私は今から38年前原爆の投下された8月に、広島市牛田町でこんな体験をしました。
私の母は田舎に疎開して保健婦をしていました。昭和20年8月6日に起こったことは、翌日頃から被爆者が帰ってきたことから「大変なことがあった」と分かっていましたが、本当にどんなことがあり、ましてや原子爆弾という世にも恐ろしいもので、放射能があるということは全然知りもせず、知らされもしませんでした。救護の手が足りないからと、警察を通じて動員令が下り、広島市に派遣されました。細い身体の母は荷物が負えないので、15歳の私が、芋、南瓜と食糧をリュックに入れてついて行きました。
広島駅に立つと似島が目の前に見え、一面焼け野原で、何とも言えぬ今まで体験したことのない悪臭がただよっていました。焼け残った牛田小学校の救護所に配置され、一週間の奉仕活動をすることになりましたが、教室、廊下、階段にも胸のむかつく臭いがするのです。聞けばそこで何人もの人が死んで、その臭いがしみついているのだとのことでした。
朝がしらみ始めると続々とけが人が集まります。比較的軽傷で、自分で歩ける人、少し手助けしてもらえれば来れる人です。電燈が無いので薄暗い中にじっと声もなくうずくまって、目だけが動いている、そして白島町の外科の先生が来て診てくださるのを待つのです。
やけどをした人は少しずつ身が盛り、ケロイドになりつつあり、先生はそのうす皮を「エイヒ」という、かきとる道具(これも焼けた自宅のところで拾ったと嬉しそうに言っておられましたが)を使って、せっかくできたうす皮をかき取って、血がふき出てキイキイ泣く子に、「こうしておかないとひどいキッポになるから」と言っておられます。しかし、される方は麻酔もなく血が出るのですから、それはもうそこで死ぬのではないかと思うほどの声で泣くのです。窓ガラスがこわれ飛んで額をかすめ、鋭く肉をそいでいかれた 18、19歳の娘さんがおりました。三日月形にそぎ取られた赤い傷口のまん中には、骨が白く3センチぐらいのまん丸に見えておりました。どんな形に治ったでしょうか。ちょうど絵に描く三つ目小僧のような状態でした。
また、おじいさんの腕になにか棒が立ったらしいのですが、ぽっかり穴が開いて、骨が 5センチぐらいなくなっているのです。手当はその丸い穴に赤チンのガーゼを詰めるだけしかできないのです。その傷がふさがったとしても、骨がつながっていない手がどう動かせることになったでしょうか。
傷口に3センチぐらいのうじ虫がいっぱいついている子供がいました。ピンセットで1匹ずつ取り除けるのですが、翌日、またうみにうじがついているのです。しかし、後日他の場所で、うじ虫にうみをきれいに吸い取ってもらったら、かえって傷がきれいになったとも聞きました。
毎日、毎日このような人たちが、日が落ちて手元が見えなくなるまで来られるのです。こんな救護所が市周辺に何か所もあったのですから、本当にけが人の数はどれほどであったか、また重傷で動けなかった人も多かったのです。そして食べるものもなく大勢が死んでいったのです。これも怖い体験でした。
この間、私たちはクラス会をしました。あの時代に女学生であった私たちは、なんとな く同級生は他人と思えないなつかしさがあります。その時こんな話が出ました。
私たちのクラスは飛行機の部品を作る工場に動員されておりました。戦局が厳しくなり、工場は市外の方に疎開して、生徒もできる限り入寮させられておりました。あの日何人かは家の人手が足りなくて、建物疎開に出されて即死した人もありました。寮では広島市に何が起こったか分かりませんでした。学校と工場と話し合って、工場の男の人が 、生徒の留守宅の住所を見に行って来られました。広島市内をずっと歩いて、何町から何町あたりは焼けている。段原は残っている、と見て帰られました。当日被爆したわけでもなく元気で出て行った方が、その後2日ぐらいして高い熱を出して、まもなく亡くなられました。放射能のせいでした。その時新婚で、お腹に赤ちゃんのいた奥さんが、とりすがって泣かれた姿を皆覚えていました。学校も工場も壊れて、皆をすぐに広島に帰すことはできないと判断されました。
そして、9日たった時終戦になったのです。もう工場に動員されている理由が無くなって、家の無くなった広島市に生徒が一人で帰らなければならなくなったのです。
今自分の子供たちが小さい命を育てる年になっています。自分たちの子供や孫たちが二度とこのような体験をすることがないように願って、この文章を書いています。
河野良子< 1983年(当時54歳)記>
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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