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母の愛情 
田 文次郎(よしだ ぶんじろう) 
性別 男性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2023年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 光道国民学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●西九軒町での生活
私、田文次郎(よしだ ぶんじろう)は現在89歳です。私が生まれた田(よしだ)家は、祖父・熊次郎(くまじろう)、父・茂(しげる)、母・久子(ひさこ)、長女・惠美子(えみこ)、長男・茂夫(しげお)、私(文次郎)、三男・憲司(けんじ)、次女・正子(まさこ)の8人で、西九軒町(現在の十日市町)で生活をしていました。その当時、西九軒町には市営市場があり賑わっていました。現在は都市計画で広くなっていますが、昔は道路が6~7メートルくらいの幅しかなかったのでとても狭く、電車も単線でした。自宅では父が漬物や佃煮で商売をしていました。3階建ての家は珍しく、1階でお店を、2・3階で私たち家族が生活をしていました。
 
長女・惠美子は広島市立第一高等女学校の3年生で、学徒動員で航空服のミシン作業をしておりました。長男・茂夫は広島県立広島第二中学校の2年生で、私と弟・憲司、そして妹・正子は光道(こうどう)国民学校に通っていました。私は当時5年生で、憲司は4年生、正子は2年生でした。
 
幼少期の私は、きょうだいの中では一番いたずらっ子でけんか大将でした。学校でも悪さをするので、先生が怒って何度も家に連絡し母はその度に先生に謝っていたので一番大変だったと思います。しかし弟とはとても仲が良く、「ぶんちゃん・けんちゃん」といえば有名でした。弟は私のそばをついて離れないくらいで、兄弟というよりは双子のようでした。
 
●疎開先での生活と父の出征
私は昭和20年(1945年)4月から学童疎開で山県郡都谷(つだに)村(現在の北広島町)の仙徳寺(せんとくじ)に行っていました。私の学校からは29名が疎開していました。いたずらっ子だった私も、疎開中は優良学生で、よく先頭に立って真面目に周囲の手伝いやみんなの面倒を見ていました。弟・憲司は学童疎開で山県郡の浄円寺(じょうえんじ)へ行っていました。当時、浄円寺では5月頃から疫痢という病気が流行っており、食事制限があったそうです。私のいた仙徳寺では、子どもたちの家族が漬物屋や味噌屋をしているところが多かったので、そういった差し入れが十分にあったのです。そして寮母さんが味噌などを農家へ持って行き、お米と交換をしてくれました。そのため食糧には困りませんでした。私は時々、近所の家に鉛筆や消しゴムを持って行き、そこの子どもたちと物々交換をしていました。思い出してみれば、比較的裕福な家が多かったような気がします。
 
学童疎開は4か月という短い期間でしたが、5月以降母だけが毎月訪問してくれました。5月と6月は私の疎開先である仙徳寺へ泊ってくれました。しかし最後の7月は弟・憲司のいる浄円寺へ泊ることになりました。学友が母を見送ってくれるのに、私は不貞腐れて寺の陰から後ろ姿を追っていました。自分を情けなく思います。まさかこれが母との最後の別れになるとは思いもしませんでした。
 
私は疎開先から夜逃げをしたことがありました。当時一番親しい友人の山縣(やまがた)くんと市内までの道程が40キロメートル程ある仙徳寺から帰ろうとしたのです。はじめは級友の子たちが「帰りたい」と泣くので連れて帰ってあげたいと思っていたのですが、深夜に起こすと先生にばれる恐れがあると思い山縣くんと風呂で相談のうえ、結局残すことにして私と山縣くんで帰ったのです。後で非難ごうごうだったり羨ましがられたりしました。
 
