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私の被爆体験 
宮本 耀子(みやもと ようこ) 
性別 女性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2021年 
被爆場所 広島市平塚町[現:広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 中野国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私が生まれた友田家は、父・友田勇夫、母・よしの、6歳年上の姉・藤子、3歳年上の兄・和壮、私(耀子)、2歳年下の長妹・雅子、4歳年下の長弟・富也、6歳年下の次妹・敦子と8歳年下の次弟・博彬の9人で、平塚町で生活していました。長妹の雅子は、実は生まれたときには「節代」と名付けられていました。しかし、幼い頃、病気をすることが多かったので、両親が心配し、鑑定士のような人に頼んで名前を付けなおしてもらい、「雅子」という名前になりました。
 
父は平塚町の建設会社「友田組」の八男で、元々は段原で分家して、東洋工業株式会社(現在のマツダ株式会社)で鉄工の仕事をしていましたが、昭和11年頃、私が2歳くらいのときに長男(父にとっての長兄)が亡くなったため、父が本家の名前を継ぐことになり、会社のある平塚町に一家で転居しました。父はそこで、専門である鉄工の技術を生かして「友田鐵工所」を開所し、蒸気機関車などの部品を作っていました。
 
●広島県安芸郡中野村(現在の広島市安芸区)への疎開
昭和20年(1945年)の3月まで、私と雅子は、東雲にある広島師範学校男子部附属国民学校に一緒に通っていました。平塚町から歩いて通っていたので、すごく遠く感じました。
 
同年4月、私が国民学校の5年に進級するときに、母と私、妹2人、弟2人の合計6人で、母方の親戚を頼って安芸郡中野村へ疎開しました。富也はその4月に、国民学校の1年生になったので、私と雅子、富也の3人で、親戚の家から中野国民学校へ通いました。
 
平塚町で町内会長をしていた父と、学徒動員をしていた姉・藤子と兄・和壮は疎開できなかったので、平塚町の自宅に残りました。
 
姉・藤子は16歳で、広島市立第一高等女学校の3年生でした。詳しいことは分かりませんが、学徒動員で西蟹屋町にある工場に通い、工具を使って作業をしていたようです。その頃は学徒動員中の仕事内容について、他言無用の雰囲気がありました。母は姉の詳しい仕事内容を知っていたかもしれませんが、子どもの私には話せなかったのでしょう。姉は、大勢の学友とともに、部品の余分なところを取り除く作業や、部品の仕上げなどをしていたのではないかと思います。あまり重いものや大きなものは扱っていなかったと思われます。
 
兄・和壮は13歳で、山陽中学校の1年生でした。学徒動員で横川町にある工場に派遣されていました。
 
●8月5日
母と母の姉である私の伯母は、8月6日に、平塚町へ「家コワシ」(爆撃を受けた際の延焼を防ぐために建物を壊して防火帯を作る作業。建物疎開)の勤労奉仕に行くことになっていました。母たちと一緒に平塚町へ行けば父に会えると思って、私たち子どもも出かける準備をしていました。ところが、前日の8月5日になって、「家コワシ」に行く順番が町内のほかの組と入れ替わり、母と伯母は8月6日には平塚町へ行かないことになったのです。
 
父に会えると思っていた私たちはがっかりしましたが、母に会うために平塚町から中野村の疎開先を訪れていた姉・藤子が、「お父さんに会えるように、私が連れて行ってあげるわ」と言ってくれました。ただ、姉1人で大人数の子どもたちを平塚町まで連れて行くのは大変なので、私と妹2人の3人だけ行って、弟2人は中野村で母と留守番をすることになりました。平塚町に行きたかった弟たちが、「連れてってー、連れてってー」とわいわい言っていたことを覚えています。
 
●8月6日
8月6日、姉の学徒動員は夕方からだったのですが、私たちを父に会わせるため、朝早くに中野村を出発し、列車で平塚町へ向かいました。
 
平塚町の自宅に着くと、上の妹・雅子はぱっと走って家の中へ入っていきました。「ただいまー」と元気よく言う雅子に、家の中にいた父が、「おう、よう帰った、よう帰った」と答えていました。その声を聞きながら、「ただいま」と言って勝手口のドアを開けたその瞬間、ピカッと光り、あたりが真っ白になり、私は吹き飛ばされました。
 
