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信仰と知恵と健康と 
長谷川 儀(はせがわ ただし) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 中学校2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私がアルペ神父様について何かを語ろうとすれば、そこには決して避けることのできない原爆の体験から始めなければならない。昭和20(1945)8月6日、当時私は中学校の二年生であった。私は学校警備隊の一員として、爆心地より北へ二キロメートルの地点にいた。朝八時前、米軍機による空襲警報があったため、私たちは中学校に集合した。しかし敵機は広島の上空から素早く逃げ去ったと見えてすぐに解除となった。通常私たちが中学校へ集合する定刻の8時30分には、少し間があったので、15~16名の仲間と共に、満潮になっていた太田川で泳いだりしていた。その時、誰とはなしに「オイ!B29の爆音が聞こえる」と叫んだ。耳を澄ましてみると確かにそうだった。

小学校時代、唱歌(音楽)の時間になると、アメリカの色々な飛行機の爆音を聞き分ける訓練をさせられていた。だから私たちの多くは鋭い感覚と、確かな耳を持っていた。

訓練の賜物で警戒警報のサイレンが鳴り渡る前に、いち早くB29の飛来を知った。そのうち天空高い一点に「キラリ」と光る物体を見つけた。見逃すまいと目を凝らして光る物体を追った。一万メートル前後の上空を飛んでいたであろうか、それ程早く進まないが、時にはかすんだりして見失ってしまう。何分位が過ぎたであろうか。そうこうしているうちに、再び誰かが叫んだ。「オイ!赤いものが落ちてくるぞ!」私たちは一斉にその赤い物体へ目を移した。成る程赤い落下傘に何か「もの」がぶら下がっているらしい。こちらの物体は、グングンと勢いをつけて、私たちの頭上に向かって迫って来る。

私たちは、その赤い物体について二~三の会話を交わしただろうか。突然、目の前が暗くなった。「オヤッ!」と思って(瞬間的に或は本能的に身の危険を感じた)川土手にうつ臥すのと、真黄色の熱線が私の体を焼き付けたのが同時だった。瞬間的に「爆弾の直撃を受けた!」と思った。熱さと痛さの入り交じった感覚が全身を駆けめぐった。紛れもなく、その一瞬で私の体の後半分を完全に焼き焦がされたのだった。その時、広島の上空で炸裂した一発の爆弾が、世界で初めて人類の頭上に落とされた「原子爆弾」であったとは、誰一人知る由もなかった。現に新型爆弾という言葉が使われたことを見ても解る。目の前に迫ってきた物体が、突然目の前で炸裂したのだから、目を凝らして見ていた仲間の何人かは、顔の正面からまともに火傷を負った。それだけに、全く形相が変わり果て、どれが誰だか判別が出来ない程になってしまった。



(2キロメートルの地点は、4,000度だったようだ)4,000度の熱で焼かれたのだからひとたまりもない。後で知ったことだが当時一緒にいた仲間で、現在もなお生き残っていたのは、四~五名で、その他の者たちは二週間から一か月の間に犠牲者となってしまったようだ。「着の身着のまま、命からがらやっとの思いで逃げてきた。」という表現はあるけどこの時の私たちは焼き爛れてボロボロになった自分の皮膚をまとって、被爆した場所からかろうじて川の中へ移動したに過ぎなかった。命からがらどころか、自分が本当に生きているのか、動いているのか、一瞬にしてすべてを奪われ火傷や負傷をした私たちにとっては、渇き・苦しみ・痛み・悪寒・嘔吐等々であった。

そして誰の目から見ても、死が大手を広げて待っていると言った状態であった。そんな渦中にありながらも、私はまだ幸運中の幸運を掴んでいた。いち早く両親(父は不思議と無傷のまま、母は右側半身を火傷していた。)と出会うことができたし、火傷に油を塗るだけだったが、両親の介護を受けることができたからである。家を焼失してしまった私たちは、行くところもなく仕方なく川の傍の公園で三日三晩野宿を余儀なくさせられた。此処での三日間も本当に色々な悲劇の場面に遭遇した。当時緊急連絡所及び緊急避難所として指定されていた中学枚の先生宅が長束村にあった。そこにやっとの思いで辿り着いたけど、広いはずの家屋は負傷者でごった返していた。一晩だけだったのか二晩も過ごしたのか定かでないが、僅かの間に次から次へと死んでいった。父は気持ち悪がって「早く此処から出よう」と言って次の避難所を探した。やっとの思いで下の姉の友人の家に置いて頂ける事となり、更に郊外へと移る事になった。この道中とて目を覆いたくなるような生々しい悲惨な姿があちこちに見られたのであった。



曲がりなりにでも、一応安住の場所を見つけはしたものの、日増しに悪化して行く私の容態に両親や姉たちは焦りの色を見せ始めた。そして他人から聞く色々な治療の方法で試してくれた。溺れる者は藁をも掴む心境であったようだ。しかし結果的には思わしい反応が起こらなかった。そのうち私の身体は見る見る衰弱の一路をたどる。生きている人間の焼け爛れた体が腐っていく様は耐えられない程の悪臭を放ち、ウジ虫は好餌食とばかりにまぶりついていた。

このままでは死んでしまうと判断した父は、祇園町内にあるお医者というお医者を気違いのようになって一軒一軒訪ねて助けを求めた。しかし、どこの医者の前にも沢山の被爆者(負傷者)たちが順番待ちのため、道端にまでたむろししゃがみこんでいたそうだ。「薬は何一つない、包帯の一本もない、それなのにこんなに火傷した者がいては、いくら死にそうな子が居ると言われても、出かける事はできません。」と断られた父は、すごすごと沼田さんの家(現在の長束駅と下祇園駅の中間に、当時山本駅があった。その駅の真正面の家)へ引き返して来た。そして庭の片隅にあった井戸の傍に立って途方に暮れていた父は、なす術もなく涙を流していたらしい。その姿を見られた沼田の奥さんが「あの山の上に親切な外人さんが沢山おられるから、あそこへ行って見なさい。戦争のさ中なのに大水で私たちが因っていた時、山から下りて来て、色々と助けて下さったんですよ。日本語も上手に話されるからきっと大丈夫ですよ。」と教えて下さった。

