1945年6月になって、私は疎開先であった広島郊外の長束イエズス会修練院から、市内の教会へ移った。その理由はほかでもなく、右手の指に出来物ができ、そのためほとんど毎日、京橋詰の藤井外科医院へ、そこから通いやすいということだった。
その当時の幟町の教会は、正面の門から入って五本の松の木のかなたから姿を現わす明治時代の古めかしい日本家屋の聖堂。元は道路に面していたが、新しい司祭館を建てたときワイセンフェルス神父はこれを敷地の奥に移した。その長い建物の左側はかなり広い畳敷きの聖堂、そして、ふすまによってこれとしきってあった右側の伝道場、その中で一九四一年からラサール神父が「聖母幼稚園」を開いた。又、1940年にロス司教が職を辞して荻原神父が教区長になったその翌年だったと思うが、荻原神父御自身の設計によって、この古めかしい建物の屋根に小さい塔が乗せられたので、いかにも松の木と共に奥ゆかしい感じを与えた。
正面の門から左に、1937年に出来上がったばかりの新しい司祭館が建っていた。広島教区が1923年に大阪教区から分かれたその当時、広島に適当な建物がないという理由で教区長はずっと岡山に住んでいた。それで主任司祭のワイセンフェルス神父が広島布教の発展を考え、まず教区長と司祭たちのために必要な住宅をつくらなければ……と感じたので、1937年、このがっちりしたモルタル式の建築ができ上がった。次には司教座聖堂と思ったら……支那事変、それから大東亜戦争が勃発したので、この計画はとうとう実現しなかった。
正面から入って右側には、伝道士の星島さんの家があった。
さてそのときの人々……荻原教区長は宣撫班に召集され、遠いインドネシアのフローレス島で活躍していた。それから教区長代理をつとめ同時にイエズス会の上長であったラサール神父、教会の主任であったクラインゾルゲ神父、これに七月より長束から移ってきたシッファー神父、そして私を入れて四人の神父であった。そのほか長崎の竹元神学生、教区長の秘書をしていた深井渙二先生、彼はもと聖公会の聖職者であったが、カトリックに改宗して以来、岡山で開かれた「カトリック思想・科学研究所」の中心人物の一人で、のちにロス司教と共に広島に移ってきた。一時、戦時中の司祭欠乏を考えて彼を司祭に叙階する計画もあった……。
司祭館の裏には、長崎県伊王島出身の村田さんが住み、物のないときにもかかわらず巧みに賄いの仕事をつとめていた。広島教区内すべての神父のお好みまでもおぼえていたので、たまたま教区長館に訪れてくる神父たちに思いがけないご馳走を作ってあげることを、特に楽しみにしていた。たまに長崎の郷里へ帰りそして大きなふろしき包みを背おって広島に戻ってきたときは、教会の乏しい配給にいささか差し入れをくれた。ただそのとき困ったことには、彼女は、留守中、台所の戸棚という戸棚に大きな釘を打ち全部しめてしまうくせがあった。こうして一週間の間、お塩やらお醤油やらすべてはタブーになっていた。
そして七月のある朝、手にほうきを持ち、全く狼狽しているようすであった。「ゆうべ私は夢をみた。教会が火の海だった。確かに近いうちにやられるだろう」と。そしてこれは絶対に普通の夢ではなく、自分がはっきり見ていたと言った……。
そのほかの人々は伝道士の星島さんとその一家。戦時中だったので伝道士という仕事は社会に認められず、又、本人の愛国心もあったろうが、週日には星島さんは長男と共に加古町にあった県庁に出かけ、そこで仕事をすることになった。そのほかラサール神父が上智セツルメントから広島に呼んだ幼稚園の二人の保母が、伝道士の家で一室を持っていた。
一日三度の定期便
幟町の教会へ移ってから、神学の最後の試験を準備するほか、私にとって一番大切な「仕事」は、毎日か一日おきに橋本町の藤井外科医院へ通うことだった。指の出来物を切ってもらってから、思ったよりも長く治療に通っていた。栄養失調のためだったのか、傷口がなかなか癒らなかった。しかし、治療を別にして藤井先生と大変仲良くなりたびたび夕方にも先生のお宅へ訪れ、だんらんを楽しみながら戦争のことを忘れた。
そのときに、決まって九時ごろ警戒警報のサイレンが鳴り出し、ラジオから「ただ今、敵機四十機ほど豊後水道の上空を飛び、西北へ進行しつつある……」という情報が聞こえた。アメリカの定期便!とそのときに藤井先生が笑って空襲の準備をはじめ、私も急いで教会へ帰った。
アメリカの定期便……。これは毎日三回も来た。そして当時の国鉄の汽車よりも正確に、その時間を守っていた。たいていはアメリカ艦隊から来たであろうが、艦載機二、三十機も上空を飛び、たまにはB29型の大きな爆撃機も来た。その時間は午前十時、午後四時、夜十時ごろであって、その一時間ほど前に「警戒警報」のサイレンが鳴り出し、飛行機が豊後水道から本州の西部に向かってくるといったような情報があった。それからしばらくして空襲警報のいやなサイレンが鳴り出し、人は皆、待避するはずであった。ところが何カ月もの間、このような定期便が毎日空を飛び爆弾を一つも落とさずに行ってしまうので、人々はだんだん防空壕に入らず空を飛ぶ飛行機を見物するようになった。だが、敵機があまりにも平気で上空を飛ぶのを見て、けしからんという声もあった。
しかしこのような「見物態度」は、長く続かなかった。いつのまにか神経戦に変わった。新聞やラジオでは毎日どこかの空襲が報道され、そしてよそから来る人はその空襲のひどいことをまざまざと物語った。何回にもわたる東京の大空襲、神戸の空襲や大阪の爆撃、七月に入っては、近くの重要なところも次々にやられた。岡山、福山、呉、岩国……徳山にあった海軍の石油タンクが燃えたとき、その黒い煙は一日中、広島の空をおおっていた。地図を開いてみればほとんどの大都市はやられていた。残ったのは京都、長崎、広島ぐらい。
「いったい、毎日何十機も飛んできて、何も落とさないとは?」この神経戦はいよいよはげしくなって来た。特に呉の爆撃後、毎晩、広島は幽霊の町に変わった。夕方になると長い行列のように人人は町を去って、近くの親戚や友人の家、それとも野外に泊まり、朝は市内にもどってきた。ある夜、空襲警報になったとき、我々の隣組には、教会の者以外には誰もいなかった。広島の番はいつ?