吹き飛ばされたときのことは、意識がなかったのか、覚えていません。気が付くと、土間にある竈の前に座り込んでいて、原子爆弾の強烈な爆風によって吹き上げられた土塊が降ってきて暗くなるのを、「夕方になるみたい」と思いながら見ていました。勝手口から土間までは、3、4メートルほどあったと思います。高さがあり、また丈夫だった竈のおかげで、私自身は上から落ちてきた物に押しつぶされることはありませんでした。その竈は、朝、父が使ってから時間が経っていなかったからでしょう、まだほんのりと温かかったです。
 
父は、そばにいた雅子の手を取って玄関から外に逃げようとしましたが、外へ出る前に、崩れてきた家の下敷きになってしまいました。
 
家の下敷きになった状態で、私と妹たち3人は父に、姉に平塚町へ連れてきてもらったことなど、いろいろなことを伝えました。父はその声を頼りに私たちを見つけ、まず妹2人を外に出し、その後父自身が這い出し、最後に私を掘り出してくれました。父と雅子は向かい合った格好で熱線を浴びたため、父は身体の右側を、雅子は左側を、それぞれ大やけどしていました。その日、雅子は白地に青色と赤色の小さな水玉模様の入った絹のワンピースを着ていたのですが、熱線を浴びた左側の裾の模様の部分だけが焼けて、レースのように穴が開いていました。また、父は、梁に脚が挟まったため、骨折していました。敦子は大きなケガはしていませんでした。
 
瓦礫の中から這い出した父と私たちは、「藤子ー、藤子ー」「お姉ちゃーん、お姉ちゃーん」と何度も必死に呼びましたが、姉は何も言いませんでした。そのため、どこに埋まっているのかが分からず、救い出すことができませんでした。
 
●中野村への避難
「ここから比治山を越えて中野へ逃げんさい。わしはここに残って姉ちゃんを捜すけん」という父の指示に従い、私と雅子は近所の大沼さんの家族と一緒に、中野村へ向かいました。大沼さんは西条出身でしたが、麒麟麦酒(株)の工場に勤めるために、一家で平塚町に間借りしていました。広島に原爆が落とされてすぐに、妻と子どもを心配して、麒麟麦酒(株)の工場のある安芸郡府中町(現在のイオンモール広島府中があるところ)から平塚町へ帰って来られたのです。
 
大沼さんに連れられて平塚町の自宅を後にするとき、後ろでずっと、父が懸命に姉を呼ぶ声が聞こえていました。
 
中野村へと逃げる途中、広島から市外へ逃げる人たちと一緒になりました。皆顔は真っ黒で、風船のように腫れあがっていました。服や着物が焼けて裸になっている人や、やけどをした背中の皮が破れてぶら下がっている人などがいました。わーとか、うーとか呻きながら逃げる人で、道はいっぱいになっていました。
 
6日の夜、私たちは中野村の疎開先に到着しました。私たちを中野村まで連れて帰ってくれた大沼さんの家族は、中野村で一泊し、次の日、西条へ帰って行かれました。
 
下の妹、敦子は、隣人の先頭さんが、被爆した平塚町の家から安芸郡海田市町にある先頭さんの親戚の家まで一緒に連れて帰ってくださいました。大やけどをした雅子と一緒に逃げていては、時間がかかってしまうだろうと心配して、ぱっと敦子の手を引いて一緒に逃げてくださったのです。翌日の8月7日に、母が海田市町まで迎えに行き、無事に再会することができました。
 
兄の和壮は、学徒動員先の横川町の工場内で点呼中に被爆しましたが、すぐに机の下にもぐって助かりました。落ちてきた物の下敷きになりながらも、明かりを頼りに這い出し、市電の線路の上を広島駅まで歩き、6日のお昼ごろには中野村の疎開先に到着していました。
 