「外国人」という言葉を聞いて、父は一瞬緊張したようだった。まだ戦争は終わっていない。外国人を見れば兎角敵国人とかスパイのように見ていた当時の事。沼田さんから親切に教えて頂いても、素直においそれとすぐには行動に移せなかったようだ。

その時、「早く」と促されて父と上の姉は、それこそなりふりかまわず一目散に教えられた長束の修練院へと急いだ。その時の父と姉はどんな気持ちだったろうか。その上、未だかつて見知らぬ修練院の玄関先に立って助けを求めた父の声は?言葉は?どんなに響いた事だろう。最初に姿を見せられたのは日本人だったとか。姿を見るなりヤレヤレと思った途端、緊張感がなくなりホッとしたものの「こちらは沢山の負傷者を収容していて、治療やお世話をする者の手が足りない程だし、薬一つあるわけでもなし等々。」丁度町医者を訪ね歩いた時に聞かされた同じ説明を此処でも聞かされて「成程」と思い、こんな非常事態が起こっている時に、他人様に助けを求める事自体が所詮無理な願いだったのかと、肩を落して修練院の坂道を二人で下り始めた。父と姉の足は鉛の靴でも履かされたように、きっと重かった筈である。暫くして、二人の背後から聞き慣れない変な日本語で呼び止めようとする声がした。振り返ってみると、外国人の方がしかも素足のままで走ってこられる姿が目に止まった。立ち止まっていると、傍に駆け寄って来て、「先程は大変失礼しました。もう一度修練院へ来て説明して下さい。」と丁寧に案内された。二人は驚きながらも後について行くと、玄関のすぐ左手にある部屋に通された。この時はお名前すら知る由もないので、ただ外人さんとだけ呼んでいたのであるが、この方こそ紛れもなくアルペ院長様であった。そして、この時から出会いが始まったのである。この出会いの時の姉の印象は慈愛に満ちた笑顔と澄んだ奥行きのある瞳、頭の低いお方といった感じだったと話してくれた。

父は先ず私の火傷の事、死に瀕している事、避難させて頂いている沼田さん宅の場所等々を説明し、どうか助けてやって下さるようお願いしたようだ。快い返事を頂けた二人は息をはずませて帰って来た。私の寝かされているところヘやって来た父は、「12時になったら外人のお医者さんが来て下さるからそれまで死ぬんではないぞ」と励ましてくれた。沼田さん宅の柱時計が丁度12時の時報を打っている時、前庭で自転車を止めるブレーキの軋む音がした。一寸間を置いて聞き慣れない日本語の挨拶が伝わって来た。父と姉が立ち上がると同時に、沼田さんも玄関先へ迎えに出られたようだ。やがて私の枕元に姿を見せられた外人先生は、何と背が高く鼻も高く色も白いことか。大きな瞳から伝わってくる優しい笑み。「苦しいですか。痛いでしょう。」と独り言のように言って尋ねられても答えるだけの力さえ無くなっている私は只じっとお顔を見上げるだけ。真夏のしかも真昼の太陽を浴びて大急ぎで来て下さった外人先生の広い額には大粒の汗が光り始めた。見慣れない変な首輪(ローマン・カラー)のようなものが喉を窮屈にさせ、黒の背広服で身なりを整えておられたから、おそらく背中の方まで汗で濡れておられたであろう。暫くの間、私の顔(顔色と言った方が正確かもしれない)や様子、そして容態を眺めておられた。それは弱りきっている私の体を動かしてまで手当てをすべきかどうか、判断に迷っておられたのかも解らない。ふと我に返られた様子の外人先生は、汗を拭くこともされず家の者と相談し、いろいろと指示を与え、取り敢えず応急手当の準備打ち合わせが出来たようだった。持って来て下さった硼酸(私にとって唯一の薬)を手際よくお湯で溶かしてから冷やし、その液を火傷の傷口にかけて、身体にこびりついていた泥や膿、血の凝固や、ボロボロに引き裂かれ、焼けただれた皮膚の下にもぐり込んでいるウジ虫等を洗い流すために、努力して下さった。しかし、この手当ては、受ける私にとっても、手当てをする側の者たちにとっても、本当に大変なものだった。背中の手当を受けるために、ものの五分間と座ることさえ困難であった。貧血症状を起こして顔は見る見る青黒くなり、目の前が急に真っ暗になって気分が悪くなるのであった。その上、私の上体を起こす時、一人一人が片手ずつ支えて持ち上げるのだが、いずれかの手が私の心臓の位置よりも少しでも低くなれば、忽ち毛細血管が裂けて血が吹き出し、玉となり一本の筋となって布団の上に落ちていくのであった。だから、私の体を起こす四人の呼吸が大切となり、神経を使わざるを得なかったようだ。半身焼け爛れている私の体にとって、目に見えるところの殆どは赤肉が顔を出しているのだから、体を支えるといっても何処をどのように持ったらよいのか、その場所を決めるだけでも一仕事であったようだ。こうしたことから、初日の手当ては殆ど失敗に終わってしまった。後頭部、背中全体、両腕から指の爪先までと、両足先に深い火傷を負っていたにもかかわらず、上を向いて寝ていたので手当を受けるためには、止むを得ない出来事であった。翌日も外人先生は手当をするために来て下さった。前日の失敗の反省から、この日は別の布団をぐるぐると丸めて跳び箱のようにし、その上に私を馬乗りにさせるといった方法であった。この時ばかりは、私の体を起こすだけで五人掛かりの作業であった。一刻を争う作業。外人先生は実に手早く私の背中全体を硼酸液で洗浄して下さった。それはそれは真剣そのもの、ピーンと張りつめたものが真夏の暑さを忘れさせていたようだった。それでも何かの弾みで支えていた手のバランスが崩れ、血が滴り落ちようものなら、「この子の一滴の血は、命の一滴です。」と厳しく注意されていた。手足の手当ては体を横にさせてから、ゆっくりと丹念にして下さった。このようにして数日間はほぼ同じ時刻に来て、同じ手当てをして下さった。