一日三回の定期便の間をみて、我々はどうにか教会の仕事を続けようと思った。求道者がいないわけでもない。クラインゾルゲ神父はこの最後の半年の間、十人ほど洗礼を授けることができた。
又、教会の特別なアトラクションは毎土曜日のレコード・コンサートであった。そのとき、司祭館の広間はいつも一杯だった。何十人もの人で部屋はぎっしりうずめられて、皆クラシック音楽を聞き、一時間でも戦争のことを忘れようとしていた。彼らにとってこの時間がいつも真の心のオアシスであった。そしてラサール神父はその管楽鑑賞の間、いろいろと人生の目的について話す機会もあった。実は、終戦後、教会へ来て受洗した人はほとんどこのレコード・コンサートのグループからであった。そして今は修道院に入った人も、一家を信仰に導いた立派な信者もいることを思えば、あの空襲の間にまいた種はみごとな実りをあげた……九時ごろレコード・コンサートが終わるや、まもなく警戒警報のサイレンが鳴りだし、例の定期便が来た。人々はいそいで我が家へもどり、厳しい現実に直面しなければならなかった。しかし不思議にもこのレコード・コンサートは、空襲のために中止されたことが一度もなかった。最後のは、原爆の二日前、八月四日の土曜日であった……。
七月一日、長束の修練院に叙階式があった。ルーメル神父とエルリンハーゲン神父がその日に司祭になり、司式のためにわざわざ福岡から深堀司教がこられた。司教とはいえ、初めて玄関で対面したとき、この国防色のユニフォーム姿が司教様なのかと、ちょっと思ったこともある。しかし実に印象の深い一日だった。我々幟町教会の者もその朝、長束へ出かけお昼ごろには呉の真田神父もみえた。郊外であったので、午前中の定期便を無視して、叙階式とミサを無事にすませた。ただミサの最中、修練院の豚小屋から豚が逃げだしたという警報があって、ちょっと騒いだだけですんだ……。お昼は深堀司教を囲んで祝賀会が開かれ、そして――あな、めずらしや――かなりのご馳走もあった。これは、その日を期してずいぶん前から一同は減食の訓練をやり、そして副院長のネーベル神父が巧みに「モノ」を集めるのに苦心したおかげだった。
午後、私は真田神父と一緒に町へ帰り、駅の途中まで見送った。神父は大きなふろしき包みをさげて、うれしそうに歩きながら言った。「長束でじゃがいもをもらってきた!」。それで二人は別れた。私は近くの幟町の教会へ、彼は遠い呉の我が家へ帰った。しかし真田神父がせっかく呉までさげていったじゃがいもは、用を足さなかった。その晩、呉の教会にたどりつき、ゆっくり聖務日祷をとなえはじめると、夜の定期便があらわれ、そして今度は呉を本格的に爆撃した。町一面には焼夷弾、軍港には爆弾! 教会も全焼だった。残ったものは風呂場で水につけた洗たく物ばかり。
その後、呉の焼け跡や港で沈没した軍艦を見て広島に帰ってくる人々は、ただ黙々として悲愴な顔つきだった。深井さんが或る晩、呉から帰って来て、「もうこれじゃあ、戦争は敗けるんだ!」、そしてその日から、もはや前の深井換二先生ではなくなった。
七月中、もっぱら防空壕を掘ったり、空襲の訓練をやったりして忙しかった。音楽の愛好者だったラサール神父が、自分の安全よりも、愛用のセロを心配して、庭にあった築山の裏、ちょうど聖ヨゼフの御像の下に、このセロのために特別な防空壕を掘り、そして毎晩、教会のレコードと自分のセロを窓ぎわまで運び、万一の場合これをすぐ防空壕に運ぶ用意をしておいた。ところがさすがのこの努力も、あとで何も役に立たなかった。
庭の野菜畑には、教会のろうそく台その他の祭具を埋めた。台所の食器の一部も埋めてしまった。なお、隣の洗たく屋が疎開して行ったとき、そこに残っていた石炭を安く買ってきた。だが、石炭は燃えるものだからと思って、これをも司祭館の裏に埋めて一メートルほど土でかぶせた。たびたび、長束の疎開先から神学生が荷車をひいてきて、教区長館の書類、教会の祭服、応接間のピアノなどを次々に修練院に運んだ。
八月五日の日曜日に教会で戦没者のために荘厳な慰霊祭を行なった。そのため、葬儀用の一番立派な祭服を使い、又、常に人の話題になったドイツ製の大きなオルガンを残していたが、これを全部、次の月曜日に疎開させることになっていた。しかしそれはもう間に合わなかった。
朝八時十五分
八月六日、教会の暦でキリストの御変容の祝日! 前夜は、やはり「定期便」が上空を飛び、一晩中空襲警報だった。やっと朝がたには警報が解除になった。東の空から朝日が昇り、きれいにすみきった夏の空には雲ひとつ見えなかった。
朝のミサが終わり、朝食もすみ、私は部屋に帰り聖務日祷の本をひもといた。夜中の空襲時の疲れと、配給物の豆類の結果――ごはんには豆が入っており、パンは豆の粉、なんでも豆ばかり――、おなかの具合いが悪く、真夏の暑さにもかかわらず、おなかにざぶとんを当てながら、その日の聖務をとなえはじめた。
ちょうど「テルチア」まで進んでいたと覚えている。そのとき、外には又もB29の爆音が聞こえた。偵察機だろう……二階の窓ぎわからラサール神父の声が聞こえる、「また二機!」。
その瞬間! 外にピカッとすごい光が見えた。ちょうど私の前に、と思った。これは爆弾! 隣の風呂屋の上に落ちたのか? さっそく、何べんも訓練したように床の上に伏した、ちょうど部屋と部屋のドアのところ。それからあっという間に、四方八方から物が落ちたり飛んだりしてきた。両手を頭の上にかぶせながら、伏したままでじっとしていた。
やがて、音がやみ、静かになった。ちょっと顔を上げてみれば、まわりはまっ暗! 下敷きになったのか、生埋めか? しかしすべてはほこりだらけだった。しばらく待って、まだ伏したままでうす暗い部屋を見回してみれば何もかもメチャクチャだった。そして前に壁があった所は大きくあいていて、灰色の空が見えた。
静かに立ち上がってみたら、幸いにたいした怪我はない。ちょっと額のところにかすり傷、そして右手にガラスの破片で切られた所から少し血が出ていた。それでさっそく、部屋にみえたいろいろな物を外へ持ち運ぼうかと一時考えたが、しかし今はモノよりも人が大切だと考え直して、前に壁だった所から庭へ飛び出した。
