当時、広島師団司令部報道班員。あの日は、司令部の命令で高田郡吉田町へ出張していた。広島空襲の報に、出張先の用務を早々に切り上げ、太田川の岸伝いを小走りで下り、大芝土手にたどりついた時には、原子爆弾炸裂後4時間も経っていた。この頃には、市中心部から、郊外に避難する被災者が、列をなしていた。そのすべての人が、頭髪はボウボウで火傷の顔は腫れあがり、その水胞がつぶれて皮膚がたれ下がっている。まさに百鬼夜行の様相であった。避難者をかき分ける様に逆行して市の中心部に入った。長時間かかって司令部の焼け跡あたりまでたどり着いたが、司令部も広島城の天守閣も崩壊消失して残骸となり、きのうまでの颯爽とした英姿は跡形もない。そばの溝には白衣の兵士や褌だけの死体がいくつも突っこんでいた。
あまりの惨状に自失呆然の状態で、常時携帯しているカメラのシャッターを切れなかった。翌7日になって、この未曽有の惨状は後世に残さねばならないと決意し、廃墟と化し、死臭の漂よう町をフィルムのある限り写し続けた。
終戦の日頃から原因不明の高熱におそわれ、やむなく田舎に帰らざるをえなくなった。
出典 家永三郎/小田切秀雄/黒古一夫編 『ヒロシマ ナガサキ 原爆写真・絵画集成 第4巻 絶後の意志』 日本図書センター 1993年 32頁
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