私と外人先生との出会いは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた緊張の中で始まったのだった。そして、いつも感じていた事は、外人先生の体全体から滲み出る暖かさが、無言のうちに伝わってきたのであった。こうした暖かさが、死の瀬戸際から生きる希望へと繋がっていったのであろう。本当に心強く感じた。苦しみや痛みも薄らいでいた。私の傍から離れることなく、四六時中付添っていた母がこのことにいち早く気づいていた。そして不思議がっていた。

手当てを受け始めて何日目かの事であった。例によって私の体を起こすため、頭を支えていた母の指がズブッと後頭部にめり込んだ。びっくりした母は震えていた。被爆した時戦闘帽を被っていたので、頭は焼けて茶色に縮れている部分と、帽子のお陰で焼けないまま普通の髪の毛のまま残っていた部分とが、線を引いたようにはっきりと段になっていた。だから、髪の毛が普通に生えている処がよもや傷を負っているなんて、誰の目にも気付かなかったようだ。私自身すら、別に痛みも感じたわけでもなかった。命があるいは助かるかもしれないといった希望に繋がった矢先の事。「こんな事が、まさか」の思いで誰も信じられなかったようだ。外人先生とて同じ事。「痛みますか」と尋ねられ、心配そうに私の顔を覗き込まれた目は、曇っていたように見えた。起こしかけた私の体をそっと寝かせ、顔を横に向けてめり込んだ頭、髪をピンセットで取り除くと膿が流れ出て骨が見え、それはそれは臭い匂いだったそうだ。この状態を確認された外人先生は、母に向かって「この子の命は助かるかも解らないが、普通の子のように、話せなくなるかも解らないし、知恵遅れの子のようになって生活が難しくなるかも。覚悟をしておいて下さい」といった意味の事を言われ、それから「脳は私の専門外ですから、この子が痛みを訴えるようだったら専門の医師に診てもらって下さい。私ではどうする事も出来ませんから」ときっばり宣告されたとの事。しかも後程、母から聞かされたのであるが、「可愛い末娘(私より二才年上)を奪われ、その上今度は末っ子の私まで死なせてなるものか、知恵遅れであろうが白痴であろうが片輪であろうが、とにかく命だけは取り止めておくれ」と願ったそうである。外人先生も母と同じように只々命を取り止める事だけを願っておられたようである。このようにして、命を奪おうと迫り来る数々の苦しみを向こうにまわして格闘の日々が続いた。そして終戦の八月十五日が来た。もうこれからは空襲もない。爆弾も落ちてこない。逃げ惑わなくてもいい。等々思い巡らしながら戦争の終わった事に安心した。それでも被爆後の焼野原に変わり果てているのに、再三米軍機の飛来があった。そしてその都度「警戒警報」が叫ばれ、「空襲警報」に脅かされていた。にもかかわらず、もはや自分の力で自分の体を安全な場所へ避難させることが出来なかったのだ。そんな時、母はいつも私の傍に体をぴったりとくっつけて、私の体を隠すように庇っていてくれたのだ。



当時修練院の中においても、外人先生には多くの負傷者に対する仕事があったようだ。恐らく腰掛けてゆっくりと食事を摂る暇も、十分な睡眠を取る時間もなかったであろう。そんな状況にありながらも、毎日自転車で通って来ては、手当てをして下さったのだ。それなのに突然、進駐軍(占領軍)が広島の地に上陸して来るという事から、町の住民を混乱の渦に巻き込まないため、当分の間外人先生は修練院から外出されない事になった。そうかといって、これまでの手当てを中止するわけにはいかない。そこで、家のものだけで続ける事になり、硼酸が無くなると父と姉とが修練院へ行って戴いて来る事となった。それ以来、遂に外人先生の顔も姿も見ることが出来なくなった。この間の外人先生との出会いは、僅か五~六日といった本当に短い出来事であった。

それ以後、九月に入って洪水の事もあり、私たちは大変お世話になった沼田さん宅を後にして、祇園町北下安にあった三菱祇園工場の工員寮へ入居させて頂ける事になったので、そちらへ移った。それからは三菱の工場に専属医師として働いておられた近藤先生とご縁が出来た。この寮の中にも、沢山罹災者家族の方々が避難して来て居られたようだし、負傷者や病気の人達もかなり居られたようだった。その人たちのため、近藤先生は殆ど毎日のように、この寮へ巡回して来て居られた。9月・10月・11月の約二か月半、本当に親切に診察して頂くことが出来たが、その間は風邪引きがもとで、乾性肋膜を病み、腎臓病に取りつかれて、火傷した体がパンパンにはれあがったり、腸カタルに罹って脱水状態になり、パンパンの体から鳥ガラ同然のガリガリで骨と皮といった変わりよう。その都度危篤状態になり、近藤先生も私のために何度駆けつけて下さった事か。父は私の死を一度と言わず何回も覚悟をしたようで、田舎の知人に依頼して、私が死んだ時にせめて親としてしてやれる事、それはちゃんと棺桶に収め薪でもって立派な火葬をしてやりたいと考えて、それらを早々と準備していた。



それなのに、諦め切れなかった父は、何かに取りつかれたように、「もう一度外人先生の所へお助けを願いに行って来る。」と一言を残して部屋を飛び出して行ったそうだ。この度は住居が変わっていたから、徒歩で四五分位の距離は父にとってかなりきつかったはず。修練院までの田の畦道は、いかにも細く長く遠くへ延びていた事であったろう。この時の気持ちを後程父が述懐したのであるが、あたかもヨハネ福音書第四章四六節~五四節に記されている「役人の息子を治される」あの内容と二重写しのように思えた。だから、父の葬儀において、福音はこの箇所を選んで朗読して頂いたのである。