見渡すかぎり、悲惨な混沌状態。教会の建物、伝道士の家、又、近所の木造家屋は残らずぺチャンコになって倒れていた、大地震があったかのように。まだ建っていたのは、斜め向かいのコンクリート建ての家、そして私が飛び出してきたばかりの司祭館、これも木造ではあったが、比較的最近に出来上がり、そして東京大震災のあと、上智大学の再建を監督するために日本に来たグロッパー修士の設計で、普通よりもがんじょうな構造であったおかげで、モルタルの壁はすべて吹き飛ばされても骨組みだけはそのまま建っていた。屋根の瓦はずべて吹きとばされ、あとで二、三百メートルほども遠くでその破片を拾ったことがある。
さて、ほかの人たちはどうなったろう? 家を走り回ってみたら裏口には、もう三人の神父が立っている。シッファー神父は血まみれだった。ちょうど私の部屋の隣にあった図書室にいたので、本棚のガラス戸の破片で体中を切られ、ひどく出血していた。それじゃあ、藤井外科まで連れて行こう、と皆で相談した上、私が一緒に出掛けた。
だが、遠くまで行かれない、道路のあたりまで行ってみたら、道は倒れた家屋でふさがっており、そして教会の付近だけでなく、町全体がひどい爆風でくずれていた。橋本町の藤井外科らしい建物も見当たらない。あとで聞いたが、川べりに建っていた藤井医院はそのまま川原へ飛ばされたそうだ。
いずれにせよ、これは普通の爆弾ではないと、ちょっと、そのときそう思った。しかしこれでは医院を捜すのは無駄なことだ! 二人でノロノロと教会へもどった。そしてシッファー神父はひとりで近くの浅野泉邸まで避難していくと言った。
ラサール神父とクラインゾルゲ神父はそのうちに伝道士の家で下敷きになった人を掘り出すことにしていた。伝道士の星島父子は、もう県庁へ出掛けたあとだったので、この二人についてはあとになっても何もわからなかった。家にいた家族と幼稚園の二人の保母は下敷きにはなっていたが、怪我一つなかった。
司祭館の二階の窓ぎわには、深井さんの姿が見えた。おそらく階段がこわれ、彼は降りられないのだろうと、私は思った。そしてはしごか何かの道具を捜そうと司祭館の裏へ走っていったら、隣の家の下からうなり声が聞こえた。
なんだろうかとそこへ行ってみたら、倒壊した家の下から婦人の声が聞こえる、「助けて――」。必死になって屋根の瓦などをはぎ、木材を一つ一つ取りはずした。やはり、爆風のため家がくずれ、日本家屋の重い屋根はそのまま落ちていたのであった。したがって、これを全部はぎとるのは、そう簡単な仕事ではない。おまけに下敷きの人が傷つかないように注意しなくては……! やっと穴をあけ、下まで入ることができた。木の破片の間に一人の婦人の顔があらわれた。
悲惨のさなかにも、こっけいなことがあろう。隣とはいえ、私はその婦人の顔を知らなかった。最近、町に来た人だったかもしれないが、婦人も私の血まみれの顔を見て、さぞや驚いたらしい。
「日本人のかたを呼んで……!」たぶん私を見たとき、落下傘で下りた敵兵と思っていたらしい。しかし、今は、笑うどころではない。婦人の頭などから材木を取り除いたが、ちょうど胸の上に梁木が横たわっていて、これをどうしても一人の力で取りのけることができない。そのうちに手の出血もひどくなったので誰か助けてくれる人を捜さなくては……。「ちょっと待って……」と言って、ほかの人を呼びに行った。置き去りになったと思った婦人は悲愴な声で「助けて――」と叫ぶ……。道路には逃げゆく人が走っていく。「ちょっと助けて……」と呼んでも誰ひとり見向きもしない。
やっと司祭館のそばでラサール神父に出会った。足の傷はひどく出血しているらしい。しかし二人で婦人の所へもどり、重い丸太をやっと持ち上げることができた。そして血だらけの二人の外国人に驚いた婦人は、飛び上がって、うしろも見ずに逃げてしまった。
これを考えてみると、下敷きになった多くの人はほとんど怪我はなかっただろうが、掘り出してくれる者がなかっただけで、逃げそこなって火事で焼死したらしい。
ラサール神父と一緒に司祭館の裏口にもどると、ほかの人たちがそこに集まっていた。伝道士の一家などはもうどこかへ避難していた。とにかく教会にいた人はこれで皆、無事だった。次の心配は聖堂……御聖体を持ち出す! しかしそこを見たら、どこから出たかわからないが、炎があちこち上がりはじめた。延焼。そして教会の付近を見れば、もう道路の向こうも、そして唯一の避難所であった川べりの浅野泉邸への道路での両側の家もすでに燃えている。聖堂の屋根をはずして祭壇を捜すひまはもうない。そして火事で焼けたら御聖体には決して侮辱にはならず、かえって、人間の生命が先だと簡単な相談で決めた。それで急いで、家の中で見つけたばかりの避難袋を出して、庭の防空壕に投げ込み石で防いだ。そして一同、避難することにした。
火の海
もう延焼が聖堂まで来て、最初の炎があちこち、まっかな蛇のように瓦の間にはい出し、いつの間にか高く舞い上がった。道路の向こうも至る所に火が燃え広がり、一面はまっかな地獄に化していた。表の道路には人々が走って、避難の場所を求めた。
「早く! 早くしないともう逃げられない!」
深井さんはどうしても行こうとしない。クラインゾルゲ神父は、竹元さんと一緒に彼を二階から引っぱって無理に降ろして来たが、「歩けない、歩けない」と叫ぶので、神父は彼を赤ん坊のようにおんぶしながら、教会の門を出た。二、三週間前からすでに落胆していた深井さんは、かなりのショックを受けたらしい。「ここに残して……死にたい」と、うなるばかり。そしてずっと抵抗を続けながら、彼はクラインゾルゲ神父にとってことのほか重荷となって来た。
こうして我々は教会をあとにして逃げたが、浅野泉邸への道はすでに通れなくなったので、栄橋の方へ向かった。とにかく川べりは安全だと思った。大勢の人々が同じ方向をさして走っていった。火の海になった道路、両側の家から下敷きになった人の声が聞こえる。「助けて……」、失望の声!
