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私が原爆に思うこと 
梅宮 玉枝(うめみや たまえ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 私と結婚する時、自分の親に「広島の人と結婚する。」と報告した夫。
「ピカドンは?」
と尋ねられた際に「三次の山奥だから関係ありません。」と答え
「それなら良かった。」と言われ結婚生活がスタートした。
流産、胞状奇胎、死産、四回目の妊娠でやっと長男を授かり、4年後次男も授かり楽しい生活を送った。
 
ただ長男はなんども助からないのではと思うほど病弱で心配した。
母がもしかして「原爆が原因かもしれない。」
と昭和53年に初めて話してくれた。
 
考えてもいなかったことなので戸惑ったが、長男が
「僕学校でいじめられても平気だよ、悪いことはなにもしていないんだから。」
と笑顔で私に語りかけた後は、しっかり認識して伝えていこうと思った。
 
それから被爆者手帳の申請を行い隠すことなく生活を送った。
病院の治療費を負担してもらえるので病院でなんども他の人に生活保護なのか?と尋ねられたが。
他人事だと思っていた私も真剣に学び後世に伝えようと学習会や、平和行進に参加し、八月六日の式典には毎年参加するようにした。
 
両親ともに被ばく者であり私自身も病気勝ちの毎日を送っているが、なんとか動けるので少しでも平和活動に参加しようと思っている。
 
おじは原爆投下時、腹が裂け腸が飛び出したが前掛けに腸をいれてそのまま病院に行き、腹に入れてもらいなんとか生還し、
「俺はよく生きている。」と話していた。
爆風により体内に入ったガラスが取り出せないまま生活し、痛みが続くときは病院に行き、そのたびにガラスを摘出した。
 
もう一人のおじも長崎で予科練の訓練中に被ばくし、足にやけどを負った。
 
子供のころ広島から病気に罹患したといっているおばさんが隣家の離れに住んでいて
毎日手の消毒をして包帯をしていた。
遊びに行くと
「きちゃいけん、悪い病気になってうつるけえ、あっちへいきんさい。」
といって寄せ付けなかった。
 
このおばさんはその後悲観して池に入水自殺をし、近所の人が戸板に乗せて連れて帰ったのをうっすら覚えている。
今思えば、被ばくの犠牲者に対し、子供とはいえ思いやりがなかったと反省している。
 
戦争がどんなに恐ろしく悲惨なものなのか、二度と繰り返さないと
原爆投下の犠牲の上に全世界が誓ったのではないのか。
ロシアのウクライナ侵略、ガザ地区の無差別殺戮、など
核兵器の使用につながりかねない状態。
 
家族から引き離され一人ぼっちになった子供達、失われる命、重い障害が残る負傷した人々。
生きている間続く悲しみの声。
戦争指導者は何を考えているのか。
 
人類の明るい未来を確実なものにしなくてはいけない。
戦争はいけないと最後の一人になろうとも反対し続ける。
そのために命を失うことになろうとも、戦争で悲しみ、苦しむ人々を作るよりもずっとよい。
 
原爆で亡くなった方々
そして今なお原爆の後遺症で苦しみながらも核兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さを語り継ごうとされる方々の想いを引きついでいくのが
私たち生き残った被爆者の務めと思っている。
 
                                                    梅宮玉枝
 
  

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