昭和二十年八月六日の朝、起床時間が来た時、前夜の夕食にあたって気分がすぐれず全然ねむれない夜を過ごした私は、ミサ中祈り台にしがみつくようにして、ただ早く終わりベットに身を横たえたいと願っていた。朝食をいただく力もなく自室に入り休む許可を願ったが、こんなにすがすがしい気持ちのいい朝だからお庭で黙想を済ませてから休むように言われ、何度願っても許可は与えられなかった。コップの水をのみながら、ああ私は従順の誓願をたてている身、今それを実行する事を求められているのだと思い、やっと腰かける事の出来る程小さなスツールを持って、いつもは二つの建物をつないでいる二階の渡り廊下の下の影で黙想するのに、その日にかぎり、池のそばに一本ぽつんと立っている細々とした杉が池上になげているやっと私の体が入るだけの木影にスツールをおき、祈ろうと努めていた。三人の子供達が小百合託児所(保育園)に入って行くのを目のはしにとらえながら先生が一人おられるからまだ大丈夫と思いながら、聖書をひざから落とさないようしっかりおさえている時に、急に目の前にキラッと光るものに注意を引かれた。あの角にある電柱がスパークしたかなと思うと同時に、この世のものと思われない美しい光線はぐんぐんと広がり視野いっぱい光りかがやく虹のようになった。ただ事ではない、一刻も早くあの三人の子供達のそばに行かなければと二、三歩走ったが、全身に火がついたように熱く呼息も苦しく一歩も歩けない変な状態になり、てっきり丸焼けになると思った時、こんな時は地面にうつ伏せになるのが一番いいと、妹の手紙の中にあったのを思い出した。かろうじて地面に身を伏せた時、今から死ぬんだと信じ込み、信じられない程心は澄み切り神の御前に自分の一生の奉献、修道生活の三誓願を思い、罪のゆるしを請う祈りを静かにとなえ、目を開いた。地面が見えるので、おや未だ死んでいないがもう死ぬんだと又祈りをくりかえし、目を再びひらいた時、未だ地面があるのでこんな事をしていては子供達を救えないと立ち上がった。さっき見た美しい光は全然なくどんよりとした灰色につつまれ、修道院の建物はやや傾き、屋根はどこかにとんで行ってしまったように憶えている。板べいは全部なくなり路上にははだか又は全身にぼろぬのをまとったような姿の人々が北に向かって走っているのを見て、こんなに朝早くからお風呂をあびていたのか知ら、どうしてあんなにぼろ切れをぶらさげているのかしらと一瞬みとれた。爆風のため衣服がぬげ又は焼き切れて皮ふがぶ厚くむけて腕、背中等からぶらさがっていたのだと言う事を知ったが、その瞬間は何がおこったか全然わからず考える事も出来ずただひた走りに託児所に入った。そこでは窓ガラスが全部割れて五才と三才の姉妹の姉の方がガラスの中に全身うもれ、ただ髪の毛が少し出ているだけなのを見つけた。素手でかきわけ立たせ、頭に小さな傷があり血が細い糸のようにながれていたので手あてをしようとしている時に母親がかけつけて来て二人の子供を両手に引いて走り去った。もう一人の男の子は自分で素早くにげて自宅へと向かっていた。
非常の時の割り当て持出し物の事を思い出し二階に行こうとしたが、階段はすっかり破壊物でうまり、手でつかまえる事の出来るものに自分を託して三歩はい上がると二歩ずり落ちる中をとうとう二階までこぎつけ、ドアが開いているのをひじでやぶり重要書類の箱を持ちだす事に成功した。その時自室に行った時、あっと声も出ない程にそこに釘づけになったのはベットの上にちょうど私の背たけと同じぐらいの梁が天じょうから落ちていた。若し私が望んでいたように、気分が悪いからと行ってベッドの上にねていたらおせんべいのようにペッちゃんこになっていたであろうと思い、その時走馬燈のように朝からの出来事が目の前にくるくる回った。従順の誓願に忠実に従い庭に出たがいつもとちがう所にいたので爆風にとばされなかった。素手でガラスの破片をかきわけて子供を救い出したのに手にかすり傷一つしていない、あんなに光るものをじっとみつめていたのに目がいたまない。重要書類を取り出すための小さな鍵は他のものがみんな本、電気スタンド等机の上から吹きとばされてなくなっていたのに小さくて軽い鍵はちゃんと机の真中にあった。神様のお守りがあったからこそあんなに心静かにイエス様私の生涯云々と祈りなから死を迎えようとできた、自分の力以外のものが私を救って下さったのだ。イエスさまありがとう今から何をすべきかを教え導いて下さいと、敏速に動きながらも心から祈っていた。この間光をみてから約十分間ぐらいであらう。