栄橋につくと、人は黒山のように集まっている。橋の向こうはもう火の海。そこからも人々が橋を渡って我々の方へやってくる。疲れきったクラインゾルゲ神父は深井さんをおろし一休みすると、深井さんはこれからどうしても先に行かないと抵抗した。叱っても、引っぱっても動こうとしない。しかし公園に入るため倒れたいくつかの家屋の屋根を乗り越えていかなければならないので、どうしても彼をおんぶしながら進むことができない。とにかくここは川のそばだから、左側の公園に入るか、川原に降りるか、避難する方法はいくつもあるので、とうとう深井さんを残して、橋に立っていた警備団の人々に彼のことを頼んでおいた。彼らはうなずいた。しかしこれは深井さんについて確かに知られることの最後である。数カ月後にある人に聞いた話だが、橋のそばにあった家屋が燃えだしたとき、深井さんらしい姿の人がその炎の中に見えた、と……。
我々三人は、今や燃え出そうとする倒れた家の上を乗り、これを無事に越えてやっと浅野泉邸にたどりついた。元は徳川時代の有名な庭園として知られたこの公園(今の縮景園)はメチャクチャになっており、我々としてはむろん、公園の美について考えようともしない。川べりも、公園の道や芝生や至る所、避難者、負傷者、瀕死の人でうまっている。川のすぐそば、あるちょっと広い所の木陰でシッファー神父をみつけた。しかし出血のあまり彼は非常に衰弱して横になっている。ラサール神父も二つの大きな傷があり、かなり血を失っているようすだ。
どこをみても悲惨のいたり。しかしその日のショック、または肉体的疲労のためか、死骸をみても、ひどい火傷や怪我をした人を見ても、神経がにぶくなったようで普通の反応ではない。またそのときのいろいろなことを、はっきり記憶にとどめる気力もなかった。ただあれこれといくつかのスケッチみたいなエピソードだけで、はっきりした連絡がもうつかめない。
まず時間的にすべてを整理することができない。原爆投下は八時十五分であったことは確か、その瞬間、ほとんど全市の木造家屋が爆風で倒れた。直接に原爆のため出火したいくつかの所もあったそうだが、たいていの火事は台所などから起こったもので、そこから延焼したと私は覚えている。たとえば教会の付近には、最初は全然火事の出たらしいところはなかった。教会の人々を掘り出すために相当の時間がかかったはずで、確かに一時間以上だったと思う。それから初めて、教会の間近に来た火事に気がついた。
川べりに休んだとき、向こう岸の大須賀町の家という家は皆、倒れてはいたが、しかし火事は起こらなかった。かなりの時間がたってから、ある倉庫らしい建物の屋根からちょっとした火が出てくるのが見えた。バケツ一つでも水をかけたら……。しかしその水をかける人がいないので、火がみるみるうちに拡がり、とうとう川と鉄道のあるあの町も火の海に化してしまった。
何時か、はっきりした時間を知らないが、何度もすごい爆音が聞こえ、地面がふるえた。また空襲だと最初は考えたが、しかしそれは近くの練兵場のあたりにあった火薬庫にまで火の手がのび、火薬が次々と爆発したそうであった。
とにかくお昼ごろは、ほとんど町の全域が延々と燃える地獄のようになった。どこをみても、空高く上がるほのお……誰ひとりそれを消そうとする者がいない――そのころはもうどうすることもできなかったろう――、火事が凄まじい勢いで進行していった。そしてこの炎と熱と風は、いつの間にか恐ろしい竜巻を作り出した。我々は公園の方は無事だと思ったら、突然、空がまっ暗になり、燃える町の方から物々しい音が聞こえ、それがすごい速度で公園の方へ近づいて来た。台風以上もの強い風が起こり、中には瓦、木材、トタン、家具の破片などが数十メートルも高く舞い上がって飛んで来た。我々はただ伏して、体を固く地面に押さえながら待つほかはない!あっと言う間にあの竜巻が我々の上を飛びすぎ、川に入り、その水を何十メートルも高く、まっすぐにふき上げた。実に恐ろしい光景!
そして雨が降りだした。黒い雨!
やがて、午後三時か四時ごろだったろうか、火事の勢いがいささか弱まった。むろん、延焼や飛火でその後も、否、一晩中も、かなり遠い所も燃え出し、そして二葉山やその続く山並みには至る所に山火事が起こり、夜もずっと空を赤く染めていた。
しかし火の勢いがおとろえると、公園の人々は急に活気を取りもどした。無事に避難することはできたが、今度は生存の問題。もっとも瀕死の重傷者も多くあった。しかしほかの人々はどうにかして、救援の方法を考えた。流川のメソジスト教会の谷本牧師はめざましい活躍を演じた。どこからみつけたか知らないが、いつのまにかボートを持って常葉橋までこぎ、そこの警備団と連絡をつけた。またこのボートに便乗して、我々は一緒に逃げてきた竹元神学生を向こう岸に渡してもらい、彼がそこからどうにか長束の修練院まで出掛けて我々の避難所を知らせ、そして二人の負傷した神父のために迎えに来るようにと頼んでもらった。
クラインゾルゲ神父と私は夕方、一度、教会までもどってみた。公園から出てみると、火事はだいたい収まったが、まだ燃えている所もあちこちにあった。道路のアスファルトはあつくて、ほとんど踏めないほどだった。教会につくと、すべてはきれいに燃えてしまっていた。司祭館は倒れていなかったので、火事は中の至る所まですべてを焼き尽つくした。一メートルほどの基礎のコンクリートだけが残っていた。そして台所の流しには、まだ食器が水につけたまま残っていた。水道からさびしそうに水が流れてくる。この同じ光景は、ほかの家にもみられた。つまり、原爆のひどい爆風は地上のものを容赦なく倒してしまったが、地下の水道管は全然痛まなかったらしい。
しかし、今は見物するときではない。急いで、庭の防空壕に投げこんだ非常袋からお米を出し、また庭に残っていた半分こげたかぼちゃも幾つかひろって、公園へもどった。
そこには、どこかから救援物資――といってもおにぎりだけだった――が来たらしく、我々が持ってきたお米やかぼちゃ、これにほかの人々があちこちから掘り出してきた食糧品を全部あわせ、そして数人の元気な婦人たちが皆のために「夕飯のしたく」をした。そのときの協力の精神、皆の相互愛と献身的な態度はみごとだった。そしてこの同じ精神は、その後の一年もの間、どこでも美しく現われた。共通の苦しみは、不思議にも人間の心をつなぐ力を持っている……。
夜の救出
