まえがき
毎年八月が近づくと、原爆や戦争体験に関する記事・番組が目立つようになる。何年かまえ、広島や長崎で原爆の犠牲になった連合軍捕虜のことが、NHKの特集番組で紹介されたことがあった。また、今年の朝日新聞には、広島にいた米軍捕虜ゆかりの地、旧中国憲兵隊司令部跡に、広島在住の篤志家によって、捕虜追悼の慰霊碑が建てられたという記事が載った。
ところで、私達の父親、中村重雄は、当時、中国憲兵隊司令部の部員として、米軍捕虜への対応に当たっていた。また、私自身も、原爆投下の前日に当たる八月五日に、父のもとを訪れ、一部の捕虜に会った体験がある。しかし、戦争直後、捕虜の扱いに対する連合国側の詮議は厳しく、母親から、捕虜に関することは、人に大変迷惑をかける恐れがあるので、みだりに口外しないよう、厳重に注意されていた。そのようなこともあって、これまで、外に向けて、体験を語ることはしなかった。ただ、当時幼かった弟達や、戦争をまったく知らない子供達には、折に触れて、父の思い出とともに捕虜達のことも話したが、体系立った話しの仕方をしてこなかったためか、あまり印象に残っていないようである。しかし、戦後半世紀余を経た今、原爆や戦争の体験を、後世に伝えることの重要性が指摘されている。もとより、私が捕虜に関して見聞したことは、全体像からすれば、ごく一部にすぎない。しかし、父が最後に深く関わり、運命を共にした捕虜達のことは、やはり忘れ得ぬ思い出である。この際、改めて当時を回想し、父の最後の思い出とともに、捕虜達の思い出も書き留めておきたいと思う。
昭和二十年三月、旧日本陸軍の憲兵中佐であった父親は、中国憲兵隊司令部勤務になって、広島へ転勤することになった。それまでは、両親と幼い弟達は東京で、私と小学生の弟は郷里の滋賀県大津市の祖母のもとで、分かれて暮らしていた。しかし、戦局は悪化の一途を辿っており、その時期に家族が分かれているのは良くない、という父の意見に従って、広島で一緒に暮らすことになった。四月に入って間もなく、われわれ家族は、父があらかじめ借りておいてくれた、五日市町楽々園の海辺の家に落ち着いた。私は県立広島一中(現国泰寺高校)の二学年に編入させてもらって、毎日広島まで通うことになった。父は司令部では高級部員という役職にあり、地区直轄隊長といわれていた。恐ろしく多忙な毎日で、楽々園の家へ帰ってくるのは、月のうちせいぜい二、三日、大部分は司令部に近い立町の下宿に寝泊りしていた。下宿の名前は青雲荘といったが、もとは医師の邸宅だったということである。そのような生活のなかで、父と家との連絡役はもっぱら私の仕事であった。放課後、よく司令部へ立ち寄り、時には父と一緒に青雲荘に泊まって、勉強を見てもらったりしていた。
当時、日本の主要な都市は、米軍の爆撃によって、ほとんど焼け野原になっていたが、広島はまだ本格的な爆撃は受けていなかった。広島の近くには、呉軍港など重要な軍事施設が多く、頻繁に敵機が来襲していたが、広島への直接攻撃は、意図的に避けているようにさえ思えた。父は仕事柄、このことを大変気にしていたようである。七月の末になると、近くの軍事施設に対する爆撃は、さらに激しさを増し、艦載機や大型爆撃機による攻撃が、連日のように繰り返された。この時は、日本軍の対空砲火も激しく、かなりの数の敵機が撃墜されていたようである。家に近い五日市の裏山へも、大型爆撃機B-24が一機撃墜され、パラシュウトで脱出した米兵が、数人捕虜になっていた。八月に入ると、私たち中学二年生にも動員令が下り、広島とは逆方向の地御前にある工場へ行くことになった。工場の名前は旭兵器といって、主に機銃弾を作っていた。
原爆投下の前々日にあたる八月四日の夕刻、久し振りに父が帰宅した。早速、先日撃墜された敵機を見に行ったことや、捕虜のことなどが話題になった。父は「おまえ達が見た他にも、大勢の捕虜がつかまっていて大変だった。広島の留置場はどこも捕虜で満員だよ。それにしても、奴等は大きいなあ!」と言って、自分の頭の上に手を伸ばして、背の高さを示すような仕草をしてみせた。普段、家では仕事のことを、ほとんど口にしたことのない父であったが、この日は珍しく進んで話しをしてくれた。それだけ、父自身も捕虜の印象がつよかったのであろう。話しの内容はおよそ次のようなものであった。
