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花に寄せて 
間野 絢子(まの あやこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1996年 
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一 花冷え

目覚めて、パジャマ姿のまま階段を降りた。食堂のドアをあけると、セーターの背を見せて、夫が椅子にかけている。
雨戸も、ガラス戸も、開け放たれていて、湿っぽく重い風に、レースのカーテンが舞い揺れる。室内は、ほの暗い。
「パパ、どうしたの」
思わず声を掛けたら、夫の姿がすっと消えた。顔も見せず、声もなかった。
夫が逝ってから満三年になる。せめて夢にでも現れて欲しいと願っていた私の、春浅い暁の夢であった。

それから二、三日たって、深大寺に住む義弟の妻から電話があった。
「今日午後三時三十六分、省吾が亡くなりました」
夫と同じ病で、やはり八年を病床で過した義弟の訃報だ。人間、生まれる時よりも、死に至るときのほうがはるかに大変だと、葬儀の度に私は思う。

三月三十日(木)、享年七十六歳。
七十七歳で天に召された夫の命日は、三月二十四日。そして二人とも、三月が誕生月であった。
間もなく、小平霊園の墓所に、共に眠ることとなる仲の良かった弟を、若しかしたら、夫は迎えに来たのだろうか……。
四月三日、「多磨葬祭行華殿」での葬儀を終え、隣接する夫の両親の墓前に、今頂いた白い百合とばらを手向けながら、なぜかふとそんな気がした。
日頃、夢のお告げのたぐいなどを、全く信じないで過してきた私だったから、誰にもこの思いを語らなかった。

多磨墓地は花冷えで、立ち並ぶ四分咲きの桜の梢を仰ぎながら、コートの衿に顔を埋め、私は黙ったまま、息子と肩を並べて歩いた。

二 三日さん

哲学堂公園を、借景として建つマンションの六階を、終の栖と定め、Tさん夫婦は、庭つきの家から移り住んだ。屋上から望める富士も気に入って、すでに九年を経た。

暴れ川と呼ばれる、妙正寺川の改修工事のために、川沿いの桜を、中野区が切り倒すと発表したときには、穏やかな彼女も、近隣の人達と共に、保存の請願運動をした。その甲斐あって区側が折れ、設計を変えたので、桜は残され、年ごとに、その美しさを増す花へのTさんの愛は、深まるばかりであった。こうなると、夫婦だけで楽しんでいてはすまない、と言う気持ちになるらしい。

Tさんは、広島市立第一高等女学校の先輩で、又、中野区に三百人ほど住む、長広会と名付けた被爆者の会の仲間でもある。

彼女は、八月六日、爆心地より一・三キロメートルの宝町の自宅で、両親、妹二人と共に朝食中、被爆した。両親の顔を見たのは、これが最後だった。

閃光と大爆音のあと、暗闇の世界に閉じ込められ、空白の時間が流れた。まっ白な頭脳。
どれほど時間が経ったのか、ふと目をあけると、押しひしがれ、重なり合って倒れている家の木材の中に、ポツンと一人で立っていた。空が見える。助かった、と思った。木材をかき分けて外に出る。

両親は?妹は?ペシャンコにつぶれた家には誰もいない。あちこちから火柱が上がり始めた。放心状態のまま、夢中で逃げた。避難所や、防空壕を転々とし、九日、家の焼け跡に帰った。誰もいない。
街には連日死者を焼く煙が昇り、夜には、それが燐光を放つ。無数に発生した蝿は、配られたお握りにも、黒豆のようにびっしりとたかる。とても食べられない。水だけで飢えを凌いだ。
ここにはいられないと、故郷である、瀬戸内海の大崎上島に帰る決心をし、庭の大岩に、消し炭で、その事を書き記した。

島の叔父の家に身を寄せているうち、岩の文字を見たと、下の妹が帰って来たが、両親と上の妹の消息は、杳として知れなかった。敗戦の報を聞いてから、Tさんは叔父さんと共に、三人を探し求めて、廃墟となった広島の街を歩いた。
ガラスの破片により、重傷を負っている上の妹を、牛田町の友人の家でやっと見つけた。
が、両親はついに不明であった。焼け落ちた家の土を掘っても、骨すら出てこなかった。

その時から、二十五歳のTさんは、妹たちの親代わりとなった。叔父も援助してはくれたが、それぞれが精一杯だった戦後の日本社会である。姉妹三人は、Tさんを中心にして、寄り添うように暮らした。重傷だった上の妹は、今も存命なのに、怪我一つなかった下の妹が、間もなく病み、亡くなった。

彼女も数年前、乳癌のために、片方の乳房を失った、原爆症認定患者である。
被爆者の癌発生率は、非常に高いのだ。
私たち会員は、お互いに相手の過去を詮索しないよう、心して付き合ってきたから、Tさんが、その後をどのように生き、今のご主人とむすばれたかは知らない。きっと波乱の人生だったと思うが、この人の笑顔は、何事もなかったかのように明るい。

Tさんから
「哲学堂でお花見をしましょうよ」
と、会のメンバーに何度も誘いの声がかかっているのに、なかなか全員揃う日がない。今年こそは多少の欠員があっても、実行しようということになった。

