私は太平洋戦争中、広島市昭和町601番地に両親兄弟で住居していた者で、昭和2年生まれの92才の男性です。私の一家の本籍は現在の黒瀬町ですが、当時若者は殆んど兵隊に招集され、父ら高齢者が会社の仕事に携わるために広島市に一家で仮住まいして居りました。昭和20年8月6日の原爆・被爆後の忘れられない光景を思い出すままに書いてみました。
当時の状況は、私は修道中学校の5年生として、昭和19年5月頃より学徒動員により呉海軍工廠に派遣され、20年3月18才で卒業、私は当時の広島工業専門学校(現広島大學)機械科に入学することになってはいたが、6月末くらいまで、そのまま工廠での仕事に引き留められ、8月より登校が始まった。然し戦局は急を告げ、勉強どころではなく、今度は向洋にある東洋工業(現マツダ)に再び学徒動員で派遣されることになった、当時東洋工業では99式騎兵銃を作っていた。
8月6日が初日で、この日は大変暑い日であった、朝7時頃、昭和町の家から歩いて広島駅に行き、超満員の汽車で向洋に向かった。会社ではその日が初日で3階の講堂で挨拶や注意事項の説明を聞くことになっていた、講堂は殆ど一杯になるほど各学校の生徒が居た、挨拶が始まって間もなくの事、ピカッと何かが光った、私は写真のフラッシュ位に思ったが、約10秒位い経った頃ドーン・ガラガラとの音と共に窓ガラスが割れて室内に飛び散って多くの学生に当たり講堂内は阿鼻叫喚となった。私も何かで頭を叩かれたような気がしたと同時に額から血が流れ落ち始めた、無我夢中の中、友人が会社の医務室に連れて行ってくれた、多くの怪我人のためか、麻酔の注射もせず何針か縫って包帯で頭にはちまきを巻いて応急処置をしてもらった、生身の傷口を縫う時の痛かったこと、半分は気が立っていたので我慢できたのだろう。その傷はその後、治療一つせぬまま暑い中を歩き回ったので、膿みてその後10月過ぎまで傷は癒えなかった、今も其の時の傷跡は額に残り、手に触れる度に当時のことが思い出される。
治療後、会社の正門の前の通りの向こう側にあった防空壕に入った、この時には何が起きたのかも分からず、広島にある陸軍5師団の砲兵隊の火薬庫が爆発したのか位いに思っていた。11時頃であったろうか、防空壕から出て会社に帰り正門近くに居たら、前の国道を頭の髪がやけ、着ている服も破れたり焼けたり、顔や手の皮が垂れ下がり、表現は悪いが幽霊のような格好で、痛いのか手を前に半ば挙げながら多くの人が海田方面に向けて通り始めた、そして広島市内が大火事だと知らされた。
午後3時頃自宅に帰っても良いことになり、汽車は不通で歩いて昭和町の家に向かった。当時、私の一家では、父と姉と私と次の弟の四人が暮らしており、父は八丁堀の福屋百貨店のまえの電車通りの福屋より少し流川通り寄りに有った(現三越百貨店の処)、中国新聞社本社ビルの七階の同和火災kkに勤めていた、姉は女子挺身隊員として段原の陸軍兵器廠に動員されており、弟は県立第二中学校3年生で観音の三菱造船所に学徒動員されていた、母と、末の弟は小学校6年生で4月より学童疎開で、現在の東広島市黒瀬町国近(当時は賀茂郡板城村国近)に残していた家に二人で疎開をしていた。
帰る道すがら、はじめは家の窓ガラスが割れている程度であったが段原町、皆実町あたりからは家がつぶれたのが見え始め、比治山を過ぎた頃からは殆どの家は焼け落ち、比治山橋から南に150m位の処に有った我が家は完全に燃え尽きていたが、まだほてりで近づけなかった。そして付近には無惨な死体が幾つも転がっており、特に記憶に残ったのは、我が家の前にはバスの通る12m幅の通りが有り、その両側は周りの家の残骸で埋め尽くされており、通りの向かい側に一人の人がうずくまっていた、近づいて見ると頭の髪はまだらに焼け、身につけた衣類は殆ど焼け更に驚いたのは両足首の少し上の方から下はすっかり白い骨となって死んでいた、今思えば家の材木か何かに押さえられ、逃げられず力尽きられたのであろう。
午後5時頃であったろうか、家族の者は誰1人帰らず、途方に暮れ家の前の広場に造ってあった防空壕に入り家族を待って居た、と、一人の人が入ってこられた、見ると頭はぼうぼう、着た物は破れ半ば焼け、手や顔の皮はむげて赤い身が見える男か女か分からぬ、ほんとうに幽霊が入ってきたような気がして私は飛び出た、その人は苦しさから日陰の休む処が有ったと入ってこられたのであろう、今にしてみれば悪いことをした、なぜ一言でも声を掛けてあげられなかったか、未だ子供だったなあと反省している。