まず、一番困ったのは捕虜の収容場所であった。広島には、捕虜収容所のような施設はないので、考えられるのは、軍隊の機関がそれぞれに持っている営倉といわれる留置場である。しかし、これはもともと罪を犯した兵隊を隔離するための独房であるから、それほど数が多くない。勿論、憲兵隊司令部にも営倉はあるが、とても入り切らない。広島市にある軍隊の各機関にたのんで、捕虜を分散して預かってもらったが、それでもまだ足りない。そこで一計を案じて、一部の捕虜を東京へ引き取ってもらうことにした。東京とは上部機関の憲兵司令部のことである。捕虜のなかに階級が上で、指揮官級のが一人いるので、何か情報が得られるかも知れない。また別の一人は、パラシュウトで降下した際、近くにいた農夫を射殺するという罪を犯している。二人とも中央において、詳しく取り調べる必要がある、というのがその理由であった。
当時、広島から東京へ行くためには、大阪で汽車を乗り継がねばならなかった。護送役の憲兵は、捕虜を連れてプラットホームへ降りたところを、大勢の群衆に取り囲まれた。群衆は口々に捕虜を殴らせろという。制止すると投石が始まった。石は憲兵達にも容赦なく飛んできた。当時の世相からすれば、考えられないことではなかったが、護送の任に当たった人達にとっては、とんだ災難であった。後になって、父はこの人達から、大分ぼやかれたそうである。それにしても、東京へ護送された二人の捕虜は幸運であった。もしあの時、捕虜の数がもうすこし少なく、留置場が足りていれば、この二人も他の捕虜達と同じ運命を辿ることになったであろう。もっとも、そういう私自身にしても、学徒動員のお陰で命拾いをしたわけである。本当に人の運命は分からぬものである。余談はさておき、父の話しを聞いているうちに、私は是非捕虜が見てみたくなり、断わられるのを覚悟で頼んでみた。しかし、久し振りの家族団らんで機嫌の良かった父は、駄目だとはいわなかった。
翌八月五日、工場での訓練が比較的早く終わったので、楽々園を素通りして広島へ急いだ。幸い父は在室していたが、私が来たのを見て、ちょっと意外そうな顔をした。まさか本当に来るとは思っていなかった様である。それでも、「折角来たのだから、少しだけだぞ!」と言って、先に立って案内してくれた。室の前の廊下を真直ぐ行った突き当たりに留置場があった。司令部の建物は木造二階建てであったが、その一階部分の、正面向かって右側の端に位置していたと思う。前の廊下には監視役の兵士(以後、監視兵と呼ばせてもらう。)が、椅子に腰掛けていたが、父が近づくと立ち上がって一礼した。留置場は、五つの独房が横に並んでいて、それぞれの独房は、畳二~三畳ほどの狭いものであるが、天井は高く、床は板張りで、正面には太い木の格子がはまっていた。
米軍捕虜が留置されていた建物の配置図(藤田明孝氏による)
藤田さんの記憶にもとづいて描いた、当時の中国憲兵隊司令部一階主要部分の平面図
留置場独房の番号は便宜上つけたもので、本文の説明と対応している。
一番手前の独房にいた捕虜は、頭髪が赤っぽく、口髭を生やして、腕に入れ墨があったように思う。そでの短いアンダーシャツだけの姿で、腕組みをし、両足を前に投げ出すような姿勢で腰板にもたれていた。つぎの独房の捕虜も、まったく同じ姿勢をしていたが、この人は頭髪が黒く、ごわごわした髪で、光線の具合か、白髪があるのか、やや灰色がかって見えた。全く無表情で、まばたきもせず私の顔をみつめていたが、その目も灰色がかった特徴ある目であった。西洋人はみな金髪で、青い目をしているものと思っていたので、意外だったのが印象に残っている。監視兵の説明では、この捕虜も、さきに見た捕虜も下士官だということであった。三番目の独房にいた捕虜は怪我をしていた。床の上に軍用の毛布を二つ折りにして斜めに敷き、その上にうつ伏せになって寝ていた。どちらの足だったかはっきり覚えていないが、かなり重傷のようで、爪先からくるぶし、膝の下あたりまで分厚く包帯が巻かれており、軍隊で使われている茶筒のような枕が、あてがってあった。顔は見えなかったが、その後ろ姿から、かなり背が高く、がっちりした体格の持ち主だったように思う。