日が暮れた。長束から迎えにくるはずだが、まだ着いていない。暗くなったら、我々の場所を見つけられないだろうと心配していたので、私はひとりで迎えに出掛けた。浅野泉邸を出て白島の辻まで行った。どの道を採ってくるかわからないので、牛田をへて常盤橋を渡って来ても、三篠橋から来てもとにかくこの辻に出るはずだと思って、そこで待つことに決めた。
どのくらいそこに立っていたか覚えていない。しかし実に気味わるかった。回りの焼け跡はまだくすぶっており、ときには突然、火が再び燃え上がってあたり一面をまっかな明かりで照らすこともあった。道路にはあちこちに死者が倒れていた。絶え間なく避難者の姿が黒い影のように走りすぎた。一度は二、三十人ほどの軍人も通った……。もし誰かが、私が外人であると見分け敵兵とまちがって騒動を起こしたら……だからなるべく顔が見えないようにしていた。
ようやく、長束からの人が着いた。院長のアルペ神父と二台の担架を運ぶ四、五人。私は彼らを公園の避難所まで案内した。シッファー神父はかなり衰弱しており、ラサール神父も足の大怪我のため歩けなくなったので、二人を担架に乗せて常盤橋まで舟で送り、そこから歩いた。クラインゾルゲ神父は次の朝まで公園で待つことに決めた。翌日、同じ幟町に住んでいた中村さんという未亡人とその三人の子供を連れて長束へ避難した。
夜、私たちは、昔から行きなれた白島の道路を通ると、まっ暗な中で何度も、足がそこに倒れた死体につまずいた。道路の両側の焼け跡から煙とひどい臭気がおそってきた。
三篠橋を渡り、三篠の町を通りぬけて可部街道に出るや、道路を黙々と進む避難者と負傷者の悲愴な行列に加わり、長束の修練院に向かった。川の向こうの山並みにはまだあちこちに山火事の火が燃え、夜空を赤く染めた。
長束の修練院についたのは、夜中すぎだった。
むろん、東京と連絡がなかったので、そこへ我々の無事を知らせることができなかった。広島は全滅だと聞いて、ある神父たちはさっそく、我々のために死者のミサを捧げてくれていた……。
死の町へ帰って
七日火曜日は、一日休んだ。修練院の人々は荷車を引いて町へ出掛け、クラインゾルゲ神父と、彼と一緒に浅野泉邸で待っている中村さん一家を迎えに行った。八日、水曜日には、クラインゾルゲ神父と相談の上、市内の信者について調べてみることにした。彼は教会から南の方を引き受け、私は北の方面を歩き回ると決めた。朝の食事をすませてから、胸に御聖体の容器をかけ、ポケットに乾パンをいっぱい入れ、頭にどこかでみつけた大きな、わら帽子をかぶって出発した。途中、疲れはてた羅災者、ひどい火傷をした負傷者の行列がなお、のろのろと可部街道を進んで行った。私はまず牛田町を回り、そこに住んでいた信者や知己の家を訪れた。大学の下斗米先生の一家は無事だった。それから付近の江藤先生、田中先生などは、ちょうど爆風でひどくいたんでいた家を修繕しているところだった。幸いに牛田町は焼けていなかった。
それから川べりを通って二葉ノ里を回って国前寺を訪れた。あの大きな日蓮宗のお寺には負傷者が大勢収容されていたので、深井さんについて調べてみたが、しかし何の消息もなかった。
それから広島駅の残骸を訪れた。そこにも、ほかの所にも、盛んにみられる「壁新聞」を調べてみた。というのは、避難する人々はたいてい自分の行き先、家族の状況など家の塀、駅の壁、道路のわきに書いたからであった。深井さんをはじめ、他の信者についてもやはり何の消息もない……。
焼け跡の間を歩きながら両側の残骸をながめると、この悲惨な光景はなお、ひどい臭気に襲われていた。八月の暑さのため、この焼け跡と死体からくる臭気は耐えられないほどだった。その後もほとんど半年か、それよりも長く、破壊と腐敗のいまわしい印象を残した。
それから教会の跡へ行った。その途中、どこだったか忘れたが、突然、一人の神父の姿がみえた。呉の真田神父。彼は月曜日の朝、いつものように広島へ行こうと思っていたが、汽車に乗りおくれた。もしあの汽車に乗っていたら、ちょうど八時に広島着の通勤列車だったので、原爆投下の瞬間、駅と教会の間でひどい目にあったはず……! やがておくれてバスに乗って広島に向かったとき、それは海田市の辺で止められてしまった。それで八日に、我々のことを気にして広島に出てこられた。ちょっと立ち話をしただけけで、真田神父は長束へ行き、私は教会とその付近の「壁新聞」を全部調べてみたが、深井さんについて一言も出ていなかった。
それから白島の逓信病院の方へ行った。以前その白いタイルばりでしゃれた建物は、すっかりかわっていた。窓もなく、中は爆風と火事でメチャクチャだった。しかし病室、廊下、庭の至る所には、そのまま床の上に横たわる負傷者の列! 部屋から部屋に回り、外の壁にかいてあった「入院患者名簿」を調べてみたが、深井さんの消息もなく、他の知っている人もいなかった。
逓信病院を出ると、まったく疲れてしまった。八月の真昼、町は影がぜんぜんなく、アスファルトとまだあちこちくすぶっている焼け跡の上には炎々と照っている真夏の太陽、そして朝からわずかな乾パンしか食べなかったせいか、とにかくこれ以上は歩き回れない! それでのろのろと長束へ帰った。
十日の朝、クラインゾルゲ神父と一緒に出掛け、まず山本小学校で種々の焼失届、羅災証明などをすませてから、クラインゾルゲ神父は広島へ行き、私は可部線に乗って深川へ避難した藤井先生を訪れた。先生は縁側の安楽椅子に腰かけ、挫折した鎖骨に湿布を当てていた。そのほかにもかすり傷がたくさんあり、又、メガネを紛失していたので、非常に不自由だった。
こうして考えてみれば、当時、広島にいた医師は約260人だったそうだが、200人も原爆で死に、残っていたのはほとんど負傷しており、また一切の設備、医療器、薬品は消失したので、あれだけの重症患者を治療することは全く不可能だった。藤井先生の医院で働いていた看護婦が焼け跡にもどり、防空壕でみつけた非常袋から、往診道具、また焼け跡で拾ったピンセットも数十本、持ち帰って来た。先生はこれをみがき、消毒してどうにか役立たせようとした。そして、私が長束へ帰るとき、先生はこの大切な道具の一部を私にくれた。
というのは、長束の修練院は全く病院に化していたからであった。原爆の日、アルペ院長はさっそく御聖堂――その外壁はひどくいたんでおり、大きな柱は何本も爆風のためマッチのように折れてしまった――を避難所にした。そして自分が司祭になる前、医学を勉強していたおかげで、今やこの知識を大いに活用することができた。