外人先生は、父の願いを聞いて下さり、一緒に帰って来た。部屋に入って来られるやいなや、私の枕元に座られた外人先生は、想像以上に私が変わり果てていたのか、病床での私の顔をじっと見つめて居られたようだった。そして目から大粒の涙をポロポロと落とされ、それを拭う事もされず、「この子はもう私の手の届かない所へ行ってしまいました。残念ですが、私はもう何一つ出来ません。神様にお祈りしましょう。」とポッリと言って深い溜め息をされたまま、暫く黙って座って居られたそうだ。私の耳はよく聞こえるのであったが、昼間だというのに目はかすんで、外人先生のお顔ははっきり見えなかった。この日は生涯忘れる事の出来ない昭和20年11月30日の朝の出来事であった。この時の私の状態と言えば、半身火傷の上に、床擦れが体のあちこちに出来ていたし、脊髄のうち首の近くに三か所、胃の裏あたりに四か所穴が出来てしまった。その上臀部には赤ちゃんの握りこぶしがすっぽり入る位に肉がはつり取られ、大きく口を開けた床擦れが出来ていた。それは、ちょっとやそっとでは耐えられない痛さであった。近藤先生がわざわざゴム製の円座を手に入れて持って来て下さった。使ってみてそれは床擦れのために具合は良かったが、背中の生傷にゴムが擦れたり、蒸れたりして逆効果となった。そこで考えついたのが、綿でドーナツのような環を作る事であった。試してみたが、今度は生傷に綿が喰い込みこれも失敗。あれこれと工夫を凝らした挙げ句、綿の環に薄い布を巻く事で落ち着いた。また母が朝から晩まで、それこそ丹精込めてウジ虫を取り除くのであるが、「ウジが湧く」という言葉があるように、本当に次から次へと湧き出るようにして、生傷の上を這い回るのであった。特に大きなウジが這う時は、まるで布団針が突き立てられているような痛さであった。呼吸も鼻首がピクッピクッと動く程度で、誰が見ても私の寿命は分から秒の問題だと判ったようだ。生と死が紙一重。何時呼吸が止まっても不思議でない状態であった。家の者は、私の傍から出来るだけ離れないようにして見守っていたようだし、隣近所の部屋の方々も、大層心を痛めて下さったようだった。

外人先生が帰って行かれて、部屋の中も一段落した。重苦しい雰囲気が暫く続いていた。その時、母は自分の顔を私の顔に近づけて、頬擦りをしてくれた。私は最後の力を振り絞って「お母さん、お世話になりました」と、かろうじて感謝のお礼を言った。すると、母は私を叱るような口調で「上の兄さんが帰って来るまで(復員軍人としてニューギニア島から引き揚げて来る事)死んではいけんよ」と言って、私の体から離れ去ろうとしている命を、必死になって呼び留めようと努力しているかのようだった。長い間睡眠時間は真夜中の一時間か二時間位しか、それもウトウトとした浅い眠りしか取れなくなっていた私に、毎日毎日付き合って来た母。ともすれば、自分の方が先に倒れてしまいそうだったかも解らない。



その時突然、聞き慣れない日本語で、「ここに死にかけている子がいるでしょう。」と吃りながら呼んで居られる外人さんが、ガラス戸の外に立って居られたとか。気がついた家の者は、初めて見る顔に大変驚かされたとか。父は、目聡くローマンカラーを見て安心したようだったが、他の者は進駐軍の良からぬ噂が流れていた時だけに、一瞬怯えたようだった。部屋に入って来られた外人さんの顔を見た母は、赤ら顔に青い目、そして高い鼻、天狗を想像したらしい。この闖入者は、吃りながら何やら一生懸命に話された。初めのうちは、誰も何を言っているかさっぱり解らなかったようだ。まさに風前の灯火、かろうじて命を繋いでいる私の枕元に座られて、「天主様、救い主イエズス・キリスト様、罪を赦して下さる。天国」の四つの言葉を吃りながら繰り返されたので、家の者もかろうじて言葉を理解したようだった。そこで頷くと、今度は「信じますか。」の質問。母は、言葉の内容を理解したのではなく、「只信じるだけでこの子が助かるものならば」の心から「信じます」と返事をしたそうである。するとこの外人さんは「お水を下さい。」と求められたそうだ。父は「遠くから歩いて来られたので、喉が渇いておられるのだろう」と思い、姉におもてなしをするようにと合図をした。我が家の焼け跡から拾い集めて来たものの中に、口の欠けた湯呑みがあったので、水を入れて差し出した。「お茶を差し上げられませんので失礼致します。お湯が間に合わないものですから。」とお詫びを言った。外人さんは何やらおっしゃるのだが、どうも聞き取りにくい。そのうち湯呑みを自分の手にお取りになり、祈りの雰囲気の中で何かを唱えて(ラテン語の祈り)から、私の額に湯呑みの水を注がれたのだった。家の者はこの仕草を見て又々びっくり。何事が始まったのかと、不思議な事をなさる外人さんを見ているばかりだったとか。(この外人さんとは、今は亡きネーベル副院長様で、後程日本に帰化されて、日本名は岡崎裕次郎といい、昭和22年だったと思うが、島根県津和野町にある教会へ移られ、有名な乙女峠を開かれた。)父は耶蘇のおまじないか、御祓いぐらいに思って見守っていたそうだ。それからこの外人さんは家の者に向かって、「この子はこれから一週間の間、眠りますが心配いりません。その間絶対に触ってはいけません。この子が目を覚まして、何か欲しいと言ったら、その事だけをしてやって下さい。」と常識では全く考えられない事を約束させられたとか。その言葉を突然聞かされた母は、「何て無茶な事を、これまでの経過を知りもしないで」と心中思ったそうである。だけどつい先程わが子可愛さに、助かるものなら助けて頂きたい一念で「信じます」と言ったのに、と思い直して、「ハイ、確かにお守り致します」と答えてそれから素直に従った、と話してくれた。外人さんが帰られてから、私は静かに眠り始めたとか。何か狐につままれたようだったそうだ。今まで五分間として同じ姿勢で寝る事の出来なかった私が(床擦れのため痛くて我慢が出来なかった)嘘のように深く眠ったので、母は私が死んでいるのではないかと、何回心配したか解らなかったそうだ。

