当時私は文理大の科学研究補助員でした。
その日、私の学部は教授以下、瀬戸内海の島の調査に出張して私は留守番の筈でした。朝涼しいうちに家を出る筈が7時過ぎ頃、敵の飛行機が何時もの如く上空から写真を取る為に飛来したので防空壕に入りました。
警報解除になって朝食を済ませ、出掛け様としたら、8時ともなれば真夏の太陽がギラギラ。まあ今日は留守番だからサボルかとズルをきめて二階に上りピアノを弾き始めたら間もなく一瞬白いセン光が光ってドンと大きな爆発音、壁土がピアノの上に吹きつけられ、次に気がついたら廊下に吹き飛ばされガラスの破片の中に血ダラケでしゃがんでゐた。その時の破片が今も私の腕の中には数個あります。
空爆とは思はなかった。一発だけだから近所の工場で爆発事故があったと思ひ、どちらの方向かと二階の窓から見下ろすと全部つぶれて、どちらから来たともわからない。
私の家は天井の高い洋風の二階建てですが壁土とガラスの被害だけで倒壊は免れた。類焼さへなければ大丈夫だと思った。
真赤と焼けただれた近所の子供や親が庭にやって来たから、私はテレピン油を塗って上げた。最近嫁いで来たばかりの父の後妻と女中が一人ずつ幼児(弟、妹、)を背中に負ぶって逃げた。私に「一緒に逃げてくれぬと、父に申し訳ない」と嘆願した。私は残って必要な物を持出しておいて逃げると言ったら、タオルを庭のポンプの水でぬらして、煙に巻かれぬ様、鼻にこのタオルを当てる様にと、京都、大阪で空襲の経験を持ってる彼女の心遣ひでした。
最後までお国を守る義務があり、その為に死んでも本望だと思ふ愛国心に育て上げられた18才でした。教育の力とはおそろしいものです。自分個人の人生なんて全然考へてない。お国の為、天皇陛下の為1本でした。
こゝ迄破壊されゝば山の中迄後退する様だろうと思って寝具、食糧、鍋釜、傘、履物、蚊帳、ゴザ等々庭の芝生の上に投げ出しました。カケブトン一枚、火の粉防ぐ時役立つかと自転車の後にくゝりつけて家をあとにした。途中倒壊した家の下から助けてくれと叫ぶので、それを掘出しては自転車に乗せ大田川の堤迄運んで上げ一日中人助けばかり自転車は大いに助かった。老人ばかりでした。手を合せ私を拝んで「貴女は仏様だ。この世で恩返しは出来ないが自分があの世へ行ったら一生貴女を守ります」と言った。70才迄生きて見て私の人生にこの言葉に思ひ当る事が、チョクチョクありました。皆で守ってくれてると思ふと感謝です。
そのうち黒い雨が降り出して倒れてない農家の軒先へ雨宿りしては人助けに出かけました。
周囲が焼け落る迄、終日人助けにかけつつ夕方ともなれば全面灰と燃え残りのくすぶり。飲まず喰わずに気づいて自分の家の焼ける火の上に飯盆を置いてゴハンを炊く。
昼間、竹ヤブの所で会社の人が奥さんと女中さんは子供を負って古市の分家へ朝のうち出掛けたと聞いて安心。日が暮れて分家の伯父が会社の人とタンカを持って様子を見に来た。伯母が防空壕の中で死にかけてると家主が報告に来たと言ったらすぐ連れに行って来た。私は他所から飛んで来た戸板を温室の中に敷いて芝生に投げたフトンを敷いて、ガラスは散ってもワクはあるからトタンを拾って屋根にした。伯父が出かけて行って、足をやられて歩けない医者を負んぶして帰って来た。燃える家のオキ火の上にコッフェルで消毒用の湯を沸かしローソクとトーチの火で手術してもらった。
私は一人焼跡に残り伯母の看病に当った。出張中の父が、「誰かおるか」と叫びながら帰って来た。目標物は全部焼けてるが、うちは庭が広く植木が多いからすぐわかった。
満天の星の下、子供や親の名を叫びながら54号線を行き交ふ人の叫びと、人体の焼ける臭を夜風が運んで来た。敵機が何度も様子を見に来た。その度伯母は私に防空壕へ入ってくれと気遣った。