市の中心部は黒煙りをあげてもえているし、赤い焔はめらめらとはうように近づいて来る。もう三方ふさがり。家の中から引きずり出した少々のものは防空ごうをつくるために堀ってあった穴にほうり込み、土をかぶせようとした時、ちょうどごミサのために来ていらした長束のイエスズ会のコップ師は目の所に傷をして血をたらたら流しながら、私達に太田川の方ににげるように命令され、従わなければ手にしていらしたシャベルでぶたれそうになったので、そばにかさねてあった大小の空なべをシスター一人ずつが一個ずつ持ち太田川岸辺に行った。そこにはすでに何十人と云う、やけど、大小の傷で身体をうごかす事の出来ない人々が草原の上にならべてねかされていた。苦しいうめき声がただよっていた。私達が空なべをさげているのを見たその人達は、川から水をくんで来てのませろと叫んだ。次々に水、水、水と云う声がおこり、川の水はもう汚染されていると云ってもどうしてもくんで来てのませろと云うので、請われるままに川と苦しみにうめいている人々の間を往復して口に水をふくませたり体にかけてあげたりしている時に、一人の兵隊がヨードチンキのびんを二個持っているのに気がつき一個お願いして手に入れ、つけるものがないのでハンケチを出して小さな傷等につけて行った。ただの気休めと知りながらもこれしか出来ないので歩いていた時「この目につけてくれ――」と云う声がしたので行ってみたら、片方の眼球がガラスの破片か何かでえぐり出されてブランとほほの上にぶらさがっていた。それにヨードチンキをつけろと云うので、しみていたいよと何度も念をおしてもつけてくれと云うばかり、おそるおそるヨードをつけても平気でいるのでよくみると神経が切られてしまっているのでいたみも何も感じなくなっているようだった。自分でもそれに気がついたらしくあぜんとした顔になり静かになったので、他にもつけて上げるので行くわねと云ったらうんと一言ひくい声で返事をしたその人の心中を感じとれて、私としてはいたたまれない気持ちになった。ひたいがパンとわれている人、全く声も出ない程やけどと傷に全身おおわれている人々の中を、水とだんだん残り少なくなったヨードをもってつけて上げている中に川岸に出た。後から追いかけて来る火の手がせまった時いつでも川の中に入れるように岸の石ころの上に腰をおろした。広島市はもうもうと燃えている。時々爆発物の音が耳と心をいためる。変な黒いぶつぶつした雨が降った。川の中で気の狂った人であろう、かな切り声をあげて浅瀬を歩き廻っている。死体がういている。しかし目の前の太田川の水はいつものようにゆるやかに海に向かって音もなく流れている。それだけを見ていたら、現に広島でおこっている史上最初の大きな悲劇が、そして其の日から何十年もつづく悲劇がどんどん進行しているとはとても考えられない。
やっとコップ師も私達に追いついて来られ、ここにいても何も出来ないただ危険に身をさらすのみだし、幸い長束の方は未だ火の手がないようだから早く長束に行こうと提案して下さり、二組に別れて行く事にした。私はシスターピェールクラペールと共に古市の病院に入院中の院長に報告と様子を早く知らせるために道をいそいだ。途中未だしゅうしゅうと熱気をあげているがれきの上を歩いている時に、助けて――と云うか弱い声を耳にして、声の方をたどって行くと、一人の老婆が上半身煉瓦、かわらの破片の中にうもれていてかろうじて頭の一部が見えたので少しづつ積みかさなっているものを取りのぞいた。ところが声も出なかったのは、うづもれていた上半身は未だ生命を保っていたが下半身はみつからない。直射光線にあたったのであろう。すっかりとけていて何もない。