私はその日、Tさんに教えられたとおり、江古田行きのバスを、日動火災前で降りた。
同じ区内にありながら、哲学堂公園を訪れたのは、かれこれ三十年も前であろうか。
あの頃とは、周囲も公園もすっかり趣を変えている。妙正寺川沿いの門も、確か以前には無かった。公園と向き合っていた。O写真工業(株)の広大な敷地も更地となり、雨水処理場の建設が進められている。

園内に入り、キョロキョロしていると、老紳士が近寄ってこられた。
「失礼ですが、長広会の方ですか」
「はい、そうです」
「でしたら、あの小高い丘の建物の横にもう、二、三人お見えになっていますよ。この橋を渡るとすぐです」
池の向こう岸で、Aさんがしきりに手を振っている。私も手をあげてそれに応えてから、
「ありがとうございます。あなたは公園の管理をなさっている方ですか」と尋ねてみた。
「ええ、まあ、そんな者で」
「それならば。今公開中の建物のパンフレット。ほら、掲示板にあるピンクの。あれを頂けないでしょうか」
彼は、ちょっと戸惑った顔付きになって、「あれと同じ物はございませんが、緑色の案内書が、長広会のお席に何部かございます」と答えた。
「Tさんが、今日の会合を、管理事務所に届けたのでしょうか」
「ええ、まあ、そんなところで」
と至って歯切れが悪い。けれども、公園でこんなにも手厚い出迎えをうけたのは、初めてだったから、丁寧に礼を言って別れ、橋を渡った。

見事な桜の下では、すでに数名が来て、宴席をしつらえるために奮闘していた。
「今、とても親切な方にお会いしたわよ」
私が先程のあらましを告げると、
「あら、あれは、うちの『三日さん』よ」
と、Tさんが、笑い転げた。
「そうだったの。それならそうおっしゃればいいのに。私、失礼なこと言っちゃったわ」
「いいのよ。あの人はああいう人なの」
そう言って、彼女は又笑った。まさかあの方がTさんの大事な『三日さん』だったとは……

「主人が待っているから」
会合のあと、いつも帰宅を急ぐ彼女に、「いいわねえ、待つ人がいてくれて」
独り身となった私が羨むと、
「だってあの人『君が死んだら、僕は三日しか生きていられない』っていうんだもの」
とTさんは申し訳なさそうな顔で答えた。
それ以来私は、会ったこともない彼女のご主人を『三日さん』と呼ぶようになった。

幸い、夜来の雨を振り払った空は、思い切り良く晴れ、二百本近い園内の桜は、雨にも乱れず満開であった。月曜日のためか、老夫婦や、幼子連れのグループが目立つが、桜の園で宴を楽しむ人達は皆、和やかで幸せそうだ。
最近胃癌のために、胃の三分の二を切除したAさんは沈みがちだったが、同病で十年前、同様な手術をうけたNさんに励まされているうちに、だんだん元気になってきた。
「ほんのちょっと」
と怖々飲んだビールが頬を染める頃には、食欲も出て、お弁当もすっかり平らげてしまった。
Nさんは、
「僕は液体だけでね」
と静かに日本酒を楽しんでいる。

三百人もいても、実際に会のために働くのは、この十名足らずの人達で、それぞれ、なんらかの障害を抱えている。が、あの中を生き抜いてきたのだという芯の強さと、命の儚さを知り尽くした心を、皆持ち合わせている。この人たちの中にいるとき、私は不思議な安らぎを覚えるのだ。
こうして、年ごとの桜を、これが最後の花見かも、との思いで何度見てきたことだろう。
いつも、面倒な議題にばかり取り組んでいる私たちも、今日はそれらをすべて忘れて、春の日差しの中に溶け込み、誰かが喜びを語れば共に喜び、悲しむ人とは慰め合った。そして、花の息使いまで聴きとり、それに酔った。

昨年、Tさんと共に、八月四、五、六の三日間、広島に行き、平和祈念式典、非核宣言自治体の大会に出席した。彼女はその間、毎日、ご主人に電話して、冷蔵庫内に整えてきた食事のことなどを、こまごまと注意していた。この旅は、彼の限界とする三日なのだ。帰京して、
「三日さん、大丈夫だった?」と尋ねると
「ちゃんと生きてたわ」と、さわやかな答えが返ってきた。

散会後、私はTさんのお宅に伺った。ご主人に初対面の挨拶をする。さっきは、公園の管理人と間違えたのだもの。
飄々として、静かな方であった。明治の男の気骨を漂わせながら、八つ年下の妻に、かくも深い信頼をよせる人は、Tさんと私が交わす話の程よい合間に、アルバムを開かれた。
「孫たちです。まだ小さくて」
結ぼうとした口元が、彼の意に反してほころんだまま、つながる話題を探せないでいる。
茶の布地に染め抜いた、旧制四高(現金沢大学)の寮歌を飾る、壁の絵も渋く、書棚からも、三日さんの、豊かな内面が垣間見られた。
  

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