その時、監視兵が「もう一人怪我をしているのが居りました。これだったかな!」と言いながら、つぎの四番目の独房の前に立って、「ポーター」と捕虜の名を呼んだ。それまで気付かなかったが、それぞれの独房の前には、捕虜の名前を書いた紙片が貼ってあり、この部屋にはマーク・ポーターと書かれていた。ポーターは背中をまるめて、膝を両手で抱えるような姿勢で居たが、名を呼ばれると「イエス」とよく響く声で答えて立ち上がった。中学の先生から、英語は口を大きく開いて、はっきり発音するよう言われていたので、この時、初めて本場の発音を聞いて、なるほどと思った。「この捕虜は少尉であります。」監視兵はそう説明しながら、正面にある小さな出入り口の錠をはずして、ポーターに外へ出るよううながした。素足でアンダーシャツとパンツだけの下着姿で、廊下に立った彼は、西洋人としては小柄なほうで、やや華奢な感じに見えた。父の居ることが大変気になる様子で、監視兵が彼の腕を取って、手首のあたりを調べている間も、さかんに父の表情を窺っていた。しかし彼が怪我をしている様子はなかった。父が捕虜の食事について聞いたのに対して、監視兵は、「にぎり飯と味噌汁を与えております。皆、にぎり飯は食いますが、味噌汁はほとんど食いません。」と答えた。父は腕組みをしたままやや下を向いて、考え込んでいる様子だった。
当時、日本の食糧事情は極めて悪く、軍隊といえども例外ではなかった。私も兵食をご馳走になったことがあったが、黒い麦飯に大根切り干の煮つけ、といった粗末なものであった。食習慣の違う捕虜達にとっては、殊更厳しいものであったろう。
このような会話の間も、ポーターは父達の意図をなんとか探ろうとするかのように、せわしく二人の表情を見比べていた。私はそんな彼の横顔を見ていたが、一瞬目線が会った時の彼の表情は、軍人というより無邪気な大学生といった感じであった。マーク・ポーター少尉、彼は最も思い出に残った捕虜である。
最後の五番目の独房にも、同じような人影を見たように思うが、この時、父が「さあもういいだろう。」と言ってさっさと帰りはじめた。私は慌てて、監視兵にお礼を言うのもそこそこに、父のあとを追ったので、残念ながら、なかの様子はまったく覚えていない。室についた時、父はすでに自分の席に座って、机上の書類に鉛筆を走らせていた。私は室の入り口に立って、「それでは帰りますが、何か持って帰るものはありませんか?」と聞いた。父は書類に目を落としたまま、「とくにない、明日はまた朝から出張する。」と言った。これが父を見た最後である。
八月六日の朝、原爆が投下された時刻には、私達は工場脇の空き地で、朝礼後の体操をしているところであった。閃光につづいて大きな爆発音がして、粉々に割れた窓ガラスが、あたり一面に降ってきた。咄嗟に、工場の建物の中に飛び込んで伏せた。最初は、てっきり工場が爆撃目標にされたものと思って、息を殺していたが、つぎの爆弾が落ちる気配もないので、先生の指示にしたがって、一旦裏山へ避難した。そのとき例のキノコ雲を見た。しばらくして工場へ引き帰すと、監督の先生から、広島市が相当ひどい爆撃を受けた模様だと知らされた。郊外に家があるものについては、とりあえず帰宅してもよいことになったので、線路づたいに歩いてわが家へ急いだ。
帰ってみると、爆風で家の屋根瓦は波打ち、窓は吹飛んで、惨憺たる状態であったが、幸い家族は無事で、小学生の弟達もすでに帰宅していた。早速、部屋の中に足の踏み場もないほど飛び散ったガラスの破片を、皆で拾い集めて、庭の隅に穴を掘って埋めた。夕方ちかく、近所に住む高橋さんのご主人が、広島から素足で歩いて帰ってこられた。顔や足には無数のすり傷があり、手に火傷を負っておられたが、比較的元気であった。早速近所の人が集まって、広島市の様子を聞いた。
