昭和二〇年八月六日。
朝廊下をふいている時ドッスンといった様な鈍い音で思わづ側の子供の上におゝいかぶさる。外に出て見る。キノコ雲がつい近くに見えてマツダ東洋工業に爆弾投下されたものと思った。
我家の奥行き一〇間の細長い建物の窓硝子一四枚、枠ごとめりめりの有様。爆心地より五キロメートルの場所なのに。
その中、始に目に入ったもの。隣の娘が江波方面からの帰り、モンペは昆布の様に裂けてたれ下っている。
広島駅当りで兵隊に応急手当として塗って貰ったといふ赤チンでまるで赤鬼の様な有様だった。
近くの国道筋迄出てみる。赤チンを塗って貰った人塗らない人、声はなくぞろぞろ海田方面に歩いていて、之はたゞごとではないと思え、急いで帰る。
三日目頃、義弟に助けられ広島方面に行くトラックに便乗できた。駅の当りで降され西方面舟入、観音町方面に歩き始めたものゝ町もはっきり解らない。兄もいない。伯父もいない。姉の連れもいない。歩くばかりではかどらない。諦めて早く我家へ帰り度いばかり。やっと仁保方面にでられて我家にかえれた。
二、三日後つい近くの小学校(青崎小学校)に被爆者を見舞ふ。何故か自分一人である。三教室位に沢山の被爆者がうめいている感じ。
11、12才位の男児みんなそうであるが、出ている皮ふは焼けたゞれて目もはっきり明けられない。耳からうじ虫が出ている。耐えられない思いであった。翌日自分も貰ったぶどうの一房さ持ってその子の口に一つ入れて、手渡して、向ふ側からおばさん、おしっこと声がかかったり、之こそ予想も出来なかった生地獄に思えた。精一杯自分も三日で止める。
毎日死人を焼く香いが風に流れてくる。
戦争のおそろしさ、悲惨さ、思い出したくない。
後世に伝え残さなければの声であるが、思い出したくない。書き度くない切実な思いです。
終り
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