一緒につれて行ってと細々とした声で頼まれたが若し引き出したら直ちに生命の糸は切れる事は明らかなので、「おばあちゃん、もう少し、しんぼうしてね、すぐに楽になるから」と顔、頭等なでられる部分を出来るだけやさしくなでて心がいたむまま通りすぎねばならないつらさは今もその場面をはっきりと目の前に見ているような気がする。助けるてだてのないと云う事の心痛をもって又一歩一歩と先をいそいだ。幸いに知っている園児の母親達や子供達にも出会い、どこどこで待っているからいそぎなさい等知っている事を出来るだけ伝えて早くちりじりになった一家が一つになるよう祈ったりして目的地へと進んで行った。
まだ火の手が廻ってない樹木のしげった中の一軒家が一つポンプ付の井戸を持っていてやさしそうな奥さんが「この水のめます」と書いた紙をはりつけて大きなどんぶりを手にして井戸の水をくんで下さった。今まですっかり忘れていた、自分ののどのかわきがどっと出て来て、たてつづけに五杯も飲んで次の方が待っているからと云う思いで大どんぶりを渡した時、もういっぱいのんでおけばよかったと思った。その次の一週間はのめる水があればどんどんのんでいたが、汗かきの私は全く汗をかかないのに少々おどろいていたがそれだけ体内がもえていたのであろうし、沢山のんだ水のおかげで助かったのかも知れないと思う。
どちらを見てもこれこそ地獄と思わせる恐ろしい風景であり、一体、何がおこったのかわからなかった。大芝の川べりで出会ったフランス語を流暢に話す陸軍士官が、大火傷をしているにもかかわらずもの静かに「わかりませんが数多くの飛行機が私達にわからないようにやって来て一度に数知れない爆弾をおとしたのではないでしょうか」と云われた言葉が唯一の説明だった。原子爆弾と云うものを世界で始めて広島がお見舞をいただいたと云う事を知ったのはずっと後で、電話、ラジオ、新聞等の報道機関は全部しゃ断された状態の中にあったので何も耳にする事が出来なかった。
当日より長束のイエスズ会に避難して来た多くの人々の看護にあたり、あっと云う間に手許にあった薬は使い果し、ホーサン水をガーゼにしめして火傷等の傷口にシップするしかなかったがそれが効を奏していた。最後の人々のシップをおわると最初にした人々のがかわいている。いそいでうみでどろどろのガーゼを下の小川で洗い日光消毒と云って木にかけるとたちまちかわいたガーゼを又同じ作業のくりかえしに持って行った。
八月七日も前日のように目のしみるような青空の下に光線をあびなかった草木は青々としていた。赤黒いほのおを天にのぼらせてもえている広島市と、苦痛にあえいでいる人に目を転じる時、こんなに美しい自然と少なくとも健全な身体を与えられていた人々が、一瞬にして、人間が発明した破壊の下でこわされ苦しんでいるのはどう云う事なのだろうとぼうぜんとこわれた窓から眺めていたが、思考力も判断力もかすんでいるみたいで、ただ最善をご存じの神の御手にゆだね今出来る事をして行こうと云う思いしか浮かばない。幸に実行力を与えていて下さったので、苦しんでいる方々に自分の出来る小さな行いで奉仕して行こうと思い四六時中いそがしかった。火傷で口がほとんど開かず、それでも水、水、ごはんごはんとうったえる子供に、一滴づつの水一粒づつのごはんを食べさせたり、精神的にすっかりおしつぶされている人々のくりごとをしんぼう強くきいてあげたりする力を祈りに支えられながら時が過ぎて行った。終戦を迎え、もう戦争のおそろしさは済んだと云う安心感と共に負けたと思うと涙が流れたが、苦しんでいる人々にはまだまだ援助が必要だった。八月も終る頃、家族の人々がたずねて来て、再会のよろこびを味わっている姿、又まだみつからないと不安そうに帰って行く後姿を見送ったりしている中に、私達の仕事もほとんどかたづいて来た。焼野原に堀立小屋を立てて住んでいる方々を訪問して治療をつづけたりして初冬を迎えた頃、がれきの上を歩いていたら前方から一人の老人がにこにこして近づいて来た。戦時中は外人と住んでいるからと云っていつもいじわるをしていた人だったので、ちょつとびっくりしていると、「おや、生きていられましたか、よかったですね。」がその当時の挨拶であったのを両方が同時に口に出したとたんに、老人は私の肩をやさしくたたきながら「やっぱりあんた方の神さんは本当の神さんだ。修道院だけが全員無事でとなり近所の家からは怪我人、死人が必ず出ているのにあんた方の所は大丈夫だった。本当の神さんが守っていたからだろう。」と考え深そうに云って又、がれきの中を去って行った。後日教えを請いに来て、ついに洗礼までうけ立派な信者として残りの数年間を自分が信じたものを他の人につたえる事を一つの使命と思ってやっており、立派な生活ぶりであった。