そして私が生きていることを確かめるためには、眠ってはいけないし、どのようにしたら判るかと思案した挙げ句、自分の掌を私の鼻に近づければ、吐く息や吸う息を感じることが出来ると気付いて、いつもその方法を頼りに確認したが、本当に心細かったそうである。水を掛けられた耶蘇のおまじないから二~三日後、見知らぬ外国人と日本人の二人が、頭の上から真黒い布を被り、マントのような服を着てお見舞いに来て下さった。(援助修道会のシスター、イタリア人のザベリオと日本人の伊藤、二人とも健在)この外国人は、魔法使いのように見えた。だけど日本語でちゃんと話された。「天主様と聖母マリア様にお祈り致します。」と。



約束の一週間目がやって来た。外人さんが一人で来られた。ガラス戸の所へ迎えに出た姉に、「生きているでしょう」と挨拶をしながら、私の枕元に近付いて来られた。そして私が確かに生きていることを見届けてから、母に向かって「傷の手当てを始めてよろしいです」と言われた。その時母はとても気が重かったそうである。一週間も放り投げていたのだから、どんなにジクジクになっていることだろうと想像したからである。膿やウジ虫、背中の穴、お尻の大きな床擦れ、どこから先に手を掛ければよいのかと迷ったそうである。ところが、今迄のそうした心配がまるで夢の中の出来事のように、私の体に一大変化が起こっていたのだ。信じられない不思議な出来事。この出来事は誰の目にもはっきりと目撃できるものであった。母は茫然としていたそうである。私は只深い眠りから気持ち良く目覚めた爽快さを感じていた。この出来事を確認された外人さんは、大急ぎで修練院へ帰って行かれ、再び姿を現された時には外人先生も一緒だった。私の枕元に並んで座られた外人先生と外人さんは、私の傷跡を隅から隅までじっくりと見届けられた。そして喜びの笑顔がはちきれんばかりに顔面一杯に現されたが、何一つ話されることなく出来事を静かに味わっておられる様子であった。家の者たちも、世にも不思議な出来事に出くわして、話すことさえ忘れていたようだった。かつての重苦しい雰囲気から解放された、12畳一部屋の住居に光が差し込んだような明るさが漂っている感じだった。神様は私にもう一度生きることを許して下さったのである。この日は12月6日の朝で、頭に水を注いで下さった時と、ほぼ同じ時刻であったように思われる。

体の傷が完全に癒えている私にとっては、体力をつける事だということで、外人さんやシスター方が、進駐軍のチャプレンが修練院へ届けて呉れたと言っては、色々珍しい食料品を持参して下さった。後から思えば食料品を届ける事を口実にして、私を見るために入れ代わり立ち代わり違った人が来て下さったようだ。外人先生は恐らく修練院に収容されている負傷者のために、忙しく奉仕されていたのであろう、お顔を見なくなった。



終戦後、最初のクリスマスが近づいて来た。12月23日の夕方、外人先生・外人さん・そして新米さん(故ロイシェル神父様で翌年の6月23日に家族全員に洗礼を授けて下さった霊父)の三人が、それぞれクリスマスプレゼントを持って訪ねて下さった。一日早いクリスマスイブ。私にとっては最初のクリスマスであった。私は床に着いてると言っても、背中の後ろに布団を高く積み重ねて、それにもたれ掛って座ることが出来たので、元気になった事を実感として味わった。また見るもの一つ一つにも立体感を感じた。外人先生と新米さんとで、「静けき真夜中」で賛美歌を歌って下さり、外人さんは相変わらず吃りながら(第二次欧州大戦の時、弾が後頭部に当たってから吃りが始まったと伺っている)救い主のご降誕の出来事を、本当に簡単で短くかいつまんで話して下さった。私は残念ながら、お話の内容よりも、話し方がおかしかった事だけを覚えている。最後に外人先生の「アベマリア」の独唱。言葉や意味はラテン語だったため全く解らなかったが、その美しさと言ったら何と表現したら良いのか、只々心を打つばかりだった。いよいよお帰りになる時になって、三人が何やら祈っては、私の頭の上にグローブのような大きな手をフワッと乗せて祝福して下さった。その時、暖かく柔らかい感触が残った。体力のない私が始めから終わりまで座っていたのだから、それほど長い時間ではなかった筈だが、心に深く刻まれた夜となった。隣近所のお部屋の方々は、廊下に集まって来て中を覗き込んで居られたとか。翌24日の晩は母と私だけが家に残され、父と下の兄・姉の四人は、クリスマスを祝うために長束の修練院へ出かけて行った。

昭和21年の正月が巡って来た。母は過ぎ去った一年の中で体験した多くの出来事のうち、特別な感謝を抱いているものがあった。そのため、私に手が掛からなくなった今、食糧難で材料の乏しい中をあれこれと工夫して、心のこもったお正月料理を準備した。そして外人先生を始めお世話になった方々を、感謝のうちにお迎えする事になった。三人は気持ちよく応じて下さり、約束通り来て下さった。両親は日本風に新年の挨拶を交わし、昨年頂いた大きな恵みを、外人先生方から受けたご恩に感謝を述べる等、一応の慣例が執り行われた。三人は神妙な顔で正座して居られた。外国の方には、長時間の正座は無理だろうとの先入観を抱いていたのか、父はきちっとした正座の姿にいたく感心していた。次はお粗末な事ではあるが、心づくしのお正月料理。「どうぞお楽に」と勧めても、そのままの姿勢で座って居られた。三人はお箸を大層上手に扱われた。これには家の者たちも驚いた。(この時にはスプーンもフォークも全く無かった。)雑煮のお餅も上手に頂かれた。