だが、治療のすべがない。火傷とはいえ、これは普通の火傷と違っていたし、包帯が不足したため、古いシャツ、シーツ、テーブル・クロスなどを切って、包帯に使い、薬品としては硼酸水しかなかった。しかしアルペ神父の医学的「インスピレーション」ではこの未知の病に対して、専ら自然の力を働かせる主旨だった。こうしてまず傷をきれいに洗って、硼酸水の湿布などで消毒しておく以外は、一切を自然にまかせた。その結果として、案外よい成績をあげた。かなり重傷も含まれた避難者約九十人の中で一人だけが死亡した。
原爆症
原爆の死者は、憲兵隊が行なった最初の調査によって、78150人の死者、37425人の負傷者、13983人の行くえ不明者となっていた。これは長く公的な数字としてあげられ、外国の報道機関にも伝えられた。しかし、広島の人としてはこれを信じようとする人はひとりもいなかった。実際には数年が経っても、どこかで建築工事を始めると、必ず死体が地下から発掘された。又、県内の町村にちりぢりになって、その後の数ヵ月、否、数年の間、火傷のため、または原爆症で死んだ人を合わせてみれば、二十六万の数字に上ろうと推察した人もある。
原爆症……八月の間、長束の修練院に収容された負傷者、そして付近の町や村に避難した人々は、まずそのひどい火傷、それとも打撲傷の患者が多かった。
しかしだんだん、外の怪我が全然みられない人にも、不思議な現象が起こった。最初は下痢が起こり、それから歯茎から血が出、次には髪の毛が抜け、最後には高熱が出る。そして二、三日の間にたいていの人は死んだ。そればかりか、原爆当時に全然町に居なく、その後、作業のために焼け跡で働いた軍人、あるいは教会の近くに住んでいた吉田という医師のように、一週間後、立ちもどった人でさえ、この現象を生じ、ついに死亡した。
「毒ガスを飲んだ」と人々は心配そうな顔でささやき合った。しかし治療のすべがない……。
次々と死亡者の数が増し、火葬の薪も配給制となり、遺体を納める棺も手に入らない。修練院の向こうの山に火葬場があったので、朝から晩まで煙があがり、あいだの谷間はその特殊な臭気で満たされた。
朝、起きるとき、まず鏡の前で歯茎をしらべ、指で髪の毛を引っぱってみることは、一種の行事になってきた。九月の初めころ、クラインゾルゲ神父も私も、ひどい下痢に悩んでいた。副院長は、「おなかをこわしたのだろう。じゃあ、おかゆと梅ぼし」。しかし、一週間おかゆだけでは、下痢がなおらなかった。それどころか、体力がますます衰弱し、ある朝、やはり歯の間に赤い血がみえた。我々も「毒ガス」を飲んだのか?
ちょうどそのころ、東京からビッテル神父がみえた。その当時、東京上智学院の院長だったので、我々に対して責任を感じ、広島の様子を見にきたと同時に、上長のラサール神父と相談する目的もあった。大きなリュックサックをしょって、汗だらけのあの神父のやせた姿が修練院の玄関に立っているのを、今もはっきり記憶に残している。
ところが、ちょうどそのころ、クラインゾルゲ神父と私の「原爆症」はひどくなったので、ビッテル神父が東京へ帰るとき、我々を連れて行くことになった。九月八日だったと思うが、二人は荷車に乗せられ、シュワイツェル神父などがこれを引いて、広島駅まで送ってくれた。でこぼこの道でガタガタゆれるこのハイヤーのドライブは、一時間もかかり、しかしほかに方法がなかった。
午後二時ごろだったろうが、広島駅に着いた。朝から駅長に連絡して、二人の病人のために二等車の席を予約しておいたが、ホームに着くと、列車は二等といえ三等といえ、復員軍人などで超満員、すでにデッキで鈴なりになっていた。駅員の親切な配慮のおかげで、席はとってあったが、汽車に乗り、そこまで行くのが一苦労であった。
やっと汽車が動きだした。もっとも急行らしいものはその当時なかった。おまけに呉線回りでよけい時間を要していた。呉から阿賀のトンネルに入るや、とうとう機関車がその坂の途中で動かなくなった。二度ほど駅まで下がっては、全力をあげながら坂を登ろうとしたが、無駄だった。広島からもう一台の機関車を頼むほかはない。二時間もそのままにとどまった。やがて、もう一台の機関車がつくと、前のは火が消えていた……。このような調子でようやく神戸についたのは翌日の朝で、所要時間は十七時間だった。
私は神戸の六甲中学校にとどまり、クラインゾルゲ神父はビッテル神父と一緒に東京まで行き、聖母病院に入院した。神戸では、私は翌日医者にみてもらいに行った。当時、三ノ宮に近く、焼け跡の地下室で、大変上手だという評判であったハンガリア人のストウさんが再び「開業」していた。
診察を受けた結果、この下痢はおそらく普通と違って、体力が極度に衰弱したために起こったのだろうと言って、おかゆの治療法をやめるばかりか、毎日食べられるだけ、たくさん食べなさいと勧めてくれた。はたして三日の内になおった。
右手の傷は少々むずかしかった。深くはないが、ずっと膿んでいたので、一ヵ月以上もかかった。こうして六甲山のふもとで、四週間も、休んでは食べ、食べては休んで、十月末に広島へ帰った。
ほかの仕事がないから、ラサール神父と相談の上、修道会で決まっていた、いわゆる「第三修練」を始めることにした。そしてさっそく、ラサール神父のもとで、三十日間の黙想を始めた。
焼け野原の夕日
原爆直後、その新兵器の真相が報道されたとき、今後七十年間、広島には、いっさいの生命が不可能であるという恐ろしいうわさもあった。あとで聞いたことであるが、このうわさはアメリカの放送を聞き違えて、七十日を七十年としたことであった。しかし、このニュースを聞いたとき、我々はラサール神父の部屋へ相談に集まった。その後も、広島へ帰ることは無意味だから、布教の中心をほかに移すべきかなどを討議したことがたびたびあった。一方、町へ帰ってみれば、すでにあちこちにトタンバラックができ、中には人々が実際に生きていた。とにかく、しばらく待ってみることにした。
十二月の初め、私が三十日間の黙想をしている間、一週間ごとに「休暇」の一日があり、そのときラサール神父と二人で市内へ出掛けては教会の焼け跡の整理に取りかかった。長束に疎開していた他の神父や神学生も、たびたび「作業」に幟町に出掛け、そこで小さいトタンバラックを建てた。それは十二月十日であった。
