼を防ぐために建物を取り壊して空き地をつくる「建物疎開」を実施することになり、良治を含む旧制中学の1~2年生たちが駆り出されることとなった(※)。大人がロープで家を引っ張って壊した後、子どもたちがそのあと片づけをするのである。

※ 原爆による広島の動員学徒の死亡者 約7,200人の内、82%が建物疎開作業に従事していた生徒たちだった。(広島平和記念資料館 企画展「動員学徒-失われた子どもたちの明日-」2004年より)

【8月6日】
1945年8月6日の朝、良治たち「県商」の1~2年生の生徒約440人が、校庭に整列して建物疎開へ出かけるのを待っていると、閃光がピカーッと走った。日頃から訓練を受けていた良治がとっさに両手で目と耳をふさいで地面に伏せると、ひと呼吸おいてドーンという大音響。爆風で木造校舎は浮き上がり、あたりが真っ暗になった。良治は、一番に「熱いのう」と感じた。

良治の学校「広島商業」は、当時、標高約70メートルの小高い丘のような「比治山」のふもと(爆心地から約2キロ)にあった。「近くの広島ガスのガスタンクに焼夷弾が落ちて爆発したんじゃ」と良治は思った。

良治の髪の毛は、パーマを当てたように膨らんでチリチリになっていた。白いランニングシャツに長ズボン姿だった良治は、右斜め後ろから熱線を浴びたらしく、シャツから外に出ている首、肩、腕の皮膚がズルムケになり、特に首の後ろの火傷がひどかった。
 
【比治山への避難】
真っ暗だったあたりが少しずつ晴れてきて、同級生たちが四方八方へ散り散りに逃げて行くのが見えた。良治もすぐに避難しようと、防空壕のある比治山を目指した。途中の坂道では、若い女の人がブルマーのようなものをはき、服は破れ胸もはだけて、くすぶって煙が出ている布団をひきずって逃げている。みんなひどい火傷をしていた。それらは良治が今まで見たこともない光景だった。暑さでフラフラになりながら、良治も坂道を登って行った。

防空壕に着くと、中は奥まで深く掘られ、5~6メートル間隔で裸電球が天井からぶらさがっていて、ひんやりとした空気が良治には気持ちよかった。「わしは、気が立っとるけえ泣かんかったが、『お母さん、痛いよう、やねこい(しんどい)よう!』と泣きながら言う人が一杯おった。」と良治は当時を振り返る。

防空壕の入り口に、火傷の治療用にとマヨネーズのような白い油が入った「たらい」が置かれた。良治はそれを体中に塗った。そして、昼過ぎまで暑さを避けて防空壕の中で休んだ後、「とにかく家に帰って、お婆さんとお母さんを安心させんといけん」と良治は比治山を発つことにした。
 
【八木・梅林の家を目指して】 
比治山から見ると、広島の街は 煙や火の手が一杯あがっていたので、中心部を避け電車に乗って帰ろうと、まず広島駅へ向かった。その道中、戦闘帽にゲートル姿の20歳くらいの見ず知らずのお兄さんと一緒になった。その人に、「どこの学校の生徒か?どこへ帰るのか」と聞かれたので、「自分は県商の生徒で、可部線の梅林駅まで帰るところです」と答えた。すると、「広島駅は汽車も電車も通っとらんから、途中まで一緒に歩いて行こう」と誘ってくれた。

猿猴川を渡ろうとすると、鉄橋は壊れてレールがぶらさがっていた。 お兄さんは良治の手を引いて「しっかりせい」と励ましながら一緒に渡ってくれた。燃えている広島駅を横目に、駅の裏手に出て、山を越えるために峠道(大内越(おおちご)峠や中山峠)を歩いて抜け、そこでお兄さんとは別れることになった。「八木の梅林へ帰るのなら、太田川に出て舟で渡してもらうといい」とお兄さんは教えてくれた。

当時良治は、市内の学校に入学してまだ数か月の、土地勘もない13歳。「あの人がおらんかったら、わしはどうなっとったか分からん。あのお兄さんは、命の恩人だ」と良治は今でも感謝している。彼のアドバイスに従い、良治は太田川を船で渡してもらい、その後もひたすら「梅林駅」を目指して歩いた。
 