この時、お餅にまつわる外人先生の面白いお話を聞くことができた。「私が日本へ来てまだそれ程年月が経っていなかった時です。『広島の長束修練院へ行きなさい』との命令を受けて、初めてこちらに移ってきました。平和な時代でした。お正月を間近に控えた年の暮れ、修練院の下にある農家の高田さんとおっしゃる方が『日本人がお正月に頂く食べ物です』と言って、白くて丸く平ぺったくて固いものを、親切にも沢山下さったのです。その時、ついうっかりして食べ方を教わらなかったものだから、どのようにして頂くのかも解らず、そのままカブリついたところ、とっても固くて全く歯が立たない。日本人はこんな固いものを平気で食べるのだから強いのだろうと感心しました。これには本当に驚きました。」との事。「ところが後になって食べ方が解り、みんなで大笑いしました。」と、ご自分の失敗談を楽しく話して下さった。私たちも大笑いをした。すると又「固い食べ物でもう一つ驚いた事がありました」と言って、次のお話もして下さった。「日本人は竹と言って固い根っこを食べると言う事を、日本に来て初めて聞きました。竹を知らない私は、どんなものかと思っていたら、何と修練院の周りに沢山生えている事を教えられて驚きました。日本人はどのようにして食べるのだろうと不思議でした。しかし、これも若い芽の時だけ柔らかいところを食べるのだと解って、成程と思いました。」と笑いながら話された。これらのお話を伺って、父が「日本と外国では、随分と勝手が違いますからご不自由でしょうね」と言ったら、又々外人先生がニコニコして、次の出来事を話して下さった。「日本に来てまだそれ程経っていない頃の事でした。横須賀で日本語の勉強をしていたように思います。勿論日本の事は殆ど解っていませんでした。ある日の事、私たちは日本の家に招かれました。最初に驚いた事は、靴を脱いで家の中に上がる事でした。これは私たちにとって珍しい事でした。でも、ここ迄は良かったのですが、日本の襖や障子を横に滑らせて開けたり閉めたりする事を知らなかったので、自分たちの習慣通りに、襖を押してしまいました。すると襖が倒れてびっくり、しまった「壊してしまった」と思った瞬間、汗が吹き出して来て本当に困りました。」楽しいお話に私たちの心も暖まって来た。外人先生は酒落や冗談が通じるお方らしい。とっても真面目な顔をして、次のようなお話も聞かせて下さった。「日本人の家庭では、お正月を迎えると何処の家でも神棚や床の間にお餅を飾ってお祝をすると聞きました。そして一年の間無事で幸せに過ごせますようにと、お祈りをするそうですが、私ならお餅の代わりに雑巾を飾ります。雑巾はお餅よりももっと幸せが一杯になりますから。雑巾ならあちらも拭く(福=幸福)拭く、こちらも拭く拭く、家中一杯福だらけ」とジェスチャー豊かにニコニコしながら冗談を言われた。父もニコニコしながら、外人先生の語学力に感心していた。

お正月も過ぎてから、週に三回新米さんによるキリスト教のお話が始まった。発端は父の方から外人先生にお願いした事によるものだった。それだけに一家こぞって拝聴した。新米さんはドイツ製の素晴らしい絵が沢山ある大きな本を持参して、子供の私にも解るように配慮して下さった。昭和21年6月23日、三位一体の祝日に家の者全員で、めでたく洗礼の恵みを頂く事になった。その時、私は条件付という事で、家族の末尾に並んで水を注いで頂いた。

当時修練院には沢山の神父様方、修練者の方々、修道士の方々が居られたので、ミサ後聖家族の誕生と言って、皆さん方から祝って頂いた。この時外人先生は、スペインの民謡で有名な舟漕ぎの歌を歌って下さった。そして最後に外人先生からの「今日から皆さんは信仰の船出をしますが、荒波に挫けることなく、何時もイエズス様に信頼を置いてマリア様に守られながら、目的の港に到着して下さい。」のはなむけの言葉で結ばれた。昭和22年の秋だったように思うのだが、私たちは祇園の三菱工場の傍に、新しく教会を始めると言う事から、ラウレス神父様と共に移る事になった。その時には既に外人さんは津和野へ、新米さんは横須賀の日本語学校へと移って居られたし、今度は外人先生や修練院とお別れする事になって、ちょっぴり寂しさを感じた。



昭和26年の春、高等学校を無事卒業してからの事である。健康に少々自信が持てるようになっていたので、司祭への道を真剣に考えるようになった。そこで久しぶりに修練院を訪ねた。アルペ院長様は、私が元気で成長している姿をご覧になり、大層喜んで下さった。私は薮から棒に「私のような者でも、司祭にして頂くことができるのでしょうか。」と尋ねた。その時、次の言葉を持って丁寧に説明して下さった事を、今でもはっきり覚えている。「第一にあなたの信仰です。信仰が無ければ司祭になっても役に立ちません。第二は知恵です。信者や未信者の方々を導くために、お祈りを通して神様から頂く知恵が無ければ、ふさわしい牧者になれません。第三は健康です。神の国の完成のためには戦いが必要です。私たちは『戦いの教会』の中に生きるのですから、体が丈夫でなければ続きません。司祭になるためには、こうした三つの事が求められます。あなたは、命を助けて頂いた事に深い感謝の心を持っている事は大切ですが、日本人の考える義理や恩義での事であれば、それは意味の無い事です。よくお祈りをして下さい。」と。アルペ院長様にしてみれば、私の被爆直後の体の状態を十分にご存じだったから、厳しい修道生活を踏まえた上で、非常に適切なアドバイスをして下さったのである。ここで召し出しについてもう一つの事を書かねばならない。それはロイシェル神父様が横須賀へ転任して行かれる前のある日の事、私に向かって突然「毎日、毎日お召しを求める祈りを捧げなさい。もし本当に毎日このお祈りが続くなら、その時には従いなさい。」と教えて下さった。この言葉があったからこそ、今日の私があるのである。アルペ院長様はその後、イエズス会日本管区長になられて、東京の本部へ移って行かれた。私は神様から頂いた数々の恵みに感謝しつつ、司祭への道に向かって少しずつ準備をした。

