66年前、爆心地からわずか1・5キロの地の我家のあの日の朝も暑い日でした。8時15分、母は土間で10才の兄は朝食8才の私は縁側で、B29が今日は低く飛んで来ました。ピカットその瞬間自分が何かの下敷になっている事に気がつきました。全く理解が出来なくて、少しのすき間でどれほどの時が過たのか、兄が「お母ちゃん助けて僕はここよ、僕はここよ助けて」とさけんでいる声が聞えて来ました。家の下敷になっている4才の弟、兄、私、お母さんは8ヶ月の身重で体の上の物を少しづつ剥ぎながら外に出て弟を引っぱり出した。弟の左手は肉がぶらさがりぼろぼろに。五寸クギが腕にささっていたのを引っぱり出したため着いた洋服でしばり、助けを求めている兄を助けようと剥ぎ取っても剥ぎ取っても姿が見えないのです。兄は何重もの下敷になっていたのです。
街は火の海、もう家に火の手が来るのも時間が有りません。お母さんは「智恵子はどこどこに居るの…」「ここよ、ここ」と初めて声を出しました。私はすき間で助けるのに見易かったのでしょう。次に兄をと思った時は火がもう家に。もう助け出す事は無理で、お母さん助けてと言う兄を残して母はふり返りふり返り逃げて行きました。川の中は人の死体が重なるように流れて、道には黒こげの子供、大人、赤子と人間か何か分らないものがそこら中に、火傷で皮が剥げ血で染まった人、水、水、と、逃げて行く人に水を求めてすがって来る。怖ろしい光景。唯一人助ける人はありませんでした。泣きながらお母さんの手にしがみついて逃げました。
一晩中、広島の街が火の海で、焼きつくした街は何10キロ先の宇品の港まで見えました。人が座ったままの影が今も残っています。世界で初めての原子爆弾、放射能の雨を浴び、3ヶ月もすると雑草が生え、焼跡には人がもどり生活を始めたそうです。生命力、なぜお兄ちゃんが私の代りにならなければならなかったのか、ごめんねといつも申し訳ない思いで生きて来ました。
母は被爆3年後に死にました。35才で、子供を残して。毎日毎晩どうして一緒に死んでやれなかったのかと泣いていました。3人の子供を守るにはそれしかなかったのでしょう。人が街が変っても原爆ドームが残っている。
広島の悲しみをくり返してはいけません。広島を忘れないで世界が平和でありますよ73年間の願いです。 |