アメリカに住んでいるヒバクシャ(この言葉はある地方ではアメリカ語になっている。たとえばFriend of Hibakushaと云う一団の人々はアメリカ人の医者ソーシャルワーカー等の方々が入っている)としての私の全く個人的な話としてよんでいただきたい。アメリカには約千人程の広島、長崎のヒバクシャがいるらしいのにやっとこの数年来、長い努力の結果四、五百名の方々がヒバクシャだと名のり出て来てほっとしている。
アメリカで病気をしたら全財産を失うと云われる程医療費が高いのでどうしても保険に入っていないと大変な事になるが、原爆にあいました、広島、長崎に当日いましたと云ったら保険会社がうけつけてくれないそうでかくしている。又たとえ保険に入っていてもあまりに保険会社の負担が年々に大きくなるので断って来ると云う例もあるので、おそれて口をとざしている人々がまだ多くいる現状だし、現に私はその苦しみにあえいでいる人々を知っている。約二十年前から在米ヒバクシャにたいして日本でうけられるような恩典をいただきたいと米政府に毎年、あの手この手で嘆願書を出しているがいつもにぎりつぶされている。
日本政府は外国にいるヒバクシャに手を出す事が出来ないでいる。理由は沢山あるであろうが私の云うべき事ではない。
でも、努力をかさねた結果、十三年程前から二年毎に広島の医師団が西海岸(ロスアンゼルス、サンフランシスコ、シャトルとハワイ)に検診のために渡米して下さり、大変親切に接して下さるのは本当に心があたたまりなぐさめになるが、治療はしていただけない。日本まで行かねばならないと云う状態である。広島、長崎の両市から毎年招待により治療をうけに行く事が出来るようになったが、費用等の関係上ほんの少しの人数にかぎられる。とりのこされた人々と云う感じはまぬかれない。まだ身体的精神的に本当に苦しんでいる方々がアメリカに沢山いる。あの日のショックがまだ身に心に痛々しいまでに印をおしたように残っていて毎日うづいている。
又もう一つ、賛成して下さる方とそれはまちがいだと云われる方があるが、私個人の考えを一応ここに記してみたい。一瞬にして灰に帰した、広島のがれきにうづもれ死者の間や時にはかさなり合っている多くの死者の上をごめんなさいと云いながら他に方法がないのでまたいだり、歩いたりして、ただひたすら一人でも多くの人の生命を活かすための戦争とはちがうたたかいをしながら、何一つはっきりしない、とぎれとぎれの報道を耳にしつつ思ったのは、あの原爆がなかったら日本は本当に戦争をやめなかったかも知れない、別な言葉で云うなら原爆が日本におとされ、それに対抗するものがないためにやっと「終り」が来た。神の摂理の一つのあらわれではないのかと思った。それには多くの人々の犠牲があって始めて戦争を終わると云う結果になったのではないかと云う事でもある。
現在、物があふれて何んでもいつでも手に入る平和な世の中は、原爆により亡くなられた、又今もつづいて苦しんでいる方々の尊い犠牲の上に築かれたものであると考えているし、神がおゆるしになった大きな試練で、人間は強力な破壊物を発明したが神の無限の御力と人類にたいする愛、救いまでは破壊出来ず、かえって神に向かう心を養って下さっていると確信している。
出典 カトリック正義と平和広島協議会編 『戦争は人間のしわざです』 カトリック正義と平和広島協議会 1991年 223~230頁
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