街の中心部を抜けると、道の両側には大勢の人が並んでいて、帰ってくる人を待ち構えていた。「あんたは、どこの学校の学生さん?何年生?」と何度も何度も聞いてくる。「わが子と同じ学校・学年の生徒だったら、自分の息子も無事に帰ってくるはずだ」と願いを込めて聞いてくるのだ。良治は、「県商1年、県商1年。県商の1年生!」と繰り返し答えながら歩いた。よその学校の生徒のことを聞いてくる人もいて、「わしは何も知らんし、倒れそうなくらい やねこいのに、それどころじゃない」と良治は困惑した。

途中で、「火傷には小便がいい」と聞いたので、良治は木陰に腰かけて自分の小便を火傷に塗った。中には水をくれる人もいて、良治にはそれがとてもありがたかった。防空壕で「火傷の人に水を飲ませたら死ぬ」と聞いてはいたものの、暑くて居ても立ってもいられなくなり、もらった水を飲んだ上、頭からもかぶった。

午後1時前に比治山を出発した良治が、八木・梅林に着いたのは午後3時ごろだった。梅林駅の周りにも地域の人が集まっていて、良治を見つけると「清水の良ちゃんが帰ってきた」と大騒ぎになった。その後、誰かが家に知らせてくれ、良治の母と祖母が大喜びで迎えに来てくれた。でも良治は、全身が火傷と、マヨネーズのような油と、小便と、汗と、土ぼこりで汚れ、疲れ果ててよくわからない状態だった。
 
【闘病、そして回復へ】
父親が亡くなり経済的に苦しかった清水家だが、農家だったので野菜だけはあった。「西瓜を食べるか?トマトは?あじ瓜もあるで?」と聞かれたが、良治は食べる気力がない。大好物だった西瓜は少し食べたかもしれない。母が、キュウリをすりおろして火傷に塗って湿布をしてくれ、手ぬぐいで頭を冷やし、薬草のドクダミを乾かしたものを煎じて飲ませてくれた。蚊帳を吊ってもらい寝かせてもらった。

翌日から良治は熱が出て、その後3~4日間、意識を失った。知り合いの歯医者が往診に来てくれ、カンフル注射を2回打ってくれ、やっと意識が戻った。家の中で寝ていると、遠くの川原の3ヶ所くらいから 煙が上がっているのが見える。それは、原爆で亡くなった人を火葬している煙だった。火葬場が一杯で、太田川の川原で遺体を焼いていたのだ。

近所の人が家に来て、「歯茎から血が出て、髪の毛や眉毛が抜けるともう駄目じゃ。川原行き」と言っているのが聞こえた。「人が寝とるそばで嫌なことを言うのお…ワシも死ぬかもしれん」と心配になった良治は、髪の毛をしょっちゅう引っ張っては抜けないか確かめた。

ほどなくして8月15日、終戦の日をむかえた。床についたままで玉音放送を聞いた良治は、悔しくて悔しくて、神社の境内で切腹しようかと思った。「日本は負けない、絶対に勝つ」と信じていた軍国少年だったのだ。

結局、幸いなことに良治の髪の毛は抜けることもなく、昼も夜も手厚く看病してくれた母のおかげで火傷も徐々に良くなっていき、3か月後の11月、学校が再開する頃には元気になっていった。

しかし、右の耳の前の皮膚が薄いところには、火傷が治ったあともケロイドが残り、その状態が大人になっても続いた。
 
ここまで、父・清水良治の被爆体験をお伝えしましたが、父の人生を考える上で欠かせない、私の母・保子(やすこ)の4歳上の兄、岡本利夏(おかもととしか)についても記しておきたいと思います。
 
 
【原爆の犠牲になった伯父・利夏】
保子の兄・利夏は、被爆当時 広島商業の2年生で、良治の1年先輩だった。当時10歳だった保子の記憶によると、軍国少年だった利夏は、紙で作った勲章を胸に一杯ぶら下げ、自分で手作りした刀を腰に差し、しばしば「一人芝居」をして遊んでいた。
それは、戦地で手柄を立て、出世してふるさとに帰ってくるという軍人さんの芝居だった。家の玄関脇のくぐり戸に向かって「岡本利夏、ただ今 帰りました!」と得意そうに敬礼をしながら、何度も繰り返すのだ。

利夏と保子の実家は、市内中心部から北北西へ14キロほど行った山間(やまあい)の谷(現在の安佐北区安佐町後山)にあり、通学が大変だということで親戚の家に下宿していた。その下宿先が、たまたま八木・梅林の良治の家の近くだったので、県商の1年生と2年生だった良治と利夏は、毎朝、同じ電車で通学した。
 