6時頃姉が怪我もなく帰ったが父も弟も遂に帰らず、諦めて8時頃姉の行っていた兵器廠に行き、炊き出しのむすびをもらって食べ、防空壕で一夜を明かした、その時夜中にも空襲警報のサイレンは鳴った、また、どうも特殊爆弾が落とされたらしいとは聞いたが、原子爆弾と云うことは聞かなかった。
明けて7日再び2人で家の焼け跡に帰り、父と弟を待つも2人共帰らず、その間、近所の人に会う、その人の言うには私の家は二階建であったが、殆ど瞬間的に潰れていったそうである、昭和町は爆心地から約2㎞の距離で恐らく半径2㎞以内の家は殆ど潰され、高熱のため市内各所から一度に火の手があがり5時間余りで市内の殆どが焼き尽くされたものであろう。
10時過ぎ、弟が無事に帰ってくる、弟の言うには、工場外に居て爆風で跳ね飛ばされたそうである、火傷はしなかったようで12時頃先生が各自、家に帰るようとのことで、市内は未だ燃えており潮が引いていたので3っの川を泳いで渡り、家に帰って見ると未だ燃えていたのであきらめ、母の妹の主人が府中町の中国電力の変電所の所長をしておりその社宅に居たので、それを頼って行き1晩泊めてもらい、今帰ったと云う事だった、それにしても怪我がなかったのは幸いであった。然し父は依然として帰らない。相談の上、父を捜しに行くことにした、弟には無理と再度叔母の処に行かせ、姉と二人で12時頃より竹屋町から流川通りを通り八丁堀に向かった、途中は瓦礫の山で道は殆ど塞がれ、まだ余熱で熱かった、流川通りからは横川方面まで見渡せた。やっと中国新聞社ビルに到着、中は完全に焼けており、階段をあがるにも崩れるかと片足で踏みつけてみながら恐る恐る7階まであがった、途中の各階には焼け爛れた死体が転がっていた、7階で父を捜したが父らしい死体はなく、あるいは何処かに逃げているのではとの僅かな望みが湧き、2人で市内を探すこととした。
記憶にある道順は、中国新聞社ビルを出て、まず福屋方面に向かった、福屋の中も完全に焼け、その中には兵隊や近郊からの救援者により多くの負傷者が収容されており、苦しさからの負傷者のうなり声で1階はわーん・わーんと響いた呻り声は今も耳に残る。電車通りには死体や電車の残骸、だが詳しく見る心の余裕も無く更に西の相生橋方面に向かう。現在のように原爆放射能の恐ろしさを知っていれば向かうはずもない処だが、如何せん7日頃そのような情報は皆無、相生橋は欄干は全部片方に向けて倒れ、川上側の欄干は川に落ちており、川下側は歩道の部分が少し浮き上がっていたように思う。橋の西側の袂の車道には、当時陸軍では将校を従卒が馬を引いて迎えに行っていた、其の従卒と馬が横倒しになって死んでおり、暑さのためか馬の腹は内臓が腐ったのか太鼓のようにふくれ、焼け爛れた皮膚には馬も兵隊ももうハイや蛆虫がたかっていた。
それから更に横川、己斐方面の収容所と思える処を探したが父は見つからず、引き返して明治橋を通った、そこらには当時爆撃による火災の類焼を防ぐ目的で、強性的に家屋疎開が行なはれており、その作業に市内の中学校の2年生が動員されて作業をしていた、その殆どの生徒が被害に遭い、その遺体が橋のたもとの道ばたにずらーと並べられていた、何十人もの少年の遺体が横2列に横たわっている様子は誠に悲惨、罪も何もない若者、誠に気の毒なものであった。2度とこの様なことがあってはならぬと今思う、その遺体も腐り始めており、ハイが一杯たかっていた、今で思うのだが、あの被害の中、ハイはどこから来たのか不思議でならない。
当時広島には7つの川が有り、多くの人が火を逃れ水を求めて川に入りそのまま死んだ人も多く、潮の満ち引きで沖に流されそのまま行方不明になった人も多いと聞くが、その時にも潮が引いた川岸の砂浜には遺体を何体か見た。
こうして日中歩きつずける中、食事は所々で救護の人から乾パンをもらって食べた、そして水は焼けた家の水道蛇口から飲んだ。こうして歩いても父を捜し当てるあても無いまま、次には広島駅の裏の東練兵場に行った、更に山の手の東照宮、此処には足の踏み場もないほど多くの負傷者が収容されていた、着た物が殆ど焼けた人は男性はあわ向けに、女性はうつぶせに寝かせてあり、怪我や火傷で顔や手足は腫れあがり、髪はバサバサ、苦しさでのうなり声、すでに息の切れた人、その中一人一人の顔を見ながら父を捜したが見あたらず、そこから府中、中山方面も探したが見あたらなかった、この間あるいは父が昭和町に帰ってはいないかと立ち寄り、7日と8日の夜は兵器省の防空壕でお世話になりながら探したが、遂に9日で諦めて午後3人で黒瀬に帰ることにした。当時はまだ汽車は広島駅は通らず海田駅まで歩いてやっと汽車に乗り西条駅経由で黒瀬に帰った。
