母の記
昭和二十年八月六日
疎開地、可部より奥に入った綾ヶ谷は、今日もヂリヂリする様に暑い。四人の子供と共に疎開した私は、今日も食糧買いに、お百姓のかつぐ負子を肩にして、子供たち三人を家に残して出かけて行った。
長男の茂は今日も学校(当時一中)の近所の家の取り壊しとかで、朝六時過ぎには山を下りて行った。二、三週間前より大阪より来て居った私の弟も帰阪する為に一緒である。
私は小南原にさしかかった時、パッと白い光を身にうけ、爆弾の炸裂したような音を聞いた。私は思わず土の上に伏せった。胸がさわいだ。急に二、三軒の百姓家から人達が表に飛び出して来た。私は急に家が心配になって谷の間を下りて来た。家に帰ると九才の長女が一年と四ヶ月の末娘をおんぶして泣き顔でいる。
私は南の空を見た。白い茸の様な雲のかなたに、落下傘がただよっている。近所の人が出て来て、広島か呉に落下傘部隊が下りたのだろうと噂されたのを聞いて急に不安になった。
私達が疎開してからは、夫は楠木町二丁目の工場に隣接して建てられた住宅に暮らしている。長男は学校だ。弟は今頃何処だろう。心配になった私は、五百米程下のほうにある社長宅を尋ねて行った。社長は今日は広島の工場の方へは出なくて縁側に坐っておられた。夫の工場も可部の城という処に疎開して、一部の人が居られるので早速と広島の本社の様子を調べにやるということである。私は落ちつかない気持ちで、家と社長宅を何度か往復した。
昼頃になってわかったことは、広島は全滅したということであった。そして広島市内に入ることは不可能だということであった。昼過ぎに弟がヒョッコリ帰ってきた。茂とは一電車おくれて緑井で爆弾の炸裂したのを感じ、それから電車が動かなくなったので、歩いて山へ帰って来たとのことだった。弟は電車に乗れなかったのが幸いしたのだ。
私は一才の末娘、三才の次男、九才の長女を弟に頼んで、社長宅で広島の知らせを待つことにした。顔や手のやけどした女子工員の子が運ばれて来た。「痛い、痛い」と泣いている。でも、何うしてよいのかわからない。次々に入って来る報道で、夫は工場の焼け落ちる最後迄で居られたということだった。或人からは焼ける工場に水をかけて居られましたと聞かされた。
長男の様子は全くわからない。不安なままに夕方になった。食事の支度にかかろうとした六時半頃、夫が橋本さんと共に帰って来た。工場の下敷きになって衣服は汗と埃だらけであったが、傷一つなくて安心した。焼ける町の線路をつたって帰って来たとのことである。途中、新庄の竹やぶの中は、火傷の人、怪我の人で目をおおうばかりとのこと。
段々暗くなって来るのに長男は帰って来ない。弟は可部の駅迄出迎へに行って居るのだけれどこれも帰って来ない。私は何も手につかないままに只祈りつづけた。「髙橋さん」外で声がした。誰かの声だ。茂をつれて来て下さったのだろうか、嬉しさに外に飛び出した。でもそれは知人の川村さんの息子さんをつれて帰られたのだった。崇徳の二年生だった。「よかったですね」私は云ったものの体の中に冷たいものを感じガックリとなった。
広島の中央部は全滅したとの報に、体の力が抜けた思いだった。私は蚊帳の中に長男の写真を持ち入れお燈明をつけた。眠れぬままに只々祈った。何処かで助かっています様にとお燈明もたやさなかった。それはお燈明が消えたら、息子は帰って来ないのだと自分に云い聞かせての上だったから。母が絶やさないでともしている此の光、貴方も生命の火を消さないでと念じた。
八月七日 母の記
翌日も快晴だった。工場の人達が次々と可部に避難して来られるので夫は忙しい。私は可部に住んで居られる一中の戸田先生をお尋ねすることにした。六日は先生は学校を休まれたとのこと。学校との連絡がつかないが、わかり次第知らせるとのことで一先ず家に帰った。弟は今日も可部駅で茂の帰りを待っている。
付近の家で崇徳に行って居られた学生も火傷はして居られたが帰って来られた。私は心配と焦りで食事も喉を通らないままに、幼い子をおんぶして只動きまわった。動くことで苦痛を忘れたい。