高橋氏の証言によると、勤務先の事務所は、爆心地に比較的近い立町にあって、建物は全壊したが、幸い這い出すことができた。そのときすでに周囲のいたる所で火災が発生しており、その火に追われるようにして、泉邸・広島城の方角をめざして逃げた。途中、偕行社の前あたりを通ったとき、憲兵隊司令部の方を見たが、建物は全壊し、壊れた屋根が見えたものの、火は出ていなかった。その後、焼けたけれども、「あの状況だと、中村さんは多分何処か避難されていると思う。」この証言には多いに勇気づけられた。昨日、分かれ際に、明日は朝から出張だと言っていたから、もしかすると、爆撃のときすでに広島を離れているかもしれない。たとえまだ司令部に居たとしても、きっとどこかへ避難しているだろう。いまに、高橋氏のように元気で帰ってくるのではないか。私達は父の生存を信じ、無事を祈って、ひたすら帰りを待った。その夜広島の空は真っ赤であった。祖母と母は広島の方角が見える表の道路に出て立ちつくした。
翌朝になると、近所にも重傷者が送られてくるようになり、騒然とした雰囲気になってきた。しかし父からの連絡は全くない。次第に不安になってきた。昼すこし前になって、ようやく使者の兵士がみえて、「中村中佐殿は行方不明であります。」と母に告げた。母はもうすこし詳しい事情を知りたいと願ったが、使者の方もそれは分からないとのことで、不安は増すばかりであった。午後になって、中原博志さん(当時憲兵上等兵)が来て下さった。中原さんは、以前父の当番兵を勤めた方で、家へも何度か来られたことがあり、家族も皆よく知っていた。中原さんの姿を見たときには、まさに地獄に仏の思いであったが、その沈痛な面持ちから、決してよい知らせではないことが感じ取れた。中原さんは「先ほど憲兵隊司令部へ行ってまいりましたが、建物は完全に焼失しております。生存者が数名おりましたが、大部分は行方不明で、部員殿(父のこと)の姿を発見することは出来ませんでした。今広島市へは、入れる状態ではありません。私が状況をみてお迎えに来ますから、何時でも出られる準備をして、待っていて下さい。」と言い残して、帰っていかれた。お互い口には出さなかったが、祖母も母もこのとき、最悪の事態を覚悟したようであった。
一日おいて、八月九日の昼ごろ、中原さんが車の用意をして、迎えに来て下さったので、母と私が行くことになった。己斐の近くまで車で行って、そこからは歩いて市内に入り、まず、土橋国民学校の校庭に仮設された、中国憲兵隊司令部の仮事務所へ向かった。司令官はじめ、幹部は全員行方不明であったから、軍用テントを張った仮事務所の中にいたのは、ほとんど他所から応援にきた人達で、その中に、以前父が東京の憲兵司令部で一緒だった岡村中佐が居られた。岡村中佐から、改めて父が行方不明であることが告げられ、家族としても捜査に協力するよう要請された。そこへ、以前から面識のある武田曹長が、ひょっこり顔を出された。曹長は、われわれ家族が広島へ引っ越して来た当初、広島市内をいろいろ案内して下さった方で、原爆の日は、たまたま市の中心部から隔たった所にいて、無事だったとのことである。土橋からは、武田曹長に案内してもらって、基町の司令部へ向かった。
中原さんの話しのとおり、司令部の建物は完全に焼け落ちて、跡形もなかったが、見覚えのある石の門柱や正面玄関の石段、建物の礎石などが残っており、それらを頼りに、父の居室の跡を推定することが出来た。数日前に見た室の様子を思い出しながら、父の机があったあたりを捜すと、そこには明らかに遺骨と思われるものが見つかった。しかし、それはほとんど原形を止めておらず、大きなものでも、長さが十センチそこそこの破片と化し、直径が一メートルに満たない、きれいな円形となって、散らばっていた。そこをじっと見つめていた母が、突然「お父さんの時計!」と叫んで、その中から焼けただれた腕時計を拾い上げた。時計の針は九時四十分を指していた。
父の遺骨であることに間違いない。母と二人で拾い集めて、武田曹長が用意してきて下さった骨壺に収めた。また腕時計以外にも、双眼鏡、拳銃など、見覚えのある遺品を拾い集めた。なおこの室には、父以外に五~六人の遺骨があり、いずれも、父のものと全く同じ状態で見つかった。以前、父を訪問した際、室に数名の士官や下士官の方がみえて、父の机の前に整列して、何事か報告され、父も起立して応えているのを見たことがある。遺骨の並び具合からみて、原爆がさく裂したとき、父の室では、このような光景が繰り広げられていたのではないかと想像する。また爆風によって、建物が倒壊した際、一階部分にあったこの室では、ほとんど真上からの圧力を受けて、全員が瞬時に圧死したのではないだろうか。しかし、先述の高橋氏の証言どおり、建物はすぐには焼けず、一時間以上経ってから、焼失したのではないだろうか。遺骨や遺品は、このような状況を物語っているように思われる。