翌日から父の関係の人々が見舞いに来て情報をくれた。大学の先生が来てピカドンは原子爆弾だと言った。翌日すぐそれを言ったのはさすが科学者だと思った。
岩国から来た父の見舞い客がソ連参戦の事を知らせてくれた。もうダメだと思った。皆のすゝめに従って、私も田舎の家に引上げる気になった。
伯母は古市の伯父が引取った。
大学を見様と横川迄行ったが死体をまたいで通り、電車から(横川)死体をピッケルで引おろしてゐるの見て気分が悪くなり後帰りした。それでも蚊やハエ、アリはゐた。
うちは身内に医者が多いので伯父は医薬品を一杯集めて、会社の人達逃げて来た人達の看病した。
秋風が吹く頃には殆ど死んだ。
毎晩伯父は近所の畑で死体を焼くのが仕事だった。
分家の伯母は偉いと思ふ。逃げて来た身内、会社の人、知人の全部の衣食住を世話し自分個人の損得は考へるヒマもなかったでせう。あげくに恩返しどころか皆死んで行った。その時伯母は33才、4人の子持ちでした。良くやったと思ふ。今の33才の女にそれだけの事が出来るでせうか?伯母は4人の子供が立派になって幸せです。
神様は私が人助けに専念出来る様に、私自身は身内を探し廻ったりする必要がない様にその日は父を出張に出し、私はその時間相生橋のへんにゐるはずが、なまけて行かなかったし守ってくださったと思ふ。
人生ギリギリの線に来た時、受けて来た教育の本性が現れる。家庭内でさへ自己中心で自分の都合のみ主張する現在。聖書の文句に“汝何を着何を喰らわんと思い患ふな。汝の必要なもののすべてを神は知り給ふ。野の鳥を見よ播かず刈らざるなり。されど神はこれらを養ひ給ふ”
今の時代とんでもない。世界中莫大な人数の難民が一粒の種子も播かず子供ばかり産んで他国に援助を求めてる。子供の教育もしつけもしないし、戦争する事ばかり見様見まねで育った人間が月日と共に育ち増えて、その人達の世代になったら世界はどうなる?それらが皆貴重な一票を投じて数で勝負されたら民主主義も何もないでせう。無知程こわいものはない。教育は大切です。
核兵器の開発に莫大な金を使い、国民に必要な事は資金援助を世界に訴へるなんて、その金があれば国民は教育を受け便利な生活や食料に困らなくても良い筈。
破壊より生産を。まず一粒の種子でもテントの廻りに播いたら?
先ず汝の隣人を愛せよ。愛と奉仕。報いを望まず人に与へよ。私はキリスト教信者ではないけど……。感謝する事と奉仕の精心を教へてくれた学校教育に感謝します。
戦後の教育の結果か親や隣人を除て、自分だけの逃避にオウムに入った人々。先ず手近な隣人から愛と奉仕を実行する教育が欲しい。
核兵器の開発に金をかける国への援助?その金は、あるからやるんでしょ。一粒の種子もまかず刈らず全部援助にたよって、子供を増やしつゞける。
だんだん数の少くなって行く先進国の人口が播かず刈らずの人々を何時迄養へる?
荒れた土地でもたとえ他国の土地であれ一粒でも育てる努力をすれば、その人のあとに来た人が引請けて又、そこで藉して流浪してゐても木を切って燃すだけが能ではない。荒れた土地も根気よく努力すればあれだけの人口の労力がある。一時的にしかゐないんだから土地を肥やしても人の土地だなんて考へないで、何時の日か誰か助かる日があるかもと、今日現在難民でゐる土地への感謝がない。昨日今日居らしてもらってるじゃないか?
日原治子
※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
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