夫が帰って来ての話に、可部に住んでいる一中の生徒が比治山の方に向かって逃げていたということ。家の子供のことなのだろうか。何かの報が知りたいと念じた。今日も広島市内には入れないとのこと。夫は明日は何んなにしてでも広島へ探しに出る決心でいる。明日への希望を持つことで、心を静めることに努力した。
八月八日 母の記
戸田先生のお宅へ尋ねて行った私の弟は昼前に帰って来た。
「姉さん茂は死んだ」弟は云うなりワッと泣いた。私は心臓の止まる思いで一緒にワアワア泣き出した。先生のお話では茂の死体が日赤病院前に置かれてあるとのことである。可部の疎開工場に出ていた夫が帰って来て、早速と自転車に乗って広島へ出かけて行った。
綾ヶ谷の村から疎開作業に出て帰って来られた人も今日は亡くなられた。下の家の崇徳の生徒さんも、火傷された姿で帰って来られたが、此の人も亡くなられた。私はやりきれない気持ちのまま夫の帰りを待つ他はないのであった。
八月八日 父の記
戸田先生の報により、茂の死体引取りの為広島に自転車で出る。一人では何うしようもないので工場の青年一人一緒に行ってもらう。可部より横川に出て、寺町裏、舟入本町を経て鷹野橋を通り日赤病院に向かう。途中川には死体が浮んでいた。寺町裏で水槽に馬が首をつっこんで死んでいたのが痛ましかった。舟入本町の辺りでは死体を一ヶ所に集めておられるのを見た。鷹野橋の角は特に非道な光景だった。死体が山の様に積まれていた。
日赤の前庭の木の根元に三人程の学生の死体がすぐ眼についた。かけよって見たが直観で子供でないと知った。顔がハッキリしないので、パンツの裏側の氏名を見た。やはり髙橋とあった。しかし名が義の字が書かれてあった。後日知ったことだが、やはり一中の生徒で万国製針の子息だった。合掌して其の場を去り、県病院に行った。それより白神社の通りを探しながら、紙屋町に引き返して練兵場に入った。女学生の死体の多いことに驚いた。半こげになった者、目の玉の飛び出た者、悲惨な姿が累々ところがっている。
子供の姿が見当たらぬままに、一先づ工場の青年に帰ってもらうことにした。そしても一度、鷹野橋方面を探したが、あきらめて帰ることにした。
八月九日 父の記
今日は何でも見つけ度いと、意気込んで自転車で再び出掛けた。今日は学校へ行って見ることにした。校門を入った所の碑の側に三人程の人が居られた。その中の一人が、亀山に疎開している髙橋という者が、似の島につれて行かれていることを知らしてくれた。押さえ切れぬ喜びで宇品に向かった。しかし空襲の為船が出ない。逸る心を押えて帰宅した。
八月十日 父の記
八時、山を降りる。色々な注射と、にぎり飯を用意して、自転車で出かけた。十時過ぎ宇品より似の島に渡る。海辺に建てられた陸軍の病院に、多くの罹災者が収容されている。一部屋ずつ探すことにした。次々に息を引取ってゆく者がいる。その中に一中の生徒も死んでいった。一部屋一部屋尋ねてゆき、最後の部屋迄来たが茂は見当たらない。落胆しながらもう一度念入りに探しつつ引きかえした。始めの入口の所迄帰ってきた時「お父ちゃん」茂がヒヨロヒヨロと歩いて来た。頭、顔、シャツ血にまみれて黒赤く固まっている。受付で手続きを取り、連絡船で宇品へ帰った。
三日間余何も食べていないのですっかり衰弱している。水ばかり飲んでいたそうである。宇品でビタカン及びビタミンBやCの注射を射ち、ブドウ糖を飲ましてやった。自転車の前に乗せて静かに走ることにした。長束の知人の家で休憩させてもらい、八木の駅付近でもう一度注射を射ち、山に帰って来た。七時頃だった。
八月十日 母の記
茂が似の島に助けてつれてゆかれていることが、昨夜夫が帰って来てわかった。胸の固まりが一時にほぐれる様に嬉しかった。今日は特別に白い御飯のおにぎりを用意した。そしてビタカン、ビタミンB、Cの注射液やブドウ糖も持って行ってもらうことにした。これ等は無医村に疎開するについて、体の弱かった私は沢山の注射液を用意していた。一日がとても永く思われた。カーキ色の学生服、戦闘帽、そしてゲートルを足に巻き、大きなリュックサックを肩にして六日の朝、山を下っていった姿が眼の裏に焼き付かれて、此の姿は再び見ることは出来ないものと、四日間苦しみ悲しみに打ちひしがれたものを…ああ、子供は帰ってくる。幾度か表へ出ては坂道に目をこらすのだった。