十一

昭和30年頃は、被爆者が次から次へと死んでいった。毎日の新聞に犠牲者の数が載せられた。ヒバクシャの多くは宿命とも言える白血病に脅かされ、震えおののいた。この不安は他人事ではなく、自分の体の中にも現実となって、その兆候を現し始めた。ABCC(原爆傷害研究所)に入院し、種々の検査を受ける羽目となった。白血球数が極度に減少していた。一年間の静養の効果が現れて、翌年広島教区の神学生になる事が出来た。東京の神学校で順調に進みかけた矢先、再び魔の爪が伸びてきた。今度は広島原爆病院へ。病魔に対する悶えと闘病の繰り返しとなった。この時は、ケロイドによる機能障害に対する手術も行われた。アルペ管区長様は、私の状態を聞かれて大変心を痛められ、神学校の教授(イエズス会員)をわざわざ広島へ送って、原爆病院にいた私を見舞って下さった。エッチェ、サチェルドス、マンニュス。神様の恵み、神学校の方々、神学生の仲間たち、そして多くの信徒の皆さん方の祈りと援助に支えられて、広島教区で働くキリストの道具が誕生しようとする日が間近に迫った時、神学校で最後の黙想会を受けていた私のところに、アルペ管区長様が突然訪ねて来て下さった。院長様の案内で私の部屋へ来て下さった時、お顔は喜びで輝いていた。私の顔を見られるなり「神様の愛、キリスト様の恵み、おめでとうございます。」とこれだけ言われ、ご自分で持参された黒い小箱を私の目の前に置かれた。そして自ら蓋を開けて、金色に光るカリスとパテナを取り出して、「毎日のごミサをこれで捧げ、私のためにもお祈りして下さい。これは叙階記念のプレゼントです。」と言って私の手に持たせて下さった。この様子を傍で見ていた院長様は驚いておられた。全く予期していなかった私は、余りにも立派なカリスに手を触れ、「これが自分のもの?」と只々驚くばかりであった。管区長様は、私の喜ぶ姿をご覧になって満足された様子であった。続いて黒色ビニール製の小さな鞄を差し出し、「これは病人のためにご聖体を運ぶ時使う道具です。あなたもキリストの道具となって下さい。あなたは原爆の貴重な体験を持っているし、体が弱いから病人の気持ちを良く理解出来ると思います。どうか病人や、弱い人を大切にしてあげて下さい。」と、この時はご自分の願いを私に託すかのように話された。そして最後に「約束していたあなたの叙階式に参列出来なくなって御免なさい。ローマで総長選挙が行われるのですが、その準備のため直にローマへ集まるよう通知が来たから、これから出発しなければならなくなりました。選挙が終われば又日本へ帰って来ます。」と説明された。私は修道会についてそれ程知識がある訳でもなく、ましてや総長選挙がある事すら知らなかったので、只私の叙階に参加してもらえないのは残念だけど、これも仕方のない事と、自分に言い聞かせていた。しかし次の瞬間、私は反射的に「あれ!もう日本には帰って来られないな!」と感じた。そして、この予感は見事に的中してしまったのだった。私は日本信徒発見百年記念祭のため、長崎へ来られたマレラ枢機卿様の手によって、福岡サンスルピス大神学校の聖堂で、昭和40年3月18日に司祭に挙げて頂いた。その同じ年にアルペ管区長様は、ローマに於いてイエズス会総長に選ばれたのであった。

十二

こうなってしまった今、新総長様は日本の地へ何時来て下さるのか、日本のイエズス会に於いてすら全く解らない。そこでその年の秋、私の方からローマへ赴いて、司祭叙階の報告と感謝、そして表敬訪問と言う事になった。当時は海外旅行に出掛ける人も少なく、まだ珍しい頃であった。降って湧いたような出来事に、足が地に着かない思いだった。夢にまで見たローマで、命の恩人である新総長様と再会出来るのだから、こんな嬉しい事はなかった。しかし、生まれて初めて体験する海外旅行。その上語学は全く駄目なので心細い思いも絡み、複雑な気持ちで出発した。ところが、ローマ空港ロビーへ一歩足を踏み入れた途端、すべてがイエズス会本部からの手回しによって、受入準備がなされていたので驚いた。私を迎えて下さる神父様が待ち受けておられた。お陰様で私は何一つ心配することなくイエズス会本部へ案内された。「今は総長様だから、これまでとは違うんだろう。」と少々緊張をした。お部屋に通されてお姿を見た時、内心ホッとした。かつて長束修練院で見慣れていた姿そのものだったし、笑顔もちっとも変わっておられなかった。総長様でありながら、私自身にとっては同じ優しい父であった。私の到来を今や遅しと待っていて下さった顔見知りの神父様方と共に、本部の聖堂で先ず第一に司祭叙階の感謝と、世界平和を願って共同ミサを捧げた。その後、皆と本部屋上に行きペトロ大聖堂を背景にして記念写真を撮った。何しろ、見るもの聞くもの全てが新しい事ばかりなので、キョロキョロするばかりであった。食事のため総長様のお部屋へ移動した。日本から持参した独特のお土産を手渡すと、懐かしそうに眺めて大層喜んで下さった。当時は第ニヴァチカン公会議の最中であったので、幸いにも司教様のサインを頂いて公会議の席に入れて頂くことが出来たが、総長様のサイン一つでこれ又幸運にも聖ペトロのお墓にお参りすることが出来た。後になって、誰でも聖ペトロのお墓へは行けない事を知って、総長様の地位がどれ程偉大なものであるかを改めて認識したのだった。私の旅はヨーロッパを巡り、勿論スペインにも立ち寄った後、アメリカ経由で二か月後無事広島へ帰って来た。

十三

それから確か五年後だったと思うけど、総長様の日本公式訪問が巡って来た。両親は、自分たちは既に高齢なので(当時、父87才、母80才)、この世では二度とお会い出来ないであろうと諦めていたので、この思い掛けないニュースに大喜び。早速幟町教会まで出向いて、18~20年ぶりの再会をした。両親にとっては、総長様とお呼びする地位もあったものではない。被爆直後の出会いそのままのアルペ神父様であり、外人先生そのものであったようで、感激に浸っていた。お互いにサインを交わしたり、記念写真を写して頂いたりで、大満足の様子であった。それもその筈、可愛い息子の大恩人だから無理もなかった筈。