帰り着いたら近所の人から昼頃父が生きていると連絡が有ったことを知らされた、然も、父は若い頃小学校の教師をしており、板城西尋常小学校での教え子の木下哲三さんに助けられたとの事。木下哲三さんは当時建設会社の藤田組に勤めておられ庚午町に住んでおられた、娘さんが行方不明で探しておられたところ、本当に偶然、東練兵場で父を見つけ自宅に連れ帰り黒瀬に連絡をしたとのこと。本当に偶然とだけでは片づけられない、人間の定められた運命と云うものを感じる。
午後七時頃、黒瀬に帰った時には母はその日の朝、我々を捜しに父のことも知らずに広島に行った後であった。私は早速一人で広島に行こうと樋ノ詰橋のバス停でバスを待つもおそくてバスは来ない、やむなく前を通ったオート三輪の人に事情を話して便乗させてもらい、西条駅より海田駅に向かった、海田駅より歩いて府中の叔母の家に着いたのは夜中だった。母も其処にいた、母は昭和町の家まで行ったが焼けており、一人では八丁堀には行けず、私の行っていた千田町の広島高専まで行ったそうである、そこで或る先生から、木原君は頭に包帯は巻いていたが元気で家に帰ったと聞き、ひとまず安心して府中の妹の処に来たと言っていた。明けて10日朝3時頃起きて2人は父の居る庚午に向かって叔母の家を出発した、途中矢賀の岩鼻から見た市内では亡くなった人を火葬する火がそこら中に見られ、その臭いや死体の腐敗した臭い、また、建物の焼け跡の臭い、それらが混じって異様な光景とにおいであった。
午前7時頃庚午の木下さんの家に到着、父と逢った。父の云うには急に風で体が浮き上がり、机に体を叩きつけられ気を失った、ふと気がついた時には周りが燃えていたそうで、幸い部屋の壁際に居て火傷はしなかったが片方の鎖骨が折れ片手が動かず、また、片方の目が見えなくなっていたが、足が無事だったので何とか階段伝いに下までおり、煙の中を広島駅の近くの栄橋まで逃げたそうである、其処まで来て動けなくなり、近くに落ちていたトタン板をかぶりその夜は橋の上で夜を明かした。朝になり救助の兵隊に東練兵場まで運んでもらい、寝かされていて明けの日、誰かに木原先生ではないですかと声を掛けられ見れば木下さんで、待っておりなさいよと、間もなく藤田組の作業場からダイハチ車を引いてきて、それに乗せて庚午の自宅まで連れて行き、黒瀬に連絡をして頂いたそうである。明けて11日父を背負い満員の汽車を乗り継ぎ西条駅経由で黒瀬まで帰り着いた。以上が6日の被爆から11日の故郷への帰着までのわが家の行動である。家が焼失した以外、死者もなく、父を除き3人とも大きな怪我も無かったのは不幸中の幸いと思っている。また、木下さんの娘さんも、被爆後可部にある友人の家に怪我もなく避難しておられ無事だったことを後で聞いた。それにしても、あの大混乱の中で同郷の然もかつての教え子に出会うとゆうことは、神仏かご先祖様のお導きとしか思えない気がする。
その後、父の折れた鎖骨は自然に治癒し、片目は見えぬままでも昭和35年まで地域のお世話をしていたが、昭和35年74才で心筋梗塞と血便を出し始めた、当時はまだ原爆手帳は入手もしておらず、まして現今のように放射能によるガンなど疑うような時代ではなく一生を閉じた。姉は結婚後昭和47年54才で乳ガンが元で体中に転移して死亡、母は平成12年103才で天寿を全うした、弟は平成24年84才で急性肺炎で死亡、私は92才此の原爆による被害の様子は今書き残さねば消え去るものと、良い機会と忘れられない当時の様々の光景や行動を書き留めました。
本当に唯一発の爆弾で大きな街が瞬時に壊滅し、数十万の人々があのように苦しんだ様子を、世界中の指導者は一刻も早く全員がその現実を見て知って、2度とこの様な悲惨な事の起こらない世界にして欲しいものと思います。まして現在の原爆は広島に落とされた物の数十倍の威力と聞く、この様な危険物は人類が絶対に扱う物ではないはず。先日のフランシスコ・ローマ教皇のおっしゃた「原爆を保持する国、又新たに開発しようとする国にしても膨大な費用を投じている、それを平和の為、世界を豊かにするために使うべき」との発言、全くその通り、一日も早くこの世から原爆を無くすべき、1発でも使った国はこの世に無き国にされるでしょう。
以上いち被爆者の当時の行動と感想を羅列いたしました。 |