薄暗になろうとする時分、父の自転車の前に乗っている茂を見た時、これ程の喜びが世にあろうかと思うのだった。頭の何処からかの出血であろう、茶色い面をかぶっている様だった。シャツも血でカチカチになっていた。何うしてよいのかわからぬままに手足をふいてやった。腕にホータイがぐるぐる巻かれてあった。似の島で手当てを受けたそうだが、何うしてか出血の激しかったであろう頭の処置がしてなかった。シャツはぬがされない程肌に血と一緒にこびりついていたのでハサミで切り取った。食事をして明日を待つことにした。
八月十一日より 母の記
おいしそうに食事をした。四日間程何も食べず水ばかり飲んでいたせいだろう。似の島ではおかゆを出してもらったそうだが、喉に通らなかったそうだ。夫と二人で頭、額、喉、腕の傷口をオキシフルで拭いては赤チンをつけた。頭の傷は四センチ程だが、下から骨が見えていた。そしてガラスのかけらが幾つか入っているのだった。額、腕にもガラスが入っていた。もう恐さもなく夢中である。衰弱している様子なので、朝と夕方ビタミンBとCの注射をしてやることにした。此の所迄は医者は来てくれない。
毎日朝は傷口の処置をするのだがすぐ化膿する。それでも取れるガラスは取りのぞき赤チンをぬり続けた。ひまがあれば頭や顔をぬらしては血の塊を取っていった。
色々な噂が山にも流れて来た。広島市内にはもう何十年か住めないこと、罹災者は物凄い瓦斯を吸っている為内臓がやられている等。
私達は子供の傷が化膿するのを治すことに必死だった。しかし朝晩ビタミン注射を射つことは忘れなかった。そして人から話を聞いて、「げんのしょうこ」や「どくだみ」を摘んで来ては陰乾しにして煎じて飲ました。山の生活は其の点では恵まれていた。茂も傷がひどかった為か、あまり動き歩かないで縁側に坐っているか横になっていた。後日考えて見ると、静かに寝ていたのがよかった様である。
八月十五日 母の記
私達が居る此の家の主人は、昔アメリカに移住してそのまま空家になっていたのを借りた。ワラ葺きのガランとした典型的な田舎家である。此の日も茂は家の中で一番涼しいいろりのある部屋で横になっていた。薄暗い部屋の中で見る子供の姿は、とても悲しく私の目にうつる。段々痩せて来ているのである。そして特に頭の毛が薄くなった。血の塊った部分はほとんど取ってやったが、横になっている姿は老人のようで侘しい。
ラジオで終戦の報を聞いた。本当に泣き出したい気持ちである。広島、長崎と何の罪もない人々の此のむごい殺され様、そして数多くの戦死者、そして今日聞く敗戦の報で終止符はうたれた。長く不自由な生活と戦ってきた私達にとっては泣くに泣かれぬ悔しさで一っぱいである。
八月十七日 母の記
茂の食欲は段々なくなって来ている様である。歩きまわることもなく、縁側に出ては傷口の手当てをする外は、何時も床に横になっている。便所に立っての帰り、目まいがすると言って倒れた。しかし此の山の中までは医者は来てくれない。只、安静にしているより手のほどこし様がないのである。強心剤とビタミンB、Cの注射を夫は射ってやった。静脈注射は射てないのでブドウ糖を飲ませた。こうすることで私達は不安と戦いながら病人を見まもるしかない。何とかしてお医者さんに見てもらい度い。
色々手をつくして、やっと可部に来ていられた軍医さんに見てもらうことが出来た。しかし何か未だわからないとのことである。只、強い光の為火傷をした者、猛毒を吸って内臓をやられている等で、手当の方法はわからぬとのことであった。
二、三日立った夕方突然、茂の頭の傷口から出血し出した。見る見る真赤な血が枕カバーを染めてゆく。私達はすっかりあわててしまった。頭の出血である。何うしてよいのかわからない。頭に巻いてやったホータイはたちまち赤く染まってしまう。枕を高くしてホータイや晒布を巻き替えて見たが、血が止まらないのである。此の間の軍医さんからもらった血止めの注射を射って、私は百米余り離れた隣家の人に、医者に来てもらう様に頼みに行った。夫の工場に出て居る人であった為快く引き受けて下さった。医者の来るのが待ち遠しくて気が気でない。でも結局、医者は来てくれなかった。やはり血止めの注射を一本もらって来て下さった。でも先に射ったものが利いたものか、血はやっと止まった。