昭和二十年八月九日午前中国憲兵隊司令部の焼け跡を訪れたときの父の居室の状況(図あり)
居室の焼け跡で、収集した父の遺品(写真あり)
遺骨確認の決め手となった腕時計、長針は取れているが、九時四十分を指していた。(写真あり)
父の死亡証明書(画像あり)
一方、捕虜達のいた留置場の状況も、似たようなものではなかったかと思われる。しかし、後日、捕虜の一人が、被爆後も生きていたという話を、司令部の関係者から聞いたことがある。また中学の同級生のなかに、捕虜が一人、相生橋の欄干にくくり付けられているのを、見たと証言するものがいた。留置場は同じ一階部分でも、とくに頑丈に出来ていたし、建物の端に位置していたから、這い出すことが出来たのかもしれない。
遺骨や遺品の収容を終わった時は、すでに夕暮れ近くなっていた。遺骨はとりあえず司令部に安置するということで、遺品だけを持って、トラックの荷台に便乗させてもらって家路についた。父生存の望みは完全に断たれたが、遺骨が確認・収容できたことがせめてもの救いであった。
八月十五日の終戦から数日後に、司令部から、父の遺骨を引き取りに来るようにとの連絡があった。この時も、母と私とで出かけたが、司令部のある場所が変わっていた。正確には覚えていないが、横川駅の付近から山手の方へ入った所で、神社かお寺の境内だったように記憶している。遺骨は白木の箱に収められ、白布で包まれていた。布の両端を結んで私が首に掛け、遺骨を持って母と二人で司令官のところへご挨拶に行った。残念ながら、お名前を覚えていないが、この時の司令官は、父より少し年配の大佐の方であった。大変親切な方で、われわれ親子を心から慰め励まして下さった。後にこの司令官は、連合国側から、捕虜虐待の責任を問われ、フィリピンで、処刑されたとのことである。その話を聞いた母が大変残念がっていたのを思い出す。
終戦によって、日本の軍隊は解散し、私達家族も、翌年三月に郷里へ引き上げた。和歌が好きだった祖母が、発つ日に、車窓より広島の焼け跡を見て詠んだ歌[さまざまの恨みはあれどなつかしく名残惜しくもすぐる広嶋]は、その時の家族全員の気持ちを、よく表わしていたように思う。郷里へ引き上げてからは、中国憲兵隊司令部ゆかりの方々の消息は、ほとんど分からなくなってしまった。ただ一人、中原博志さんだけは、その後も母が文通を続けていた。中原さんは、終戦後、広島市の郵便局に勤務されており、後年、被爆者認定の証人をお願いするよう、母から頼まれて勤務先を訪れたことがあった。この時、中原さんは大変なつかしがられ、快く証人になっていただいたが、証人は二人必要だということで、認定されず、母を残念がらせた。その母も、昭和四十三年に病没し、以後、中原さんにもご無沙汰して、今日に至っている。
以上、原爆当時の父や米軍捕虜の様子について、記憶に残ることを順を追って述べてきた。しかし、これまで私が記憶していることを、裏付けてくれるような証言や資料に出会ったことはなかった。ところがこの度、冒頭に述べた朝日新聞の記事がきっかけになって、当時の事情に詳しい二人の方と知り合うことができた。
森重昭氏は米兵捕虜の慰霊碑(銘板)を作った方で、地方史の研究家として、はやくから米兵捕虜に関する調査に取り組んでこられた。これまでに、日米双方から膨大な資料や証言を集め、現在も活発な調査活動を続けておられる。
藤田明孝氏は当時陸軍憲兵准尉として、中国憲兵隊司令部に勤務されており、父のこともよくご存知である。原爆投下の日は、たまたま東京出張中であった。捕虜のことは担当ではなかったが、終戦後はほとんど唯一の生き残りとして、GHQ(連合国軍総司令部)の命令による捕虜の調査や遺骨の収集に当たってこられたそうである。今になって、広島時代の父ゆかりの方にお会い出来ようとは、夢にも思っていなかった。本当に感激である。