今から何年前になるだろうか。総長様がマニラ空港で突然お倒れになったという、暗いニュースが突然私の耳にも飛び込んで来た。今度は私の出番とばかり必死になって命乞いを、そして健康の回復を神のみ旨のままにと祈った。それでも私の心は穏やかではなかった。自分の信仰は薄いんだなと反省させられた。外国の出来事であれば、そう簡単にはお見舞いにも駆けつけられない。只勝手に頭の中で、あれこれと症状を思い巡らすのみであった。時々長束の修練院へ問い合わせて、正確なニュースを聞くのが精一杯であったが、状態は五十歩百歩。心の中に喜びを感じさせるような明るいニュースは伝わって来なかった。じれったく月日が流れて行くうちに、少しずつ快方に向かっておられると言うニュースを耳にするようになった。ヤレヤレの思いを抱いても、それでも自分の目でその様子を見る迄はと、不信仰な自分の姿に振り回されていた。

十四

昭和57年7月17日、もう55日生きれば100才になる高齢で父が、同年11月30日(私に洗礼が授けられた日)93才4か月の高齢で母が共に神のみもとに召された。両親から解放された私は、ローマへ行くチャンスはないかと、色々機会を伺っていた。ところがこれも神のみ摂理とでも言うのであろうか。パパ様の来広に対する答礼の巡礼団が広島教区主催で組織され、思い掛けないチャンスが転がり込んで来た。時は昭和58年11月に出発するのであるが、はからずも総長様は大役から引退された年であった。総長に就任された時にローマを訪れた私は、今又引退された時に再びローマを訪れるのである。聖地巡礼の帰路、再びローマへ足を踏み入れた時、イエズス会本部ヘアルペ神父様の面会申し込みを連絡して頂いた。その時、体力的な事から五分間だけの条件でお許しが出た。与えられた時間が短いだけに遅刻は許されない。「時間厳守、時間厳守」と自分の心中で言いつつ、大急ぎで本部へ辿り着いた。だけど先客があって、暫く待たされた。やっとの思いで私たちの番が来た。お部屋に通されて、目と目が出会った瞬間、二〇年ぶりの再会なのに私をすぐに解って下さったようだ。ローマン・カラーに黒の背広姿で椅子に腰掛けておられたアルペ神父様は、両手を大きく広げて私が駆け寄るのを迎え入れるかのように、待って下さった。胸の中がジーンとして挨拶の言葉にならなかった。只胸の中に飛び込んだ。しっかりと抱き締めて下さった。アルペ神父様は再会の喜びと歓迎の気持ちを一生懸命言っておられたようだったが、スペイン語を知らない私には一言も意味が通じなかった。傍でラッシュ神父様が通訳をして下さっているが、その言葉も耳に入って来なかった。しばしの間、私たちは抱き合ったまま黙って時を過ごした。二人が頭の中で思い起こし、心の中で熱いものを感じていた事は、はからずも初めて出会った昭和二〇年八月の出来事であったようだ。というのは、ジェスチャー入りで何やら話し始められた内容は、「あなたを初めて見た時はこんなに小さい坊やだった。そして命が助かるかどうか本当に心配だった」としきりに思い出を話しておられますよと、通訳して下さったからだった。暫くして何かを思い出されたように、ご自分の不自由な手で私の左手を取り、ケロイドや火傷の傷跡をじっと眺め、やおらゆっくりと撫でながら、一言二言、独り言のように静かに言っておられた。過去の手当てをして下さった在りし日の出来事を、回想しておられるかのようだった。私はその時、自分で自分が情けなくなった。それは何をおっしゃっているのか直接知りたいのに、何一つ解らなかったからだ。だから「どうしてあれ程上手に話しておられた日本語が、今になって一言も話せなくなられたのだろうか」と言語喪失の状態になっておられる事を恨んだのだった。傍で私たちの状態を一部始終見ておられたラッシュ神父様は、私の気持ちや心をいち早く読み取られたようで、私の方を向いてスペイン語で話しかけられると言った一幕もあった。

私は自分がイエズス会員でもなく、何の発言の権利も持っていないのに、変わり果てておられるアルペ神父様のお姿を目の前にして、「長束の修練院は神父様の第一の故郷でしょう。広島へ一緒に帰りましょう」と、とんでもない言葉を言ってしまった。それなのにラッシュ神父様は、私の気持ちをスペイン語で正しく伝えて下さったようで、ニコニコしながら、これ又スペイン語で返事をして下さった。「今の体では旅行する事は無理なのに、日本迄は余りにも遠過ぎてとても不可能です。」との事であった。それでも私はなおしつこく「長束ではスペイン語を話される神父様方やブラザー方が居られる事だし、生活環境も良い所だから帰りましよう。」と言った。正直言って、その時には自分で自分が何を言っていたのか、解っていなかったようだった。ラッシュ神父様の「残念な事に」とおっしゃった短い言葉が耳に入って、ふと我に返ったように思う。私は大切な報告、両親がそして長男が神のみもとに召された事を話し、お祈りをお願いしてからお別れの祝福をお願いした。するとその前にご自分の記念のメダイを下さった。金色のメダイを手にして眺めていると、一八年前司祭叙階の祝いの記念にと手渡して下さった金のカリスと二重写しになり、恭しく押し頂いた。(カリスは毎日のごミサの時使わせて頂いている。それは、見えない絆で固く結ばれている霊的なものの印であるから。)

十五

お別れをしなければならない時が来た。「お互いに健康には注意して、神様のみ栄のために祈りましょう。」と挨拶を交わし、祝福を頂いてお部屋を辞した。約束の五分間はとっくに過ぎて大幅な面会時間の延長となっていた。私の心の中には、再会出来た喜びや満足感と共に、もう二度とこの世ではお会い出来ないだろう、と言う一抹の寂しさとが入り交じって、やるせない気持ちになっていた。今度は天国でお会いしましょうと、心の中のやるせなさを払いのけるように、そして自分を慰めるように独り言を言っていた。イエズス会本部の石の廊下に響く、自分の歩く靴音が静かに消えていた。サヨウナラ、ローマ。何だか後ろ髪を何時迄も引かれているような気持ちだった。

編者注(文中の外人先生とは、全てアルペ神父様を指す。)

出典 アルペ神父の列福を祈る会編 『アルペ長束修練院長 ―身にキリストをまとった人―』 祇園カトリック教会 2000年 38~54頁

  

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