おそらく此の時、熱が出だしたのであろうけれど私は気がつかなかった。
八月二十一日頃より 母の記
茂はもう立ち上がることも出来ない程衰弱して来た。度々の下痢である。熱を計って見た。三十九度からあった。何も食べないのに度々下痢をするので極度に弱っていった。粘液の便である。ぐったりと床に横たわっている姿は十二、三の少年とは見えない。頭の毛はすっかりなくなって、骨ばかりの様に痩せこけた子供を見ていると胸がつぶれる様である。
でも、生死の中を助けてきた子供を死なせてなるものかと一生懸命である。熱をグラフにした。そして当分は何も食べさせまいと思った。只、ビタミン注射、カンフルは朝夕かかさなかった。夜中は子供と手をつないで眠った。翌日は一層熱が高くなっていた。朝、昼、晩と計る熱のグラフは上昇するばかりである。
あの家の息子さん娘さん、帰って来られたが亡くなられた等不吉な言葉が耳に入る。毎日不安に怯えながら子供から目を離さなかった。夜が一番恐かった。私が眠っている間に冷たくなってしまう気がしてならなかった。四、五日間程グラフの山は高く続いた。
二十六日頃だっただろうか、計った熱が三十八度に下がっていた。本当に嬉しかった。これからすこしずつ栄養を取らせてやりたい。あれこれと迷ってみても食不足の折柄何もない。何かジュースと思って、買い溜めしてあったかぼちゃの熟していないのと、青いズイキ芋の茎を下ろして、布で絞って少し飲ませてやった。青臭いであろうのに何日も食べ物を口にしていない為か飲んだ。おも湯に玉子の黄味だけをまぜて、これも少しずつ飲ませることにした。
一日一日と熱は下がっていった。足の皮が、手の皮等ポロポロはがれてゆくのだった。足の裏皮がコッポリはがれたのには驚いた。八月末には熱は三十七度位に下がってしまった。
八月末か九月始めだっただろうか、元気で一番に村へ帰って来られた川村の範ちゃんも亡くなられた。皆さんから、奇蹟だと喜んで頂くのが何か悪い様な気持ちになる程に、茂は日毎に元気になっていった。しかし頭の毛はすっかりなくなっていた。配給のコンペイ糖を「コンペイ糖には何故角があるかと云うことは」等云いながらおいしそうに食べているのを見ると、目頭が熱くなるのだった。
九月二十九日の村のお祭りの日に、始めて台所まで起きて来た。お祭りの御ちそうを私が作っているのを見る為に出てきた。
原爆の数多い犠牲者の中から、奇しくも生命を取りもどした我が子、一生を有意義に過してほしいと願う。
父 髙橋 一二
母 髙橋 清子
原爆記念日に 四十七年八月六日
髙橋清子
原爆より 四日吾子を探し歩きて父の愛の尊きもうれし
被爆せる 中学一年生の子を四日目に似の島にて見つけ出しぬ
五日間 似の島に連れ行かれたる吾子を見つけ出せし夫の喜びを思う
傷つきて血にまみれし衣はボロボロに帰り来し子を喜び迎えつ
子の体の膿む傷や出血を夫と吾はけんめいに処置す
無惨に逝きし人の中より連れ帰りし子も原爆症を病みたり
高熱に眠り続ける吾子の手を握りて幾夜を安眠なかりき
疲れはて熱と下痢に苦しむ子を無医村なれば独自の療法せり
無医村にありて 注射も上達したり原爆症の吾子たすけんと
ドクダミ ゲンノショウコを摘みて歩き南原疎開地で素人療法せり
原爆症の子に飲まさんと朝夕にげんのしょうこを煎じ青汁作る
毛髪抜け 足の皮膚はがれゆけば野菜ジュースを作る日日なりき
病状の日に癒えゆけば庭に出て陽を浴みている 吾子の坊主頭
病状の日に癒えゆけば陽を浴みる坊主頭の姿いじらしき
毛の抜けて病み痩せし子もやうやくに赤とんぼ見むと縁側に出づ
新さつま芋や配給の金平糖に笑顔見せる子は 日日に快くなりてゆく
原爆記念日に回想 一九四七年八月
かたまりし血の一片一片を拭いしかの日の思い出かなし
かの日には出血かわきて帰りきし吾子も三十九才の夏を迎へり
一九五十年八月
疎開作業に従事せる吾子も命ありて三十年の原爆記念日迎ふ
一九六十年
校舎の下より吾子を助け下されし一中の学友 次ぎ次ぎて亡し
学徒動員で 小町の作業より助かりし子は今年五十二才 家の柱なり |