友人から預かった10円紙幣を使いバスと規制が厳しい可部線を乗り継いで横川駅まで帰りました。10円紙幣は今でいうと10万円ほどの価値があり、そのような大金をよく親が持たせてくれたなと思います。お金は後で母から友人の母へ返しました。真夜中に、山の途中にあった農家に寄って、父が出征すると嘘をついたら、その農家の人が感心してお味噌汁を出してくれ、服や靴など着替えました。その時は頭の回転が良かったのかもしれません。小学5年生であんなことがよくできたなと不思議に思います。
 
家に帰ると、本当に父が出征することとなっており、私自身が当惑してると、その様子を見た父が、私を抱えて泣いてくれました。
 
父は昭和20年(1945年)4月に召集され1人で軍人として賀茂郡川上村(現在の東広島市八本松町)へ行きました。この時期の出征はあまりないのですが、人手不足により行かされたそうです。被服廠(ひふくしょう)の1人隊長として任命され、山を二つ借りてそこで航空服などを管理していたそうです。当時隊には20人くらい軍属の部下がいたと思います。
 
●8月6日
その日、私は朝食を終えて仙徳寺の境内で自習をしていました。すると一瞬ピカッと境内の下側から光を感じました。光ったかと思うと、ドーンという音が響きました。驚いて外を見ると、もくもくと大きなきのこ雲が昇っていました。これがいわゆる原爆雲です。仙徳寺は山の上にあり見晴らしがいいので、きのこ雲がはっきり見えました。外にある墓地まで出てしばらくすると、黒い雨がパラパラと降ってきました。それと同時に、高木千代吉(たかぎちよきち)商店という紙くず問屋から荷札が飛んできて、これはどういうことだろうとみんなで話したのを覚えています。自宅近くの十日市町にあった商店なので、この様子だと家の方も何か被害があるのではないかと不安に思いました。
 
当時は原爆なんて知りませんでしたから、どこかの石油会社に爆弾が落ちたのかと思いました。仙徳寺の近くに住む弓場(ゆんば)さんという方の息子さんが、学徒動員で広島市内へ行っており、幸いにも生きて帰ってきました。後でその方から広島は火の海だったと聞きました。それが8月6日の夕方頃でした。それまでは何の情報も入ってこなかったので、先生たちも何も知らなかったそうです。
 
当時の家族の状況は、後日兄から聞いた話では、姉は夜勤だったため、朝7時頃に動員先から帰宅していたそうです。兄は学徒動員で、広島駅の裏にある芋畑で作業をしていて、そこで被爆しました。その後は広島市の自宅へ行き、戸坂の山で一泊して、7日の晩に父を訪ねて川上村へ行ったそうです。
 
●母のおはぎ
母・久子はこの日、私と弟のために慰問に来るということで、午前8時に光道国民学校を出発する予定でした。しかしおはぎを作るのに時間がかかり、15分出発が遅れてしまい、そこでちょうど被爆したのです。母と一緒に疎開先の仙徳寺へ同行する予定だった父兄の坪木(つぼき)さんは、出発時刻になっても来ない母を迎えに来たそうです。「𠮷田さん早く、皆さん待ってるよ」と言い、玄関を出る瞬間に被爆してしまったそうです。しかし、なんとか九死に一生を得ることができました。坪木さんは、8月下旬に八本松まで父に会いに来て、6日の状況を伝えてくれました。そこには私も同席していました。坪木さんは、妹・正子が「お姉ちゃん、熱いよ!」と叫ぶ声が耳に残り、助けられなかったことを悔やんでおられました。「文ちゃんごめん、正子ちゃんを助けられなかったよ」と絞り出すような声が今でも私の脳裏に残っています。
 
坪木さんは9月2日に原爆病で亡くなられたそうです。月日が経て十数年後、開催されたクラス会で久しぶりに会った学友の坪木法子(つぼき のりこ)さん、私がお父さんの話をしたら、「文ちゃんわかった。父が疎開先に迎えに来てくれなかった理由が。おかげで私は最後まで仙徳寺に残ったんだから」と言ったきり、それ以降法子さんとの会話をする機会がありません。なお、法子さんは父の死に目に会えなかったのです。申し訳なく思います。
 