長い黙想の最後の「休暇」の日に、私はやはりラサール神父と一緒に幟町へ出掛けた。夕方、二人が作業を終えて長束へ歩いて帰る途中、三篠の修道院跡にも立ち寄って一休みした。そのときだったと思うが、突然、ラサール神父が私に言った。
「黙想が終わったら、二人で幟町へ帰りましょうか? そこにバラックもできているし、長束で無駄な時間つぶしをやるよりも、町へ移った方が良いと思います。おそらくほかの人は皆、気狂いと言うでしょう……。」
「はい、一緒に行きます。」
はたして、このプランがもれたとき、長束の修院長をはじめ、顧問の一同なども皆、これを「非常識」とか「狂気の沙汰」とか評した。しかしラサール神父が布教長であったので、いっさいの反対を押し切って実行に移った。
十二月二十日。二人で幟町へ帰り、あの三畳ばかりの作業小屋を「我が家」に選んだ。寝具やわずかな食料品などを運んでくれた人は、「さようなら」と言って、我々二人をそこに残した。
入口の前で、石をかさねて簡単な炊事場を作っておいた。そこに飯盒をかけて夕飯をたいた。最初の晩の献立ては、「ごはんにきり大根」だったことを今もおぼえている。
電気はまだなかった。夕飯が終わると、ラサール神父は修練長の責任を感じて、ローソクの明かりで一人だけの修練者に対して講話を始めた。十分ほどたったら、修練長がねむけに敗け、いつの間にか、ローソクは消えてしまった……。
毎晩、修練者の日程には、半時間の黙想が決まっていたので、ひとりで町の焼け跡を歩きながら黙想していた。その時分、町は大変静かだった。何かの仕事のため市内へ出てくる人は、交通機関が不便なため、早く帰るので、あちこちに住むバラックの人のほか、誰も見えない。我々のバラックの隣――といってもかなりの距離である。こうしてひとりで静かな町を歩くと、焼け野原から人家の残骸、半分倒れた石塀、焼けた木などのグロテスクな姿が一面をまるで月世界と化している。しかし、まっ赤な夕日に照らされたこの焼け野原は、過ぎ去った苦しみののちに、来たるべき復活の前兆にもなる。かつて夕日に照らされたゴルゴタの十字架のように……。
クリスマス
幟町の「教会」へ帰ったのは、十二月二十日だった。あと五日でクリスマス……!
それでまず生活様式を決めた。三畳のバラックは狭く、しかもこれは聖堂、教室、応接間、居間、寝室などを兼用していた。狭いドアから入ると、左側(南)に唯一の窓がある。その下には粗末な木材でつくった長椅子、入口の右にはストーブがあった。これは司祭館の焼け跡でひろったものだったが、もとは大きな部屋にあったので、この三畳のバラックで十二分かそれ以上に役に立った。幸いなことに、空襲の前に司祭館の裏に埋めた石炭は無事だったので、毎日この「炭鉱」に入って燃料を取ってきた。なんと言ってもその年の冬は、一生で最も暖かい冬だった! 右側の壁の前に二、三の古い折りたたみ式の椅子があった。部屋の中央には丸太と粗末な板でつくったテーブル、入口に反対側の方は「祭壇」となっていた。と言っても、ちょうど祭壇の高さで板を横に張り、その下は寝具の入った「押入れ」、上段は朝は仮祭壇となり、昼はいろいろな用途に利用された。
夜になると、まずテーブル、椅子、ベンチなどを全部外へ出し、床をはき、ござを敷いて二人の床をつくった。朝、目がさめると、二人は分業して、実に合理的にすべてを片づけた。まず二人で寝具をたたんで祭壇の下に片づけた。次にラサール神父が顔を洗っている間、私は火を起こし、ストーブの上にやかんを置く。私が顔を洗っているうちに、ラサール神父が祭壇を用意しておく。そのうちにバラックの中は暖かくなってくる。交代にミサをあげ、黙想し、そしてそれが終わるや、もうお湯がわいている。進駐軍からもらったコーヒーの粉をお湯に入れると、バラックはそのかおりに満たされ世界一のコーヒーショップになる。ミサ後の感謝の祈りもそれで非常に「うまく」なってくる。次の仕事は又、分業の形でラサール神父が祭壇を片づけている間、私はござを納め、夜、外へ出した「家具」を中へ運び、朝食のしたくを始める。
食事が終わるとまた、それぞれの仕事がある。ラサール神父は早くもそのころ、教会の再建を考え、建築の相談のために忙しかった。修練者の私はむしろ生活問題に取りかかって、近所の焼け跡で薪拾いをし、昼の献立てを考え、その準備にかかった。
クリスマスの前! 確かに空襲前、聖堂の道具と一緒に厩の人形を庭へ埋めたことを思い出した。それで、その場所を捜し、発掘作業にかかった。人形の箱をみつけたが、九月の台風の際、大水が出たので、この人形も水につかった。こわれてはいないが、泥が箱に入り、包み紙が人形にひっついていて、実にみっともない状態。そして、これを洗ってきれいにしようとすると、人形の色がはげてくる。聖ヨゼフの白髪もいつの間にかはげ頭に化し、聖母のヴェールがぼろに見え、幼子は傷だらけ! しかしバラックの「祭壇」のうしろ壁に板をはり、その上にこの人形を飾ると実に美しい。二千年前、ベトレヘムの厩で行なわれた、何の飾り気もない最初のクリスマスを真近にみるかのようである。
二十四日になった。まだ電気がない。シュワイツェル神父が「電気工事」のために来ていたが、電気会社と連絡してみたら、もよりの電線から自分で引けばよいとのことだった。もよりの電線――それは京橋通りだ。しかしそこから教会まで数百メートルの線が必要だ。考えてみれば、前日の黙想中に駅の付近を通ったとき、焼け跡で落ちた電線がたくさんあったと思い出した。さっそく二人で駅前まで出掛け、焼け跡から古い電線を引っ張り始めた。思ったように簡単ではなかった。ちょっと休んでいるとき、一人の男が近寄り、「何を捜しおるか」とたずねた。「明日はクリスマスだから、教会まで電気をひこうと思っていますが、電線がない……」――「ごくろうノー、電気のかさがあるかい?」――「いいえ、そんなぜいたくなことまで考えていません」。――「じゃあ、何とかして……」と言って男は去った。
二人でやっと電線を拾って、教会へ持ち運んだ。そしてシュワイツェル神父の技術のおかげで、クリスマス・イブに初めて電気が、この最もベトレヘムらしい厩に来た。
ラサール神父は夜中にミサをあげ、私は朝にした。信者たちもその日、半年ぶりで教会に集まった。二十人も来ては、バラックは超満員で、子供たちが私の足元まで来たので、ほとんど動けなくなった。しかし一生忘れられない、うるわしいクリスマスだった。聖変化のとき、ちょうど目の前にあった厩をながめてみれば、二千年前、べトレヘムの貧しい厩に神の御子が生まれたことを目の前にあるかのように感じた。