早速、このお二人から、私がこれまで全く知らなかった米軍捕虜に関するいろいろな情報を教えていただくことが出来た。お陰で、私が記憶していることの背後関係が随分明らかになった。そこで、次にその要点を述べることにしよう。
当時、中国憲兵隊司令部で取り調べを受け、氏名、所属などが明らかにされている捕虜は全部で十三名である。いずれも昭和二十年七月二十八日、呉軍港付近の海域にいた日本海軍の艦艇を攻撃した際、対空砲火によって撃墜された大型爆撃機コンソリデーテッドB-24リベレーター二機と、艦上爆撃機カーチスSB2Cヘルダイバー二機、計四機の搭乗者である。これら四機のうち山口県柳井市の山林へ墜落した大型爆撃機「ロンサムレディー号」には九名搭乗していたが、墜落死した一名を除く八名全員が捕虜になった。そのうち七名が中国憲兵隊司令部へ送られてきたが、機長のカートライト中尉だけは原爆の投下前に東京へ移送されている。父が指揮官級の捕虜と言っていたのはこの人のことであろう。なお、カートライト機長は今も米国のテキサス州に健在で、慰霊銘板には彼がよせた銘文が刻まれている。一方、五日市で撃墜された大型爆撃機「タロア号」には十一名搭乗していた。この爆撃機の墜落の様子は私達も目撃しているが、途中で空中分解して、錐もみ状態になって墜落炎上したので、大半の搭乗員は脱出できずに墜死している。それでも三~四個のパラシュウトが開いたように思ったが、捕虜になったのは、バウムガルトナーとモルナーという二人の搭乗員だけである。
つぎに艦上爆撃機二機のうち空母「U.S.S.タイコンデロガ」から発進した一機の操縦士の名前がポーターであった。アメリカ側の資料には「レイモンド・ポーター」と記載されているが、ほかにポーターという名前の捕虜はいないので、私が留置場でみた人と同一人物ではないかと考えられる。紙片に書かれた名前を読みちがえたか、間違って記憶していたのかも知れない。彼の同僚の話しによると、ポーターの乗機は江田島湾の津久茂沖に錨泊していた重巡「利根」を攻撃した際、被弾墜落したそうである。同乗者のブリセットとともに漂流中を捜索艇によって逮捕されたものである。
ここで、多少余談になるが、私はこの話しを森さんから聞かされたとき、やや意外な感じがした。彼の乗機カーチス・ヘルダイバーは二人乗りの急降下爆撃機で、艦載機としては非常に大型で強力である。第二次大戦の後半に出現して暴れ回り、日本海軍を壊滅させる立役者にもなった。このような爆撃機のパイロットといえば、命知らずの闘士のような男を連想したくなる。しかし、私のみたポーターはこのようなイメージとは大分違っていたからである。しかし、思い当たることが一つある。それは彼の目の動きである。私と目が合ったときはそうは思はなかったが、父や監視兵を見る目は確かに鋭かった。そして、なによりも目の動きが早いのには驚いた。どうしたらあんなに早く目玉が動かせるのかと不思議に思って見ていた。あれは急降下爆撃機パイロットの習性だったのか!五十三年後にようやく謎が解けた。
他方、空母「ワスプ」から発進した艦上爆撃機の搭乗者二名は、似島沖で暁部隊(陸軍船舶部隊)の捜索艇に逮捕されて、憲兵隊司令部に連行されてきた。GHQの資料によると、この二人の捕虜はその後カートライト機長とともに、東京へ移送されているそうである。東京へ送られた捕虜のことについては、父から聞いていたこととの間に、一部食い違ったところがあるが、理由は分からない。
ところで、最初に述べた大型爆撃機ロンサムレディー号の搭乗員達には、呉へ来襲する半年ほど前に撮ったという写真が残っている。その拡大写真を森さんに見せてもらって、五十三年振りに捕虜の首実検を依頼された。この中で、最も印象によく残っている顔は、前列左端のアトキンソン通信士で、留置場の二番目の独房にいた捕虜にほぼ間違いないと思う。なお、被爆後生存していて、相生橋上で惨殺されていたのは、この人ではないかと推測されているそうである。本当に不幸な捕虜で痛ましい限りである。