そして同じく一緒に来る予定だった光道国民学校の石本(いしもと)校長先生も被爆して亡くなられました。
 
母が15分遅れなければ、死なずに済んだ人が多くいたのかもしれないと思うとやるせない気持ちになります。15分遅刻したことも、坪木さんが迎えに来てくれたことも全て偶然ですが。母も私のことを想いおはぎを作ってくれたのでしょう。母の愛情だと思います。疎開している児童へ1人1個ずつ配るので、おそらく30個以上のおはぎを作ったと思います。しかし、おはぎは原爆のせいで灰になってしまったのです。
 
●疎開先から広島へ
8月18日の午前、父のはからいで父の部下にあたる方が突然迎えに来られて、私は疎開先の都谷村から弟・憲司と広島市へトラックに乗って向かいました。昼前に横川駅で下車すると、辺り一面焼け野原になっていました。横川駅というのが2階建ての駅で、当時は珍しかったのです。しかしその駅も全部焼けてしまっていました。
 
横川駅のプラットホームでは、やけどをした兵隊さんが5~6人いました。軍帽をかぶっているけれど顔はただれていたのがわかりました。兵隊さんたちは何も話さず、目がぎょろぎょろとしていました。包帯をしていた皮膚は紫色にただれていました。
 
周辺の建物は崩壊しており、横川駅から光道国民学校がよく見えたのが印象的でした。国民学校の校舎は鉄筋コンクリートで造られていたので残ったのでしょう。横川駅より南側の他の建物は焼けてとにかく何も残っていませんでした。私の家は光道国民学校から50メートルしか離れていないので、うちは焼けてしまったなと思いました。それでも、汽車はしばらく来そうにないという情報が入ったので、私は学校へ向かって父の部下と弟と一緒に歩くことにしました。
 
途中の道には馬の死骸が転がっていました。煙があちこちに立っており、何とも言えない悪臭が漂っていました。原爆投下から何日か経っていたので、近所の道は誰かが瓦礫などを掃除したような状態でした。
 
その当時、近所づきあいをよくしていたのですが、よく遊びに行っていた隣の家も全壊で、偶然出会った左隣の住人の綿岡智津子(わたおか ちづこ)さんから、近所の子どもたちはほとんど亡くなってしまったと聞きました。智津子さんは市立女学校の5年生だったと思います。よく可愛がってもらいました。
 
光道国民学校に着くと、焼けたトラックが残っていたのを覚えています。再び家に寄ってから再び横川駅へ戻りました。この時はまだ、母や姉は父の所へ逃げているのだと思っていました。
 
●家族との再会
18日の夕方、私たちは貨物列車に乗って八本松へ向かいました。そこで兄と再会し、母・久子、姉・惠美子、妹・正子が亡くなったと聞かされました。私たち兄弟は3人で泣きあいました。
 
次女の正子は小学2年生で、集団疎開に加わることができないため、夏休み中、父親の赴任地である川上村に8月中は宿泊することになっていましたが、その日は帰宅していました。6日には母が私たちの慰問に来るため、夜は、姉、兄、妹の3人で過ごすことになっていたそうですが、母を含めて女性が全滅の結果になりました。特に正子までが、なぜ選んで八本松から帰宅したのかと、本当に悲しい思い出となっています。
 
兄は広島駅裏で被爆をして、顔に白い布を巻いていました。原爆により左半身にやけどを負い、腕はケロイドでただれていました。学校の制服もボロボロになっていました。顔のやけどの部分にハエがとまって卵を産み、ウジが湧いていました。私はそれを割り箸で取ってやりました。当時は薬がなかったので、ジャガイモを擦ったものを塗っていました。それが乾くと痛むので、剥がしてまた新しいものを塗るのです。これを繰り返していたら、案外ケロイドが治ってきました。
 