ミサが終るや否や、外で大騒ぎ! サイレンを鳴らして大きな消防自動車が走ってくる。教会の門前に止まる。なんだろう?火事らしいものが見当たらない。自動車から大きな男が飛びおりて、「カトリック教会はどこ?」と。「はい、ここです。しかし何でしょう?」――「クリスマスおめでとう、ゆうべ電線を拾いおった二人の神父さんをみて、そして教会に電気のかさがないことを聞いた。消防隊に四つもあるから一つ取って来た。どうか、よいクリスマスで!」と、立派な電気のかさを残しながら、自動車に飛び乗り、去ってしまった。誰であったか、どこの消防署から来たか知らない。しかし、あのときの人々の暖かい愛と協力の精神の一例!だからあのクリスマスは美しかった……。
蓮の花
一九四六年があけてから、もっと積極的に教会の再建に取りかかった。市の方で住宅営団を組織し、羅災者のため十二畳の組み立て式バラックを世話するようになっていた。いつの間にか、あちこちにこのようなバラックが建ち、ことに元の西練兵場に、建ち並んできたこのバラックの列は、みごとにフレッシュな印象を与えてくれた。汽車の窓からこのバラックの群れを見下ろすと、まるでマッチ箱がならんでいるような景色だった。二年ぐらいは持つだろうと言って、市役所はこれを復興の第一歩としてみていた。二年……実際には二十年以上もたって今なお残っているものがある。
教会でも十二畳のバラックをもらったので、ラサール神父と二人で荷車を引いて木材をとりに宇品まで出掛けた。十二畳というのは六畳の広間、二畳の台所、一畳の押入れと三畳の土間という計算だった。ラサール神父はまもなく、イエスズ会の総会に出るためにローマへ出掛けたが、そのうちに東京から帰って来たクラインゾルゲ神父が六畳の間に住むことになり、同時にしばらくの間、日曜のミサにも役立っていた。私は「修練」を正式に終わるまで、一時長束へ帰った。
それから間もなく、欲張りが出た。「もしこのようなバラックを二つ合わせたら立派な聖堂ができる……」と。さっそく必要な手続きをやった。そして、二つのバラックを建ててみたら、みごとな大建築のようにみえた。十二畳は、聖堂兼伝道場であってこれに続き、板戸でしきられてあった六畳の部屋をも日曜日のミサのときに利用することができた。一番うしろには、三畳の間と小さな玄関があった。また建築は二つ合わせたため、配給の木材が少しあまっていたので、聖堂の入口として別な玄関をつけることにした。なお、建築のため手伝いに来た長束の神学生は、この聖堂の屋根に十字架をつけてくれた。焼け野原に建ったこの聖堂の十字架は、近所のバラックよりも高くなっていたので、電車通りからもよく見えた。いつか私が電車に乗って山口町を通ると、隣の人々は教会の方を指さして、「あの大きな建物は何?」と話し合っているのが耳に入った。実にうれしかった。教会の存在は再び、町の人々に認められるようになった。
クラインゾルゲ神父は、さっそく布教の再建に手をつけた。古い信者を集め、以前から関係のあった人たち――特にレコード・コンサートのグループ――と新しく連絡を取ってみた。いつの間にか十八畳の聖堂は日曜ごとに超満員となって、百人もそれ以上も、ぎっしりつまっていた。一九四六年の復活祭、戦後の初穂をおさめることができた。
二人の洗礼。そしてこの初穂は本当に立派なものだった。当時まだ学生であった一人は今は藤沢治明神父で、松本ミツエさんはその一家を教会に連れて来ただけでなく、のちに修道生活を選び聖体礼拝会に入会した。
私もそのころ、幟町へ帰った。そしてクラインゾルゲ神父との相談の結果、聖母幼稚園を再開し、日曜学校を開くことになった。祭壇の前に、昔の舞台装置と一緒に疎開させた立派な幕をつけ、ミサが終るやこれをしめ、十六畳もあるすばらしい伝道場それとも幼稚園ができた。先生として、そのころ教会へ来た若い信者たちがいた。困ったことはただ一つ、教会の付近には子供がいないことだ! 幼稚園のためにやっとのことで、近所のバラックから三人みつけた。これに、牛田から通ってくる一人の先生が四人を連れてくることになったので、七人の園児で幼稚園を再開した。牛田の先生が休むと連れてくる四人もこないことがあり、やれやれ、三人でやったこともある……。
そのうちに、戦前、聖母園の園長をつとめていた未亡人の佐々木さんが朝鮮から引き上げてきて再び園長になった。部隊長のごとくしっかりしていた佐々木さんの指導で聖母園はいよいよ軌道にのり発展していった。もっとも、園児の少なかったことは二、三年も続いた。最初の入園試験のとき願書があまり少ないので受験番号をとばしたこともある。たとえば96番、105番、112番などのように……ごまかした。しかしまもなくこの点もよくなった。
一九四六年の春、司祭館の再建をはじめた。ラサール神父がヨーロッパヘ渡ったとき、将来、広島で平和記念聖堂を建てる計画を立て、そのため各国の信者に呼びかけて寄付を集めようと計画していた。そのうちに広島で焼け跡に残っていた基礎の上に元とほぼ同じような司祭館を建てることにした。そして新しい教会ができるまでに、司祭館の二階に部屋をつくらないで、これを仮聖堂に使うことに決めた。
その年の春、たまたま昔の練兵場を通った。かつて広島のシンボルであった鯉城の天守閣もくずれていた。おそらく爆風にとばされて下のお濠に落ちたらしい。その濠は木材の破片や焼けこげた木、丸太、その他のもので埋もれており、実に泥と腐敗そのものであった。ところが、夏のある朝、お濠ばたを通ると、あちこちまっ白な蓮の花が咲いている。破壊と腐敗の中から新しい生命が生まれ泥の中から清らかなまっ白な蓮の花が咲きでた! これこそ生命は死よりも強く、破壊と滅亡には復活が続くと言った預言ではないか……?
(『聖心の使徒』1968年7・8月合併号より)
出典 カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」編 『破壊の日―外人神父たちの被爆体験―』 カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」 1983年 18~38頁
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