6日真夜中、空襲を告げるサイレンに飛び起きる。当時中国新聞社カメラマン、であり空襲時には、広島師団司令部報道部へ転属して報道の任に当たる。無灯火の自転車を飛ばし司令部へ。朝7時すぎの警報解除で、爆心地から約2.7キロメートルの翠町自宅に帰って被爆。
屋内での被爆で火傷はまぬがれたが、顔から上半身は血もぐれになった。建具は吹っ飛び、壁土は座敷いっぱいに盛りあがる。報道カメラマンの任務にある、壁土の中からカメラを取り出し、市内へ飛び出た。新聞社か司令部へ向かったが、タカノ橋辺りで、火炎にはばまれる。広島市役所も市の中心部は一面火の海。御幸橋西詰めへ引き返えし、京橋川土手ぞいに平野町へ向かったが、すでに火災が発生しており、市の中心部へは入れなかった。猛り狂う火炎は、真っ赤なドラム缶をけちらす勢いであった。
再び御幸橋西詰へ引き返えす。そこにはタカノ橋、鶴見橋辺りから逃げて来た火傷の被災者で埋まっていた。焼けつくアスハルトの路上に火傷の体を横たえる人。死んでいる幼な子を抱きかかえ救いをもとめる母親。苦しみをとおりこえ、声もない地獄の姿。2人の軍人が食用油を火傷にぬり応急手当をしている。その治療も無言のまま運ばる、サイレント映像。私は報道の責務で2枚のシャッターを切ったが涙がとまらなかった。
午後爆心地近くまで約3時間、燻ぶる火の中を歩るく。焼け崩れるビル、家屋の下敷で死んでいる人の数は大変なものであった。
爆心地から200メートルの紙屋町電停カーブで見た、焼けた電車内に折り重なる全裸の死体。電車の石畳に累々と横たわる死体。火の瓦礫の中を3時間歩き、焼い、苦しみ全く感じていなかった、平常心を失っていたのであろう。
|