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西原四丁目 Mさんの記憶 
松村 清士(まつむら きよし) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島市出汐町[現:広島市南区出汐二丁目] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 広島陸軍被服支廠 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

15歳で高等小学校を卒業して、20歳まで旧陸軍被服支廠(ししょう)に勤めた。ちょうど20歳の時今の南区にある最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠」で被爆した。
(旧陸軍被服支廠は旧陸軍の軍服や軍靴を製造・貯蔵していた施設で爆心地の南東2.7kmにある。)
旧陸軍被服支廠へは朝7時から17時まで働いた。JRで横川まで行き、そこから市電で日本たばこ産業 (JT) 広島工場(現在はゆめタウン広島)まで行き、それから歩いて被服支廠まで通っていた。 時々宇品線でも通った。

徴兵検査が1年繰り上げられて、昭和19年か20年頃に現在安芸高田市の吉田町で徴兵検査を受けて、甲種合格した。
甲種合格とは、徴兵検査で健康で体格もよく兵隊になるのにふさわしい人が、「甲種合格」となり、一番に兵隊に選ばれた。身体が小さかったり病気だったりすると「乙種合格」「丙種合格」となり、すぐには兵隊にならなくてもよかった。
兵科(軍隊で、直接戦闘に従事する兵の職域)は飛行兵で決まったが、配属先はまだ知らされていなかった。自分はすぐに兵隊になると覚悟していて、特攻隊員になっていたと思う。

8月6日原爆投下の日は、7時には仕事場に着いて準備をして、被服支廠内で使用する車の修理の仕事をしていた。
原爆投下直後は辺りが真っ暗になり、何とも言えない光がはしって、紫の様な不思議な光だった。爆発音は聞いたかどうか覚えていないが、すぐに身を隠した。  
建物は倒壊しなかったが、ガラスが割れ頭に傷を負った。
原爆にあってから仕事どころではないが、原爆投下後はなかなか家に帰らせてもらえず3日位は建物内に残り、車の荷台に蚊帳を張って3、4人で寝ていた。
被爆により大勢の人がここに逃げ込み、臨時の救護所にもなった。
断水の為、途中水を貰うために比治山橋を渡って西の方に行った所で、何とも言えない生暖かくそして生臭い臭いがして、それより前に進むことができなくて引き返したことがあった。

原爆投下後5日目位でやっと家に帰った。 広島駅の方から戸坂の方に出たか、横川の方に出て帰ったか記憶が薄れているが歩いて帰った。
当時の家は藁ぶき屋根で上の三角の部分が爆風でなくなっていた。
8月6日、父親は本当なら市内へ出てバラック等の撤去作業に行くはずだったが、その日は役場に行って被爆を免れた。私の知っている近所の人で、2人がその日広島市内に出かけて被爆で亡くなられた。

原爆投下後は歩いて被服支廠へ行っていたが、その後市内電車も動くようになり横川から寺町の辺りを歩いていたら、兵隊が軍服を着たまま川に浮かんでいた。身体は膨れ上がり、潮の流れで移動していた。そんな光景が沢山見られた。
土手の下では、火傷で皮膚がただれた人が、助けてくれ!と弱々しい声で訴えていた。
防火用水槽の中に身体を突っ込んで死んでいた人の姿もあった。
「地獄を見たことはないが、あの光景はまさに地獄だった」
原爆投下後、西原の方にも助けを求めて何日もぞろぞろと人が来ていたが、西原よりもずっと奥へ行っていた。「水をくれ!」と言われたが飲ましたら死んでしまうのであげられなかった。

8月15日の終戦記念日は、みんなラジオの前で重大ニュースを聞くようにとの知らせがあり、昭和天皇の玉音で「戦争が終わった」ことのニュースだった。しかし、戦争に負けたというのと反対に、まだ頑張って戦争をやるんだという2つの声があった。
 
原子爆弾1発のために何十万人の人が一瞬の間に死んでしまった。
まったく無惨な光景だった。
戦争の怖さ、平和の有難さを常に心に残してほしい。 

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