【利夏の被爆状況】
原爆投下の朝、広島商業の2年生の大半は、良治たち1年生と同じ校庭で被爆したが、利夏のクラスだけが別行動だった。建物疎開の作業に向かうため爆心地から約800mしか離れていない土橋付近を通りかかった時に8時15分をむかえた。でも利夏は、即死は免れた。「利夏が三篠の信用組合に避難している」という知らせが八木の親戚に入り、駆け付けたが利夏はもうそこにはいなかった。信用組合にいた人が、「この子は、八木・梅林に帰る子だから、そこで降ろしてあげて」と救援トラックの運転手に頼み乗せた後だったのだ。

しかし梅林駅に利夏はおらず、別の子どもが降ろされて寝かされていた。行方不明になった利夏を父親の隆一(たかいち)が探し回っていると、八木から更に北へ10キロ以上行った山間、鈴張(すずはり)の寺から、8月8日に亡くなったとの知らせが実家に入った。利夏の母・タマノは、それを聞いた途端、保子の目の前で気を失って倒れたという。

早速、近所の人が、「大八車」を引いて寺まで遺体を引き取りに行ったものの、別の子どもの遺体が残されていて、利夏は既に火葬されている最中だった。被爆から3日間、息があったにもかかわらず、行き違いになり、何度も何度も別の子どもと間違われ、身内の誰にも会うことなく、結局、骨になって家に帰った利夏。軍人になって故郷に錦を飾りたかった彼は、皿が仕舞われていた桐の箱に入れられて家へ帰ることになった。

保子によると、タマノは、広島に原爆を投下したアメリカの爆撃機B29の音が大嫌いで、事あるごとに「東條(※)が憎い、東條が憎い」と言い続けた。

※ 開戦時の内閣総理大臣で太平洋戦争を主導した東條英機(とうじょうひでき)のこと。
 
良治と利夏の被爆体験の詳細は全て、私の父と母から伝え聞いた話です。同じ学校の生徒でありながら、被爆した場所が違ったために、一人は生き、一人は死に、正反対の結果となりました。

父の良治は、現在92歳。80歳を過ぎた頃から「多発性骨髄腫」という癌を患っています。血液を作る骨髄の中にがん細胞が増える病気で、輸血と抗がん剤の治療をしながら病気と闘い続けています。また、82歳の時には胃がんになり、内視鏡手術を受けました。父は、「90歳まで生きられたから、いつ死んでもいい」という風には思っていません。

ここ数年の父は、何度も骨折を繰り返し、一時は寝たきりになりましたが、「地獄の苦しみだ」と父が言うほど痛くて辛いリハビリに取り組んで、一人でベッドから車椅子に乗り移れるまでになりました。家族に負担をかけないよう、自立して、家族のために生き続けようと頑張っているのです。

若い頃の父は、あぐらを組んだ足の上に子どもの私をだっこしながら、よく歌謡曲の「長崎の鐘」を歌っていました。この鐘とは、被爆後の長崎で瓦礫の中から堀り出され、人々の心を慰め励ました浦上天主堂の鐘のことです。
 
こよなく晴れた青空を  悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に  はかなく生きる野の花よ
なぐさめはげまし 長崎の ああ長崎の鐘が鳴る
 
半分目を閉じて、気持ちを込めて父は歌っていました。「なんで、この歌が好きなん?」と私が聞くと、「わしは被爆者じゃけえ…」と答えたことがありました。いつもはとても明るい父でしたが、この歌を歌う時だけは、少しだけ遠くを見ているような感じがしました。

平和活動には縁がなく、被爆者でありながらアメリカの核の傘の下にいる日本の現状を容認している父ですが、「戦争をしていいことは一つもない。『ヒロシマの羅針盤』の考え方はええのう」とも言っています。『ヒロシマの羅針盤』とは、私がアナウンサー時代に被爆者取材を通じて学んだメッセージ「みんな、大切なひとり」のことです。「国籍、人種、民族、宗教、性別、貧富、老若、障がいのあるなしなどに関係なく、世界中のすべての人が同じように大切な存在であり、命の重みに違いはない」という意味で、「平和への道」を進む道標です。私は、この「みんな、大切なひとり」に『ヒロシマの羅針盤』という名前をつけて伝承しているのですが、父も、自身の平和への思いを私の活動に託してくれているのだと思います。
 
 
 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針