●8月7日
7日に、母は兄を連れて、姉・藤子を捜しに平塚町へ行きましたが見つけることができませんでした。その翌日の8日にも、母と兄とで捜しに行きました。被爆してから時間が経っていたため、崩れた家の中から身体の腐った臭いがしたそうです。それで、姉のいる場所が分かり、遺体を見つけることができました。50~60センチほど積もった瓦や木材などを押しのけ、姉の遺体を掘り出しました。姉の頭髪には、6日の朝に挿したヘアピンが残っていたそうです。
 
母と兄とで木切れを集め、トタンを敷き、その上に遺体を置いて焼きました。焼け残っていた鍋にお骨を入れて、満員の列車の中を頭の上に乗せて中野村まで持って帰ってきました。
 
母は帰宅後、畳(たたみ)の上に新聞紙を敷(し)き、その上に姉のお骨を取り出して私たちに見せてくれました。
「これがお姉ちゃんよ。あの子はいい子だったから、のどぼとけがきれいに取れてね」と、母は言いましたが、お骨は細かく砕けており、私には、どれがどこの骨だか分かりませんでした。姉のお骨を前にして、誰も何も言えず、涙も出ませんでした。
 
実は、私は平塚町から逃げる間際に、崩れた屋根の下に姉の足の指先を見たような気がしていたのですが、母が遺体を見つけた場所とは全然違うところだったので、私は幻を見ていたのかもしれません。
 
母によると、私は被爆後しばらく、「お姉ちゃんの足が見えたのに…」と寝言で繰り返していたそうです。自分たちを父に会わせようとして平塚町へ連れて行ってくれた姉が亡くなってしまったことへの申し訳なさと、「あの時、父に会いたいなんて言わなければよかった」という後悔とが、ずっと心に残っていたので、無意識のうちに、寝言として出ていたのだと思います。
 
また、これは後になって父と母の話をつなぎ合わせて分かったことですが、姉の遺体が見つかった場所は、6日に瓦礫の上から懸命に姉の名前を呼んでいた、父の足元の真下だったようです。父は、お酒に酔うたび「藤子を足で踏んどった」と悔やんでいました。
 
●父の帰還
終戦の翌日、8月16日に、親戚のおじさんや近所の人たちに抱えられて、父が中野村へ帰ってきました。
 
6日に姉を捜すために平塚町に残った父は、その後、近所の人たちに、布団と木切れで作ったような筏に乗せてもらい、平塚町から京橋川を下って、金輪島へ渡ったそうです。どこの救護所にもけが人が次々と運び込まれてくるため、父はあちこちの救護所をたらいまわしにされており、父を捜しに行った親戚たちも、なかなか父を見つけることができませんでした。
 
あるとき、父がどこかの救護所で、別の人のお見舞いに来ていた人に渡したメモが、親戚の人に渡り、やっと、父を見つけることができました。
 
中野村へ帰ってきた父は衰弱しており、言葉を発するのもやっとという感じでした。しばらくは寝たきりでしたが、12月頃から起き上がれるようになり、兄が温泉へ連れて行ったのがよかったのか、その後は段々と元気になっていきました。
 
●戦後の生活
戦後は、平塚町の自宅が焼けてしまったことと、子どもたちに空気のきれいなところで生活させたいという両親の希望により、私たちは父方の親戚を頼って、山口県徳山市(現在の周南市)四熊に移住しました。そこで、田んぼを買い、家を建てて生活しました。私は小学校6年生のときから中学校を卒業するまで、4年間、四熊で過ごしました。四熊に住んでいたころの友達とは、今でも手紙でやり取りをしています。
 
四熊にいる間に3人目の妹、ミツ子が生まれました。私たちきょうだいのほとんどは、広島で、鑑定士のような人にそれぞれ名前を付けてもらっていたのですが、ミツ子は四熊で生まれたため名前を付けてもらいに行くことができず、父が自分で名付けました。今では考えられないことですが、戦時中、空襲に逃げまどいはぐれた我が子を名札で見分けるために、一文字にもこだわっていたのです。母の案であった「美津子」をはじめ、漢字をどうするか色々と考えたそうですが、身内に「みつこ」という名前の人が多くいたので、「この漢字だとこの人と被る」、「あの漢字だとあの人と被る」となかなか決まらず、「点々(カタカナの「ミ」、「ツ」のこと)にしておいたら間違いないだろう」という父の案で、「ミツ子」となりました。
 
