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三十年のあゆみ 
平野 美貴子(ひらの みきこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1975年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
三十年の歩み
                                                  五回 平野美貴子
本年は、私達扇の会発足二十周年、広島にとっては特に忘れ得ない被爆三十周年、そして一九七二年国連総会において定められた「国際婦人年」にもあたっております。 

私の末娘は三十年前の原爆投下の二日後、全市がほとんど焼けただれて何もない無惨な地獄図絵そのままの廃虚の中、千田町貯金局の地下室の板間の上で、皆様の暖かい御協力のおかげで産声をあげました。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」の中に出てくる赤坊がそれです。

長女は市立第一高女一年生で学徒動員されていて、哀れにも爆心地中央だったため、全員即死、わずかに生き残った者もお互いに手をとりあい元安川の河畔にたどりつき、死を覚悟してか「君が代」を歌い、若い命は流され消えていったそうです。月丘夢路主演の映画「ひろしま」はその当時をよく映し出しています。これは事実の映画です。

長女は生前「もしこんどの赤ちゃんが女だったら必ず「和子」と名づけてね」と口ぐせに申していました。姉の悲しい遺言となって生れ出た「和子」は現在とても元気です。

点眼の薬さえなく生湯なく
  みつめる吾の胸うつろなり 八月八日
赤くはれし乳首求めてみどりごは
  あわれ泣けども 乳ひとしずく出ず
斑点の出でそめし姉と泣く吾子に
  うすき重湯を 半半にあたう
ポロポロと脱けそめし姉の頭髪を
  そっとかくして 涙拭うも
誰に訴え 誰に叫ばんこの怒り
  せつなきままに あてどなく行く

以上の拙作は当時私が作っていたものを、昭和二十九年歌集「広島」にのせたものです。

ありあまる今の豊富な食糧事情になれておられる現代の人達には想像もできないほどの戦後の食生活の中で、母乳の出ない乳呑子を抱いて生きることがどんなに大変であったか⋯⋯一面互礫と化した土地を、何日もかかって堀りおこし堀りおこし私達は必死で野菜を作ったものです。全焼して何一つない子供達の学校舎復興のために勤労奉仕、募金と、保護者が一丸となって立ち上ったものです。

PTAが生れ、役員に選出されると、母親達の和と教養向上、自分を含めて実力養成するために勉強もしました。そして気づいたことは地域において先ず自分達の住む社会を変えて、お母さんが手を握りあってゆかなければ子供達の幸福は生れないという確信でした。

たまたま町内に進歩的な人がおられて町内会に婦人部が設置されました。然し上に立つ人は男性で、会合に出ても、男子の前で堂々と発言でき、その反論に対して答えのできる女性は少数でした。昭和二十五年より同じ町内の有志で読書グループをもち、その自覚した会員さん達と共に、町内で女性の手による育成会を組織しました。子供のある人ない人、ほとんどの町民の方が会員となってくださいました。ひまのある人は手を、御忙しい人は頭を、何もないと言われる方はせめて財政上の援助でもと私達は一生懸命でした。

私は役員の皆様にいつも言っておりました「一つの事業を成功させようと思えば、苦しいことに耐えてゆく捨石の時代が必ずあります。子供達の幸福のためにどうぞ一緒にがんばってください」と……。

小学校と中学校と両方の役員をしていた関係で都合よく、小中合同の地域別懇談会の開催を提唱して成功させました。

経済状態も不安定だったので、合同で内職の斡旋もしました。町内会長の土地を提供してもらって公民館を建てることにも成功しました。これには男女を問わず全町民賛同して協力してくださいましたが、こうした影にはお母さん方の平素の奉仕的な数々の業績の積み重ねがあったればこそです。

児童図書館、浅野図書館より図書の貸出を受けたのも私達の町が市内で一番でした。

母さん方のつどいは市内で最高と、市より表彰も受けました。そうなると町内の方よりも亦一段と協力を受けられるようになりました。然しそこまで辿りつくには「出るくいは打たれる」で様々な抵抗がありました。誤解による非難中傷、然し私は負けませんでした。

まだ年令的に若かったせいだと思います。

二十二年十月、原爆を受けているために危篤状態となり、危く命を落とすところでした。助からぬ命が助かったのだからと、私は人が笑うほど社会奉仕に全力を傾けました。勿論、家族の理解があったからです。

子供会が設立され、小二より中三までの希望者に時間別指導で、珠算の上手な良人は勤務が終ると、無報酬でその指導を引き受けてくれました。その良人も昨年二月亡くなってしまいました。私が皆の御協力の賜で築いた前の町内の方から(現在の町に引越してから十年になります)貴女がそのもとを築いてくださったおかげで私達の町内はいろいろな面で数々の指定を受け、そして優良町内会として表彰を受けました。昔を知っている人は今でも感謝しています。と、お世辞にせよ、その言葉に私は感泣しました。

世は移り変ります。住む人もまた新しく変っていくでしよう。私の生活も変化してきました。

先日、樋口恵子先生の講演をきいて、新らしいことの改革に必要なものは、実力養成、悪評に耐える力と主体性を確立した者同志の連帯感と、実行する勇気……これは今も昔も変らぬ大事な要点だなと感じたことです。
                                                 住所 広島市旭二丁目 

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