●その後の生活
結局生き残ったのは父と兄と私と弟でした。
 
戦後間もなく焼け跡で再建されたのが、西九軒町にある自宅の左隣の綿岡さん(お茶屋)、さらに左隣の船越(ふなこし)さん(陶器屋)、藤田(ふじた)さん(酒屋)でした。他のお店は潰れてから戻ってきませんでした。
 
父は航空服等の軍事物資を隠していたとして、戦争犯罪人の疑いをかけられました。そのため私たちは昭和23年(1948年)年までは川上村を出ることができませんでした。その間、商売ができなかったので経済的には苦労しました。
 
私は川上小学校で6年生まで通い、昭和22年(1947年)に広島大学附属中・高等学校へ入学しました。1年生のうちは八本松から汽車通学をしていました。なんとか昭和23年(1948年)2月に広島へ帰ることができ、猫屋町へ転居し、細々と商売を始めました。中学2年生頃から、私と弟は毎日アルバイトをしていました。友人の家に泊まり込みで毎朝バナナの皮むきをしていました。そうすると100円と牛乳とパンをくれるのです。これで金銭的なやりくりをしていました。兄は大学進学を諦め、高校卒業後はおじさんの仕事を手伝って月給を稼ぎ、私が附属を卒業するまで学費を助けてくれました。私も大学に行くことは諦め、昭和28年(1953年)に専売公社(現在の日本たばこ産業(JT))へ入社をしました。そこではサッカー部に入部しました。サッカー部は全国大会に出場するくらい強かったです。おじさんのところで働いていた方が給料は良かったのですが、サッカーがしたいばかりに専売公社へ入社しました。
 
在職中は被爆者であることは周囲に話しませんでした。当時は被爆者に対する差別もありましたし、別にあえて言うことではないと思ったからです。それに家族のことを思い出すのが嫌だった気持ちもありました。ですので、被爆者健康手帳を取得したのは60歳を過ぎてから(平成12年)でした。
 
私は結核に2回かかり、入院をよくしていました。マイシリンの副作用で難聴になりました。他にも高血圧になったり、胃癌も見つかって手術をしたりしました。
 
兄は病気(いわゆる原爆病)で、20歳過ぎから入退院を繰り返していました。そのため重い荷物を運ぶような労働ができず、軽い仕事にしか就くことができなかったと思います。
 
20代半ばには元気になり、年を経て退職後には一緒にお酒を飲んだり旅行をしたりしました。兄はあまり原爆について話そうとしませんでした。私が原爆についての話やウジを取った話などをすると、それはもう言うなと言われました。私の妻も、父親を原爆で亡くしていますが、被爆当時のことには触れようとしませんでした。その後、何度か光道国民学校のクラス会が開催されましたが、誰も原爆について話しませんでした。それだけ傷が大きかったのかもしれません。
 
●平和への思い
ウクライナ侵攻における、ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をほのめかす発言には怒りを覚えています。核兵器を争いごとに使うのは絶対にいけませんし、そのようなことを平気で言う神経が分かりません。
 
このことがきっかけで、私は残された時間で核兵器の脅威を語り継いでいきたいと思うようになりました。もっと若い時から早く、自分が被爆者であること、そして核兵器の恐ろしさを残していけばよかったと少し後悔しています。当時の出来事についても、その時にきちんとみんなの証言を集めたりすればよかったと思うのですが、もう亡くなってしまった人も多いのでそれも叶いません。知ったかぶりに原爆や平和について話す人には、何も知らないくせにと𠮟りけんかをしたこともあります。みんなで心を開いて原爆について語り合っていたらまた違った状況になっていたのかもしれません。
 
特に、平和について関心を持っている人とそうでない人の層がはっきりしているように感じます。平素の平和教育においても制限があるなど心配になります。広島の学校では「はだしのゲン」を平和学習教材から削除すると聞き、なんだか不安に感じます。一瞬で多くのものを奪ってしまう核兵器の恐ろしさ、そして被爆の実相をもっと多くの人に知ってもらいたいです。 

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