当初、私たちは長く四熊に住むつもりでしたが、インフレで食べていかれなくなったため、父は数か月ほどで広島に戻りました。父には、江波(えば)町に多くの仕事仲間がいたのですが、彼らの工場は被爆後も焼けずに残っていたので、父はそこで働かせてもらいながら、お金を貯めました。
 
私は、国泰寺高校に入学するタイミングで広島へ戻り、父が建てた六畳一間の家で、父と二人で生活しました。私は高校に通いながら、父の身の回りの世話や、家事などをしました。家計が苦しかったので、外米を混ぜて炊くこともありました。
 
四熊では、徳山工業高校に進学した兄が、田んぼの世話やアルバイトなどをして家計を支えていました。
 
また、兄は四熊にいる頃、顔におできができました。横川町で被爆した直後、兄は八丁堀など、爆心地の近くを通っていたので、その影響だったのではないかと思います。しばらくしておできは治り、その後、特に病気をすることもなかったので、おできができたことで原爆の毒が全部出て行ったのではないかと、兄は思っているようです。
 
私が高校3年生のときに、四熊に残っていた家族も広島へ引き揚げてきました。父は、平塚町の家の裏に工場を建てて独立しました。現在は「株式会社友田鉄工」という名前で、父の孫にあたる私の甥が会社を継いでいます。
 
私は高校卒業後、洋裁学校に通い、三星製菓にも勤めました。
 
●大阪での生活
昭和30年(1955年)、20歳のときに、母の姉である伯母の世話で知り合った4歳上の宮本徳二さんと結婚しました。徳二さんは中野村の出身で、広島大学を卒業し、大阪で京阪電鉄に勤めていました。修道中学校の学徒動員作業中に、霞町の広島陸軍兵器補給廠で被爆したそうですが、すぐに母親が酢などを使って湿布をしてくれたようで、見て分かるほどの大きな傷は残っていませんでした。
 
結婚後は、大阪府の守口市で生活し、一女二男をもうけました。
 
子どもたちが小学生のときに、周りから勧められて、学校での被爆体験講話を始めました。1つの学校で講話をしたところ、その話を聞いた別の学校の先生から「うちも、うちも!」と声がかかり、多くの学校で講話をしました。
 
はじめのころは、手作りの小さな紙芝居を持って、自転車で学校に行って話をしていました。大阪の子どもたちは、被爆体験について聞くことがあまりなかったのでしょう、とても真剣な顔をして聞いてくれました。
 
最初は手作りで、サイズの小さかった紙芝居ですが、ある時、友人の夫である中村先生という画家の先生が私の体験を絵にして、木枠付きの、大きく立派な紙芝居に仕上げてくださいました。
 
被爆と関係のないところでは、守口市の合唱団に入り、コーラスをしていました。1年に1度、コンサートを開き、とても楽しい時間を過ごしました。守口市は、文化的な町だったと思います。
 
長男が高校を卒業した頃に、私の義理の母が亡くなりました。長男は安芸区中野で1人になった祖父を心配し、高校卒業後、広島に帰り、父の会社である友田鉄工に就職しました。
 
夫の定年退職後、私が60歳、徳二さんが64歳のときに、夫婦で安芸区中野の宮本の家に帰って来たのですが、それまで家を守ってくれた長男夫婦には、本当に感謝しています。
 
私の講話活動の後押しをしてくださった守口市の教育長や、いつも優しく気遣ってくれる息子の妻など、ありがたい人や良い人にたくさん巡り合って、運がいいなと思います。これまでいろいろなことがありましたが、トータルすると、私の人生はまあまあ良かったんじゃないかと思います。
 
●次の世代へ
戦争がないことが一番ですよね。いつもどこかで誰かが戦っている今の世界を見ていると、どこかが違う、何かが違うと思います。
 
若い方々には、自分の周りで起きていることについて知らん顔をせずに、大きな目で社会を見てほしいと思います。
 
そして、前向きに生きるために、周りの人たちと学びあったり、助け合ったりしてほしいです。 

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