その隣にいるエリソン機関士は、最初の独房で見た捕虜に顔立ちがよく似ているが、口髭、頭髪の色など見覚えのある特徴が、この人に当てはまるかどうか確認できていないので、確かなことは言えない。また、後列左端のライアン爆撃手とその隣のルーパー副操縦士は、捕虜になったとき負傷していたことが確認されている。とくにルーパー副操縦士は足首に銃弾をうけて重傷を負っており、すぐ手当がなされたそうである。三番目の独房で見た、負傷した捕虜はこの人であった公算がつよいと思う。なお、憲兵隊司令部にいた五人の捕虜のうち、二人負傷者がいたことは、監視兵の言葉からも裏付けられるが、私が見たところでは負傷者は一人であったから、もしかすると、私が確認できなかった最後の五番目の独房にいたのが、ライアン爆撃手であったのかも知れない。
原爆投下時に広島にいたことが確実な捕虜の人数は、事前に東京へ送られた三名を除いた十名ということになる。仮に上に示した推定がすべて当たっているとすると、残りの五名すなわちロンサムレディー号のロングとニールという二人の搭乗員、タロア号の二人ならびに艦上爆撃機の同乗者ブリセット射手が、憲兵隊司令部とは西練兵場をはさんで、反対側に位置する西部二部隊などの留置場にいて、被爆したものと推定される。この人達の最後の様子については不明であったが、ごく最近、森さんがアメリカから入手された資料によると、ニールとブリセットの二人の射手は被爆後も生存していて、再逮捕された。そうして、八月八日に八幡市の製鉄施設を攻撃した際、遭難したB-29大型爆撃機「ニップ・クリッパー号」の乗組員とともに、収容されて終戦を迎えたが、八月十九日に二人とも相次いで亡くなったということである。
ロンサムレディー号の乗組員(この写真は森重昭氏の好意による。慰霊銘板にも刻まれている。)
後列左より
ツェームズ・ライアン 爆撃手(原爆死)
ダーディン・ルーパー副操縦士(原爆死)
トム・カートライト 機長 (生存)
ロイ・ペーデルセン (墜落死)
前列左より
ヒュー・ヘンリー・アトキンソン通信士 (原爆死)
バッフオード・エリソン機関士 (原爆死)
ウイリアム・エイブル (生存)
ジョン・ロング (原爆死)
ベーカー (病気のため搭乗せず、代わりに乗ったニールが原爆死)
おわりに
終戦当初は、米軍捕虜のことを口にするのが、はばかられたが、時を経て時代も大きく変わったので、私が見聞したことを何らかの形で記録に残しておきたいと、かねてから考えていた。この度、先に述べた様な次第で、当初考えていたよりもはるかに満足すべきかたちで、実現出来たことを嬉しく思っている。種々お世話になった森・藤田両氏、ならびに、きっかけをつくってもらった朝日新聞社の福家記者に厚く御礼申し上げる。
往時を回想して改めて思うことは、戦争の非情さ、悲惨さである。戦争がもたらすさまざまな悲劇は、敗者のみならず、勝者も負わなければならない宿命である。自国の原爆の犠牲になった捕虜たちは、誰よりも雄弁に、このことを語っているように思われる。ご冥福を祈りたい。また戦争がもたらす悲劇のなかには、さまざまな理由によって、実態が十分明らかにされないまま、時とともに風化するものも少なくないであろう。瞬時の無差別・大量殺りくが行われる原爆の場合、とくにこの傾向がつよいと考えられる。中国憲兵隊司令部には、当時、軍人・軍属・捕虜なども含めると百人近い人がいたと思うが、被爆直後には生存していたわずかな人達も、数日を経ずして亡くなり、全滅した。被爆の瞬間はどんな様子だったのだろうか!語る人はいない。悲劇の実態をできるだけ明らかにし、風化させることなく、正しく後世に伝える努力は、残された者の責務と言えるだろう。
なお、本文中で述べた隣人の高橋氏は被爆後十日ほどして、いわゆる原爆症が悪化し、新婚間もない奥さんに無念の気持ちを訴えつつ悲惨な最後を遂げられたと聞く。また終戦直後にお会いした司令官は長浜彰と言う方であったことを藤田さんから教しえられた。温情溢れる尊敬すべき武将であったと聞くだけに、非業の死が痛まれる。このような戦争の悲劇も忘れてはなるまい。ともにご冥福をお祈りする。
終
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